第一章③
話がまとまった後の対応はとんでもなく迅速なものだった。
わたしは、すぐに必要なものだけを鞄に詰めて準備をした。
今の季節は夏の終わり。北部以外の地域は比較的過ごしやすい時期に差し掛かっているけれど、これから住むことになる北部は違うわ。
あっという間に、過ごしやすい時期は過ぎ去り、厳しい冬がやってくるはずよ。
持っていくものはもちろんコートやマフラーなどの防寒具……。
だけど、王都にほど近いフェンサー伯爵の領地で過ごすわたしが用意できるコートやマフラーなんて、北部では防寒具として役に立つとは言えない物ばかり。
ふぅ……。まぁ、最悪魔術でどうにか出来なくもないから、防寒具はこれでひとまずは良しとしましょう。
問題は、アレよね。
そう考えたわたしの視線の先には、狸親父から譲り受けた北部の書類があった。
ええ、書類と呼ぶのもおこがましい、紙切れを手に取って、その薄すぎる報告書に目を通す。
その紙切れに書かれている内容は、少なすぎる北部の財源。雀の涙と比較できるほどの少なさは、想像はできたけれど、収入源がゼロに等しいのが頂けないわね。
北部には、アレが腐るほど眠っているというのにもったいないわ、本当に!!
それにこの状況で、辛うじて残っている領民から税を搾り取るのもナンセンスだわ!
やることは決まったわ。
北部の立て直しの前に、領民の生活の立て直し。領民の衣食住が整ったら、本格的に北部の立て直しにかからないと。
そうなると……。
うん。なんだか楽しくなってきたわね。
そんなことを考えていると、わたしの部屋の扉がノックされた。
なんとなくフェンサー伯爵が来ることが分かっていたから、軽く返事をする。
「どうぞ」
わたしがそう声を掛けると、想像した通りフェンサー伯爵がしょんぼりとした表情で部屋に入ってきたの。
その顔が、捨てられた子犬のように見えたのがおかしくて、ついつい笑ってしまった。
「あね―――」
「伯爵!!」
「ご、ごめん……。でも、貴女にこんなことして欲しくなんてないです」
「もう、本当にフェンサー伯爵はお馬鹿さんなんだから。わたしが行かなければ、まだ幼いサリナが行かなければならないのよ。そんなの見過ごすことは出来ないわ。それに……。この話は、初めからわたし宛の申し入れよ」
「……」
「本来は、一生伴侶を得ることが出来ない王子殿下の相手に条件的に相応しすぎただけよ。婚外子の庶子が相手だと聞けば、両陛下も喜んでわたしを伴侶として認めるに違いないわ。だけど、宰相閣下は、婚外子の庶子が実は、フェンサー伯爵家の財政立て直しの隠れた立役者だって知ったうえで申し入れしたのよ」
「ですが……。それなら何故サリナを?」
「そこは建前よ。最初からわたしに申し入れをしたら怪しいでしょ?」
「たしかに……。でも、異議を唱えずにそのまま受け入れたら宰相閣下はどうするつもりだったのですか?」
「だから、サリナなのよ。普通の親なら可愛い一人娘、しかもまだ六歳の女の子を北部にやりたいと思う?」
「うっ……。そうですね」
「さらに、ちょうどいいことに、その家には婚外子の娘が居ましたとさ。なら話が早いわ」
「娘を守るために、婚外子の子供を差し出す……」
「そう言うこと。それと、宰相閣下はわたしが嫌がる可能性も考えたうえで、サリナを指名したんだわ」
「それは?」
「わたしがサリナを可愛がっていることは結構有名でしょ? 可愛い妹分を北部にやるはずがないって、そう目論んでの申し入れよ」
「はぁ……。意志は固いようですね」
「ええ。大丈夫。わたしを誰だと思っているの? 上手くやるわ」
「ははは……。そうですね。貴女はギネヴィア・フェンサーですからね」
そう、わたしはギネヴィア・フェンサーなのだ。
だから、うまくやらなければならないし、やりすぎもいけないの。
でも……。
無理だったわ……。
だって、初めて直接会ったあの子が可愛くて……。
お姉さんもうね、張り切ってしまったのよ。
うん。反省はしているけれど、後悔はしていないわ!!
北部行きの馬車の中で初めて挨拶を交わしたわたしの旦那様。
アルトラーディ・ケイネス。
十歳になるはずのその身は小さく細く、十歳にはとても見えなかった。
髪も肌もボロボロのカサカサ。
涙がこぼれそうだった。だけど、それを堪えてわたしから挨拶をしていた。
「初めまして。わたしは、ギネヴィアと申します。アルトラーディ様」
「は……じめまして……。ぎねぇ……あ?」
「はい。ギネヴィアです。これから、旦那様の妻として、全力でお支えします」
「…………」
ひび割れたガラス玉のような瞳で遠くを見つめるような様子の旦那様にわたしはどうしようもない怒りで心が震えた。
だから、この時改めてわたしは決めたの。
この人を誰よりも幸せにしてみせると。
その決意を込めて、向かい側の席に座る旦那様の小さくカサついた両手を握っていた。
とても冷たい両手を温めるようにぐっと手を握り直し、旦那様の赤いガラス玉のような瞳を見つめて宣言していたわ。
「旦那様。ギネヴィアは、貴方様を大切にいたします。ですから、これからは旦那様の思う様にお過ごし下さい」
わたしがそう言うと、ガラス玉のような瞳が少しだけ光を宿したように見えたけれど、すぐに赤い瞳は隠れてしまっていた。
旦那様はぱっと下を向いて、小さく頷いたことによって。
「う……ん」
「ふふ……」
可愛らしいそのお姿にわたしは、旦那様を大切に育てようと心に決めた瞬間だった。




