第一幕:井戸と潮の満ち引き
第一幕:井戸と潮の満ち引き
湊花町の夜は、潮の匂いが強い。ホラ 一は港近くの小道を歩いていて、ふと道端に口を開けた古井戸に気づいた。
コンクリートで固められたはずの町並みに、ぽつんと残された井戸。錆びた鉄の覆いがずれており、中を覗き込むと黒い水面が奥底に揺れていた。
――その水面に、一匹の蛙がいた。
丸々とした青緑色の体。湿った皮膚がわずかに光を反射する。井戸の底の蛙は、不自然なほど港の方角をじっと向いていた。
まるで何かを見張っているかのように。
「……ただの蛙、だよな」
そう呟いたホラの声は、どこか空回りしていた。
その夜、港で写真を撮っていると、不思議なことが起きた。
潮が満ちる音が、突然ぴたりと止む。
波はあるのに音が消える。耳を澄ましても、港全体が無音の箱のようになっていた。
次の瞬間、桟橋の板の隙間から冷たい水がにじみ出し、ホラの靴底を湿らせた。
井戸の蛙――あの姿が脳裏に浮かぶ。
港を向いていた蛙が、あの瞬間に背を向けた気がしてならなかった。
翌日、漁港近くの古老に話してみると、返ってきたのはこうだった。
「見ちまったか、井戸の底蛙を。あれが背を向けるとき、潮の底の道が開くんだ。呼ばれたら、戻れねえぞ」
ホラは笑って聞き流そうとした。だが胸の奥に、冷たい水を一口飲み込んだような感覚が残っていた。
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その晩、眠りに落ちたホラは、奇妙な夢を見た。
舞台はなぜか回転寿司の店内。皿が流れるレーンの上を、湊花町名物でもない不思議な料理が通り過ぎていく。
いつの間にか、彼のテーブル席の前に座っていたのは、全身が金色に輝き、頭にチョンマゲを結った人物――「ハズレ味噌汁マスター」だった。
彼は湯気を立てる味噌汁を前に、にやりと笑いながら言った。
「ほら見な……今日の具は灯台ウエハースだ。崩せば潮の味になる。ズレてるけど旨いんだよ、これが!」
ホラの目の前の椀には、確かに小さな灯台の形をしたウエハースが浮かんでいた。恐る恐るスプーンで砕くと、灯台は崩れながら沈み、味噌汁全体がざわりと波立つ。店内の寿司皿が、一斉に青白く光り出した。
その時、レーンの上に流れてきたのは――カエルの形をした透明な水まんじゅうだった。
中の黒い餡が瞳のようにこちらを見ている。
「喰えば、お前の影は澄み渡るぞ」
金ピカマスターが、耳元で囁いた。
ホラは箸を伸ばし、口に運ぼうとした瞬間――しゅわっと目が覚めた。
目覚めた後も、唇には冷たく湿った感触が残っていた。
それはまるで、夢の中で水まんじゅうを噛んだ時の感覚のようだった。
(続く)
三沢野樽のヒトサラ。(N8149KU)で登場した「ハズレ味噌汁マスター」の彼、今回はチョイ役ではありませんw