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Welcome to my home, sweet home

プロローグ


 夏の終わりのある夜、フェアストーン家の全員が厩舎で頭をつき合わせていた。

「もうすぐだぞ」

それまで腕時計を見ていた居留区の医者、ドクター・グリーンが顔を上げ皆を見渡して告げた。

「サラ、苦しそう……」

ザックと洋子の娘、四歳になったララは心配そうに母親のカーディガンを引っ張った。

「仕方がないのよ」

洋子が娘の頭を撫でながら諭すように言った。

「……俺気絶するかも知れない……」

ザックが情けない声を上げると洋子は眉をひそめた。

「しっかりしてよザック。あなた馬と一緒に育ったんでしょう?」

「そうだけど……こんなの、ガキの頃以来なんだよ」

ザックを叱責しながら洋子はビデオカメラをセットし始める。ザックは信じ難いものを見るように顔をしかめた。

「何でこんなの撮るんだ?」

「沙織がね。この前電話した時に、もうすぐよって言ったら見たいって。夏休みに遊びに来た時から楽しみにしてたんですって」

沙織は、日本に住む洋子の妹の娘だ。

「だから、後で編集してパソコンで送ってあげてね」

「これを二回も見るのか?」

「ほら! 脚が出てきた!」

ドクター・グリーンの声が聞こえ、言い合いをしていた二人は同時にサラに目を向けた。サラのお尻から仔馬の脚が出ている。洋子はすぐにビデオカメラを回し始めたが、ザックは頭を仰け反らせて目を背けた。

「ザック! 引っ張れ!」

アンソニーに命じられたザックは自分の耳を疑った。ここにいる自分以外の『ザック』を捜そうとして辺りを見回した後、震える指を自分の胸に突きつけた。

「俺が?」

「当たり前だ! お前が出来なくてどうする!」

アンソニーの言葉にドクター・グリーンと洋子が頷いている。ザックは洋子にプロポーズをした時以上のプレッシャーを感じた。何よりもララだ。新しい生命の誕生というこの神秘的な瞬間に、頼もしい父親が活躍する事を期待するような輝く目で自分を見つめているのだ。渋々ザックはサラのお尻に回ると、顔を背けながら仔馬の脚を持って引っ張った。

「そうじゃない! サラと呼吸を合わせるんだ!」

 アンソニーからの指導を受けながら、何とかザックは仔馬を引っ張り出すことが出来た。羊水でびしょ濡れの仔馬の身体をサラが愛おしそうに舐め始める。思わず全員が顔を綻ばせる瞬間だ。ホッとしたのも束の間、ドクター・グリーンがザックにタオルを投げよこした。

「顔を拭くんだ。息が出来るように」

再びザックの顔がひきつった。そんな事をするくらいなら、猟奇殺人現場の検証の方がマシだ。しかしそれを口に出したら「一緒にするな」と皆から怒られるのは分かっているので、口はつぐんでおく。助けを求めるように洋子をチラッと見たが、ビデオを撮影しながら「早くやりなさいよ」とばかりに手を振り、ザックを促している。

 何とかそれも終えると、ようやく仔馬が脚を踏ん張り始めた。皆が見守る中、三十分以上かかって仔馬が立ち上がると歓声が上がる。ザックも安堵の息をついた。

「良かった……気絶しなくて……」

仔馬が乳を求めて母馬のサラによろよろと近づいていく。

「これで、まずはひと安心だな」

ドクター・グリーンからお墨付きを貰った頃には、既に深夜になろうとしていた。ララはふかふかの新しい干草の上でウトウトしている。

 全員が厩舎から連れだって出てくると、すっかり眠り込んだララを抱えているザックが楽しげに言った。

「とりあえず乾杯だな」

「ダメよ。あなたはドクターを家まで送って行って」

洋子に諌められたザックは苦笑いした。

「やっぱりな、そう来ると思った……」

 新しくフェアストーン家の一員となった仔馬の誕生に誰もが喜び、互いに微笑を交わし合う。命を取り上げるという大役を果たしたザックは、充足感に満ちた眼差しで眠るララを見つめる。ララはすくすくと育ち、四歳になった。この重みは幸福の証だ。愛する家族と共に、こうしてここにいられることを誇らしく思った。ひんやりと澄んだ夜の空気を吸い込み、ザックは顔を上げた。夜空には雲ひとつなく、無数の星が瞬いている。




