舞台女優アスティは、道ならぬ恋を貫く麗しの夫と離婚して悪役女優になりたい
ちょっとだけボーイズラブ要素ありです
舞台女優アスティは、鏡の前でくすんだ金髪を手櫛で整え、深いため息をついた。
若き国王ソラリウスから、王宮舞踏会への招待状が届いていた。
「もっと明るく染めればよかったわ……」
アスティの地毛は控えめな茶色である。
華やかさを求めて髪を灰汁に浸し、太陽の光にさらして金色に染め上げているが、その方法は髪を酷く傷めてしまう。
髪艶を失うことを恐れて染めが甘くなっているが、すでに今宵の舞踏会まで時間がない。
太陽のように輝く美貌の青年王ソラリウスに仕える麗しい副官セレントが、アスティの夫だ。
月の光を思わせるセレナイトの髪色に、夜空を思わせる瑠璃色の瞳の貴公子である。
名門インウィディア公爵家の次男として、幼くして王位についたソラリウス王に仕え、近衛騎士として名を馳せた彼は、舞台で歌う花形スターのアスティに熱烈な求婚をし、その情熱に絆されたアスティは了承してしまった。
当然、公爵家からは大反対され、彼は家門を追放された。
「手に入れたら、ほったらかしなんて……」
セレントはアスティをエスコートするために帰る気配がない。
新婚だというのに、夫は家にほとんど帰らず、アスティは孤独な日々を送っていた。
今日も彼は王の護衛に従事しているのだろう。アスティは一人、鏡に映る自分の姿を見つめた。
「舞台女優風情が王宮舞踏会に一人でのこのこ現れるなんて、いい笑いものね……でも、国王の招待を断るのは不敬にあたる」
思案の末、アスティは舞台俳優のリックと共に舞踏会に出席することを決意した。
「本当にいいのか? 国王の信任厚い副官の新婚妻がイケメン俳優にエスコートされるなんて……スキャンダラスだな」
茶化すリックに、アスティは嫣然と微笑んだ。
人気俳優のリックは、いつか舞台脚本家になることを夢見ている。
面白そうな経験ができるなら、アスティのどんな無茶なお願いでも断らない。頼もしい昔馴染みである。
「大丈夫よ。もう、別れるから」
「別れる……?」
「だって、夫には好きな人がいるの。隠れ蓑の妻なんて、私は嫌」
目を白黒させるリックに、アスティは懐から紙の束を取り出し、差し出した。
数日前、偶然見つけたその束は、クローゼットの奥に隠されていた。
「『あなたの部屋の灯りが、今、消えましたね。おやすみなさい。眩く輝くあなたに星の加護がありますように』……アスティ、これは一体?」
リックが笑いをこらえながら読み上げる。
セレントがソラリウス王へ送った恋文の端には、「ストーカーはやめろ」という辛辣な返事が添えられていた。
ソラリウス王は、どうやらツンデレのようだ。
セレントがソラリウス王と交わした甘美な言葉の数々は、二人の関係がただならぬものであることを示している。
主従の心を許したやり取りに、アスティの胸は痛んだ。
「恋文はどうでもいいの。問題はこの計画書よ」
「『公爵家脱出計画? 身分の釣り合わない相手と結婚して家門からの追放を目指す。相手は平民の町娘……舞台女優が望ましい……?』」
「最初からセレント様は私を愛するつもりなんて全くなかったのよ。熱烈なプロポーズだって、演技だったの! 私は女優なのに、コロッと騙されたわ」
悔しげに唇を噛みしめるアスティを見て、リックは首を傾げた。
「あのセレント様が浮気をしているのかねぇ……?」
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豪華なシャンデリアの下、貴族たちが美しく着飾り、優雅に踊っている。
王宮に到着したアスティの視線は、自然と中央に立つセレントと若き王ソラリウスに向かった。
太陽のように眩しい黄金の髪を持つソラリウス王と、月のように淡く光る白銀の髪を持つセレント。
二人はまるで対を成すように互いを引き立て合っていた。
周囲の女性たちは、彼らの距離が縮まるたびに熱の籠った溜め息を漏らしていた。
「女官たちの目撃情報によると、ソラリウス王の寝室からセレント様が着衣を乱した状態で出てこられたとか……」
「ということは、陛下が攻めですわね」
眼鏡をかけた令嬢が眼光するどく分析する。
「きゃあああ! わたくしは王宮の壁になりたい!」
「陛下の寝室の天蓋になって……お二人をじっくり観察したいわ」
