第一章⑥
品種改良されたリンゴは、北部の改革に余裕が出来てから手を付けたものだった。
北部に来た最初の頃は大変だったと、なんとなく昔を思い出す。
馬車に揺られ、供を付けることも許されなかったわたしと旦那様が初めて北部に足を踏み入れた時の感想は、【寒い】だった。
わたしと旦那様を公爵城に送り届けた御者の男は、雪が降る前にとさっさと戻ってしまったの。
わたしは、小さな旦那様の手を引いて、荒れ果てた公爵城に入った。
まだ秋になったばかりのはずなのに、いつ雪が降ってもおかしくないほどの寒さの中外にいるよりもと中に入ったのだが、中は中で相当なものだった。
隙間風、埃、蜘蛛の巣、ネズミ……。
うん。すぐに全部をどうにかするのは無理そうね。
そう判断したわたしは、一先ず寝室として使えそうな、比較的マシな部屋を見つけてそこに荷物を降ろした。
部屋の中でも寒さは変わらず、旦那様が震えていた為、わたしの持ってきたコートを着せてさらに魔術で周囲の温度を上げることにしたわ。
ほこりを払ったベッドに二人で座って、これからについて旦那様に提案する。
「とりあえずですが、この部屋を拠点に生活できるように整えますね。それが終わったら、城下の視察に行きましょう」
「あ……。うん」
「大丈夫です。わたしがお側に居ます」
「……」
ガチガチに緊張している様子の旦那様を見て、わたしは大切なことを失念していたことに気が付く。
名乗りはしたがそれだけだったことに。わたしは旦那様のことをある程度は知っていたけど、旦那様はわたしのことを知らない。
知らない人に馴れ馴れしくされても怖いだけよね。
ベッドの上で向き合い、旦那様の小さな手を握る。そして、ガラス玉のような感情の見えない瞳を見つめ、ゆっくりと声を掛ける。
「改めて、わたしのことはギネヴィアとお呼びください。十歳になられる旦那様の五つほど年上……くらいだと思ってください。フェンサー伯爵家の生まれです。好きなことは……体を動かすことです。魔術も嗜みます。ご希望でしたら旦那様にお教えいたしますね。食の好き嫌いはありません」
「…………」
突然の自己紹介に旦那様は、小さく首を傾げる。
なんだか小動物みたいで可愛らしい仕草に胸がぐっと詰まった。
今まで、誰からの温もりも感じたことがない孤独な人。
何の根拠もない迷信で辛い思いをなされた人。
孤独が人の心を壊してしまうことはよく知っている。
わたしはこの方に救われた。だから恩をお返ししたい。
今こうして、自分の足で歩いて、胸に空気を大きく吸って、楽しいと笑い、美味しいと喜び、生きているのだと実感できることは、人として当然の権利だ。
それを取り戻すことができたのは、旦那様のお陰。
だから、いただいた分、いいえ。それ以上の愛情を持ってこのお方にお仕えしよう。
温もりを分けるかのように、あの時出来なかったことをするように、わたしは小さな旦那様を胸に抱いていた。
「大丈夫です。わたしは旦那様の味方です。だから、辛いことがあれば何でも話してください。わたしには我慢しないで、我儘を言ってください。旦那様には幸せになる権利があるのですから」
そう言って、旦那様をぎゅっと抱きしめる。
すると、胸の中の旦那様が小さく震えながら、ようやく気持ちを吐き出してくれた。
「……ぼく……さみし…かった。ずっとずっと!! うわーーーーーーーん!!」
旦那様の心からの叫びは、わたしの胸に痛いほど届いたわ。
これはただの自己満足。だから、旦那様が一人でも大丈夫になったらちゃんと弁えて身を引かなくてはね。




