I wanna go home
ザックは右腕でララを抱え上げた。ララは寝ぼけ眼のまま腕をザックの首に回し、肩に頭を乗せて目を閉じた。ドクターグリーンに礼を言って左腕で洋子の肩を抱くと出口へ向かって歩き出した。そこへパーカーが声を掛けてくる。
「フェアストーンさん」
ザックは溜息をついた。さっきから側にいたのは知ってるが、面倒くさいのでずっと無視していたのだ。質問攻めに遭うのも嫌なので、振り向くと自分から訊いた。
「上手くいったのか?」
「え、ええ。おかげさまで……さっさと終わらせて来ました」
ザックは苦笑いした。
「そうか……やっぱり俺のアドバイスなんか必要なかっただろ? 俺なんかよりずっと優秀なんだよ」
パーカーは面食らい、慌てて首を振った。
「いえ、そんな……あの、ずっと気になってたんですが、あなたの失敗って何だったんですか?」
「えっ?」
「ビルから聞いています。ニューヨークでのあなたの仕事ぶりも。あなたは容疑者を取り逃がしたことなんか無かったはずです」
そう言われて思い出した。確かにニューヨークにいた頃はそうだったかも知れない。表彰された事もある。その時記念に貰った時計など、もうとっくに失くしてしまったが。それよりも、ビルが自分の事を褒めているのかと思うと気持ちが悪くて仕方が無い。
ザックはもはや面倒臭いという感情を隠す事も出来ず、早口で説明した。
「だから、焦って失敗したんだ。さっさと終わらせようと思って。それで一年無駄に過ごした」
ザックは洋子の頭を軽くポンポンと叩いた。
「こいつにも、無駄な一年を過ごさせた」
洋子はザックに顔を向け、それからパーカーを見ると穏やかな笑みを浮かべた。それはパーカーには想像し得ない苦難の果てに摑んだ幸福を、心から慈しむような笑顔だった。
「重傷を負った時のことですか?」
パーカーに訊かれ、ザックは頷いた。
「怪我は治ったからいいんだ。でも、無駄に過ごした時間はもう取り戻せない」
人生は短い。特に愛する者たちと過ごす時間は実際よりも早く流れる。ザックはその事を知っている。アンソニーと過ごした時間も、あっという間に過ぎてしまった。この一瞬も時は流れている。
ザックが歩き出そうとすると、またパーカーに呼び止められた。ザックはうんざりした顔で振り返るが、パーカーは屈託もなく質問を重ねる。
「どうして早く終わらせたかったんですか? その後何があったんですか? やっぱり、他の事件が?」
「忘れた。っていうか、もうどうでもいい」
ザックはまた歩き出したが、今度は自分から立ち止まって振り向いた。
「パーカー」
「はい?」
「命が大事だと思ったら、うちのブレスレット買っとけ。うちのはすごいぞ。お前だったら安くしてやるよ」
ザックは少し考えてから付け足した。
「まとめて買えば、な」
「分かりました……あの、僕のことはデイヴって呼んでください」
ザックはパーカーの顔をしばらく眺めた。人懐こい仔犬のような顔で微笑んでいる。そして隣の洋子はといえば、そんなパーカーを見て顔を綻ばせている。微かな苛立ちを覚えたザックは、唇の端を歪めて意地悪い笑顔を浮かべながらパーカーに応えた。
「やだ」
そして、フェアストーン一家は本当に行ってしまった。
家に帰る車の中、洋子は膝の上に五歳のザックが泣きながら母親に抱かれている家族写真を乗せていた。暗い車内で目を凝らし、洋子はエマを見つめる。
「本当にきれいな人ね……アンソニーはどうやってこんなにきれいな奥さんを貰ったのかしら……」
「聞いた事あるけど……」
運転しながらザックが言った。
「高校生の頃、親父が家に仲間呼んで酒飲んで話してたんだ。俺はその時自分の部屋にいたんだけど、皆酔っ払ってて声がでかくてさ、聞こえてきたんだ……。聞きたいか?」