令嬢たちが扇で口元を隠し、興奮気味に囁き合う。
あの噂が再び広まり始めている──青年王と副官の禁じられた恋の噂は、昔から密やかに囁かれていたが、セレントの熱烈な求婚によって一時的に収束したはずだった。
しかし今、再びその噂は息を吹き返している。
(恋敵が国王陛下じゃ、敵うわけないわね……)
アスティは胸の痛みに耐えきれず、視線を逸らした。
(もしセレント様が女性だったら、ソラリウス陛下と結ばれていたかもしれない。もしくは、ソラリウス陛下が女王だったら、セレント様はきっと王配になっていたでしょうね……)
教会は同性の婚姻を認めていない。
セレントが平民のアスティを妻に選んだ理由も、今では痛いほど理解できる。
公爵家にいれば、身分の釣り合う貴族令嬢との結婚が避けられない。
しかし、身分の低い舞台女優を妻にすることで、セレントは家門から追放され、自由の身となった。
道ならぬ恋を貫けるのだ。
──結局、アスティは偽装結婚の駒に過ぎなかったのだ。
アスティはセレントに背を向け、周囲の視線を意識することなくリックと踊り続けた。
長年同じ舞台に立っているだけあって、二人の息はぴったりだ。
踊りに夢中になるあまり、セレントの瑠璃色の視線が自分の背中に注がれていることにも気づかなかった。
舞踏会が終わる頃、アスティは心に決めていた。この偽りの結婚生活には、もう耐えられない。
自分には己の人生を切り開く力を持っている。
それに……アスティはセレントのことが本当は好きだった──だからこそ、彼の裏切りが許せない。
リックが悪戯を思いついた顔をして、アスティの腰に手を回した。
「……アスティ、俺を選べよ。寂しい思いはさせないぜ」
「うふふ、それもいいわね……リック」
昔馴染みの演技がかった軽口にアスティは微笑み、リックにエスコートされて馬車に乗り込んだ。
車中で二人は、青年王と副官の秘めた恋、それを邪魔する嫉妬深い舞台女優の物語の構想を練った。
女性たちの熱狂的な反応を見るに、この劇はきっと大ヒットする。
現実の関係者である元妻が出演するならば、話題性も抜群だ。
転んでもただでは起きないのが、庶民のド根性だ。
16歳で歌姫としてデビューし、エトワールになってから5年。
アスティはそろそろ主役の座を若手に譲る時期が来ている。
今後は、悪役女優として息の長い脇役人生を歩もうと決意を新たにしていた。
舞台女優アスティは、悪役女優になるのだ。
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その晩、珍しくセレントが家に戻ってきた。
窓から月光が淡く差し込み、彼の白銀の髪を優しく照らしている。
アスティは麗しい夫の姿に見惚れ、一瞬心が揺れたが、すぐに決心を固めた。
「セレント様、話があります」
セレントは眉をひそめ、アスティに目を向けたが、すぐに視線を逸らした。その姿に、彼の心がすでに遠くにあることを感じ取り、アスティは静かに告げた。
「私たち、離婚しましょう」
その言葉に、セレントは驚き、動きを止めた。
月光が彼の顔を淡く照らし、その表情にはこれまで見たことのない切迫感が浮かんでいた。
「嫌だ」
彼の声は低く震え、心の奥底から絞り出すようだった。
その一言に、アスティの胸が締め付けられる。
だがもう、彼女の心は揺るがなかった。
「もう、あなたを愛していません」
本当は違う──まだ彼を愛している。しかし、そんな愛の告白など口にすることはできない。
アスティは真実を知ってしまったのだから。
セレントの瑠璃色の瞳が悲しげに揺れ、光を失っていく。
「俺を捨てないでくれ」
セレントはそっと手を伸ばし、彼女の肩に触れた。
掌の温もりに、アスティは思わず目を閉じた。
月光が二人を照らし、長い影を床に映し出している。
「セレント様、もう終わりにしましょう」
別れの言葉を口にした瞬間、アスティの目から涙が溢れた。
彼の愛が本物だと信じ、求婚に頷いたあの日のことを思い出していた。
舞台の最前列の中央──『かぶりつき席』と呼ばれるそこはいつからか銀髪の男、セレントの特等席になっていた。
瑠璃色の瞳を輝かせ、舞台上のアスティを見つめる彼の姿が、今も瞼に浮かぶ。
だが、その姿は偽りだった。彼女を眩しく見つめていた瞳の輝きはまやかしだったのだ。
