第20話【奇跡】最後の一滴が呼び起こす大逆転。昏睡する少女へ「聖なるデコピン」を叩き込み、神の結界をブチ抜く
アークライトタワー最上階。 地上を覆う澱みさえも寄せ付けないその場所は、不気味なほどに静まり返った、冷徹な漆黒の聖域だった。
中央に鎮座する、闇を凝固させたような鏡の玉座。 そこに、現世の英雄――明智が、底なしの虚無を湛えて座っていた。
その背後、巨大な制御装置の前には、禍々しい漆黒の五芒星が床に刻まれ、その中心に陽菜が浮かんでいた。 病室から連れ去られた時そのままの、薄いパジャマ姿。 幸いなことに目立った怪我はなさそうだが、その表情は死人のように青白い。
「よく来ましたね、草薙先生。……いや、今はリノアとお呼びしたほうが、貴方には馴染み深いでしょうか?」
明智は優雅に立ち上がり、腰に帯びた漆黒の長剣をゆっくりと抜いた。 空間そのものを切り裂くようなその刀身は、周囲のわずかな光さえも貪欲に吸い込み、どろりとした闇を纏っている。
草薙は、息絶え絶えの有栖をかろうじて片腕で支え、床を這うようにして一歩ずつ距離を詰めていた。 有栖の身体はもはや透き通り、今にも夜風に溶けて消えてしまいそうだった。
「そんな満身創痍の状態で、いったい何ができるというのですか? 僕と戦うどころか、僕の影に触れることすら、今の貴方には叶わない。……黙って、僕が創る新世界を眺めていればいいものを」
「……一つ、聞いておきたいことがある」
草薙は血の混じった唾を吐き捨て、震える声で明智を睨みつけた。
「なぜ、陽菜をさらった。……お前の承認欲求を満たすためだけなら、他にもやりようはあったはずだ。なぜ、あいつじゃなきゃいけなかったんだ」
明智は、低く、透き通るような声で笑った。 その声音は礼儀正しく、どこまでも甘美だが、語られる内容は残酷な断絶に満ちている。
「簡単なことですよ。彼女――ゼノスの力は、異世界と現世の間を繋ぎ止める『固定具』として、あまりに有益だからです。
このタワーが汲み上げるマナは、そのままでは現世の理を壊す毒となる。 それを精製し、安定した奇跡として街に振り撒くには、あの老魔導師の精密な演算能力が必要不可欠だった。彼女は、僕がこの世界の主役として輝き続けるために捧げられる、最も純度の高い供物なのですよ」
「……供物、だと……?」
草薙の奥歯が、ギリリと鳴った。 血管が浮き出るほどに拳を握りしめ、内側から溢れ出す怒りで視界が真っ赤に染まる。
「……お前、今、なんて言った。……陽菜を、俺の妹を……ただの部品扱いしたのか? お前が、たかがチヤホヤされたいっていう……その薄汚いエゴのために、あいつの魂を使い潰そうっていうのかッ!!」
「心外ですね。これは世界を救うための最適化です。彼女も光栄に思っているはずですよ。……ああ、そんなに怒らないでください。
貴方はもっと、賢明な大聖女だったはずだ。なぜそこまでして、崩壊を待つだけの運命に無意味な執着を見せるのですか? 既に詰んでいる盤面で足掻くのは、貴方らしくもない」
「……賢明な大聖女、か。……悪いが、俺はそんな高尚な人間じゃない。
目の前で妹が道具扱いされて、仲間が命を懸けて道を繋いでくれた。……なら、俺がやることは一つだ。お前のその薄っぺらな劇場を、根元からブチ抜く。それだけだ」
明智は、どこか哀れむような目を向けた。
「根元から、ですか。それは……無理な話だ。今の貴方が全力で殴りかかれば、僕の剣技で君自身が砕け散ってしまう。……僕の剣は、相手の力、速度、角度を完璧に読み切り、その威力を上乗せして叩き返す。――勇者の特権ですよ」
「……っ、勇者……だと……?」
草薙はその言葉に激しく反応した。 明智の口から出た「勇者」という単語。それは、草薙がこの東京でずっと信じ、再会を待ち望んでいた「あいつ」を指す言葉だったからだ。
だが、目の前の男の瞳にあるのは、かつての戦友が見せていた輝きではなく、底なしの闇と、隠しきれない独善だった。
「勇者か。……笑わせるな。お前のような、他人の承認を餌にしなければ立てない怪物が、勇者を名乗るんじゃねえよ」
「承認、ですか。……いいでしょう。ならば、その本物と信じる幻想が、いかに脆く、無価値であるか……僕が直接、その身に刻んであげましょう」
明智が地を蹴った。異世界の戦場ですら見たことがないほどの、超神速の踏み込み。 漆黒の刃が、草薙の首元を刈り取らんと閃く。
だが、草薙の意識は、既に明智を捉えていなかった。 脳裏に去来するのは、あの夜のゼノスの言葉。
◇
それは、遠い異世界での記憶。焚き火の爆ぜる音が、静寂に響く夜。 三日も寝ずに薄紫色の結界を張り続けるゼノスの背中を見つめ、リノア(草薙)は問うた。
『ゼノス様、結界魔法は構築するよりも解除するほうが何倍も魔力と労力を消費すると聞いています。明日、それを解く際に倒れてしまわないか心配で……』
老魔導師は肩を揺らし、フンと鼻を鳴らして振り返った。
『バカモン。それは並の魔導師の話じゃ。作ったものは、そう簡単には消失させられん。だがなぁ、リノア。力の結び目には必ず芯がある。そこを一箇所だけ解けば、あとはドミノ倒しよ。
構築に注いだ万の魔力も、その一突きのきっかけさえあれば、逆流して自壊する。わしレベルともなれば、1Pの魔力(MP)さえあればちょちょいのちょい、じゃわぃw』
最初は老人の戯言とも思った。 だが、翌朝、彼は世界の理をすべて掌握しているかのように、指先一つで巨大な結界を霧散させた。
あの老獪な魔導師の、畏怖すら覚える圧倒的な術理。 草薙は今、その記憶にすべてを賭けていた。
◇
(……そうだよな、陽菜。……お前なら、1Pでいいんだよな!)
