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He's gone

 次の日の朝、テーブルに着いているのはララ一人だ。

「二人ともまだ寝てるの?」

ララがキッチンにいる洋子に訊いた。

「そうねぇ……」

 ザックはともかく、アンソニーが寝坊なんて珍しい事だ。卵を焼いている洋子はララに言った。

「それじゃあララ、起こしてきてくれる?」

ララは元気に椅子から立ち上がった。昨日の怒りは、一晩寝た事で忘れてしまったようだ。

「うん、分かった! パパー!」

ザックが寝ている寝室へ行こうとしたので、洋子は慌ててララを止めた。

「パパはいいわ。お祖父ちゃんをお願い」

「はーい! お祖父ちゃーん!」

ララは素早く方向転換するとアンソニーの部屋へ向かった。肩の下まである黒髪を跳ねさせながら、スキップをしているララの後姿を見て洋子は安堵の息をついた。

「いけない、いけない。ザックは裸で寝てたんだった……」

 洋子はそれぞれの皿にスクランブルエッグを盛り付けると、フライパンをガスレンジに戻し寝室へ向かった。ドアノブに手を掛けようとした時、アンソニーの部屋からララが不思議そうな顔をして出てきた。

「ママ……」

「どうしたの?」

「お祖父ちゃんがね、全然起きないの……それにね、お祖父ちゃん何だか……冷たいの……」

「えっ?」

洋子は怪訝な顔で訊き返し、アンソニーの部屋へ急いだ。

 アンソニーは部屋の奥にある窓際のベッドで、顔をこちらに向けて横になっている。その顔はとても穏やかで、気持ち良さそうに眠っているように見えた。

「アンソニー?」

洋子はベッドに近付きながら声を掛けた。それでもアンソニーは起きない。身動きもしない。

「アンソニー……」

洋子はアンソニーの腕に触れ、そして息を飲んだ。

「そんな……どうして……」

手を口元に当て言葉を切ると、身体が勝手にガタガタと震えだした。

「ザ、ザック……」

息を喘がせながら助けを求めるように呟くと、それを耳にしたララがアンソニーの部屋を飛び出した。

「パパー!」

洋子は我に返りララを追いかけた。この期に及んで、まだザックが裸で寝ている事を気にしている自分が滑稽に思える。

 ダイニングテーブルの前でララを捕まえた洋子は、キッチンカウンターの上にある電話を指し示した。

「ララ、ドクターグリーンに電話して。電話の横のメモに番号が書いてあるわ。ドクターが出たらこう言うのよ。すぐに来てくださいって。アンソニーを診てくださいって。言えるわね?」

ララは頷いて電話に向かった。その背中に向かって早口で付け足す。

「いいわねララ。すぐに来てくださいって言うのよ。番号を間違えないで」

自分の声が遠くから聞こえ、まともな事を喋っているのかさえ良く分からない。ただ、何かの間違いであってほしい、ドクター・グリーンなら助けてくれるだろう。そんな思いが頭の中に渦巻いている。

 洋子は寝室に駆け込みドアを閉めた。ザックは胸まで毛布を掛け、こちらに背中を向けて寝ている。昨日までは何の問題も無く楽しい日々を過ごしていたのだ。それが何故、突然こんな事になってしまったのか。そしてザックはどうなってしまうのか。不安で堪らなかったが、ザックに報せないわけにはいかない。毛布から出ている左腕をゆすって呼びかけた。

「ザック起きて!」

「う~ん……」

ザックは毛布を肩まで引き上げ体を丸めた。洋子はさらに強くゆすった。

「お願い! ザック起きて!」

ザックは目を半分開け、眠たそうな呻き声を上げながら洋子に顔を向けた。

「何……?」


 ザックはソファに浅く座り、膝の上で組んだ手をじっと睨みつけながらドクターグリーンの話を聞いていた。アンソニーは三年ほど前から心臓を患っていたという。ザックにとっても洋子にとっても初めて聞く事だった。

