第10話 伝説の蒼竜は唯一と出会う
セルジュ・ナイトレイという名は、人間に『伝説の蒼竜』と呼ばれて恐れられていた竜の、次の生で与えられた名前だった。
本当はナイトレイという名は今だけの偽りの名だが、それを知る者は祖国にいる両親と侍従だけである。
セルジュは生まれたときから前世の記憶があった。
それは長い、永い時を生きる、竜の記憶だ。
今でもたまに夢に見る、たった一人の人間との、絆の物語でもある――。
*
『ねえ、あなたの炎、とっても綺麗ね』
己の命を狙う鬱陶しい魔物を焼き尽くし、昼寝をしているときだった。
せっかくの睡眠を邪魔する声を最初は無視していた。
そもそも、どんなものも焼き尽くす業火の炎と呼ばれる己の炎を綺麗だなんて、ありえない。嘘ならもっとマシな嘘を吐けと思ったものだが、竜を相手に嘘を吐くのも変な話だと思い直し、やはり無視を決め込んだ。
しかしその声の主はしつこく何度も呼びかけてくる。
機嫌を害したゼドは、大きな口からお望みの蒼炎を吐いてやった。
――が、驚いたことに、全てを焼き尽くす己の炎を、彼女はものともしなかった。
『ふあ~! 間近で見るともっとすごいのね! ねえもう一回! もう一回見せて!』
なんだこの人間は、とドン引きしたのは言うまでもない。
自分を恐れるどころか楽しそうに目を輝かせている。疎まれることしかなかったゼドにとって、それは不思議な視線だった。
それからも、クローディアと名乗った彼女はゼドのねぐらにやって来ては蒼炎を見せてほしいとねだってきたり、一人で楽しそうに何かを話していったり、何がそんなに楽しいのかと思うほどいつも笑っていた。
彼女が一瞬でも自分を恐れることがあればねぐらを変えただろうが、そんなことにはならなかった。
『おまえは変わった人間だ。オレと一緒にいて何がそんなに楽しいのか、理解に苦しむ』
『え~、楽しいよ? だってあなた、わたしの話をちゃんと聞いてくれるし、二十回に一回は蒼炎も見せてくれるじゃない? 竜って優しいのね』
『他の竜は知らん』
『……そうね。だからわたしも、他の人間は知らないわ。……わたしね、親を人間に殺されたの。大好きだったのに、人を信じたせいで、裏切られて殺されたの』
それは初めて見る、クローディアの悲しみに染まった顔だった。
『ちょうどその頃かな。時空の精霊王様がね、わたしにこの杖をくれたわ』
彼女がいつも持っていた彼女の身の丈と同じくらいの大きさの杖は、どうやら精霊王の杖だったらしいとこのときに知る。
杖のトップに輝くのはダイヤモンドだろう。竜がどれだけ長命といえども、めったに精霊界から出てこない精霊王とは出会ったことがない。
『わたしたぶん、両親を殺した人間を、殺せると思うの』
『その力なら、まあ殺せるだろうな』
『だよね。だから逃げてきたのよ』
『?』
前後の話が繋がらないような気がして、ゼドは問うようにクローディアへ大きな瞳を向けた。
意外にも彼女は穏やかな表情をしていた。
『あのままあそこにいたら、わたしきっと、殺しちゃう。それほど憎かった。なんなら両親を殺したあの民族を全員、時空魔法で海の底に沈めてしまいそうだったの』
『なぜそうしない。この世界は弱肉強食だ。弱い者が淘汰されるのは自然の摂理だろう』
『あなたがそれを言うの?』
クローディアがくすくすと笑う。
『あなた、わたしがどうしてこんなにしつこくあなたの許に通っているか、本当にわからないのね』
わかるわけがない。竜に人間の心の機微など推し量れるわけがない。種族が違いすぎるのだから。
『わたしが最初にあなたを見たのはね、あなたが木の上のひな鳥を魔物から守っているときだったわ』
『…………』
『びっくりしちゃった。竜ってそんなに優しかったかしらって、何度も自分の目を疑ったわ。でもわたし、実は他の竜にも会ったことがあるから、あなたが特別なんだってすぐに気づいたの』
特別か、と落胆したようにわずかに瞼を伏せる。
特別と言えば聞こえはいいけれど、ゼドは竜の中でも圧倒的に強く、炎を操るくせに赤竜とは異なる見た目で、青竜に似た蒼い鱗を持つくせに青竜の苦手な炎を操るために、どの竜からも嫌われ異端とされてきた。
同族からも、誰からも恐れられ、必要とされない〝はぐれ竜〟。
『わたし、あなたと友だちになりたい』