セレントは予想外の言葉を口にした。
「……アスティが望むものなら、何でも与えるから……せめてあと、二ヶ月だけ待ってくれ」
セレントの言葉に、アスティは考え込んだ。
そして、二ヶ月の婚姻延長の代わりに、六百万ルベルの慰謝料と財産分与を要求した。
そのお金で彼女は新しい劇団を立ち上げ、新たな道を切り開くつもりだ。
世間様の言うとおり、男を惑わす卑しい蓮っ葉な女優なので、金には目がないのだ。
アスティはリックを邸宅に呼び、新劇団の構想を練る。
世間では「公爵家の令息をたぶらかした舞台女優が俳優と浮気している」という醜聞が広がっていた。
しかし、そんな噂に構っている暇はない。
だが、二ヶ月後、醜聞を掻き消す大ニュースが飛び込んできた。
──名門インウィディア公爵家の不正が暴かれたのだ。
若き王ソラリウスを侮り、他国と密貿易を行い、帳簿を改ざんするなど、公爵家の悪行は尽きなかった。
結果、インウィディア家は爵位を剥奪された。
だが、家門を追放されていたセレントはその不正を暴いた功績が認められ、ソラリウス王から新たな爵位を授かることとなった。
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「アスティ、アスティ……ああ、アスティ……」
彼は背後から抱きしめ、妻の髪の香りを深く吸い込みながら囁く。
その顔には、舞台女優の熱烈な追っかけだった頃の甘い蕩けそうな表情が戻っていた。
「ちょっと、セレント様……困りますわ」
アスティは困惑しながらも、甘い囁きに心のどこかで安堵を感じていた。
実家である公爵家の不正を暴くという大仕事を終えたセレントは、国王から二週間の休暇を与えられた。
彼はその休暇のすべてをアスティとの時間に費やすつもりのようだ。
「俺のエトワール……君のためなら何でもできる」
甘ったるい愛の言葉に微かに微笑んだアスティだったが、次の瞬間、その笑みは冷たくなった。
「……じゃあ、事情を説明してください! この計画書は何なのですか?」
アスティはスカートのポケットから折りたたんだ紙束を取り出し、セレントに突きつけた。
「こっ、これは……」
セレントは慌てて計画書を奪い返そうと手を伸ばすが、アスティはそれをひらりとかわして部屋の外へ駆け出した。
「やっぱり騙していたのね!」
舞台で鍛えた俊敏さで素早く逃げ、階段の手すりを滑り降りて、屋敷から飛び出した。
「アスティ、待ってくれ! これには事情があるんだ!」
セレントはそう叫びながらアスティを追いかける。
アスティは広大な庭園の生垣を軽やかに飛び越えて駆けていく。
しかし、さすが近衛騎士。セレントの方が体力があり、次第に距離は縮まっていく。
ついに彼の手がアスティの腕を捉えた。
「捕まえた!」
「もう……何なのよ!」
アスティは背後から抱きついている夫を振り返って睨みつけた。
しかし彼は、アスティを愛おしげに見つめ、髪にそっとキスを落とす。
「アスティ……もう、俺のこと嫌いになった?」
囁くような小声で尋ね、セレントはアスティを抱きしめる腕に力を込めた。
その腕は少し震えているように感じた。
「毎晩、君の宿舎の前まで行って、窓辺の灯りが消えるまで見つめ続けていたんだ。でも、リアスに『ストーカーはやめろ』って注意されてからは、ちゃんとやめたよ……いや、時々、どうしようもなく心が辛いときは、その……ちらっとだけ見に行ってたけれど……」
リアスはソラリウス王の愛称だ。
青年王ソラリウスの副官として有能と知られるセレントが、しどろもどろに言い訳をする。
アスティは突然の夫のストーカー告白に戸惑った。
「そういえばリックが、宿舎の前にストーカーがいるって言ってたけど、あなたのことだったの!?」
「ごめん! もうしないから、嫌いにならないでくれ!」
セレントはそう言って、アスティの手の甲に口づけた。そして、その手を引いて庭園の中にある東屋へ向かう。
「じゃあ、この計画書は何なの?」
東屋のベンチに腰掛けると、セレントは隣に座ったアスティを抱きしめた。
セレントは計画書を愛おしげに見つめた。
「これは、アスティと結婚するために書いた計画書なんだ……」
「私と結婚するため!?」
「そうだ。俺の家、インウィディア公爵家は国王を裏切り、不正を働いていた。俺はそれを知り、公爵家から逃げ出す手段を探していた。そして、天啓が閃いた」
