甘くない 甘くない やっぱり甘い
深い深い森の奥。
日差しが遮られる程木々が生い茂り、ひんやりとした空気と静けさは不気味さを与える。
草を踏めば、一歩一歩がその音でさえも良く耳に届き、ついには空耳まで聞こえそう。
怖がりなのに、こんな奥まで進んだ自分を褒めてやりたい。
幼い弟が突発的に熱を出し、薬草を摘みに森へ探しに来たものの、村中で熱が流行っていることもあり、入口付近には全く見つからなかった。
普段は村で小さなパン屋を営む極々普通の村娘の私、シュガー、小麦粉を捏ねる腕だけが武器。
両親がパンの発酵に必要な菌の命の源となる砂糖、シュガーから取った何とも甘ったるい名前の由来の私は、その名の通り喧嘩には常に弱腰で、クレーム客に対しても即座にこっちが悪くも無いけれど何度も何度も謝り、道端に堂々と佇むカラスにさえ怖気付く。物事に一歩踏み込むことが苦手で、詰めが甘い、なんて言われることもしばしば。
恋にだって、詰めることなんて出来ない。
でも、そんな私が今、大切な弟のためにたった一人で不気味な森へと歩けているのだから、革命でも起こしているような気分。
今、幼馴染のイースと一緒だったらなぁ。
不毛な願望。イースは所謂お隣さんで、会えば挨拶ぐらいはするけれど、親同士の方が仲が良いし、もしかすると私の親の方がイースと話すことが多い。ちなみに私が最近彼とした会話は、
「いらっしゃいませ」
「クロワッサン3つ」
「はい、ありがとうございました」
もはや会話とは言えないレベル。
彼は村を守る警備隊の立派な一員で、見た目も、そう、見た目も立派なのです。高身長なのは勿論、筋肉が有りながらもスラッとした体型で脚も長く、大きめの瞳にすっと通った鼻筋、正に絵に描いたような青少年らしい濁りのないブラウンヘアーの短髪。そして極めつけが、大きな瞳が細くなってくしゃっとした可愛らしい笑顔。見てるだけでノックアウト。実際に見てるだけで話したりしないのですが。
村中の女性が放っておくわけがなく、猫撫で声で「イースぅ、困ってるのぉ」とすぐに彼を指名して些細なトラブルも彼頼みにすることなんてしょっちゅう。
そんな多忙で女に不自由の無い彼を、こんなThe村娘な私が呼びつけるなんておこがまし過ぎる。
最後に髪を切りに行ったのはいつだろうか。
お店で儲かったお金で自分だけが得をするようなことでお金を使うのには抵抗があって、髪先が枝割れしながら放置していくばかり。腰まで伸びた髪を三つ編みにして髪が広がるのを隠してはいるものの、パサパサと傷んだ毛先か所々飛び出てしまっている。色も焦げ茶で、正に焦がしてパッサパサになったかの様。
彼の横に並ぶにはもっと綺麗になった方が良いけれど、どうせそんなことは起きっこない。
人生なんて、恋なんて、そんな甘くはないもの。
それにしても
「…………全っっっ然、見つからない」
薬草が。
これだけ勇気を振り絞ったのに薬草が手に入らないとか悲し過ぎる、というよりここまで来たら絶対に手に入れて帰りたい。
私は歩みを止めなかった。森の闇が私を隠そうとしても。
突然、
――――――グゥゥゥウウウゥゥゥ。
唸り声が響いた。絶対にやばいやつ。
陽の光が届かないその場所は辺りに何が潜んでいるのかも目に映すことが出来ず、どこに逃げれば良いかわからないけれど、私は兎にも角にも走り出した。全力で、小麦粉を捏ねることに鍛錬した腕を振りながら。
だが、
シュルシュルシュルシュルシュルッッッ!!!!