 仔馬の誕生から数日後、フェアストーン家に平日には珍しく観光客が来ている。親戚の葬儀が近くであり、その帰りに寄ったというサンフランシスコから来た十四歳の少年と、その母親だ。二人のガイドを終えたザックは、馬場で後片付けをしている。アンソニーは店の中で、親子に一生懸命商品を薦めていた。

「このブレスレットはすごいぞ。お守りなんだ。俺は一度悪い警官に撃たれたが、これをしていたおかげで掠り傷で済んだ。銃弾が避けていったんだ」

 芝居がかった口調と大きな身振り手振りで客を惹き付ける。アンソニーのいつもの口上を聞きながら、壁際の棚の前で商品のラグを畳んでいた洋子は、その時のことを思い出した。

 洋子が初めてこの家に来た時に起こった事だ。人身売買組織に狙われた洋子を隠すため、当時FBI捜査官だったザックがこの家に連れてきたのだ。洋子の居場所を突き止めた組織の仲間の女性警官リンジーが、アンソニーを至近距離から撃った。

 アンソニーがその話をする度にザックは鼻で笑う。

「それはリンジーの射撃が下手だったからだ」

その現場にザックはいなかった。間近で見た洋子には、アンソニーの言う事を一概には否定出来ない。あの距離ならば、その時銃など触った事も無かった洋子でも当てることが出来ただろう。あの時はやはり何かが起こったのだろうと、洋子には思えてならない。

 しかし親子は全くアンソニーの話を信じていない。「はいはい」となおざりに頷いているだけだ。するとアンソニーは、この家の住人に起こったもう一つの奇跡について話し始めた。

「俺の息子は悪い奴に三発も撃たれて死にそうになったんだ。でもこのブレスレットのおかげで、ほら、今はあんなに元気になった。見てみなさい」

アンソニーは店の窓を指差した。親子は窓に顔を近づけ、馬場にいるザックに目を向けた。洋子も窓に近づいた。

 ザックは甲高い指笛を吹き、馬を呼んでいるところだった。そして自分の元へ駆けてきた馬の鞍を摑み、そのまま飛び乗ると楽しそうに馬場を回り始めた。

「本当に元気……」

洋子は微笑んだ。

 ザックは洋子の目の前で撃たれた。洋子が人身売買組織に連れ去られた時だ。意識不明のまま救急車で運ばれたザックを見送った洋子はその後FBIに保護され、ザックの上司だったビルによって日本へ帰された。一年後、回復したザックが目の前に現れるまで、彼が生きているのか死んでしまったのかも分からぬまま孤独な日々を過ごした。ザックが撃たれた場面の悪夢に悩まされながら。今でもその悪夢を時々見る事があるが、隣で寝ているザックを見て安心出来る。あの一年間は本当に辛く、もう二度とあんな思いはしたくないと、洋子は心の底から思っている。

「その話本当なの?」

少年の母親が洋子にヒソヒソと尋ねた。洋子にはそれがブレスレットのおかげかどうかは分からない。ただ事実のみを答えた。

「三発撃たれたのは本当。死にそうになったのも本当。今は元気なのも本当よ」

 当のザックは自分の身に起こった事を、周りが騒ぐほど奇跡だとは思っていない。あれだけの重傷を負って後遺症も無く元気なのは、自分が辛いリハビリに耐えたからだと言ってはばからない。