瑠璃色の瞳をキラキラと輝かせる夫に、アスティは戸惑う。
「一挙両得の計画! 身分違いの結婚で公爵家を追放され家罪から逃れる、そして愛おしいエトワールを我が掌中に収める!」
説明しながら興奮するセレントの様子に、呆れつつも、アスティの胸の中で何かがほどける感覚があった。
「……リアスも手伝ってくれたんだ。俺が君に嫌われないように、色々とアドバイスをしてくれたんだ」
「ソラリウス国王が……?」
アスティは思わず驚き、目を丸くした。敵に塩を送る恋敵などいるのだろうか。
その瞬間、アスティは大いなる勘違いに気づいた。
「セレント様……私、誤解していたのかもしれません。ソラリウス国王とセレント様は道ならぬ恋仲なのだと」
その言葉にセレントは一瞬固まり、次に驚いた顔を見せた。
「何だって!?」
「だって、ソラリウス国王の寝室から着衣が乱れた状態で出てきたって……その、噂ですよ? その様子を目撃したって噂があって……」
夫の表情が険しくなったので、アスティの語尾が萎んでいった。
「あの人使いの荒い冷血王と、俺が恋仲?? 美しい妻がいるのに……??」
はっと思い出したように、セレントがアスティの両肩を掴んだ。
「くそっ! あのときだ……寝所に忍んで来る令嬢がいるからってベッドを交換したんだ。安眠できないから代われという命令にしたがって、酷い目にあった。だが、安心してくれ。貞操は守ったから……」
彼の真摯な言葉に、アスティは思わず吹き出し、セレントも彼女と一緒に笑い出した。
その瞬間、二人の間にあったわだかまりが溶けたのを感じた。
「やり直せるだろうか?」
セレストの声は低く、震えていた。心の奥底から絞り出すようなその一言に、アスティの胸は甘く締めつけられた。
「最初からちゃんと事情を話してくだされば良かったのに……」
そしたら悲しい思いも、とんでもない誤解もしなかったはずだ。
アスティは恨めしく思って夫を見上げた。だが、セレントにとって、愛おしい妻が上目遣いで見つめてくるというのは、ただのご褒美でしかなかった。
「君を巻き込みたくなかったんだ。危険が及ぶかもしれなかったから。でも、結果的に君を傷つけてしまった。本当にすまない」
深く頭を下げるセレントの姿に、アスティの胸のつかえが消えていくのを感じる。
澄んだ空、輝く太陽の下で、二人はお互いを見つめ合った。
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舞台の幕が降りる。
万雷の拍手に、アスティの息も弾んだ。
アスティ新劇場の演目、「舞台女優アスティは、禁断の恋に身を焦がす麗しの夫と離婚して、悪役女優になりたい!!」は、アスティの目論見通り、熱烈な令嬢方の支持を集め、絶賛ロングラン公演中だ。
青年王と副官の禁じられた恋。
そしてそれを邪魔する悪妻の舞台女優。
公爵家の不正も絡まった手に汗を握るラブストーリーに令嬢たちの黄色い声援が飛び大盛況だ。
新進気鋭の脚本家リックと舞台の成功を讃えあっていると、大きな花束をもったセレントがアスティの楽屋を訪ねてきた。
舞台最前列中央の席を連日買い占め、相変わらずアスティの追っかけをしている。
「アスティ、君は眩く輝く星だ。でも、なぜ、誤解されるような舞台を……」
セレントは苦笑しながら彼女に問いかけた。
「あら、ソラリウス国王陛下から、いい女除けになるって許可をいただいたものですから」
アスティは少し意地悪な笑みを浮かべた。愛してやまない女優の微笑に、セレントの表情が緩む。
リックは苦笑いしながら気を利かせて、楽屋を後にした。
「それにね──」
アスティはふっと柔らかな笑顔を浮かべた。
「舞台っていうのは、夢を見せるものよ」
世間にどう映ろうとも、真実は二人だけが知っていればいい。
真実は、二人の中にあればそれでいいのだ。
アスティとセレントは互いに見つめ合い、静かに唇を重ねた。
最後までお読みくださりありがとうございます!
後半が二重になってたのを修正しました。
一瞬だけ出てくる眼鏡の令嬢が好きです。
エトワールをヒロインにした作品でサクッと読める話が描きたかったので、勢いだけで書いてみました。
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