ロープが高速で蠢くような音が聞こえた瞬間、両足首が何かに巻き付かれ、その場に倒れてしまった。それから痛がる暇もなく、両手首が何かに引っ張られて、私の身体は宙に浮かされる。
―――――――フゥゥウウゥゥゥウウゥ。
正面から異臭を放つ生暖かい風。もろに顔に直撃し、咄嗟に目を閉じるも次第に開かせ、次第に目がこの闇に慣れてきてナニモノの仕業なのかが明らかになってくる。
「何…………これ………………」
尋常じゃない程の大きな植物。大人の男性よりもやや大きく、大きな紫色の菖蒲のような花が咲いていて、まるで雄しべや雌しべの根本まで飲み込もうしているかのように、フゥフゥと荒れた呼吸をしている。
「やだ……食べられる………っ。誰かっ!! 助けてぇぇ!!」
私の叫び声は不気味な森に溶けて消える。腕や脚を動かして振り解こうとしても圧倒的に力が足りない。
すると今度は、「フゥウウウウッッッ!!!」と巨大植物が私に向かって恐らく花粉を吹かせていった。
「けほっ、けほっ、何なの、これ…っ」
小さな粉が喉から侵入し、思わずむせ返る。
すると、
「何………カラダが………っ…変………っ」
急に全身が熱く火照り、行き場のない未知なる刺激に身体を擦らせたくなったが、縛られて動けずにいると、かろうじて僅かに動かせる内腿をスカート内で擦らせていった。
じんじんと、股が痒い。触れてどうにかして欲しい程に。
「はぁっはぁっはぁっ」
女の象徴でもある胸も、普段と違って突き出したくなる感覚に襲われる。
服が煩わしい、身体の全てを誰かに触られたい。
なんで、なんで、こんな状態で卑猥な感覚になんて陥ってしまうのかがわからない。
でも、この身体の刺激に解放されたい。
今度は巨大植物がうねりながら触手を見せつけると、それを私のスカートの中に忍ばせていった。
あ、私の初めて、これに奪われるんだ………。
絶望的な感情を抱いたのはほんの一瞬で、制御の出来なくなかった身体と頭で素直に脚を開いていく。
せめて、イースだと思って………っ。
目を閉じて、初めてをイースに捧げるのだと自分を思い込ませることにした。きっとどんな妄想だって出来る、目を閉じれば。
「シュガー!!!!」
イースの声だ。幻聴まで聞こえるようになるなんて器用だな、私。
「ハッッッ!!!」
彼の息遣いが聞こえる、荒々しく力強い息遣い……って、
「きゃあああっっ!!」
突然手足の自由になったと思ったら、身体が急降下していく! 思わず私は流石に目を開いた。
「シュガー!」
と思ったら今度は彼の腕に抱かれて落ちるのを免れた。
彼の顔が今までで一番近い。
どこが幻でどこが現実なの?
身体は熱を帯びたまま。恋心だけが理由じゃない、得体の知れない感覚が、イースに弄ばれたいと欲している。
「シュガー、大丈夫か!?」
イースの背後にはあの巨大植物が真っ二つに引き裂かれている。目に映るのは心配そうな表情のイースだけ。私だけを見ているイース、だけ。
「イース、お願い…っはぁっはぁぁっ」
はぁはぁと呼吸が乱れる私をぎゅっと力強く抱えると、彼は立ち上がり、全くふらつかずに森を駆け出した。
「待って、イース……止まって」
イースの襟元をそっと掴んで歩みを止めようとした。彼はすぐにでも病院に連れて行きたそうな表情を浮かべるも、私の言葉に応えてくれて立ち止まる。
ああ、もう限界。もっと触って欲しい。
「お願い、私を抱いて……っ……私の全部を…初めてを…イースにめちゃくちゃにされたい………っ」
なんてはしたないのだろう。でも、これて良い。私はイースのモノになれるのなら。
いやいやいやいやいや、化け物に襲われた勢いで
「早まっては駄目!!!」
ガバっと起き上がると見知らぬ小屋らしき中に居た。
いつの間に眠ってしまったのだろう。
そして、そして、ここはどこ??
私はシュガー、うん、記憶喪失にはなってないみたい。
「目が覚めた? 具合はどう?」
声をした背後を振り返ると、そこに居たのはイース。
「イース………?」
イースと目が合うも、彼はすぐに目を背いてしまった。
「あ、ごめん、服、そっちに置いてあるから。ここは警備隊の森小屋だから、安心して着替えて」
服?
掛け布団代わりの薄い布の下には、裸の自分があった。下着すら履いていない。
「っっっっ〜〜ーーーー!?!?!?」
叫び声も上げられずにパニック!
そして追い打ちをかけるかのように、気を失う直前に放った言葉が蘇る、呪いのように。
『お願い、私を抱いて……っ……私の全部を…初めてを…イースにめちゃくちゃにされたい………っ』
これって、これって…………初めてをしちゃったの!?!?
抱かれたというよりむしろ私が襲った!?!?
だからイースが目を背けた…………?
有り得る………その方が可能性が高い。
いそいそと服に着替え、私に背を向けるイースにそっと身体を向けた。
「あの………ごめんなさい、イース。迷惑をかけてしまって」
イースは私が着替え終わったのか念の為確認するかのように慎重に振り向くと、戸棚から小袋を取り出す。それから水筒からお湯をコップ代わりの蓋に注ぎ、小袋からスプーン一匙掬って、粉薬を混ぜた。
「ブレッドの熱を治したくて無茶したんだろ?」
「そうだ! 薬草を探さなくちゃ!」
大切な弟が苦しんでいるままだ。
小屋の出口をキョロキョロと探すと、イースが私の肩をぎゅっと掴んで椅子に座らせた。
男の、大きな手で。
「落ち着いて。村で熱が流行っているから、予め薬草を集めて村長が管理している。おばさんに渡しておいたよ。本当は回覧板で伝えているはずだったんだけど、おばさんたちも来てないって言ってた」
「そう……ブレッドのこと、ありがとう」
また嫌がらせかな。
憧れのイースと家族付き合いがあるからという理由で家柄の良い娘たちから時折理不尽なことを受けることがある。
「これ、解毒剤。はい」
さあ飲んで、とイースがコップを渡す。
とりあえず受け取り、
「あの、私、毒か何かにやられた……の……………?」
言ってる途中に、そうか! と事の展開にようやく気付いた。
あの巨大植物の花粉。きっとあれに媚薬効果でもあったんだ。だから急に、その、えっと…………。
「あの植物の化け物が………その……女性の蜜を好んでいるから………えっと、媚薬、そう媚薬を解くため!」
少し顔を赤らめながら言葉を選ぶイースに只々申し訳なくなる。覚えていないけど、絶対に迷惑をかけたんだろうなぁ。極々平凡なクセに胸は平均以下だし、見苦しいモノを見せてしまって本当に穴があったら入りたい。
襲ったかもしれないし…………。
「あの、イース………」
「何?」
こんなにイースと喋るのなんて初めてなのに、それがこんな内容なんて本当に本当に本当に恥ずかしくて消えたくなる。
「その………しちゃった……?」
「……………」
困りますよね! そうですよね、言いたくもないですよね! 美男子が村娘に襲われたなんて!!