そう尋ねたザックの表情は、車内が暗くてよく分からなかった。しかし、どんなロマンティックな話が聞けるのだろうと思い、洋子は期待に胸を躍らせながら頷いた。
「もちろん! 聞かせて!」
「大雨が降った後だったらしい。この辺は滅多に降らない雨が降ると大変なんだ。その時も浸水なんかの被害が出たって。親父の家は無事だったらしいけど、被災した家の片付けを手伝うんで車で走ってたんだって。急いでて、道の端を歩いてるお袋に気付かなかったんだな。水溜りを跳ね上げて、お袋を泥だらけにしたんだって」
あのアンソニーも若かりし頃には慌てて失敗をする事もあったのだ。洋子が初めて会った時には、何事にも動じず堂々とした風格を携えていた。そんなアンソニーの慌てふためく姿を想像すると、クスクスと笑いが込み上げてくる。
「あらあら……それが初めての出会いだったの? 何かドラマみたいね」
「同じ居留区に住んでるから顔見知りではあったらしいけど、話したのはそれが初めてだったんだって。その時お袋は、親父に向かって……」
ザックは後部座席をチラッと見た。ララがぐっすり眠っているのを確認すると、話を続けた。
「お袋は親父に向かって怒鳴ったらしい。『Fuck you!』って」
洋子は途端に眉をひそめた。
「それ、本当なの?」
「そう聞いたぞ。その時親父と一緒に車に乗ってた奴もいて、同じこと言ってた」
洋子は首を傾げる。ザックの母親のイメージが揺らいできた。確かに洋子が勝手に作り上げたイメージなのだが。写真の中のエマは、どう見ても美しく優しくそして正しく、聖母のようなイメージしかなかった。人に暴言を吐くなどという感じはしない。洋子は先を促した。
「……それで?」
「水害の片付けも落ち着いた頃、親父はお詫びのつもりで自分が作ったネックレスをお袋にプレゼントしたんだって。でもまだお袋は怒ってて、それで食事に連れて行ったらしい。飯食った途端にお袋は機嫌が良くなって。それで、その日のうちに……」
後は分かるだろと言いたげに、ザックは洋子の目を見て頷いた。
「ご飯に釣られちゃったってわけ?」
洋子は呆れた声を上げた。
対向車のライトが当たり、薄暗がりの中でも気高いまでに美しく、優しそうなザックの母親の姿が浮かび上がる。洋子は感心したように頷きながら呟いた。
「人って、見かけによらないわねぇ……」
どんな風に見える人でも、素顔を覗けば案外素朴なものだ。その素朴さこそが、人を愛し人に愛される理由なのかも知れない。
ザックは家が近付くにつれ、段々気分が重くなってきた。洋子があの荒らされた家を見たら、嵐が来ることは免れない。浮かない顔でザックは後部座席を見遣った。ララが気持ち良さそうに眠っている。そして助手席では洋子が口元に手を当てて小さな欠伸をしている。ザックは失笑した。やっと家族が揃ったのだ。やっぱり早く家に帰りたいと思った。
「妊娠中って、やたらと眠くなるのよね……」
洋子が目を擦りながら呟いた。
「寝てていいぞ、ヨーコ」
ザックは嵐の到来を明日の朝まで引き延ばす作戦に出た。
事件から数ヶ月が経ったある日、パーカーはオフィスの机の上 に置かれた濃紺の紙の箱を恭しく開けた。中からココペリのブレスレットを取り出して眺める。
数日前に復帰したばかりのビルが通りがかり、それを目にして立ち止まった。
「何だ。お前それ買ったのか?」
「ええ」
ビルはパーカーの机に浅く腰掛け、ブレスレットを手に取ると笑いながら肩をすくめた。
「そんなもんに頼ってるようじゃ、お前もまだまだだな」
ビルはコーヒーカップを持った左手の袖から覗く同じブレスレットを、右手でそっと隠した。
「自分だって買ってるじゃないですか」
パーカーが口を尖らせて言うと、ビルは憤慨したように言い返した。