 少年が、至極もっともな疑問を口にした。

「でもさ、本当にお守りなら、最初から撃たれたりしないんじゃない?」

「撃たれた時、あのブレスレットをしてたのは私なの。彼の手元に渡った時はもう意識不明の状態だったのよ」

「ふぅ~ん」

少年は納得したように頷いたが、まだ半信半疑でなかなか財布の紐を緩めない母親に業を煮やしたアンソニーは、店のドアから顔を出して大きな声で馬場にいるザックを呼んだ。

「ザック! ちょっとこっちへ来い!」

 ザックは振り向き、馬に乗ったまま柵の際まで来た。馬を下りて柵を越えると小走りで店にやって来た。

「何? 父さん」

グローブを外しながら店の中へ入ってくる。するとアンソニーは黙ってザックが着ているシャツのボタンを外した。

「何すんだ! やめろよ!」

嫌がって抵抗するザックの腕を押さえシャツの左身頃を開くと、肩に近い鎖骨の下と脇腹に残る銃創が露になった。アンソニーの振る舞いに洋子は呆れて首を振った。

「まあ!」

少年の母親は手を口にあて、痛々しい傷跡から目を背けた。少年の方は好奇心に満ちた目を銃創にくっ付けんばかりに近づけて眺め、ザックに訊いた。

「三発って聞いたけど、あとの一発は?」

ザックはシャツのボタンを掛けながら、右膝の上の内側を指差した。

「ここだよ」

「痛かった?」

「一瞬ね。その後すぐに気を失ったから」

アンソニーはザックの右脚を指差した。

「そこも脱いで見せてやれ」

「ダメだ!」

「ダメよ!」

ザックと洋子が同時にアンソニーをたしなめた。

 結局その親子はアクセサリーやラグなど六点も買っていってくれた。三人は親子を店の外まで出て見送った。

「今日は大盛況ね」

土産物の売り上げと、馬での観光ツアー代を頭の中で計算しながら洋子が微笑んだ。しかしアンソニーは不満そうだ。

「三人がかりで六個か……効率が悪いな。そうだザック、お前の裸の写真をブレスレットの横に貼っとけ。『私はこれで助かりました』ってな」

「ダメだ!」

「ダメよ!」

また同時にザックと洋子が声を上げ、二人は気まずそうに目を合わせる。

「まだ片付けが残ってた……」

ザックがグローブをはめながら馬場へ向かうと、洋子は店の時計を見た。

「私も、ララを迎えに行かなくちゃ……」

洋子は車に向かって歩き出した。

 一人店に残ったアンソニーは、二人の様子をニコニコと笑いながら眺めている。


 数年前、居留区の近くに住宅街が出来た。そこの住民のほとんどは中級層の白人だ。最初は住民同士の対立もあったようだが、FBI捜査官だった頃はニューヨークに住み、外国人の妻がいるザックは全くその事に関心は無かった。居留区と住宅街の住民の間に立ち、仲を上手く取り持ったのはアンソニーだ。アンソニーは居留区の住民に、洋子を受け容れたように彼らも隣人として迎え入れるように説得した。そしてお互いの文化と習慣の違いを理解するよう双方に求めたのだ。その後、何も無かったハイウェイ沿いに病院と大型スーパーが建った。居留区には高齢者も多く、それまでは車でおよそ二時間掛けて街に出なければいけなかったため、彼らの暮らしは便利になったのだ。

 ララはその住宅街の中にある幼稚園に通っている。車での送り迎えは洋子の仕事だ。車は昔からのザックの愛車、緑色のチェロキージープだ。洋子が運転するようになってからは以前のように薄汚れてはいない。洋子が時間を見つけては、住宅街の洗車場に行くからだ。これにはザックも満足している。ザックも好きで汚れたままにしていた訳ではなく、ただ面倒臭かっただけなのだ。自分の愛車がピカピカになって戻ってくる度、ニヤッと笑って洋子に「ご苦労さん」と言うのだった。

 一度、それが原因で大喧嘩をした事がある。洗車から戻った洋子にザックが、「いいなあ日本人は、几帳面で」と言ったのだ。洋子はザックをキッと睨み、「あなたがやらないからでしょ!」と怒鳴った。ザックも言い返し口論になった挙句、洋子は車のキーをザック目掛けて投げつけた。難なく片手でキャッチされてしまったが。