「覚えていないの?」
「ごめんなさい……森で抱き抱えられた直前までは記憶が残っているんだけど…」
何をしでかしたのか全く覚えていないけれど、迷惑をかけたのは確かだ。それも性的な意味で。
イースは椅子に座る私の前に立つと目線がの高さが合うように膝を曲げた。それから優しく微笑む、不自然な感じに。
「謝らないで、媚薬のせいだったんだから」
あぁ、私の初めては長年の想い人を襲う形で散ってしまったのだ。それも記憶に残らないなんて。いや、覚えていたらそれこそイースと目を合わせることも無理かもしれない。記憶から消えたのが幸だったのか不幸だったのか……。
イース、きっと嫌だったよね。
でもこれ以上ごめんって言ったら、イースも傷つくのかな。
「飲み終わったら家まで送るよ」
「ありがとう…」
解毒剤入りのお湯は味がしなかった。甘くもない、苦くもない。
「シュガー!!」
村に着いた時は夜中だった。イースがランプを常備してくれていたお陰で無事に森を抜け、家に帰ることが出来た。
家に入った途端、ずっと寝ずに待っていたであろう両親に抱き締められる。お母さんは心なしか震えていた。
「シュガー…………!! 良かった………無事で良かった!」
「イース、有難う! 君も怪我などはないかい?」
「おじさん、僕は何ともないです。シュガーをゆっくり休ませてあげてください」
「お礼をさせてくれ! ちょっと待っててもらってもいいかな」
お父さんが家の奥に行こうとすると、
「お礼は結構ですよ。当たり前のことをしたまでなので」
「そういうわけにはいかないだろう」
「あ、でしたら、欲しいモノを後日言いますので、お願いします」
イースはにこやかに父からのお礼を断った。
寧ろ……私から慰謝料を払うべきかもしれない。いや、何も無かったことにして受け取りたくもないのかもしれない。
「では夜更けですので、おやすみなさい」
「ああ、イース、本当に有難う。おやすみ」
両親に一礼すると、イースは家を出ようとした。
が、扉の取っ手に手をかけると振り向き、
「おやすみ、シュガー」
初めて彼から夜の挨拶が贈られた。
「おやすみ、イース。ゆっくり休んでね」
そう返事をすると、イースはほっとしたような顔をして家を出た。
これで解放されたんだね、イース。本当にごめんね、私も無かったことにするね。
―――――あ………ッ、シュガー、駄目だよ…ッ。グッ………やめっ………ぁあ…ッ、シュ………ガー…………ッ。あぁあ……ッッッ!!
「イース、ごめんっっっ!!!!!」
ガバっと起き上がると寝室に居た。
夢………? 記憶が蘇った? それとも妄想?
仰向けの裸のイースを見下ろしていた。半泣きで顔を赤らめて、いかにも無理矢理襲われているか弱き少年のようなイースを。
あんな顔のイース、見たことない。
だとしたら、私が実際に見た顔なの…かも……。
「お姉ちゃん?」
すぐ隣から声がした。可愛らしい、弟の声が!
「ブレッド…! 起こしちゃった? ごめんね、お熱はどうかな?」
額に手をやるとすっかり熱が下がっていた。
「イースが薬くれたから治ったよ」
「良かった〜、本当に良かった〜」
昨日はぐったりしてしまっていた弟。一晩ですっかり熱も下がり、まだ少し疲れた顔をしているけれど、しっかりと会話をするまで回復している。
「起こしちゃってごめんね。もっと寝ていていいよ」
添い寝をしながらブレッドの頭を撫で続けると、その内すーっと眠った。
ブレッドの先にある両親のベッドは空っぽ。パン屋の朝は早い。私は慌てて着替えて工房がある1階へ降りた。生地を打つ音が聞こえてくる。
「あら、シュガー!? 今日は休んでいなさいな」
工房へ行くとお父さんもお母さんも生地を捏ねていた。
「ううん、もう大丈夫。動いていた方がすっきりする」
精神的に。きっと何もしないでいたら、イースとの行為ばかりを思い出してしまうだろう。
「そう? あまり無理はしないでね」
「うん、わかった」
パン作りは素早さが命。発酵と焼き上げの際以外は基本的に生地を放置出来ない。乾燥が大敵で、常に生地が一定に湿っていないと美味しいパンが出来上がらない。私は両親が生地を捏ねている間に家の裏に出て七輪で石を焼き、発酵専用の小屋に運び、水をかけて湿度を上げて準備をした。
「おはよう、もう体調は良いの?」
まさかのイース登場、せっかくパン作りに没頭していたのに。
「お、おはよう……お陰様で…すっかり…。イースこそ、どうしたの?」
今朝見た夢を強制的に再び思い出してしまう。
普段こんな朝早くにイースに会うことなんて無いのに、どうして……?
