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『恋すると死ぬ体質ですが、あなたには会いたいです』

作者: 丁稚奉公

氷川颯真シリーズのスピンオフです。

https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n6634kq/

夜勤明けの静かな病棟に、救急車のサイレンが滑り込んだのは、午前二時を少し過ぎた頃だった。

 氷川颯真がいつものようにカルテの整理をしていたその時、ナースステーションに響いた声が彼を呼び戻す。


「二十代の女性、意識は清明。主訴は動悸と息切れ、心拍二〇〇超えてます!バイタル不安定!」


 ベッドに乗せられた患者の顔を見た瞬間、氷川は小さく目を細めた。

 華奢な体つき、色の白い肌、額に貼られた冷却シートの下で濡れた睫毛が揺れていた。

 彼女の名前は――佐々木玲奈。その名札が、仰向けになった胸元にぶら下がっていた。


「心電図、すぐ出して。血中酸素と血圧、もう一度確認して」


「はい!」


 看護師たちが慌ただしく動く中で、氷川は玲奈の横にしゃがみこみ、視線を合わせるようにして声をかけた。


「佐々木さん、聞こえますか? 深呼吸できますか?」


 その問いに、玲奈はゆっくりとまぶたを開いた。瞳が氷川を捉えた瞬間、彼女の顔がわずかに赤らんだ。


「……せんせい……かっこよすぎませんか……」


 ぽつりと、言葉にならない呟きが漏れる。

 心電図モニターがけたたましく鳴った。心拍数、二一〇。氷川が呼吸を整えるように言うが、彼女の目線は逸らされることなく彼を見つめ続けていた。


「くだらない……これは、恋煩いか?」


 氷川が小さく吐き捨てた言葉に、看護師の一人がクスッと笑いそうになって唇を噛んだ。


「薬物、カフェイン摂取、ストレス、全て否定です。診断、どうします?」


 隣に立つ循環器の小野寺医師が問うたが、氷川は答えず、しばらく玲奈の手首に指を添えたまま心拍を感じていた。


「いえ、これは――感情性頻脈、だろう。要観察。今すぐの命の危機はない。

 ただし、同室者が男だったら死ぬかもしれません。特に、俺とか」


 周囲が一瞬静まりかえった。

 氷川は真顔のまま指示を出し、玲奈を個室へ移すよう手配した。

 そして、玲奈の枕元に静かに立ち、こう言った。


「これから少しの間、君の心臓の音を聴かせてもらう。生きたがっている音か、死にたがっている音か――判断してやる」


 玲奈はほんのわずかに笑って、呟いた。


「……それ、ドキドキしてるってことじゃ、だめですか……」


佐々木玲奈が個室に移されてから二日が経った。心電図モニターは常時装着され、記録は夜勤明けの医師たちのちょっとした話題になっていた。


「氷川先生が部屋に入ると、心拍が上がるんですよ。190とか」


「逆に他の医師だと70台で安定。先生の顔面、もしかして毒なんじゃ……」


 笑い混じりのナースたちの会話を背に、氷川はそのモニター記録に目を通していた。


「バカバカしい……と思いたいが、反応は本物だな」


 彼女は特に病歴もなく、甲状腺異常もなし。心電図にも不整脈の波形は見られず、器質的な異常はない。

 それなのに氷川が部屋に入ると、まるで心臓が告白するかのように波形が跳ね上がる。


 午後の回診。氷川が病室に入ると、玲奈はスケッチブックを抱えてベッドに座っていた。

 彼女は顔を上げるなり、耳まで真っ赤に染めて言った。


「先生……来る前に呼吸止めてたんですけど、効果なかったみたいです……」


「呼吸を止める意味がわからない。酸素飽和度が下がる。やめなさい」


「ですよねぇ……ふふ、先生って本当に優しくないなぁ」


 氷川は無言のまま、脈拍と血圧を測定する。心拍はすでに180。モニターが緊急設定の閾値を越えて、ピッと音を鳴らした。