 どんなに二人が激しい言い争いをしても、アンソニーはただニコニコと楽しそうに笑いながら眺めているのだった。


 幼稚園に着くと、ララが男の子と言い争いをしながら出てくるのが見えた。その相手は幼稚園の近くに住んでいるショーンだ。サラサラの金髪に、長い睫毛に縁取られた大きな青い目のなかなか可愛い男の子だ。ララは車のドアに手を掛けながらも、鼻の頭に皺を寄せてショーンに捨て台詞を吐く。

「何よ! ショーンの泣き虫!」

「何だよ!」

ショーンも迎えに来た母親の手にしがみ付きながら舌を出した。

 車に乗り込んだ後もララはプリプリと怒っている。父親に似た形の良い唇を、それ以上は出来ないほどに尖らせて。洋子が訊いた。

「今のショーンでしょ? 一体どうしたの?」

「もう! 男の子って嫌い!」

聞けば、お絵描きの時間の事らしい。ララが描いている絵にショーンがふざけて勝手に太陽を描き加えた。それに怒ったララがショーンを突き飛ばしたら泣いてしまい、自分まで先生に怒られたと言うのだ。どっちもどっちだと判断した洋子はハンドルを握りながら苦笑いをした。突き飛ばしたりしなければ、ララが怒られる事は無かったのだ。その直情的で不器用な性格は自分に似たのか。

「男の子のくせに泣き虫なのよ!」

ララがお腹の前で握った両手の拳を上下に振りながら不満を漏らした。まるで一番の元凶はショーンの泣虫にあると言いたげなララを洋子は毅然とした態度でたしなめる。

「ララ、暴力はダメよ」

「どうして? ママだってパパと喧嘩すると手を出すじゃない!」

ララの反論に洋子は蒼ざめた。子供は大人のしている事をちゃんと見ているのだ。やたらな事は出来ないと今さら反省したが、ここで謝ってしまっては暴力を肯定する事になってしまう。洋子はしどろもどろで弁解をする。

「あ、あのね、私が手を出してもザックはちゃんと避けるのよ……」

これが理由になるのかどうか全く自信は無い。優しく諭すつもりの笑顔は引きつっている。

「ザックには当たらないって分かってるから……」

「じゃあショーンだって避ければいいのよ。パパみたいに!」

「あのねぇ、そういう事にかけては……ザックは普通の人とは違うのよ」

チラッと助手席に目を遣ると、ララが疑わしそうな目で見ている。しかし「喧嘩では負けた事が無い」と豪語する父親を生まれた時から見ているのだ。あれが普通だと思い込んでは困る。洋子が真剣な表情を作って頷くと、ララも渋々だが納得したように頷いてくれた。

 何とかこの場を切り抜けた洋子は安堵の息をついた。しかし、このままではララの行く末が不安になってくる。本当にショーンが泣き虫なだけなのか、それともララが父親に似て腕っぷしが強いのか、そこのところがよく分からないのだ。


 夕食の時間になってもララの機嫌は直らない。ずっと幼稚園の男の子達の文句を言っている。

 話を聞いていると、どうやらララが泣かした男の子はショーンだけではないらしい。ララが喧嘩を売りまくっているのか、売られた喧嘩を買いまくっているのか、洋子はますます不安になった。

「男の子って乱暴なくせに泣き虫なのよ」

ララが不満げに言うと、それを聞いたザックが鼻で笑った。

「何だ、男のくせにピーピー泣く奴がいるのか?」

隣でアンソニーがザックを見て意味ありげに笑っている。ザックがそれに気付き、途端に真顔になった。

「何? 父さん」

「別に……」

アンソニーは笑ったまま答えた。自分は男の子より強いと得意げになっているララを洋子がたしなめた。

「ララ、そんな事言うもんじゃないわ。男の子っていうのはね、大きくなったら泣きたくても人前でなんて泣けなくなるのよ。だから小さいうちにたくさん泣いておくものなの」

「……そうなの?」

アンソニーがにっこり笑ってララに頷いてみせた。その隣でザックは洋子の話などまるで聞いていないかのようにチキンを頬張っている。ララはそんな父親をチラッと見ると洋子に尋ねた。