 一人掛けのソファに座ったドクターグリーンは続けた。

「一度大きな病院で診てもらう事を勧めたんだが、間違いなく入院する事になるだろうと伝えると、『この事は皆には黙っていてくれ』と……」

ザックとドクター・グリーンの間に立っていた洋子は眉をひそめた。何故アンソニーは病気の事を黙っていたのか。もちろんザックにもドクター・グリーンの声は聞こえているのだろうが、顔を上げる事も表情を変える事も無く、茫然自失のまま俯いている。

 洋子はしがみつくララの肩に手を置いてドクターグリーンに尋ねた。

「入院していれば良くなったのかしら?」

「いや、治るという事は無い。ただ……こんなに早く逝く事は無かっただろう……あと二年位は……」

ザックは押し黙ったまま下を向いている。ドクターグリーンは立ち上がった。

「葬儀の手配は私がしよう」

全く動かないザックをチラッと見遣ると、洋子の肩を軽く叩いた。

「後で連絡する……」

洋子は目を赤くしながら頷いた。




 皆の深い悲しみとは裏腹に、真っ青に澄み切った空の下で葬儀は行われ、アンソニーは最愛の妻であるエマの隣に埋葬された。シンガーと呼ばれる祈祷師の詠唱が空気を震わせる中、どこからか飛び立った鳥が空の高みを目指し、照りつける太陽の光の中へ消えていった。

 葬儀の後、フェアストーン家にはたくさんの弔問客が訪れ、口々にアンソニーの死を悼み思い出話をしている。

「あのイーグルと呼ばれた男が……」

「銃弾さえ避けて通った男が……」

ザックはソファに座り、ローテーブルに置かれたウィスキーの入ったグラスを睨みつけている。誰もザックには近寄る事が出来なかった。ザック自身も「俺に近寄るな」という雰囲気を無言のうちに滲ませているのだ。

 夜も更けると段々人が少なくなり、洋子の元へビルがやって来た。ビルはFBI捜査官であり、ザックの元上司だ。

「そろそろ帰るよ」

そう言って、洋子とララを順番に抱きしめた。ビルの目は真っ赤に腫れあがっている。アンソニーとはザックが重症を負って以来の友達だ。忙しい仕事の合間を見つけては、ザックそっちのけでお互いの家を行き来していた。怪我から回復しても洋子がいる日本へ行くのに二の足を踏んでいたザックを説得し、脅迫までして日本へ向かわせたのはこの二人だった。

 ビルは玄関へ向かう途中、ソファに座っているザックに声を掛けた。

「それじゃ、またな……ザック。あんまり気を落とすなよ」

ザックは目線だけを上げてビルを見た。

「ああ」

それだけ言うとまた下を向いてしまった。

 ビルは妻のリンダに支えられるように車に乗り込み、帰っていった。遠ざかるビルの車のテールランプを見つめながら洋子は溜息をついた。

「俺もそろそろ帰るよ」

最後まで残っていたジョンの声がすぐ背後から聞こえ、洋子は振り向いて頷いた。ジョンはこの居留区の住人だ。ザックとは同い年で幼馴染み。物心ついた頃からハイスクール卒業後にザックがフィラデルフィアの大学へ行くまでの間、ほぼ毎日を一緒に過ごした親友だ。四人の子供の父親であり、一人前のジュエリー職人である。ずんぐりとした身体にうねりのある長い髪、見た目も性格も豪快で開けっぴろげなジョン。一方、細面で母親が死んだ時に切った髪を未だに伸ばす事はないどこか繊細なザックとはまるで対照的だが、何故か二人は気が合うようだ。

 ジョンは今日、落ち込みの激しいザックに代わり葬儀を取り仕切ってくれた。ジョンもザックに声を掛けたが、ザックは少し目を上げて頷いただけだったようだ。部屋からの灯りがぼんやりと差すだけの薄暗いポーチで洋子はジョンに頭を下げた。