「さっき工房の方に行ったらおじさんがこっちに居るだろうって。心配だから顔を見に来た」
大丈夫です、働けます。
そうですよね、慰謝料払えそうか心配になりますよね。
私にあんな…あんなこと……された…かも…しないんだから。
「顔赤いけど、まだアレ残ってる?」
イースの手が額を覆う。早朝の空気と同様にひんやりとした手が。
「熱は無いみたいだね、脈は…?」
すると、首元がひんやりとした。
「っ……っ」
心臓が跳ね返りそうな私の身体と彼の手の温度差が彼の手の感触をハッキリと伝える。
「……………速いね。こっちはどう?」
今度は彼の指先が耳の後ろに。
わざとなのか耳をなぞるように触ってくる。
彼は私の体調を心配しているだけなのに………なんだか……なんだか…………。
「だ、大丈夫っ! ありがとうっ」
これ以上は私の身が持たない。耳を守るように手の平に覆うと、彼の手が離れていった。
「そう、無理しないでね」
「うん、ありがとう……」
私が知ってる彼の手は、クロワッサンが入った包み紙をぎゅっと握っている手。ただそれだけだったのに。それだけでも心臓が高鳴ったのに。
「あのさ、シュガーにお願いがあって」
慰謝料ですね!?!?
「もちろん大丈夫!! 責任を持って償います!!」
「じゃあ、朝食を済ませたら一緒に出掛けよう。おばさんたちには許可もらってるから今日は店番なし」
「へ?」
出掛ける? あ、もしかして銀行にでも行く? 先にお金を払わせて私が借金を契約するパターン?
「必ず迎えに行くから、待ってて」
するとイースは私の三つ編みの先端をそっと手に乗せて、ちゅ、と軽く唇を触れ、爽やかな彼の王子様スマイルを見せるとその場を去って行った。静かな朝の空気は、彼の去る小さな足音さえも私の耳に届けてくれる。
甘いようで甘くない。慰謝料、無利子分割払いにしてくれたりしないかな。
弟のブレッドと一緒に朝食を済まし、すっかり朝日が顔を覗かせた明るいキッチンで食器を洗っていく。
間もなくして扉を叩く音がした。
「お待たせ」
「イースだ!!」
扉を開けるとイースが入ってきて、私よりも先に弟が出迎える。
「おはようブレッド、すっかり元気になったかい?」
「うん!」
私は食器洗いを終えてエプロンを外すと、椅子に掛けてあった斜め掛けの鞄を装備し、
「おはようイース、心の準備は出来ているわ」
借金を背負う覚悟で彼の前に立った。
「心の準備?」
「だって銀行に行くんでしょ?」
「まさか! 今日一緒に行こうと思ってる場所は――」
「お客様、お湯加減はいかがですか〜?」
まさかの美容室。それも隣街の。
馬を走らせて乗せてくれたと思ったら、こんなお洒落な場所に連れて行かれるとは予想外過ぎて頭が回らない。
私と一緒にイースも散髪されていて、といっても彼はいつも身綺麗にしているから揃える程度にしか切られない。
お互いに男性の美容師に切ってもらう。イースは黙っていても女性から声をかけられるから、男性ばかりの店の方が落ち着くのかもしれない。
髪を洗ってもらい、いざ散髪。常に三つ編みにしてダメージヘアーを隠していたが、大っぴらになる。タオルで乾かしてもらっても艶の欠片も無い。簡単にいくつもの荒れた毛先が跳ねていく。
「結構上の方も髪が傷んでいるから、バッサリ切っても良いかい?」
「おまかせします」
「よしっ! じゃあ彼氏がびっくりするくらいに綺麗に変身してあげる!」
「えっ」
彼氏じゃない!!!
でも私が否定をするのはおこがましい? この人彼氏じゃないです! なんて失礼かなぁ。あ、彼女じゃないですって言えば良いのかな。えでも、それを私が言うのも変??