突然そんなことを言われて、ゼドは伏せていた瞼を今度は限界まで見開いた。
『竜だからじゃないわ。あなただから、わたしはもっとあなたのことを知りたいと思ったし、一緒にいたいなって思ったの。あなたは? わたしのこと、本気で追い払おうとしたのは最初だけよね?』
期待に満ちた水色の瞳が、自分を映している。
端的に言って絆されてしまった。この、湖面のようにきらきらと美しい瞳で自分を見つめる、彼女に。
『……ゼドだ』
『! あなたの名前?』
『ああ。おまえには呼ぶことを許そう。〝友だち〟だからな』
『うん、うん。よろしくね、ゼド!』
こうしてクローディアとの奇妙な関係が始まったが、 存外彼女と過ごす日々は楽しかった。
クローディアは魔法の天才で、一見しっかりしているように見えるけれど実は違うのだと気づいたのは、一緒に過ごすようになって間もなくの頃だ。
よく今まで一人で暮らしてきたものだと感心するほど、不器用で無頓着で純粋だった。
まあ、無頓着だったから料理ができなくても生野菜や木の実を食べて生きてこられたのだろうが、あまりの野生動物っぷりにはゼドが過保護にならざるを得なかったくらいだ。
両親には溺愛されて育ったためか、人間は苦手だと言いつつ根底では嫌いになれないお人好しの彼女は――だから仇も殺せなかったのだろう――、両親が人間に騙されて殺されたというのに、自分も簡単に騙されそうになるから不安が募る。
気づけば、片時も目が離せなくなっていた。
一瞬でも目を離せば死んでしまうのではないかという心配が頭を過り、初めて感じたその感情にゼドは大いに戸惑ったものだ。
しかし、やはり竜と人間という組み合わせは注目を集めるのか、はたまた彼女が大魔法使いであったからか、ふたりの意思など関係なく、ふたりの存在は有名になっていった。
人間はどうやら、多くのしがらみがあるらしい。
たまにクローディアの許にやってくる男は、来るたびに彼女に厄介事を持ち込む。
『あの方の求婚を断りたいのであれば、私の言うことを聞くように。では、今度も期待していますよ、クローディア』
求婚というのが、人間にとって生涯の伴侶を決めるものだということはゼドも知っていた。
まだクローディアと出会う前、長命という退屈な日々を誤魔化すため、人間社会をつぶさに観察していた成果である。
クローディアはこの時代にしては珍しく、伴侶を決める気はないようだった。
『だってわたし、ずっとゼドと一緒にいたいから』――そう言ってはにかんだ彼女に、ゼドはやはり初めて覚える感情に胸を締めつけられ、その感情の正体はいまだに謎のままだ。
とにかく、クローディアが望まぬ結婚をしなくていいように、ゼドも一緒に戦った。
――が、謎のままだった感情の正体を、ゼドはある日突然理解した。
『は? 今、なんと言った、クローディア』
『だからね、このままだとゼドを独りにしちゃうから、そうならないように結婚しようかなって。それならわたしがいなくなっても、わたしの子どもがあなたを独りにはしないわ。ね、妙案でしょう?』
『断る』
思わず低い声で唸ってしまい、クローディアが大きく目を瞠る。
けれど、腹の底から沸々と煮えたぎってくる怒りを、どうにも収めることができなかった。
『で、でもわたし、ゼドを独りにしたくないの。ゼドを独り残して、死にたくない』
『だとしても、オレはおまえ以外など不要だ。おまえの子どもなど要らない。おまえが結婚するくらいなら――』
そこで、唐突に理解した。
これは嫉妬だと。
クローディアが他の男を自身の唯一と定めることに、叫びだしたくなるほどの不愉快さが身のうちを襲った。
ましてやその男との子どもなど、焼き殺してしまうだろう。
なぜ自分は彼女と同じ人間ではないのかと、このとき初めて己の身を恨んだ。
『クローディア。オレはおまえがいい。おまえでなければ意味がない。オレを思ってくれるなら、最期までそばにいてくれ』
『ゼド……。それで、独りになっても?』
『構わん』
すると、少しの間考え込んでいた彼女が、仕方ないなぁとでも言うように、けれどどこか満更でもなさそうに眉尻を下げて笑った。
『わかったわ。その代わり、約束するね。もしわたしが生まれ変わったら、またあなたに会いに行く。必ずあなたを見つけてみせるよ――わたしの親友』