「今日は本当にどうもありがとう。色々と……」

「何言ってんだ。俺達は家族も同然だ。当たり前の事だよ……。それよりザックが心配だ……」

普段とは別人のような沈痛な面持ちで、ジョンはザックがいる家の中を見遣った。同じ事を考えていた洋子は黙って頷いた。

「困った事があったら何でも言ってくれ」

「ありがとうジョン……」

ジョンは洋子を抱きしめると帰って行った。

 家の中に戻ると、ララは一人掛けのソファに座り、こっくりこっくりと眠そうにしている。

「ララ。もう寝ましょうね」

洋子がララを子供部屋に連れて行くと、ザックはジャケットを脱ぎネクタイをゆるめた。


 幼いながらにも、アンソニーとはお別れなのだという事を感じ取っているのだろう。ララは葬儀の間中、いつもと違う雰囲気にはしゃいだり、大人を質問責めにしたりする事は無く、不安そうに黙って洋子の手を握っていた。着替えをしてベッドに入ったララは、眠そうな目を懸命に開いて洋子に向けた。

「ママ、お祖父ちゃんは鳥さんになったの?」

「えっ?」

「皆が言ってた。お祖父ちゃんはイーグルだって……」

 アンソニーは居留区の仲間からイーグルと呼ばれていた。もちろん戸籍上の名前ではない。あだ名のようなものだ。それはアンソニーの堂々とした物腰と大きな身体、そして洞察力の鋭さからくるのではないかと洋子は思っている。人身売買組織から身を隠すため、この家に来た時の事だ。洋子を連れ去りに来た女性警官は嘘を並べ立てたが、アンソニーはそれを信じようとはしなかった。

 ララが訊いた。

「お祖父ちゃんは鳥になって、今はお空にいるの?」

洋子の目に涙が滲んできた。アンソニーの手の温もり、それはもう思い出の中だけにしかない。

「そうよ……お空から、いつもララを見てるわ……だから寂しくないのよ……」

「分かった……」

ララは微笑むと、安心したように目を閉じた。


 涙を拭いながら子供部屋から出ると、ソファにはもうザックの姿は無かった。ローテーブルの上にウィスキーが半分入ったグラスが残されている。洋子はグラスに残った酒を一気に飲み干した。ほとんどストレートのバーボンだ。氷はとっくに溶けて、ザックが自分で注ぎ足しながら飲んでいたのだろう。酒豪の洋子には何でもないが、ザックがこんなものを飲んで大丈夫だろうかと心配になった。

 ソファの背に掛けられているジャケットを手に寝室に入った。ザックの姿は無い。ジャケットをハンガーに掛けて寝室を出ると、アンソニーの部屋のドアが少し開いていて、そこから微かな灯りが洩れているのが見えた。

 静かにドアを開けると、ザックはそこにいた。小物がたくさん置かれたローテーブルの前にあぐらをかいて座り、ドアに背を向けている。灯りはオレンジ色のガラスで出来た小さなテーブルランプだけだ。背中を丸め頭をうなだれているザックの姿を見て、洋子は部屋の中へ静かに足を踏み入れた。

「来るな!」

ザックは振り向きもせずに言った。それでも洋子はそのまま歩を進める。独りにしてはおけなかった。ザックもそれ以上は言わなかった。洋子はザックの背後に横座りし、頭を背中にもたせかけた。肩が小刻みに震えているのが分かる。

 ザックは五歳の自分が泣きながら母親に抱かれている家族写真を手にし、組んだ足首の上に置いた。こんなにも幸せだったのに、何故泣いていたのだろうかと、幼かった自分がとても愚かに思える。両親が突然自分の前から消え失せる日の事など、考えもしなかった頃だ。ザックの口から震える声が零れ落ちる。

「……ガキの頃、泣いてばかりいたんだ……でも、誓ったんだ。もう泣かないって、お袋が死んだ時に……」

 洋子はザックの震える肩に手を置いた。抱き締められると何も怖いものは無いと思えた広い肩が、今は十一歳の少年のままのようにとても華奢に感じる。それでも強がっているザックが哀しく、洋子の目からは涙が零れた。

「……こういう時は、泣いてもいいのよ……」

ザックの背中に頭をつけたまま、洋子は囁いて目を閉じた。写真立てのガラスの上に、滴が落ちる音が聞こえた。

 FBIを辞め、ここへ戻ってきたのは何のためだったのか。ザックは自問した。自分がした事に何か意味はあったのかと。滲む視界の中で、写真に映る三人の姿が歪んでいく。一人遺されたザックは震えながら息を吐き出した。


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