荒野を照らす風
果てしなく続く荒野に風が吹き渡り、そこかしこに朽ちた建物が点在している。
希望の名残か、それとも絶望の残渣か――。
母が残した“羽根”と“代償”という言葉が、少年の胸に重くのしかかる。
世界をさまよう光裡の冷静な瞳と、ケルンの飄々とした問いかけが、月へと続く道の存在をわずかに匂わせるが、それは同時に誰かが犠牲を払うことを意味するのかもしれない。
回るはずのない風が、少年と二人(?)の足を促し、廃墟の塔で見つけた紙片が静かにその先を指し示す――彼らが探しているのは母の痕跡か、それとも自分自身の宿命か。
風車のある荒れ地を離れると、景色はさらに荒涼としていく。草もまばらな地面は、どこまでも茶色く乾いてひび割れている。ときおり突風が砂を舞い上げ、視界を奪う。
光裡は慣れた足取りで進んでいく。これまでにも何度か、この道を通ってきたのだろうか。ケルンはぴょんぴょんと跳ねるように歩く。浮いているようにも見えるが、よく分からない。
「ねえ、あなたたちはどこへ向かうの?」
僕はふと、思い立ったように尋ねる。
「さあね。どこかに行くというより、ここにはいられない、という感覚かもしれない」
ケルンが笑いながら言う。その言葉が胸に引っかかる。
「君はどう思う? 本当はずっと風車のそばで、母を待っていたいんじゃないの?」
「……そうかもしれない。でも、母さんが本当にいる場所を探しに行きたい。待つだけじゃ、いつまでたっても会えない気がするんだ」
光裡が振り返り、少しだけ微笑む。
「あなたは強いわ。痛みを抱えて、それでも進もうとするのね」
言われている意味が、まだ実感としては遠い。けれど、その微笑みは不思議と僕の心を軽くするようだった。
そのとき、遠くにぽつんと塔のような建物が見えてきた。崩れかけた石造りらしく、風化した壁面が白く光っている。
「行ってみましょう」
ヒロインが短く声を掛けると、僕たちはそこへ向かう。ほとんど廃墟に近いその塔の扉は半分朽ちていて、手で押せばガラリと開くほどだった。
中へ入ると、壁には古びた壁画のようなものが見えた。月を描いた円形、そして何本もの線がそこから地上へ伸びている。人の手なのか樹木なのか区別がつかないが、上へ伸びる形が印象的だ。
「これは……月への“祈り”を示した絵なのかな」
ヒロインがそっと手を添える。壁画の下部には人々の姿が描かれ、皆が空に手を伸ばしている。
「母さんも、こんなふうに月に手を伸ばしてたのかな」
呟くと、ケルンがぽつりと言う。
「祈りは誰にでもある。でも、それが報われるかどうかは分からない。報われないからこそ祈るのかもしれないね」
僕は母の後ろ姿を思い出す。血を滲ませながら、羽根を縫い続けた姿。あれは祈りに似た行為だったのだろうか。
奥へ進むと、小さな祭壇があった。すでに朽ち果てていて、真っ白な綿のような塵が積もっている。天井は崩れて、穴から陽光が差し込んでいた。その光の加減で、まるでそこだけが別世界のように柔らかな明るさをたたえている。
光裡が祭壇に手を伸ばすと、ぼろぼろになった紙片がひらりと落ちた。
「何か書いてあるの?」
覗き込むと、そこにはかすれた文字でこう書かれているようだった。
“羽根を得るためには代償を捧げよ。さすれば月へと届く道は開かれん――”
「羽根…?」
思わず背中に手をやる。夢で見た母の行為が鮮やかに蘇る。母は僕の背中に、白い羽根を縫い付けようとしていた。
「代償を捧げる……それが、母さんの犠牲だったの?」
頭の中でいくつもの断片的なイメージが繋がりそうで、まだ曖昧な霧に包まれている。
光裡が紙片をそっと握りしめる。
「月へ行くための儀式があるのね。お母様は、それを試みたのかもしれない」
言葉の裏にあるものを図りかねていると、ケルンが祭壇の前に立つ。
「君は代償を捧げられる? もし母が自らを捧げて月へ行ったのだとしたら、君も何かを失うことで辿り着けるかもしれない。……さあ、どうする?」
一瞬、胸がぎゅっと締めつけられる。何かを捧げる。それは、僕の大切なものを差し出すということだ。だけど、母に会いたいと願うなら……。
「すぐには答えられない」
正直に言うと、光裡は少し安堵したように頷いた。
「焦らなくていい。痛みが伴うとしても、理解なしに踏み出すのは危険だから」
ケルンは肩をすくめる。
「なら、もう少し世界を見て回るといい。母がどういう想いで月を目指したのか、その足跡を追ってごらん」
廃墟の塔を出る頃には、風がいっそう強く吹き荒れていた。塔の上部が崩れ落ちて、白い埃が渦を巻いて空へ散っていく。
風車がない場所でも、風は途切れずに流れている。この世界のどこを吹き渡っているのか分からないが、確かに僕たちを急かしているようだった。
背を押されるように、僕は一歩踏み出す。手に残る母のぬくもりはもう消えてしまったけれど、心の中にはまだ彼女の祈りが残っている。
いつかこの道の果てに、母が手を伸ばした月があるのだろうか。そこに行けば、母が何を守ろうとしていたのか分かるのだろうか。
光裡とケルンの足音が続く。僕もそれに合わせ、崩れかけた道を歩いた。風の響きが、いつか聞いた子守唄に似た旋律を奏でている気がした。
荒野を越え、崩れかけた塔で見つかったのは「羽根を得るためには代償を捧げよ」という残酷なほどに明晰な言葉。
母の痛みを知りたいのか、それとも逃れたいのか、少年の心は揺れる。
光裡の安堵の表情、ケルンのからかうような問いかけ。
だが、どれも少年を引き止めるものにはならない――背にはまだ母のぬくもりが宿り、心には祈りが燃えているから。
荒れた風が続く先にこそ、母が視た月の光があるのだろうか。
一行は迷いを抱えながらも歩みを進める。次に訪れるのは、どんな荒廃と希望が交じりあう場所なのか。彼らの小さな一歩が、物語をさらに深い場所へ導いていく。