「こんなに好きになると、死にそうになるのって……変ですよね」


「くだらない。生き物として不自然だ。だが、症状は現実だ」


 玲奈はスケッチブックを抱きしめるようにして、少しだけ俯いた。


「高校のときも、大学でも……“好きかも”って思うと、決まって倒れたり、過呼吸になったりして。

 だから、もう“好きになる”ってことを、やめようって思ってたんです」


 淡々とした口調だったが、その声音の奥には、何度も繰り返された失敗と後悔が隠れていた。

 氷川はカルテにメモを取りながら、ぽつりとつぶやく。


「これは恋愛恐怖症の一種かもしれないな。条件反射的に、心拍や自律神経に異常が出る。

 だが……君の場合、“相手によって発作が出る”というのは妙だ」


 玲奈は少しだけ首を傾げて、そっと言った。


「……じゃあ、先生が嫌いだったら、治りますかね?」


 氷川はペンを止めた。


「理屈で言えば、そうなる。だが感情は条件付けではなく、選択の問題だ。君が誰を好きになるかは、自由意志だ。

 そして、それを怖がるのは生理的な保険だが、過剰反応ならば……治療の対象になる」


「……病気なんですね、私」


 玲奈の声が、少しだけ震えた。


「治療するかどうかは、本人が選ぶことだ。症状は“好きな相手”がいなければ消える。

 だが、消したいほどの恋かどうかは、君自身が決める」


 その言葉に、玲奈はゆっくりと目を閉じた。


 そして――ぽつりと、小さな声で言った。


「……治したくないかもしれないです、先生のこと、好きでいるなら」


病室の窓から差し込む朝日が、佐々木玲奈の頬を淡く照らしていた。

 彼女はスケッチブックを膝に抱え、じっと鉛筆の先を見つめていた。


「先生の顔を描いてるんです。毎日少しずつ。」


 小さな声で告げる玲奈の瞳は、どこか遠くを見つめている。

 そんな彼女の様子を見つめながら、氷川颯真は手元のカルテに目を落とした。


「好きな相手の顔を見ると動悸が激しくなるのか?」


 玲奈は小さく頷いた。


「そうなんです。でも、見ないようにしようと思って、鏡に映った自分の顔もなるべく見ないようにしています」


「……それは逆効果だろう」


 氷川の声は無機質だが、どこか優しさが滲んでいた。


「感情は理屈じゃない。忘れようとしても、無意識は拒まない。

 お前の体が反応しているのは、本物の“好き”だ」


 玲奈はうつむき、鉛筆を握る手に力が入った。


「好きになることが、こんなに怖いなんて思わなかった。

 でも、先生に会うのはやめられないんです。体はつらいけど、心は満たされる気がして」


 氷川は静かに息を吐いた。


「君が過去に好きになった人は誰だ?」


 玲奈はためらいながらも答えた。


「高校の時の彼と、大学のゼミの先輩。でも、どちらも恋が始まる前に体調が悪くなって、結局終わってしまったんです」


「その時に、何か特別なことがあったか?」


「うーん……先輩の香水の匂いが、急に怖くなったことはあります。あと、彼が泣いている夢も見ました」


 氷川の眉がわずかに寄る。


「夢か……嫌な記憶が、無意識に影響しているのかもしれないな」


 その時、ナースステーションから看護師・沢渡里美が静かに入ってきた。


「玲奈さん、今日から少しずつ“先生のことを見ていく”練習を始めましょう」


 玲奈は驚いた顔をした。


「そんな練習、あるんですか?」


「ええ、感情的な過敏症に対しては“段階的暴露療法”っていうのがあるんです。

 初めは遠くから、次に少しずつ近づいて、最後はちゃんと見つめる。怖くても、体に慣れさせるの」


 玲奈は小さく笑って、言った。


「それ、できるかな……でも、やってみます」


 氷川は少しだけ微笑んだ。