否定をするタイミングを見つけられないまま、腰まで伸びた髪は勢い良く切られていく。肩からばっさりと。トゲトゲとした茶色の枝が大量に落ちていくかのよう。
「……鳥の巣みたい」
「自分の毛? あはは! 確かにね、色味的にも」
鏡の中に居る男性美容師が口を大きく開けて笑う。
「失礼だけど、最後に髪を切ったのはいつ?」
「覚えてないくらい前です」
「そっか〜、普段忙しいの?」
「家がパン屋を営んでいて。小さい弟もいるので」
「それは大変そうだね。自分のことは後回しになっちゃう感じ?」
チョキチョキチョキとリズミカルに挟みの切る音が聞こえてくる。躊躇いもなくバッサバッサと髪が切り落とされる。
「そうですね。それもあるんですけど、私、家族のことになると家族優先にしたくなるんです。大好きだから」
まぁそれで森の危険区域まで進んで今まさに横に座っていらっしゃる方に迷惑をかけたわけですが。
「家族想いなんだね。君と家庭を築けたら幸せになれそうだ」
鏡の中で男性美容師と目が合う。結婚とかそんなこと考えたことも無かったのもあって、不意に褒められて思わずきゅっと唇を結んでしまった。
「…………お〜っと、彼氏くんの視線が怖〜い」
ふと横を見ると、イースが無表情に私の担当美容師をじーっと見ていた。
「単純に褒めただけだよ。美容師特有のリップサービス」
「彼女はとてもピュアでね。あまり甘いセリフをサービスしないでもらえますか」
そう言うイースはにこやかにはしていたけれど、どこか威圧的な気が。褒められたからって鵜呑みになんてしないのに、接客だって良いからもうちょっと褒められたかったのにな。
「あ~はいはい、君のために彼女をとびきり可愛くするから、大人しく待ってな!」
美容師はイースの椅子をくるりと回転させて後ろ向きにさせてしまった。
「シュガーちゃんだっけ? よーく自分が大変身するのを鏡で見てごらん。毎日鏡の中の自分を褒めてあげたくなるようになるよ。今日も私キレイねって」
自信に溢れて輝いた瞳で、美容師は自分の技術を存分に発揮させた。無造作に切っているかのように見えて左右のバランスが美しく整っていく。次第に自然と髪が乾いていき、美容師が大きなブラシで髪をとかせばふわっと髪が不思議と軽くなる。魔法みたい。
「よーしっ! 出来た!」
最後まで細かく前髪を切り揃えた後、達成感を溢れんばかりに美容師が終わりを告げた。
鏡の中の私…………本当に私………?
こんなに短く切るのなんて初めてなのに、似合わないとかそんなこと全然感じない。
「さーて立って立って、彼氏とご対面!」
美容師に肩を掴まれてイースの斜め後ろに立たされる。
彼氏じゃないし、こんないかにも感想を言えみたいな雰囲気に居たたまれなさが急増。
くるりとイースがこちらに向く。
彼はハッとした表情になりながら口を半開きにし、ゆっくりと立ち上がった。
「可愛い」
耳から下の髪が内側にふわっと丸みを帯びて、腰まであった髪が顎までと短くなり、スッキリしながらもどこか女の子らしさを匂わせる、私の新しい髪型。
「あ、ありがとう……」
自分でもとても気に入ったから褒められると嬉しい。特にイースに可愛いって言ってもらえるなんて。
「よく似合ってる」
彼の指が髪を絡める。彼の指が顔に近い。直接顔には当たっていないのに、彼の肌を感じてしまうかのように。
「行こうか」
「あ、あの、お金」
「気にしなくて良いよ。もう払ってある。僕からプレゼント」
「ええっ、悪いよ。ちゃんと自分の分は払わせて」
と言っても財布の中のお金じゃ足りないかもしれないけど。
「プレゼントさせて。可愛いお嬢さま」
そして、彼の手が私の手と繋がった。
「っっ」
互いの手の平が密着し、指の一本一本が絡み合う。
まだ魔法にかけられているのかな。
夢の中なのかな。
美容室から出て石畳の街をイースに引っ張られるようにして歩く。
「シュガーと行きたいお店があるんだ」
南天から降り注ぐ陽の光は彼の爽やかな横顔をさらに輝かせた。イースは手を繋いだまま真っ直ぐに太い通りを歩いて行く。馬車がすぐ横を通ろうとも、貴族らしき娘たちに視線を注がれようとも全く見向きもせずに真っ直ぐに。
突き当りに見える店の看板には”Bank”。銀行と書かれていた。
ですよねー!!!!!!!
見るからに貧乏人になんてお金を貸してくれないですもんね! 身綺麗になってから行く、なんて計算高い!
イースには全く道を曲がる気配が無い。
美容室代も含めて借り入れ覚悟!!
