第21話 対竜戦
アシュレイは翼竜の足に掴まれながら、とにかく大人しく、気配を消すようにじっとしていた。
翼竜に捕まった直後はそのまま喰われそうになったが、そのときアシュレイを守るために使い魔が吐いた炎がお気に召さなかったのか、ぺっぺと唾液を吐き出すように咳き込むといったん諦めたようだった。
けれど放さないということは、翼竜はまだアシュレイを喰おうとしているのだろう。
最初は抵抗もしたけれど、よくよく気づくと翼竜が飛んでいる状態で暴れて放されでもしたら、自分は間違いなく落下の衝撃で即死する。風属性の魔術はかじっていないのだ。
たとえかじっていたとしても、竜の前で何ができるだろう。
竜は災害だ。天災である。
人類の生み出した魔術では、魔法のように浮遊することはなかなかに難しい。
七賢者でさえ、空を飛べる者は数人しかいないという。
さらに飛びながら攻撃魔術を使える者となると、一人しかいないらしい。
魔術の同時発動自体が高難度なのに、安定的に自由に『飛ぶ』には逐一自分の座標を確認し、風の抵抗を計算し、修正しなければならない。
そんなことをしながら他の魔術を詠唱するなんて芸当は、もはや神技の域である。
しかも飛んでいる間、魔力は常に消費される。
(先生方も、私のせいで思うように攻撃できないのだろう)
初めこそパニックに陥っていたアシュレイだが、今はそこまで考えられるくらいの冷静さは取り戻した。
なぜ自分が翼竜の標的になったのかはいくら考えてもわからなかったが、眼下では翼竜の羽ばたきによる風圧で次々と教師たちが吹き飛ばされているのが見える。
(考えろ。この状況を打破するために。足手まといにはなりたくないんだ。ここでもお荷物などと、思われたくない……!)
そのとき、アシュレイの脳裏に閃きが宿った。
制服のズボンのポケットには、いつもお守りのように持ち歩いている物がある。
弟が餞別だと言って渡してきたこれは、弟曰く、魔力増強剤らしい。
布越しにそれに触れると、ごくりと喉を鳴らした。
(己の力ではない物を、使うつもりはなかったが)
今はそうも言っていられないのでは、と逡巡する。
魔力増強剤なんてものがこの世に存在しているなんて知らなかったので、弟からそれをもらったときは驚いた。
ある意味反則技だ。己の力量以上の力を引き出せる薬なんて。
そういう卑怯な手段を嫌うアシュレイはお守り以上の意味を持たせることはしないと、そう決めていた。
けれど――。
(私のプライドも意地も、今は、捨てろっ)
不安定な態勢からポケットの中身を取り出そうと身を捩る。
翼竜は地上から放たれる教師たちの魔術を躱そうとしたり、逆に攻撃しようとしたりして予測不可能な動きをするため、思うようにいかない。
しかしようやく目的の小瓶を掴み、取り出した。
「マスター、それはマスントです!」
小瓶の中の液体を飲み干そうとしたとき、使い魔のトカゲが肩から制止の声を上げる。
「うるさいっ。これしか方法はないんだ! 私のせいで迷惑をかけるわけにはいかないだろう!?」
「で、でもマスタぁー、それ、なんだか嫌な感じがしてベリベリバッドですん」
「はあっ?」
この使い魔は独特の話し方をするものだからふざけているようにしか聞こえない。
トカゲなんかの言うことなど聞いていられるかと、アシュレイは小瓶の中身を飲み干した。
刹那――心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
(な、んだっ? 急に、身体が……)
ドクン、ドクン。いつもは意識しない鼓動が、耳の奥にまで響いている。
身体中の体液が急に沸騰したように全身が熱くなってきた。灼熱の炎がぐるぐると体内を暴れているような感覚を覚える。
熱い。熱い。苦しい。
だめだ。無理だ。これ以上は留めおけない。
溢れる――魔力が!