「くだらない恋に、少しだけ真面目に向き合ってみるか」


夜の病棟は静寂に包まれていた。

 佐々木玲奈は窓際のベッドで、ぬくもりを帯びた夜風を感じながら呟いた。


「好きな気持ちって、治らないんですか?」


 氷川颯真はカルテを閉じて、彼女の方を見た。

 普段のクールな表情とは違い、少しだけ柔らかさがあった。


「病気は治せるが、感情は治すものじゃない。管理するものだ。

 だが、その管理は本人の意思がなければできない。だから、好きという感情が“治る”かどうかは分からない」


 玲奈は目を潤ませ、唇を震わせた。


「好きだから、苦しいのにやめられない。治したいけど、治したくないのかもしれないです」


 氷川は静かに頷きながら言葉を続けた。


「それが人間だ。感情に翻弄される生き物だ。くだらないけど、逃れられない。だから医者は、君の心臓の代弁者にならなければいけない」


 玲奈はそっと微笑んだ。


「先生の言葉、怖いけど、なんだか救われます」


 その時、看護師の沢渡里美が入ってきた。彼女は優しく微笑みながら、玲奈の肩に手を置いた。


「玲奈さん、今日は特別に新しい香りのアロマを用意しました。リラックスしてね」


 玲奈は不思議そうに首をかしげた。


「でも、その匂い……ちょっと怖いんです」


 沢渡は優しい声で答えた。


「大丈夫よ。好きな人が近くにいる時は、少しだけ勇気がいるけど、それも治るから」


 氷川はそのやりとりを冷静に見つめながら、心の奥で何かがざわついているのを感じていた。


日が傾き始めた病棟の一室で、佐々木玲奈はベッドに座りながら小さな声で言った。


「先生、私、毎日少しずつ、先生に触れる練習をしています。」


 氷川颯真は聴診器を肩にかけ、真剣な表情で彼女を見つめる。


「具体的には?」


「脈を測ってもらったり、聴診器を当てられたり。怖いけど、少しずつ慣れてきました。」


 その言葉に、氷川はわずかに頷いた。


「それでいい。恐怖は慣れで減るものだ。」


 その時、看護師の沢渡里美が優しい笑みを浮かべながら部屋に入ってきた。


「玲奈さん、いつも頑張っているわね。私も応援しているわ。」


 玲奈は照れくさそうに微笑み返した。


「ありがとうございます、沢渡さん。」


 氷川は二人のやりとりを見つめながら、心の奥に微かな違和感を覚えていた。


 その日の夕方、玲奈はスケッチブックを取り出し、ページをめくった。


 一枚一枚に、氷川の姿が描かれている。


「この人を描くたびに、好きが溢れて困るんです。」


 玲奈の声は甘く、でも切なさに満ちていた。


退院の日、病室はいつもよりも静かで、けれど温かな空気が漂っていた。

 佐々木玲奈は手にしたスケッチブックを大切そうに抱えて、氷川颯真の前に立った。


「先生、これ……」


 ページをめくると、表紙には彼女が描いた笑顔の氷川の肖像があった。

 そのタイトルは、まるで二人の鼓動を映し出すかのように「鼓動の記録」と書かれている。


「毎日、あなたのことを描きながら、自分の心も見つめ直しました。

 好きになるのは怖いけど、やっぱり好きでいたいです。」


 氷川は少しだけ笑みを浮かべて、背を向けた。


「くだらない病気だ。でも、それが人間というものだ。

 君がそのまま生きていけるなら、僕も医者でいる意味がある。」


 振り返りざまに、静かに告げる。


「また、再発したら来ればいい。

 その時は……ちゃんと僕が聴診器を当ててやるよ。

 君の、“くだらない”恋の音を。」


 玲奈は照れくさそうに笑い、頷いた。


 二人の距離はまだ遠いけれど、心の鼓動は確かに重なっていた。

よかったら、ブクマとポイントをお願いします。

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