「ここ。一度来てみたかったんだ、美味しそうで」
銀行、の隣の洒落たレストラン。イースは手を繋いだまま入り口に置いてあったメニューの前に立ち、
「パスタがメインで、コーヒーとか紅茶とかケーキもあったりするんだけど、ランチにどうかな。ここで良い?」
放心状態で頷く。ランチ……? あ、イースお腹減ってるのかな。銀行で待たされたらお昼時間過ぎちゃうもんね。
「いらっしゃいませ」
入店し、年上の落ち着いた女性の店員に出迎えられる。店内は家族連れよりも二名で来る客が多いように見えた。友達同士だったり、男女だったり。
「店内席ご利用になりますか? テラス席になさいますか?」
「テラス席で」
「畏まりました。こちらへどうぞ」
イースが席を答えてスマートに案内をされる。外のテラス席の方が店内席よりも少ないけれど、他のお客さんも少ない。個々のテーブルに大きなパラソルが刺してあって、日差しも避けられるし、ちょっとしたピクニック気分も味わえて開放的。
お店の人に案内された席に座り、早速メニューを見開く。
それにしても……、
「あの、イース。おすすめって何?」
イースが手慣れてる感がある。
女性にモテるイースだからデートで利用してもおかしくない。でもなんか、なんか、モヤモヤしてしまう。
「何だろうね。聞いてみよっか」
イースが少し後ろを向き、お店の人がいないか探そうとする。
「あ、いいよ! 自分の好きなの頼むから。ただ、イースが前に来たことあるのかなぁって思って」
「初めて来るよ。男一人では入りづらいし」
「そう……」
すると、イースは腕を伸ばして、メニューを持つ私の手の甲にツンツンと指を軽く押し、
「シュガーとが初めて」
何か含ませるような笑みを浮かべた。
「イース……触られるの、恥ずかしい……」
するとイースは指を離したものの、少し首を傾げて、
「可笑しいな、これだけなのに顔が真っ赤だよ」
「えっ!?」
からかうように整った顔でじっと私を見つめた。
「まだ薬が残っているのかな。あとでまた解毒薬を飲みに行こう。ね?」
「う、うん………」
私としては自分が加害者になった現場だからあまり気乗りはしないけれど、この顔で誘われたら断るなんて無理。
「ご注文をお伺いします」
互いに料理が決まった後、イースがお店の人を呼んでくれた。
「渡り蟹のトマトソーススパゲティとホットコーヒーで」
「あ、パンツェッタのカルボナーラと、あの、アイスティーってカフェインレスにも出来ますか?」
「出来ますよ」
「あ、じゃあカフェインレスのアイスティーでお願いします」
「畏まりました。メニューをお下げしてもよろしいでしょうか」
イースが私の分のメニューを受け取り、まとめて渡してくれ、お店の人はやや早歩きで店内へと戻って行った。
「カフェイン苦手なの?」
不思議そうにイースが尋ねる。
「苦手じゃないけど、その、一応避けた方が良いのかなって思って」
「え?」
「カフェインとかお酒ってあまり良くないって聞いたことがあるし。まだわからないけれど一応……」
悟ってほしいと思いながらお腹を軽く擦って小声で伝えると、イースは少しばかり目を見開いた。
「…………そうだね。シュガーの身体のことも心配だから、これからも頻繁にお店にも顔を出すようにするよ」
「え、え、でも警備隊のお仕事もあるんだし、いいよ」
まだ妊娠確定していないんだし、なんて真っ昼間の洒落たレストランで言えるわけもなく。
「そういうわけにはいかないよ。休日は必ず朝から会いに行くようにするから」
「え、そんな、いいよ。悪いよ」
「僕がそうしたい」
頑として引かない雰囲気。イースは笑顔だけどどこか威圧感さえ感じる。
「わかりました………」
襲われた身なのにイースは律儀だなぁとつくづく申し訳なくなる。
食事も頬が落ちそうになるほど美味しくて、アイスティーも香りが口いっぱいに広がって日々の疲れを癒やしてくれた。
「そろそろ行こうか」
イースが伝票を持ってレジに向かう。
「待ってイース、お金」
私も追いかけながら鞄から急いで財布を取り出そうとする、けれ、ど………
「僕に奢らせてください、お嬢さま」
前に歩いていたイースが振り向き、口元を耳に近付かせ、声で囁く。私にだけ聞こえるように。そして耳に届いたのは声だけでなく、甘い吐息も。
「っっっ!?!?」
自分でもわかるほどに体温が急上昇、鼓動も速くなる。この男は自分が美男子だとわかってこんなことをしてくるのだろうか。思わず手で耳に蓋をすると、イースはくすりと笑って会計を済ませた。
「ご馳走さま」
店先に出てイースにお礼を言うと彼は満足そうな顔を浮かべているような気がした。
「でもね、今度は私にもご馳走させて。奢られっぱなしだと対等に思えないから」
意外な言葉だったらしく、イースは驚いたように一瞬目を見開いたけれど、すぐに
「わかった。今度はお願い」
ふっとクールな笑顔を見せる。
そのまま銀行の横を通り過ぎる。どうやらイースは今日は慰謝料を受け取る気は無いらしい。
「あ、ごめん、ちょっとここで待ってて」
突然イースは駆け足になると、先の方で馬車に荷物を詰め込むのを手間取っているお婆さんの方へ向かった。笑顔で大きな荷物を積み上げてやり、何やらお礼を断っている様子。「当たり前のことをしたまでですから」とか言っていそう。
イースは昔からこうだ。見返りを求めずに目の前の困っている人に手を差し出す。初対面の人にそんなことをしたら余計なお世話とか言われそうで怖気づく私とは違い、爽やかで、優しくて、勇気のある人。イースが警備隊に入隊をしたのもすごく納得がいく。きっと、彼の大きな優しさに救われる人がたくさんいるんだろうな。
お婆さんを見送ると、彼は再び駆け足で戻って来る。だけど、私を見下ろして少し意地悪な顔をした、気がした。
「お待たせ、行こうか」
「え? どこに?」
「それはもちろん」
行き着いた先はあの森小屋。私がイースを襲った現場。
「あのイース、私本当にもう大丈夫だから」
椅子に座らされ、イースも向かい合うようにして腰掛ける。まるで診察のように。
「まだまだ油断出来なさそうだよ? ちょっと手を触っただけで顔が真っ赤なっていたし」
と言ってまた指先で私の手をツンツンと触れる。
それはイースに触られるから!!
