夜闇に浮かぶ白い羽根
荒野の果てにそびえ立つ岩山、その頂に存在する巨大な風車。
そこに縫いつけられた白い羽根は、まるで破れかけの祈りの残滓のようにも見える。
母を追う少年は、過去の記憶に縛られながらも、空を仰ぎ見て問いかける――
「自分は何を捨てれば、どんな痛みを引き受ければ、月に届けるのか」と。
光裡とケルン、それぞれの言葉に込められた思いが、岩山の風とともに少年の胸をかすめていく。
恐怖と希望の狭間で揺れ動く、そのささやかな決意が、次なる一歩を形づくっていく。
翌日、僕たちは大きな岩山の麓に辿り着いた。荒野を覆う土埃とは違い、岩肌はむき出しになっていて、褐色の地層が何層にも重なっている。頂には霧のような靄がかかっており、その向こうからは何やら不思議な光が時折揺らめいている。
「行ってみる?」
ケルンが僕に問いかける。光裡はすでに山道を探り始めている。
高度が上がるにつれ、空気が冷たくなっていく。道というよりは、ただの割れ目や岩の隙間を縫うように登るしかない。何度か滑りそうになり、光裡に手を引かれながら進んだ。
やがて傾斜が緩やかになり、開けた場所へ出る。そこには驚くほど大きな風車があった。かつての文明が残したのか、あるいはこの世界の理に背いてただ存在しているのか。羽根の一部は崩れかけているが、まだかろうじて立っている。
「こんな高いところに……」
僕が呆然としていると、光裡が羽根の一部を指さした。そこには白い何かがこびりついている。
「羽根……? 鳥の巣? それとも……」
近づいてみると、それは人間の手で縫いつけられたように見える。ボロボロの布切れと白い羽根が絡み合い、錆びついた釘や金具で無理やり固定されていた。
胸が早鐘を打つ。これを見た瞬間、母の夢が脳裏をよぎる。針と糸、赤く滲む血。そして羽根――。
「こんなところにも、誰かが月に行こうとしたのかな……」
光裡が呟く。ケルンは羽根の付近をじっと見つめている。
「おそらく……ここで儀式を試みたのかもしれないね。羽根を縫い付ければ空を飛べると思ったのかも。でも、行き着く先は――」
言いかけたケルンの声が、風にかき消される。風車の羽根がぎしぎしと音を立て、今にも崩れ落ちそうだ。
高所に立つ風車は、まるでこの世界の墓標のようにも見える。誰もが追い求めた“空”や“月”に届くことなく、朽ち果てていく象徴。
僕はそっと手を伸ばし、その白い羽根に触れようとする。途端に、生々しい感触が蘇った。母の指が針で刺され、血が糸を伝い、羽根を染めたあの記憶。
思わず手を引っ込めてしまう。
「どうしたの?」
光裡が心配そうに聞くが、僕は首を振るだけだった。怖い。その正体は、自分の中にある罪悪感や痛みかもしれない。母は僕のために苦しみを負ったのではないか。僕はそれに報いる行動をしているのか――。
視界がゆらぐ。急に息が詰まりそうになる。
「……ちょっと、外の空気を吸う」
そう言って、風車から少し離れた崖際に立つ。下を覗き込むと、そこには広大な荒野が広がっている。地平線がうっすら霞み、どこまでも続く空と大地の境界線が見える。
母はこの空を見上げて、月を願ったのだろう。僕がここから飛び立てるとしたら、どんな翼が必要なのか。
「母さん……僕は、なにを失えばいい?」
誰にともなく呟いた声が、虚空に吸い込まれる。
ふと、背後でケルンが静かに言う。
「失うことばかりじゃないかもしれないよ。何かを得るために痛みが伴うのは確かだけど、その先には君自身の“変容”がある。お母さんもきっと、それを信じたんじゃないかな」
変容――。そう、成長は痛みを伴うと光裡も言っていた。僕は恐れながらも、その痛みに向き合う覚悟を持てるだろうか。
空に目を向けると、夕闇の帳が降り始めていた。風車が黒い影となり、羽根の縁に絡まる布と白い羽根が、かすかな光を受けて微かに輝いている。
「僕はもう少しここにいるよ。少しだけ、考えたいことがあるんだ」
光裡とケルンは黙って頷く。岩山の上は風が強い。だが、その風の音が胸のざわめきを少しだけ和らげてくれる気がした。
高所に立つ風車が、彼らの行く末を見守るかのように軋む音を立てています。
白い羽根を前に立ちすくむ少年は、母の犠牲を想い、その痛みをどう受け継ぐのかに思い悩む。
けれど、失うことの中にこそ得られるものがあると、ケルンは諭し、光裡もまたそっと寄り添う。
夕闇が迫る中、風と沈む光が混ざり合って、少年の胸に新たな問いを投げかけるでしょう。
それは、彼自身の変容を示す合図でもあるのかもしれません。