「俺があいつから物なんか買うか! これはアンソニーから買ったんだ!」
パーカーはブレスレットの注文をする際、早い方がいいと考え、事件があった翌日に時間を見つけて電話をした。しかし、電話に出たザックに名前を名乗ると、いきなり「うるせえ!」と怒鳴られた。
「今バタバタしてんだ! また今度にしろ!」
その後ろからは、なにやら女性の怒号も聞こえる。おそらく彼の妻だろう。パーカーはすっかり怯えてしまい、次に電話をしたのは一ヶ月以上経ってからだった。その時はザックの機嫌も良かった。
「残念だったなあ。今品切れで入荷待ちなんだよ。この前電話くれた時には、まだあったんだけどなあ……入荷したら送るよ、デヴィッド」
そのブレスレットがやっと届いたのだ。
「安くしてもらったのか?」
ビルが訊くと、パーカーは整った眉尻を困ったように下げた。
「それが、聞いて下さいよ。一応交渉してみたんです、機嫌も良さそうだったし……そうしたら、電話口で怒られましたよ。『一つしか買わないのにふざけんな!』って。それから何だかんだ言いくるめられて、結局両親の分まで買わされました……あの人、たいしたセールスマンですね」
パーカーの足元にある段ボール箱の中には、他にもアクセサリーや置物の人形などが入っている。ビルは笑い声を上げた。
「親父譲りだな! まぁ、あいつも生活が掛かってるからな」
「それは、そうでしょうけど……」
パーカーが困り果てた顔で唇を尖らせると、ビルは箱の中の商品を手に取って眺めた。どれもこれも、それぞれの職人によって精緻に作られた物ばかりだ。出来栄えは見事と言うしかない。
「あいつだけじゃない。あそこの住民皆の生活が掛かってるんだ。そのブレスレットだって、あいつが作って売ってる訳じゃない。職人がいるんだ。作る者、育てる者、売る者がいて、お互いがお互いの立場を理解して自分の役割を果たす。そうやって皆の生活が成り立ってるんだ。あいつもやっとその事に気付いたんだろう」
ビルは感心するように頷き、そのあと顔をしかめて続けた。
「昔はあいつもひどかったぞ……ちょっと予定に無い仕事頼むと、ブーブー文句言ってな。ヨーコの監視を頼んだ時もそうだった。あいつ、はっきり言いやがった。『面倒くせぇ』って! まぁでも、その後は何か楽しそうだったけどな……」
事件の後、ぴったりと寄り添いながら帰っていくあの家族の後姿を思い出したパーカーはビルに顔を向けた。
「あの人が怪我をした時、早く仕事を終わらせたかった理由って何だったんでしょう……」
全く人情の機微が分からないパーカーにビルは目を細めた。
「決まってんだろ。ヨーコにプロポーズでもするつもりだったんだよ」
「そ、そんな時に?」
パーカーは呆れたような声を出した。
「早くしないとヨーコは日本に帰っちまうからな、その前に何とか自分の物にしておきたかったんだろう」
確かにそれが奴の失敗の原因であり、決して褒められたものではない。しかし、あの頃を知るビルにとっては、あれは二人にとって必要な失敗だったのかとも思う。ザックが生きている。その前提有りきだが。
ビルは口元を引き結び、腕を組んでパーカーに厳しい眼差しを向けた。
「結果こうなったから良かったけどな、もう二度とあんな思いをするのはごめんだ! お前も気を付けろ」
「はい」
パーカーは背筋を伸ばし、神妙な顔で返事をした。素直で扱いやすく、ザックとは大違いのパーカーにビルはほくそ笑んだ。
パーカーの机を離れ仕事に戻りかけたビルは、何かを思い出したように立ち止まり振り返った。
「そのブレスレット、発信機が付いてないか調べたほうがいいぞ」
「えっ? あの人そんな事するんですか?」
眉をひそめたパーカーにビルはニヤッと笑った。
「あいつなら、やりかねん」