『恋すると死ぬ体質ですが、あなたには会いたいです』
氷川颯真シリーズのスピンオフです。
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夜勤明けの静かな病棟に、救急車のサイレンが滑り込んだのは、午前二時を少し過ぎた頃だった。
氷川颯真がいつものようにカルテの整理をしていたその時、ナースステーションに響いた声が彼を呼び戻す。
「二十代の女性、意識は清明。主訴は動悸と息切れ、心拍二〇〇超えてます!バイタル不安定!」
ベッドに乗せられた患者の顔を見た瞬間、氷川は小さく目を細めた。
華奢な体つき、色の白い肌、額に貼られた冷却シートの下で濡れた睫毛が揺れていた。
彼女の名前は――佐々木玲奈。その名札が、仰向けになった胸元にぶら下がっていた。
「心電図、すぐ出して。血中酸素と血圧、もう一度確認して」
「はい!」
看護師たちが慌ただしく動く中で、氷川は玲奈の横にしゃがみこみ、視線を合わせるようにして声をかけた。
「佐々木さん、聞こえますか? 深呼吸できますか?」
その問いに、玲奈はゆっくりとまぶたを開いた。瞳が氷川を捉えた瞬間、彼女の顔がわずかに赤らんだ。
「……せんせい……かっこよすぎませんか……」
ぽつりと、言葉にならない呟きが漏れる。
心電図モニターがけたたましく鳴った。心拍数、二一〇。氷川が呼吸を整えるように言うが、彼女の目線は逸らされることなく彼を見つめ続けていた。
「くだらない……これは、恋煩いか?」
氷川が小さく吐き捨てた言葉に、看護師の一人がクスッと笑いそうになって唇を噛んだ。
「薬物、カフェイン摂取、ストレス、全て否定です。診断、どうします?」
隣に立つ循環器の小野寺医師が問うたが、氷川は答えず、しばらく玲奈の手首に指を添えたまま心拍を感じていた。
「いえ、これは――感情性頻脈、だろう。要観察。今すぐの命の危機はない。
ただし、同室者が男だったら死ぬかもしれません。特に、俺とか」
周囲が一瞬静まりかえった。
氷川は真顔のまま指示を出し、玲奈を個室へ移すよう手配した。
そして、玲奈の枕元に静かに立ち、こう言った。
「これから少しの間、君の心臓の音を聴かせてもらう。生きたがっている音か、死にたがっている音か――判断してやる」
玲奈はほんのわずかに笑って、呟いた。
「……それ、ドキドキしてるってことじゃ、だめですか……」
佐々木玲奈が個室に移されてから二日が経った。心電図モニターは常時装着され、記録は夜勤明けの医師たちのちょっとした話題になっていた。
「氷川先生が部屋に入ると、心拍が上がるんですよ。190とか」
「逆に他の医師だと70台で安定。先生の顔面、もしかして毒なんじゃ……」
笑い混じりのナースたちの会話を背に、氷川はそのモニター記録に目を通していた。
「バカバカしい……と思いたいが、反応は本物だな」
彼女は特に病歴もなく、甲状腺異常もなし。心電図にも不整脈の波形は見られず、器質的な異常はない。
それなのに氷川が部屋に入ると、まるで心臓が告白するかのように波形が跳ね上がる。
午後の回診。氷川が病室に入ると、玲奈はスケッチブックを抱えてベッドに座っていた。
彼女は顔を上げるなり、耳まで真っ赤に染めて言った。
「先生……来る前に呼吸止めてたんですけど、効果なかったみたいです……」
「呼吸を止める意味がわからない。酸素飽和度が下がる。やめなさい」
「ですよねぇ……ふふ、先生って本当に優しくないなぁ」
氷川は無言のまま、脈拍と血圧を測定する。心拍はすでに180。モニターが緊急設定の閾値を越えて、ピッと音を鳴らした。
「こんなに好きになると、死にそうになるのって……変ですよね」
「くだらない。生き物として不自然だ。だが、症状は現実だ」
玲奈はスケッチブックを抱きしめるようにして、少しだけ俯いた。
「高校のときも、大学でも……“好きかも”って思うと、決まって倒れたり、過呼吸になったりして。
だから、もう“好きになる”ってことを、やめようって思ってたんです」
淡々とした口調だったが、その声音の奥には、何度も繰り返された失敗と後悔が隠れていた。
氷川はカルテにメモを取りながら、ぽつりとつぶやく。
「これは恋愛恐怖症の一種かもしれないな。条件反射的に、心拍や自律神経に異常が出る。
だが……君の場合、“相手によって発作が出る”というのは妙だ」
玲奈は少しだけ首を傾げて、そっと言った。
「……じゃあ、先生が嫌いだったら、治りますかね?」
氷川はペンを止めた。
「理屈で言えば、そうなる。だが感情は条件付けではなく、選択の問題だ。君が誰を好きになるかは、自由意志だ。
そして、それを怖がるのは生理的な保険だが、過剰反応ならば……治療の対象になる」
「……病気なんですね、私」
玲奈の声が、少しだけ震えた。
「治療するかどうかは、本人が選ぶことだ。症状は“好きな相手”がいなければ消える。
だが、消したいほどの恋かどうかは、君自身が決める」
その言葉に、玲奈はゆっくりと目を閉じた。
そして――ぽつりと、小さな声で言った。
「……治したくないかもしれないです、先生のこと、好きでいるなら」
病室の窓から差し込む朝日が、佐々木玲奈の頬を淡く照らしていた。
彼女はスケッチブックを膝に抱え、じっと鉛筆の先を見つめていた。
「先生の顔を描いてるんです。毎日少しずつ。」
小さな声で告げる玲奈の瞳は、どこか遠くを見つめている。