「――らぁぁッ!!」
咆哮と共に、草薙は残された全生命力を足に込め、最短距離で飛び込んだ。 明智は冷笑を浮かべ、漆黒の長剣を完璧なタイミングで迎え撃つべく「迎撃」の構えをとる。
草薙の拳が届く、その刹那。
草薙は自らの全慣性を殺し、膝が床を削るほどの超低空で真横へと身を翻した。 明智の漆黒の刃が、草薙の首皮を一枚分だけ削り、空を切る。
「なっ……!? どこへ行こうというのかね?!」
草薙の目的が背後の陽菜であることに気づいた明智が、即座に身を翻し、追いかけようと一歩を踏み出す。
――その瞬間。
「……っ、たぃ……れぃど……ばっ…、けつ……」
背後で這いつくばっていたはずの有栖が、消え入るような小声で呪文を唱えた。 かつてインフルエンサー巨人を相手に放った拘束魔法『絶対零度・爆凍結』。
霧散寸前の身体に残された微かな魔力では、かつての威力には程遠い。 だが、明智の右足一点にのみ、執念の冷気が集中された。
バキバキッ! という硬質な音と共に、明智の右足が床ごと氷の膜に閉じ込められた。
「なっ……!? 足が動か…というほどでもない!」
明智が咄嗟に氷を砕いたが、有栖が繋ぎ止めたその冷気は、ほんのわずかな、だが決定的なコンマ数秒の間、明智の動きを停止させた。
このわずかな隙を突き、草薙は五芒星の上で無防備に浮かぶ陽菜へと駆け寄り、その細い手を強く握りしめた。
「陽菜……ッ!!」
草薙は、自らの手のひらから陽菜の魂へと、一滴ずつ溜めてきた最後の一点――1Pを、祈るように手渡した。
(現在のMP残高:0P)
草薙の完全消失したMP値と同じタイミングで、陽菜の睫毛が激しく震えた。
(……お兄ちゃん。……遅いよ、バカ……っ!)
陽菜が、カッと目を見開いた。 その瞳に宿るのは、かつての老賢者ゼノスの叡智、そして兄を守ろうとする妹の強い意志。
「……理すべて! ここに砕けよ……【スルバ……ッ】!!」
陽菜の精密極まる一突きによって、漆黒の結界が内側から爆ぜた。 逆流を始めた莫大なマナが、タワーのシステムを内側から食い破り、漆黒の空間へと大洪水となって溢れ出した。
「なっ、なんだ!? マナが、僕の管理を離れて……!? 逆流しているというのですか!?」
明智は一瞬、狼狽の色を浮かべ、顔を歪ませて叫んだ。
「ええい、役立たずなシステムめ! とまれぇ、止まれと言っているんだッ!!」
明智は漆黒の長剣を制御端末の基盤へと狂ったように突き立て、システムを自ら叩き壊した。 これ以上のマナ放出を断つための、冷徹かつ性急な判断。
だが、その濁流の中心で、陽菜が微笑む。
(…ぁりがとぅ…氷の女の子…ぁなたが命を懸けて生み出した勇気あるコンマ数秒は…たった今世界の運命を大きく変えたょ…)
「……間に合ったね……お兄ちゃん……あとは……おねが……」
解除魔法に全精神力を注ぎ込んだ陽菜は、そのまま五芒星の上で静かに横たわり、意識を完全に失った。
だが、彼女が最後に解き放ったマナの大洪水は、草薙と有栖を完璧に満たしていた。
(現在のMP残高:FULL MAX (99,999P+))
草薙の身体から、かつてないほど巨大な蒼炎の柱が吹き上がった。 隣では、消滅の危機を脱した有栖が、氷のような冷徹な笑みを浮かべていた。
「……ふん。……妾を消すには、まだ二千年早かったようじゃな、明智よ」
「待たせたな、有栖。……ここからが第2ラウンドだ」 「ああ、草薙ょ。……あの男の面を、今度こそ妾が叩き割ってやるぞ」
草薙と有栖。 かつての「大聖女」と「魔王の娘」が、今、完全に復活し、背中を合わせる。
「……いいでしょう。マナが戻ったところで、僕の剣技は破れない。……勇者である僕を前に、君たちがどこまでその解釈を貫けるか……試してあげますよ」
明智は漆黒の長剣を構え直し、静かに笑った。
現在のMP残高:FULL MAX




