歪んだ月の輪郭
岩山での夜が明け、見渡すかぎりの荒野へと再び足を踏み出す。
光裡が語る、自分もかつて「翼」を求めていたという言葉は、少年の胸に深い共感と疑問を呼び起こす。
痛みを抱えること、立ち止まらずに歩むことは、本当に“生きる”ことと同義なのか。
やがてケルンが口にした「歪む月」という伝承は、不安と希望が入り混じるこの世界を象徴しているかのよう。
月を見誤ったとき、人は自分自身の祈りさえ歪めてしまうのだろうか――。
新たな廃墟が姿を現すなか、母の痕跡を求める旅はさらに険しく、そして謎めいた深みへと誘われていく。
暗い岩穴を後にし、僕たちは再び地上へ戻った。夜明けを迎える空は深い群青色から少しずつ淡く変わり、東の空に薄紅の兆しがのぞく。
光裡は眠りから目覚め、僕の顔を覗き込む。僕が岩穴で見たものを話すと、彼女は悲痛な表情を浮かべた。
「そんな人がいたのね……帰りたい場所を求めながら、力尽きてしまうなんて……」
「……うん。だけど、僕は諦めない。たとえ痛みが伴っても、母さんを見つけたい」
光裡は僕の言葉に小さく頷くと、視線を遠くへと投げる。
「実は私も、かつて“翼”を求めたことがあるの」
不意に切り出された告白に、思わず目を見張る。彼女の背中に見える傷は、過去の名残なのだろうか。
「だけど、私はそれを失った。あるいは生まれつき持っていたのかもしれないけど、もう分からない。ただ確かなのは、私はずっと帰る場所を探しているということだけ……」
言葉にできない胸の痛みを感じながら、僕は光裡に問いかける。
「それでも、君はこうして生きている。どうして?」
光裡は一瞬戸惑ったように見えたが、すぐに力強い瞳で答える。
「痛みを負っても、立ち止まらない。それが、たぶん私にとって唯一の希望だから」
彼女の言葉が胸に響く。痛みを抱えながらも前に進む――それが“生きる”ということなのだろうか。
朝日が昇る頃、岩山を下って再び荒野へ出る。景色は相変わらず殺伐としているが、空は澄み渡り、乾いた冷たい風が吹き抜ける。
ケルンが腕を組んだまま、ぽつりと呟く。
「月はさ、時として歪んで見えるんだ。満ち欠けの形じゃない、もっと根源的な歪みがね。人の祈りや欲望が混じり合うと、月はその姿を変えるって伝承もあるんだよ」
「歪む月……?」
「そう。だから、真実の月に辿り着ける人は少ないのかもしれない。歪んだ月を見てしまうと、いつしか自分の願いも歪んでしまうんだ」
風車が軋む音が、遠くから聞こえるような気がした。ここには風車などないのに、あの音はまるで亡霊のようにどこへでもついてくる。
光裡が苦笑混じりに言う。
「私たちは歪んだ月を目指しているのかしら。それとも、真実の月を?」
誰も答えられない。けれど、その問いが意味するものが僕の胸をぎゅっと締めつける。
もし母さんもまた歪んだ月を見たのだとしたら。僕がそれを追い求めたとき、最後には絶望が待っているのかもしれない。でも、行かずにいられない。
それが人の性――僕は初めてそんな言葉を思い浮かべる。痛みや喪失感に抗いながら、母という存在にすがりたい。自分が何者かを知るために。
「ねえ、あれを見て」
光裡が遠くを指さす。砂煙が立つ向こう側、地平線の近くに何かの建造物らしき影が見えた。廃墟だろうか。あるいは村の残骸か。
確認しに行くため、僕たちは足を速める。太陽の位置が高くなるにつれ、日差しは容赦なく降り注ぐ。喉が渇き、水筒の水を少しだけ口に含む。
近づくと、それはやはり廃墟の町だった。幾つもの家屋が崩れ落ち、壁の一部だけが立ち上がっている。人の気配はない。
その中で一際目立つ大きな建物があった。かつては集会所か城のような役割を果たしていたのかもしれない。入り口には朽ちかけた扉があり、上部には月を象った飾りが崩れずに残っている。
「ここにも月の意匠が……」
僕たちはそれを見上げながら、ゆっくりと内部へ踏み込む。薄暗い空間の奥から、何かしらの声――いや、風の鳴る音だけが虚しく響いた。
歪んだ月か、真実の月か――。
答えのない問いに苛立ちながらも、少年の心は母の存在を頼りに進む術を探している。
光裡の過去を伺わせる背中の傷、ケルンが示唆する“問い”が、どこか背後から少年を押し進めるかのようだ。
どこまでも続く荒涼たる世界の中、刻一刻と太陽が昇って厳しい日差しが容赦なく降り注ぐ。
そこに現れた廃墟の町は、また一つの謎を抱えて少年たちを迎え入れる。
果たして、この地は彼らに何をもたらすのか。探求の旅はまだ続く。