第22話 侯爵令息は己を顧みた
「マスター、マスター。オケオケですん? しっかりしてぇ……っ」
「う、るさ……」
アシュレイは体内からどんどん溢れてくる魔力を宥めながら、必死に人のいないところへと向かっていた。
魔力増強剤だと言われて渡されたものを飲んだら、確かに身体の奥底から沸き上がるような魔力を感じて、直後は竜に打撃を与えるほどの魔術が使えた。
ただ、どんどん溢れる魔力の制御ができない。
ひどく喉が渇く。
(なぜだ、ただの魔力増強剤じゃなかったのかっ?)
欲しい。欲しい。頭の中で誰かが囁く。
自分の中から魔力が流れ出ていくぶん、それを補うための『魔力』が欲しい。
「……ょく、魔力が……」
無意識に口にして、そのまま理性を手放しそうになったところでアシュレイは自我を取り戻した。
(このままだとまずい……)
何がまずいのか具体的なことは何もわかっていないけれど、己の勘がそう告げている。だから人のいないところへ逃げてきたのだ。
あのままグラウンドにいたら、魔力を求めて誰かを襲っていたかもしれないという恐怖が頭の片隅にある。
(……りょく、魔力が、ほし……――っじゃない! 違う、そうじゃない。とにかく魔力を制御しなければ)
魔力は無限ではない。枯渇すれば命に関わる。
そのとき、甘い香りが鼻を掠めて、アシュレイは顔を上げた。
視線の先に見知らぬ人物が立っている。全身を覆い隠すローブを羽織っているので、男か女かもわからない。
ただ、男であれば随分小柄な人物だろうと体格から推測する。
――いや、男だろうが女だろうが、関係ない。この甘い香り……おいしそうだ。
(……っ!?)
たった今し方自分の思ったことに、アシュレイの理性が混乱する。
人を『おいしそう』などと、自分はなんてことを考えるのだ。自分で自分の思考に恐怖する。
けれど、その人物から漂ってくる甘い香りが鼻腔を突き抜けるたび、理性を失いそうになる。
「そこの姉ちゃん、ヘルプですん! マスターの様子がおかしいんす! ルックバッドですん!」
肩に乗っているトカゲが叫ぶ。やめろ、と力なく制止する。
けれどトカゲは必死になって助けを求め続け、体格に合わない大粒の雫をボロボロと零している。
その悲愴な声に、涙に、疑問と心に沁み込むものを感じる。
家族に見放され、身内に貶され、祖国の社交界では嘲笑される自分を、ここまで必死に心配してくれたものはいなかった。
使い魔といえども、使い魔にだって感情はある。皆が皆、主人に忠実とは限らない。
ましてやアシュレイは、この使い魔に酷い言葉を浴びせた。
それなのに、この使い魔はアシュレイを思って涙を流してくれる。
あの魔力増強剤だって、この使い魔は嫌な感じがすると言って飲むのを止めたのだ。あのときその心配を聞き入れていれば、今こんなことにはなっていなかった。
(私は、馬鹿か)
認められたい。足手まといになりたくない。
そんな身勝手な感情を優先して、本当に自分を思ってくれるものの声を聞かなかった。
振り向いて。こっちを見て。私はここにいる。
何度もそう願って家族に縋りついたくせに、自分を突き放した家族と同じことを、己の使い魔にしてしまった。
自分がされて酷く傷ついたというのに、同じように彼を傷つけてしまった。
「お願いですん! マスっ、マスターを、たずげてぐれっずぅ……!」
「も、いい」
「マズダぁ」
「泣くな。自業、自得だ。卑怯な手に頼った。おまえの忠告を無視した。これは、罰だ」
「あっし気にしてないっす。マスターと友だち、これからハピハピライフしたいんやで……!」
「は、なんだそれは」
相変わらず意味がわからなくて小さく吹き出す。
「あなたも、逃げろ。身体がおかしいんだ。このままだと、あなたを襲ってしまう」
ローブを羽織った人物はしかし、動こうとはしない。
そろそろ本気で理性が焼き切れそうだ。
「頼む……! どこかへ行ってくれ! でないと――っ」
そう言っておきながら、アシュレイは無意識に呪文を唱えていた。
気づいたときには己の手から翼竜に放ったものと同じ威力の炎が噴きだしていた。
「あ、ああ……っ」
炎に呑み込まれてしまった相手を、絶望の目で見つめる。
人を傷つけるために魔術を学んでいるのではないのに、なぜ自分は真逆のことをしているのだろう。
なぜこんなにも、目の前の人物の魔力がほしくて仕方ないのだろう。
「――大丈夫よ」
そのとき、殺してしまったと思った相手の声が、凜と響いた。
耳に心地好い高さの声。女性の声だった。
その声のとおり、アシュレイの放った炎が見る見るうちに消えていく。消火されたわけではない。魔術によって相殺されたわけでもない。
ただ、消えた。まるで炎だけ別のどこかへ移動してしまったみたいに。
視界が晴れる。彼女は先ほどと変わらず、そこに佇んでいた。
「わたしは殺されない。心配しなくて、大丈夫」
どうしてだろう。あんな威力のある魔術をものともしない魔術師の知り合いなんていないはずなのに、その声に聞き覚えがあるような気がした。
(いや待て。それより今、詠唱したか?)
魔術を行使するには必須の呪文が、全く聞こえてこなかった。
そんなはずはないのに。
魔術師が呪文を唱えずに魔術を行使することは不可能だ。
そもそも、なぜ彼女は正体を隠すように顔を隠しているのか。
気を抜けば理性を失いそうななか、なんとか懸命に意識を保っているせいか、思考がまとまらない。
「でも、困ったわ」
そう言って、彼女がローブで隠している顔を傾ける。
「助けたいけど、その状態をどうすればいいのか……」
「――なら、代わりに俺が助けてやろうか。アシュレイ・ディ・ロヴェーレ」
ローブの彼女が振り返る。
彼女の後ろから、アシュレイもよく知るこの学園のファーリスの一人、セルジュ・ナイトレイが現れた。
生徒はみんな魔術練習場に避難していると思っていたのに、なぜこんなところにいるのだろう。
セルジュの登場は彼女も予想外だったようで、動揺が伝わってきた。
二人の驚く視線を気にする様子もなく、彼が不敵な笑みを浮かべる。
「本当は放っておいてもよかったんだが、あとでそれがバレると俺が嫌われそうだからな。特別に助けてやる」
「ホントですん!? マスター助かるん!? サンキューベリマッチョやで兄ちゃん!」
「はは、愉快な使い魔だな」
まあ、とセルジュが続けて。
「これに懲りたら、使い魔は大切にしてやれよ。互いの力を最大限に引き上げるのが使い魔だ。――こんなふうにな」
その瞬間、セルジュがローブの彼女の唇を奪った。