「ぅあっ、あ、あ、あああああっ!」
*
翼竜をうまくグラウンドへ誘導した教師たちは、その足に掴まれている生徒に気づいてからは思うように攻撃できずにいた。
万が一にも魔術が当たり、生徒を死なせてしまうのはさすがにまずい。
いくらこのイギアがどの国にも属さない中立都市とはいえ、死なせた生徒が王侯貴族だと国際問題に発展しかねないからだ。
実際、過去の魔物の襲撃で死なせてしまった生徒の親が発端となり、危うく戦争になりかけたこともある。
そのときのことを思い出し、七賢者であり学園の守護関係を担っているミレイルは苦虫を噛み潰したような顔をした。
(ありゃあアシュレイ・ディ・ロヴェーレじゃないか。西の侯爵令息……うっわめんどくさ)
西のガーネ王国は、魔術よりも科学を重んじる傾向にある。
そのため、他の三国に比べて魔術留学生としてやって来る生徒が多い国だ。
他の三国出身者たちは、わざわざ国を出てまで魔術を学ばなくても自国で学ぶこともできる。それでもクローディア学園に入学する者たちは皆、将来魔術師になろうとしている者たちばかりだった。
一方で、西出身の者たちは、自国では魔術の勉強が十分にできないためにクローディア学園に留学してくる。
よって他の三国出身者たちとは魔術に対する熱意に温度差があることも多く、たまに生徒同士で喧嘩をしているのを見ることもあった。
そんな西の上級貴族を死なせてしまったら、どうなるか。想像に難くない。
(まあた「だから魔術は危険なんだ」とか「子どもを死なせる悪魔の学校だ」とか悪口言われんだろうなぁ)
悪口だけで収まるならマシだが……とミレイルはボサボサの頭を掻いた。
「おい、救援はまだか!?」
翼竜の対応に当たっている教師の一人が叫ぶ。
「ギルドに要請してますがまだです! 今は西の国境沿いに出た竜の討伐で人がいないんだと思います!」
「ミレイル様! 協会はどうですか!?」
「ん~」
ミレイルは内心で「無理だろうな」とため息を吐いた。
おそらくこの翼竜は西の国境沿いに出た竜の一頭だろう。翼竜は基本的に群れで行動する。一頭だけなんておかしいと思っていたが、国境沿いの戦いから逃れてきたか、はぐれたか、そのどちらかだろうと当たりをつけている。
竜の討伐隊には、七賢者の一人『憤怒の魔術師』が当たっているはずだ。
とにかく血気盛んで戦闘狂のあの男が取り逃がしたのなら、国境の戦線はかなり苦戦していると見ていい。
おそらくギルドも協会も、そちらの対応に追われていることだろう。
(となると、あたししかいないんだよ最悪だ)
絶望に肩を落とす。自慢ではないけれど、ミレイルは後方支援タイプなのだ。前衛として戦う場合の力量は、おそらく中級魔術師と変わらない。
「やばくない? 終わってない?」
そう呟きながら、ミレイルは竜の攻撃を先ほどからずっと結界で防いでいた。
文句を垂れつつも学園全体に結界を張って被害を出していない状況はさすがだと褒めてほしい。いったい今日だけでどれだけ働いていると思っているのか。
残業とか勘弁してほしいんだけど……と思いつつも、これは本格的にそんなことを言っている場合ではないぞと額から汗を一筋垂らす。
空を飛べない人類にとって、空を飛ぶ竜は本当に厄介なのだ。
それに加えて今は生徒という人質が竜の足に囚われており、教師たちは為す術もない。
このまま持久戦に持ち込むにしても、西の国境沿いの討伐が終わらないとこちらの助けなど来ないだろう。対竜戦の場合、ある程度以上力量のある者しかそもそも戦いの場には行かせないという不文律もある。
はたして応援が来るまで自分の魔力が保つか。ミレイルはそれを気にしていた。
この膠着状態をどうすべきかと誰もが頭を抱えていたとき、竜に囚われていたアシュレイから悲鳴が落ちてきた。
「ぅあっ、あ、あ、あああああっ!」
いったい空で何があったのか。アシュレイの魔力が急激に増幅しているのを感じとる。
まさか自棄でも起こしたのかと思って、ミレイルは奥歯をギリッと鳴らした。
魔物にとって魔力は好物だ。その性質は当然竜にも当てはまる。
(馬鹿かあいつは! あんな魔力を垂れ流して、喰ってくれと言っているようなものだぞ!)