「どうしてママはパパと結婚したの?」

唐突なララの質問に洋子は目を丸くした。ザックも食事の手を止めて顔を上げた。

「そ、それはもちろん、パパもママもお互いが大好きだからよ」

洋子が答えるとララは再びザックを見た。ザックは「聞いたか? 今の」と言いたげに得意げな顔でララにウインクをした。ララはその途端、不機嫌そうに口をへの字に曲げた。

「ママ、パパのどこが好きなの?」

明らかに咎めるようなララの口調に洋子は驚き、ザックの笑顔も凍りついている。ララは唇を尖らせて父親を非難し始めた。

「だってパパっていつもひどい事言って、ママを怒らせてるのに……」

「それもそうね……」

 洋子の言葉にザックは愕然とした。男女の関係には様々なものがあり、自分達の場合には喧嘩もひとつのコミュニケーションだと考えている。殊更に洋子の怒った顔は情欲を揺さぶってくる。睨みつけてくる目は吊り上り、ネコ科のしなやかな獣を思わせる。そして迂闊に触れれば火傷をしそうな赤く染まった頬。そのどれもが激しく燃える生命の炎を感じさせる。それでつい怒らせるような事をしてしまうのだ。しかしララのような子供にそんな事を説明するわけにもいかない。思案を巡らせている洋子がララに何と答えるのか、ザックは気が気でない様子で水の入ったグラスを手に取った。

 洋子はララとザックを交互に見ながら口を開いた。

「あのね、ララ、変なものが好きな人っているのよ……」

ザックが飲んでいた水を吹き出し、激しく咳き込み始めた。何か変な事を言ってしまったかと動揺した洋子は、慌ててザックにおしぼりを渡した。ザックはおしぼりで鼻と口を覆い、苦しそうに咳き込んでいる。

「だ、だからね……パ、パパには、ママの怒った顔も可愛く見えるって事よ」

「ふぅ~ん」

「ララはママが怒ったら嫌でしょ?」

ザックのおかしな趣味については洋子も理解している。しかし子供の前でその話を掘り下げるわけにもいかず、矛先をザックからララにすり替えた。すぐにララは頭をブンブンと振る。

「うん。だって怖いもん」

「だったら、あんまりママを怒らせないでね」

「分かった」

子供の唐突な質問ほど怖いものはない。特にララは好奇心が旺盛で口も達者なため、近頃では質問責めに遭う事も珍しくない。やっと納得したララに洋子は大きな安堵の溜息をつき、食事を再開した。

 当のララはフォークを握ったまま、やっと咳が治まってきて涙目になっているザックを冷ややかな目で見ている。

「パパ。しっかりして!」

「はい……」

ララの冷たい叱責に、おしぼりで鼻と口を覆ったままのザックがくぐもった声で答えた。

「もういらない」

席を立とうとしたララを洋子が止めた。

「まだカボチャが残ってるわよ、ララ」

「えー! カボチャ嫌い!」

ララが口を尖らせて抗議すると、ザックはさっきのお返しとばかりに威厳を込めた声で言った。

「ララ。全部残さず食べなさい」

ララはザックを睨みつけると歯をむき出した。

「イーッ!」

「ララ!」

洋子がたしなめる。呆気に取られたザックは、洋子に身振り手振りで抗議した。

「何だ? あのララの態度は!」

洋子も「まあまあ」と、手振りでザックをなだめた。

 三人のやりとりをずっとニコニコしながら見ていたアンソニーが穏やかに口を開いた。

「ララ。カボチャもちゃんと食べないと、ママみたいな美人にはなれないよ」

ララは少し考えると素直に「はーい」と言って席に座り直し、ザックに見せ付けるように大げさな仕草でカボチャを口に運んでモグモグと食べ始めた。ザックがまたも身振りで洋子に抗議する。

