母が伸ばした手の先に
痛みを捧げること、犠牲を受け入れること――それは月を目指す者に与えられた試練か。
地下の空間で遭遇した謎の少女が語る言葉は、少年の胸に深く突き刺さり、母の犠牲と重なる思いを呼び起こす。
痛みを恐れずに受け止めることが求められる中で、少年はその覚悟を試される。
だが、果たして誰かの犠牲の上に立つ道が、真実の月に繋がるのか?
光裡とケルンの存在が少年を支え、暗闇の中で明かされる新たな真実に向かって歩み続ける。
少女の放つ奇妙な気配に飲み込まれそうになる中、ケルンが素早く動いた。彼女と僕の間に入り、黒い身体を大きく広げるようにして遮る。
「痛みを受け止めるかどうかは、僕たちが決めることさ」
少女は楽しげに首を傾げる。
「なら、受け止めてみれば? 本当にあなたたちにできるかしら」
その挑発的な声が響くと、空気がびりびりと震え始める。まるで地下空洞が生き物のように蠢き、壁に刻まれた傷や血痕が発光し始めた。
ひどい耳鳴りがする。意識がぼんやりと遠のきそうになるが、僕は歯を食いしばって耐える。
「母さんは、僕を守るために痛みを引き受けてくれた。それなら、僕も――」
少女の瞳がぎらりと光る。周囲の暗闇がうねり、幾筋もの影がこちらに伸びてきた。
光裡が鋭い声を上げる。
「来るわ……!」
彼女は腰に差していた小さな刃物を抜き、影の触手のようなものを切り払う。だが、次々に襲い来る影は勢いを増すばかりだ。
ケルンが何やら呪文めいた言葉を唱え、空間が一瞬だけ弾けるように震えると、その隙に僕は少女の目の前へ突き進む。
「やめろ! 僕たちに何をさせたいんだ!」
少女は表情を変えないまま、唇を淡く開く。
「痛みを捧げるのよ。あなたはそれができるの?」
僕は思わず叫ぶ。
「僕は……できるか分からない。でも、母さんが捧げてくれた痛みを無駄にはしたくないんだ! だから、やめてくれ!」
一瞬、少女の瞳に僅かな揺らめきが走ったように見えた。
そのとき、僕の背中に熱い痛みが走る。まるで針が刺さるような感覚。振り向くと、闇の触手の一部が僕を貫こうとしていた。
けれど、光裡が必死に腕を掴み、影をそぎ落としてくれる。
「痛みを捧げるなんて勝手な言い草ね! そんな形でしか月へ行けないというなら、私は認めない!」
光裡の叫びが空間を振動させ、影が一瞬ひるむ。ケルンも助勢し、黒い衣が翻るたびに影を切り離していく。
少女は相変わらず動かず、ただ静かに笑う。
「痛みは、この世界の通貨みたいなもの。誰かが傷つくことでしか、誰かは救われない。それを否定するなら、あなたたちはどうやって月を開くの?」
突き刺すような問い。僕は立ちすくむ。たしかに、痛みを恐れずに受け止めることが必要だと母さんは教えてくれた気がする。けれど、誰かを犠牲にしてまで、そんなことは望まない。
「母さんは、僕を犠牲にしなかった。自分が犠牲になった。……それが母の愛だったんだ!」
声を張り上げると、少女の瞳が冷たく光る。
「なら、その愛を試してみせてよ。あなたは母に背負わせた痛みを、本当に理解できるの?」
激しい気配の乱れに巻き込まれ、足元の床が砕け、僕と光裡は瓦礫の山に倒れ込むように転がった。暗闇の中で、彼女が覆いかぶさるようにして僕をかばってくれる。
「大丈夫……?」
薄暗いなか、光裡の顔がすぐ近くにあり、彼女の息遣いが感じられるほど近距離だ。彼女の鎖骨や首筋のラインが視界に入る。
「う、うん……ありがとう、助かった」
僕が消え入りそうな声で応えると、光裡はホッとしたように笑みを浮かべ、まるで月下の女神のように見えた。
しかし、状況は余裕のない混乱状態。光裡はすぐさま身体を起こし、「動ける?」と声をかけ、僕を引き起こす。瓦礫の埃が舞い上がり、視界は悪い。
その短い一瞬の触れ合いが、まるで現実感のない甘美な光景として胸に刻まれるが、すぐに強い衝撃音が響いて意識が引き戻される。
(あとでちゃんとお礼を言わなきゃ……)
そう思いながら、僕は彼女の手を握り返し、なんとか立ち上がる。
――やがて僕たちは混乱の中、瓦礫をかいくぐりながら地上へ脱出する。崩れ落ちる建造物を後にし、外へ飛び出すと昼の光が差し込み、少女の姿は闇に呑まれるように消えていった。
濛々と上がる砂煙の中、僕たちは荒野の風に吹かれながらただ見つめるしかなかった。
「一体、あの少女は……」
光裡が息を切らしながら呟く。ケルンは首を振る。
「分からない。ただ、“問いかけ”の象徴かもしれないね。痛みを代償にしなければ月へ行けないという考えを、あの場所で増幅させていたのかも……」
僕は背中に残る痛みを感じつつ、強く拳を握る。母さんは、ああして僕を守ってくれたんだ。誰かが傷つくことを望んでいたわけじゃない。ただ、痛みを引き受けるしかなかったんだ。
その愛を、僕は守り抜きたい。たとえ歪んだ月が僕を拒んでも、僕が母を拒むことはできないのだから。
空を見上げると、月はすでに沈み、昼の光が世界を照らしていた。沈黙の空に、風車の音は聞こえない。ただ、どこかで風が吠え、僕たちを先へ進めと急かしているように感じる。
母の伸ばした手の先には何があるのか。僕はその答えを見つけるまで、決して歩みを止めないと心に誓った。
「痛み」と「犠牲」をテーマに、少年は母の背負った重荷をどう受け止めるのか、その葛藤が続きます。
少女が示す歪んだ月への道と、少年が抱える本当の想い。彼は母の犠牲を無駄にせず、どこまでもその道を歩み続けると誓うのです。
一瞬の甘美な瞬間に見せた光裡の優しさと、混乱の中で交わされた言葉が少年にとってどれだけ大きな力となるのでしょうか。
ただ一つ確かなのは、少年の決意が変わらずに深まり続けているということ。月に向かう旅路は続き、少しずつ明らかになっていく真実が彼らを待ち受けています。