なんて口が裂けても言えないので、なるべく平常心を保つように努めよう。平常心平常心。
「ね、もうなんともないでしょ?」
「………そっか。ここはどうかな。媚薬が残っていると反応が起きやすいんだけど」
と言ってイースは私の左手を下から支えるようにして持つ。
平常心平常心。
そして、私の手の平を上に向けると、
「ねぇ、どう?」
つぅぅっと彼の人差し指が私の手首をなぞった。
「〜〜っっっ」
平常………心……平…常……心。
「ふっ……何でそんなに唇をきゅっと結んでいるの?」
「ふぇっ?」
思わず口を開いたところで再びイースの指の腹が這う。
「っっあ………っ」
やだ、変な声が出ちゃう。
「シュガー、下向かないで。顔色見ないとわからないから」
「み、見ないで……んんっ………」
お願い、変な声出させないで…。
「イイコだから顔を上げて」
すると今度は指で顎を持ち上げながら親指を下唇にそっと抑えた。
「やめ…て………恥ずかしいよ………」
「……瞳も潤って顔も火照っているよ。媚薬が残っていないとしたら、どうしてだろう」
それは………
「唇も艶めいて僕を誘っているみたいだ」
それは………
「ほら、手首から奏でる脈もこんなにドクドクと跳ねてるよ」
それは………
「ねぇシュガー、どうしてかな…………」
密かに長年想ってるあなたに触れられているから。
なんて言えるわけないでしょ!!!!
「私っ! 普段異性とこんなに話したりしないから慣れてなくて!」
「え」
そうだそうだ、これも嘘では無い。
「ブレッドと父ぐらいしか普段異性とは接しないし、男性のお客様が来てもお会計して商品を渡すくらいだし!」
「異性に慣れてないから、かぁ………」
ゆっくりとイースの手が私から離れていく。
「そっか、だったら緊張しちゃうか」
「そうそうそうそう!!」
これで私の不毛な片想いはバレないはず!
イースは椅子から立ち上がり、
「家まで送っていくよ」
と立った私の腰を支えてくれた。妊娠疑惑の私を労るために。
―――――シュガー、今薬を用意するから! 苦しいのか………シュガーがこんなになる程…………ッ。待って、僕は今のシュガーを抱く訳にはいかない……………ッ! 薬が出来上がるまで耐えて欲しい。ごめん。
「ごめん……………………」
フラレた。せめて夢の中ぐらい両想いでいさせてもらっても良いのに。あれが夢ではないとしたら、私はちゃんと言葉で断った彼に無理矢理襲ったことになる。
「最悪…………」
いつもの癖で傷んだ長い焦げ茶の髪の先を指で弄ろうとしたが、昨日短くなったため、空振り。まるで生まれ変わったかのようなふわっふわの髪は、昨日彼と二人で出かけたのが魔法や夢ではないことを証明してくれる。
「お姉ちゃん、パンはパンでも食べられないパンはな〜んだ?」
今日は弟のブレッドと二人で店番。両親は町や学校へ出向いてパンの出張販売をしている。
「フライパン」
「ぶっぶー! 正解はカビカビパン」
ブレッドのなぞなぞは一生正解出来る気がしない。
店内はとても狭いため、お洒落な町のパン屋とは違ってお客様たちが自分でトレーに乗せて選び歩くスペースなんて無い。そのため、ショーケースにパンが並んだカウンターでお客様とやり取りをする商売方式。で、お客様がいらっしゃらない時はこうしてカウンター内でブレッドとお喋りの時間になる。
「こんにちはー! シュガー、納品確認してくれ!」
あ、普段話している異性、そういえばいた。
腹から出てるような威勢の良い声で店先から声をかけるのは、フロマ。小麦の生産農家で、肌が年中日焼けしていて小麦の袋を運ぶのに逞しい筋肉モリモリの身体が特徴的。今日もリヤカーで大きな小麦袋を運びに来たのだ。
今まで彼を異性だとは意識したことは全然無かったけれど、イースに家族以外の異性とは普段話さないと言っておきながら話す異性いたなぁと自分が言ったことの矛盾点に気が付く。
「ありがとうございます。今そっちに行くわ」
「シュガー!? 髪どうしたの!? めっちゃくちゃカワイイじゃん!!」
そこら中に聞こえそうな野太い声に思わず止めたくなる。褒められている手前出来ないけど。
「あ、ありがとう………」
「すっげーカワイイ! すっげーカワイイ!! 超似合ってる!!!」
「あの、小麦粉の確認を………」