「一体どういう事だ?」

「いいから放っときなさいよ」

洋子も手振りで伝えた。

 何が起こるか分からない。決して退屈する事のない毎日。フェアストーン家の一日はこうして賑やかに過ぎていく。


 ララを寝かしつけ子供部屋から洋子が出てくると、アンソニーが一人でソファに座りウィスキーを飲んでいる。洋子は冷蔵庫から自分が飲むビールを出しながら、ザックはどこにいるのかと尋ねた。アンソニーはグラスを傾けながら柔らかな笑顔を見せる。

「厩舎の様子を見に行った。珍しく自分から行ったよ」

洋子は一人掛けのソファに座り、普段は面倒臭がり屋であるザックのその行いに感心した。

「きっと仔馬が気になるんだわ」

アンソニーも頷き、明日は大雪でも降るのではないかと冗談を言い合った。

 ひとしきり笑った後、突然アンソニーが洋子に向き直った。

「ヨーコ、この家に来てくれて本当にありがとう。君が来てからザックは明るくなったし、優しい人間にもなってきた。本当に感謝してるよ」

洋子は面食らった。そんな事をアンソニーから言われるのは、確か結婚式の時以来だ。もちろんザックからはそんな優しい言葉を掛けてもらった事は無い。それが何年も経ってなぜ今。

 不意に掛けられた感謝の言葉に洋子は首を振った。感謝しているのは自分の方だ。二十歳の時に両親を事故で失い、それが元で妹と疎遠になり、婚約していた男はアメリカで事件に巻き込まれ殺されていた。それまでずっと孤独だった自分に家族が出来た。この家で一番幸せなのは自分だと思っている。洋子の目に涙が滲んできた。

「そんな、私の方こそ……この家に私を迎えてくれて、どんなに感謝しているか……」

洋子がアンソニーの手を取った。その手はいつも温かく、本当の父親のように洋子の心を包み込んでくれる。アンソニーもまた、嬉しそうに頷いた。

「ザックはいつもあんな風だけど、君の事を深く愛しているんだよ」

洋子はゆっくりと頷いた。優しい言葉なんて滅多に掛けてくれないけれど、いつも黙って側にいてくれるザックの愛情は、二人が初めて出会ったシルバーレイク・タウンにいた時から感じている。

 アンソニーは目を細めて微笑むと、洋子の手をポンポンと軽く叩き立ち上がった。

「そろそろ寝るかな」

「お休みなさい」

アンソニーは寝室へ向かって歩きながら、洋子には分からない言葉を独り言のように呟いた。

「えっ?」

洋子が聞き返そうとすると玄関の扉が開き、ひんやりとした風と共にポンチョをはためかせながらザックが入ってきた。

「あの仔馬元気過ぎだな。危うく蹴られるとこだった」

アンソニーは立ち止まり、ザックを見ながら微笑んだ。

「お休みザック」

「ああ、お休み父さん」

ポンチョを脱ぎながらザックが応える。洋子は不思議そうな顔で、寝室に入っていくアンソニーの背中を見ていた。

「ヨーコ、どうかしたのか?」

ザックの声に洋子は我に返り首を振った。

「ううん、何でもない……」


 アンソニーは自室の壁際に置いてあるローテーブルの前で、床に敷かれたラグの上にあぐらをかいて座っていた。ローテーブルには写真や小物がたくさん置いてある。アンソニーはその中から額に入った一枚の写真を手に取った。ザックが五歳の時に街の写真館で撮った家族写真だ。写真屋はザックのために椅子を用意してくれたのだが、どうしてもその椅子に座るのが嫌だと言って泣き出し、結局母親のエマがザックを抱っこした。抱っこされてもザックは一向に泣き止まない。店には他にも写真を撮る客が待っており、後がつかえていたため、仕方なく泣き顔のまま撮影した。

 アンソニーは写真に写った妻と息子を指でなぞり微笑んだ。エマはとても美しい女性だった。ザックは母親似だ。洋子が初めて会った時から完璧だと思っているザックの唇は、明らかに母親から受け継いだものだった。エマは一人息子のザックを溺愛していた。