翼竜が喜々として飲み込もうとした瞬間、アシュレイが繰り出したらしい炎の渦が竜の頭を直撃する。
その威力は、まだ初級魔術師の資格すら取っていないひよっこのものとは思えないほどの強さだった。
痛みに翼竜がもがいた拍子に、アシュレイの身体が宙に放り投げられた。
「まずいまずいまずい! 受け止めろ、風の魔術師!」
ミレイルは叫ぶが、魔術師が咄嗟のことに弱いのは自分もそうなので十分知っている。
なぜなら魔術の行使には詠唱が必要だからである。
風属性の魔術を使える教師が必死に呪文を唱えているが、間に合うか微妙なところだ。なにせアシュレイは放り投げられたのだ。ただ放されたのではなく、勢いよく飛ばされた。
(だめだ、間に合わん!)
皆がそう諦めたとき、突然空に銀色の魔術式が浮かび上がった。
――いや、違う。
普段は仕事をサボるミレイルだが、腐っても七賢者。魔術式を読み解くのはお手の物である。
けれど、そこに浮かび上がった文字はリーン文字ではなかった。
魔術式のように見えて、似て非なるもの。
まるでいつかに見た、かつての魔法使いたちが使っていたという、魔法陣のような。
(まさか……いや、そんなまさか。いったいなんだ、あれは)
すると、そこを通過しようとしたアシュレイの身体が、まるで穴にでも落ちたようにその中に消えた。
「はっ? え、ど、どこに……」
そのとき、すぐ近くで魔力の気配がして振り向けば、先ほど宙に描かれた銀色の魔法陣と同じものがミレイルの膝の高さくらいのところに出現する。
今度はそこから吐き出されるようにして、消えたはずのアシュレイが現れた。
彼は口から涎を垂らして、苦しそうに呻いている。
いったい何が起きているのか、ミレイルは状況についていけなかった。
ただそれは、他の教師たちも同じである。
(誰だ、応援者か? だが、あんな魔術式なのかなんなのかよくわからんもの、見たことがない。いったい誰だ、どこにいる!?)
敵でないことを祈りつつミレイルは周囲を見回すが、どこにも怪しい者などいない。
神経を集中させて魔力の気配を辿ると、かなり巧妙に隠してはいるようだが、学園を象徴する時計塔から不思議な魔力を感知した。
(あそこか!)
ただ場所がわかったからといって、この場を離れることはできない。
人質になっていた生徒を取り戻したことで、教師たちの反撃が始まった。
が、やはり天高く飛翔する翼竜には届かない。
翼竜はなぜかまだアシュレイを狙っているようで、大きく獰猛な目を彼から離さない。
翼竜が翼を一振りする。それはまるで競走の『用意』のようで、ミレイルは直感的に「来る」と身構えた。
――が、空に再び、銀色の魔法陣が浮かび上がる。
先ほどとは比べものにならない大きさだ。
その周辺だけ空は不穏に曇り、ひれ伏したくなるような威圧感がそこから漏れ出てくる。
もはや地上にいるミレイルたちはただただ呆然と事の成り行きを見守ることしかできなかった。
すると魔法陣の中から、巨大な〝腕〟が現れた。
誰の腕かも、なんの腕かもわからない。
とにかくその大きさに圧倒される。あれほど厄介で恐ろしかった翼竜が、まるでおもちゃのように感じられるほど大きな腕だった。
腕の先についている手は、人間のそれと同じ形をしている。
その手が、本当に翼竜をおもちゃを掴むみたいにガシッと捕らえた。
翼竜が手の中で暴れている。それをものともしない巨大な腕は、そのまま魔法陣の中に引っ込んでいき、翼竜と共に消えてしまった。
やがて何事もなかったように空は晴れ渡り、銀色の魔法陣もすぅと溶けるように薄くなっていく。
「…………は?」
あまりに一瞬の出来事に、そしてあまりの呆気なさに、この場にいた誰もが呆然と空を見上げたまま動けない。
最初に我に返ったのはミレイルだ。
先ほど不思議な魔力を感知した時計塔へ視線を移す。しかしもうそこからは何も感じられなかった。
(しまった、逃がしたか)
いったい何者だと気になるのは間違いないけれど、ただ、思うのは。
(逃げてくれてよかった。捕まえたら絶対面倒だった)
ミレイル・キャンベル、27歳。
この世でもっとも嫌いなものは『残業』であり、そういう意味で付けられたわけではないはずの『怠惰』の異名を欲しいままにする者。
「ミレイル様! 生徒が……竜に捕まっていた生徒の姿が見えません!」
「はあ!?」
一難去ってまた一難。
勘弁してくれと、ミレイルは力が抜けたようにグラウンドに仰向けで倒れたのだった。