そんな彼女の様子を見つめながら、氷川颯真は手元のカルテに目を落とした。
「好きな相手の顔を見ると動悸が激しくなるのか?」
玲奈は小さく頷いた。
「そうなんです。でも、見ないようにしようと思って、鏡に映った自分の顔もなるべく見ないようにしています」
「……それは逆効果だろう」
氷川の声は無機質だが、どこか優しさが滲んでいた。
「感情は理屈じゃない。忘れようとしても、無意識は拒まない。
お前の体が反応しているのは、本物の“好き”だ」
玲奈はうつむき、鉛筆を握る手に力が入った。
「好きになることが、こんなに怖いなんて思わなかった。
でも、先生に会うのはやめられないんです。体はつらいけど、心は満たされる気がして」
氷川は静かに息を吐いた。
「君が過去に好きになった人は誰だ?」
玲奈はためらいながらも答えた。
「高校の時の彼と、大学のゼミの先輩。でも、どちらも恋が始まる前に体調が悪くなって、結局終わってしまったんです」
「その時に、何か特別なことがあったか?」
「うーん……先輩の香水の匂いが、急に怖くなったことはあります。あと、彼が泣いている夢も見ました」
氷川の眉がわずかに寄る。
「夢か……嫌な記憶が、無意識に影響しているのかもしれないな」
その時、ナースステーションから看護師・沢渡里美が静かに入ってきた。
「玲奈さん、今日から少しずつ“先生のことを見ていく”練習を始めましょう」
玲奈は驚いた顔をした。
「そんな練習、あるんですか?」
「ええ、感情的な過敏症に対しては“段階的暴露療法”っていうのがあるんです。
初めは遠くから、次に少しずつ近づいて、最後はちゃんと見つめる。怖くても、体に慣れさせるの」
玲奈は小さく笑って、言った。
「それ、できるかな……でも、やってみます」
氷川は少しだけ微笑んだ。
「くだらない恋に、少しだけ真面目に向き合ってみるか」
夜の病棟は静寂に包まれていた。
佐々木玲奈は窓際のベッドで、ぬくもりを帯びた夜風を感じながら呟いた。
「好きな気持ちって、治らないんですか?」
氷川颯真はカルテを閉じて、彼女の方を見た。
普段のクールな表情とは違い、少しだけ柔らかさがあった。
「病気は治せるが、感情は治すものじゃない。管理するものだ。
だが、その管理は本人の意思がなければできない。だから、好きという感情が“治る”かどうかは分からない」
玲奈は目を潤ませ、唇を震わせた。
「好きだから、苦しいのにやめられない。治したいけど、治したくないのかもしれないです」
氷川は静かに頷きながら言葉を続けた。
「それが人間だ。感情に翻弄される生き物だ。くだらないけど、逃れられない。だから医者は、君の心臓の代弁者にならなければいけない」
玲奈はそっと微笑んだ。
「先生の言葉、怖いけど、なんだか救われます」
その時、看護師の沢渡里美が入ってきた。彼女は優しく微笑みながら、玲奈の肩に手を置いた。
「玲奈さん、今日は特別に新しい香りのアロマを用意しました。リラックスしてね」
玲奈は不思議そうに首をかしげた。
「でも、その匂い……ちょっと怖いんです」
沢渡は優しい声で答えた。
「大丈夫よ。好きな人が近くにいる時は、少しだけ勇気がいるけど、それも治るから」
氷川はそのやりとりを冷静に見つめながら、心の奥で何かがざわついているのを感じていた。
日が傾き始めた病棟の一室で、佐々木玲奈はベッドに座りながら小さな声で言った。
「先生、私、毎日少しずつ、先生に触れる練習をしています。」
氷川颯真は聴診器を肩にかけ、真剣な表情で彼女を見つめる。
「具体的には?」
「脈を測ってもらったり、聴診器を当てられたり。怖いけど、少しずつ慣れてきました。」
その言葉に、氷川はわずかに頷いた。
「それでいい。恐怖は慣れで減るものだ。」
その時、看護師の沢渡里美が優しい笑みを浮かべながら部屋に入ってきた。
「玲奈さん、いつも頑張っているわね。私も応援しているわ。」
玲奈は照れくさそうに微笑み返した。
「ありがとうございます、沢渡さん。」
氷川は二人のやりとりを見つめながら、心の奥に微かな違和感を覚えていた。
その日の夕方、玲奈はスケッチブックを取り出し、ページをめくった。
一枚一枚に、氷川の姿が描かれている。
「この人を描くたびに、好きが溢れて困るんです。」
玲奈の声は甘く、でも切なさに満ちていた。
退院の日、病室はいつもよりも静かで、けれど温かな空気が漂っていた。
佐々木玲奈は手にしたスケッチブックを大切そうに抱えて、氷川颯真の前に立った。
「先生、これ……」
ページをめくると、表紙には彼女が描いた笑顔の氷川の肖像があった。
そのタイトルは、まるで二人の鼓動を映し出すかのように「鼓動の記録」と書かれている。
「毎日、あなたのことを描きながら、自分の心も見つめ直しました。
好きになるのは怖いけど、やっぱり好きでいたいです。」
氷川は少しだけ笑みを浮かべて、背を向けた。
「くだらない病気だ。でも、それが人間というものだ。
君がそのまま生きていけるなら、僕も医者でいる意味がある。」
振り返りざまに、静かに告げる。
「また、再発したら来ればいい。
その時は……ちゃんと僕が聴診器を当ててやるよ。
君の、“くだらない”恋の音を。」
玲奈は照れくさそうに笑い、頷いた。
二人の距離はまだ遠いけれど、心の鼓動は確かに重なっていた。
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