 ザックが十一歳の時だった。エマは夕食の買い物に一人で出掛けた。普段からよく行くスーパーマーケットだった。いつもと何も変わらないありふれた日常が、その日突然に破られた。その店にぶらりと入ってきた男が、いきなり何事か叫びながら銃を乱射したのだ。その場に居合わせた従業員と客、合わせて六人が犠牲になった。エマもその一人だった。犯人は五十マイル以上離れた街に住む裕福な男で、麻薬常習者だった。逮捕された後も意味不明な事を叫び続けていた。「インディアンを殺して何が悪い?」とまで言った。居留区の住民がよく利用するその店をあえて狙ったという事も分かった。

 洋子はその話を結婚してしばらく経った頃、ザックの留守中にアンソニーから聞いた。ザックは母親の事を話したがらない。母親の死からザックが変わってしまったとも、アンソニーは悲しそうに首を振りながら話してくれた。ザックはそれ以来涙を見せなくなり、その瞳にはいつもどこか怒りをたぎらせていたと。

 アンソニーは写真の中のエマに向かって呟いた。

「ザックはいい伴侶を見つけたと思わないか? あの甘ったれで泣き虫のザックが……。あの子はもう大丈夫だ……」


 風呂から上がった洋子がバスルームから出てきた。寝室のバスルームは、結婚が決まってからザックが自分の退職金で増設したものだ。元々アンソニーの部屋と子供部屋の間にバスルームがあり、そんなのは贅沢だからお金は別の事に使うようにと洋子が促したが、ザックは頑として聞き入れなかった。しかし三世代が一緒に住んでいるこの家では、プライバシーも保たれるので洋子はなかなか気に入っている。

 ザックはベッドの中だが、ヘッドボードを背もたれに膝を抱えて座っている。

「どうしたの?」

洋子はベッドを回り込みながら、浮かない顔で何かを悩んでいるようなザックに声を掛けた。

「ララのあの態度、何だと思う?」

ザックはしょげ返った子供のように眉根を寄せ、唇を尖らせて逆に洋子に質問をしてきた。洋子は「やれやれ」とばかりに苦笑いをして頷くとザックの隣に座った。

「言ったでしょ? 今日幼稚園の男の子と小競り合いがあったのよ。それであなたに八つ当たりしてるだけよ」

「何で俺が八つ当たりされなくちゃいけないんだ?」

ザックが不服そうに言う。確かにララのザックに対する仕打ちは不当なものだが、その理由も分かる気がする。洋子は言葉を選びながら説明した。

「それは……あなたがこの家で一番若い男性だからじゃない?」

「俺は幼稚園のガキと一緒か……」

ザックは自嘲気味に言った。遠回しに言ったつもりだが無駄だったようだ。さらに不機嫌になったザックを洋子がなだめる。

「放っておけばいいのよ。あれぐらいの子供は女の子の方が成長が早いのよ。だから周りの男の子が幼く見えるんだわ」

ザックが首を傾げている。

「俺より親父の方がよっぽど大人げ無いと思うけどな……」

洋子は今日の店の中でのアンソニーの振る舞いを思い出し、笑いながら頷いた。

「それは言えてるわ」

「はぁ……。俺ってそんなに子供っぽいのかな……」

そう言いながら膝を抱えて悩んでいるザックは確かに少年のようだ。シルバーレイク・タウンにいた時から少し子供っぽいところがあると思っていたが、結婚した後はアンソニーと同居している事もあり、更にそう見えるのも事実だ。それでも洋子は、そんなザックが愛おしくてたまらない。

「あなたは、そのままでいいのよ」

 囁いた洋子にザックが顔を向けた。腕を伸ばし、半乾きのしっとりとした洋子の髪を撫でるとタンクトップから出た肩にそっとキスをする。完璧な唇を持つザックのキスに、未だに洋子は慣れる事は出来ない。頬を少し赤らめ、俯いた洋子をザックがゆっくりと抱きしめた。


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