「シュガーさぁ、今度いつ休み? 一緒に町に行こうぜ! 新しいパン屋がオープンしたんだよ。偵察に行かない?」
確かにそれは気になる。勉強にもなるからぜひ行ってみたい。
「昨日休んじゃったばかりなの。次どうしようかなぁ」
「ボクも新しいパン屋さん行く!!」
店内にもフロマの大きな声が聞こえないはずがなく、カウンターからブレッドが聞きつけてやってきた。
「いいぜ、いいぜぇ! 皆で町に出かけようよ!」
「やったぁ!」
「ふふっ、ブレッドも一緒だと嬉しいわね。距離があるからフロマも一緒だと助かるよ。おんぶとかする時に」
「おうおう、任せとけ!」
「ぜひ僕も一緒に行かせてもらいたいな」
突然背後から聞こえたのはイースの声。驚いて振り向くと彼の顔はにこやかではあるけれど、なんとな〜く目が笑っていない感じ。
「げ、村一番の美男子」
「新しいパン屋に皆で出掛けるのは楽しそうだね。僕も行ってみたいな」
「イースも行こう行こう!」
「別に俺らと一緒じゃなくても良いだろう! 最近よく一緒に居る町の貴族の令嬢と行きゃぁ…んぐっ!!」
フロマが言い終わるのを待たずにイースが指でフロマの唇の両端を摘んだ。
「オフの時ぐらい僕が誰と一緒でも構わないだろう?」
「わかっわかったから離せ…ッ!!」
フロマがイースの手首を掴んで振り解くと、イースはやれやれと軽く手首を回した。
「はい、シュガー、依頼の小麦二袋、いつもの場所に置いておくぜ」
「ありがとう、フロマ。お願い」
そう言うとフロマは両肩に一袋ずつ担いで倉庫に向かう。後から楽しそうにブレッドも付いて行った。
「あ、イース、何か買ってく?」
「いや、今見周り中だから、また今度で」
「そう………」
見周り中なのに、まだ居るの………?
そんなことも言えるはずがなく、イースの隣にただ緊張しながら立つしかない。あ、もしかしてフロマが帰ってから慰謝料の具体的な金額の請求かしら。
「シュガーはいつから嘘つきになったのかな?」
「えっ!?」
全く予想をしていなかった言葉に心臓が跳ね上がる。
「異性に慣れてないって言っていたのに、随分と楽しそうにしてたね?」
「えっと……それは…………っ」
フロマを一度も異性として見たことがなかったからです。言えない言えない、仮に言ったとしたら、イースを異性として見ていることがバレてしまう。
「もしかして、彼のことを僕に隠したかった?」
「えっ、なんでそうなるの!?」
突拍子も無い質問に思わず声が大きくなる。
「ごめんごめん、ちょっと意地悪だったね」
そう言いながらイースは私の頭をポンポンと撫でた。頭が沸騰してしまいそう。
「シュガー、置いといたぞ」
間もなく手ぶらとなったフロマが戻り、私は平然を装おうと努めながら、
「あ、ありがとう、フロマ」
いつも通りにお礼を言った、はず。
「なっ、二人になって何してたんだよ……ッ」
「べ、別になにもっ」
「特に何もしていないよ? シュガーは僕といるときはいつもこんな感じだよね」
イースはそっとほんの少し前屈みになり、
「また来るよ」
ちゅ、と先程ぽんぽんとした頭に唇を弾かせた。
イースは何事も無かったかのように背中を向けて見回りへと行き、フロマもいつの間にかリアカーを引いて去っていた。「うぉおおおおッッ!!!」という雄叫びが聞こえた気もするようなしないような。
「お姉ちゃん?」
ブレッドに声をかけられても、私は頭のてっぺんから熱を発散させて立っているのがやっとだった。
―――――お願い、イース……っ、私のこと……もっと触って……イースに触れられただけで………あぁ…イース…っ…私…っ………も…ぅ……っ
何て夢だ。まさか善がっている自分を見せられるなんて。
まさかあんな醜態をイースに見せてしまったのだろうか。
「勘弁して………」
夢だけれど、穴があったら入りたい。
気持ちを切り替えて店番に立つ。
今日はブレッドは学童で、両親は隣町へ販売。
天気もいい。風も心地良く、お客様がそれなりに来てくれると良いんだけど。
店先でカサッと足音が聞こえた。
「いらっしゃいませ」
声をかけると私と同い年ぐらいの男の人が来店。初めて見るお客様だ。
「えっと、おすすめは何ですか」
「今日は塩パンを最後に焼いたので、焼き立てでおすすめです」
「じゃあそれ」
「ありがとうございます」
お会計を済ませて紙袋に熱々のパンを入れる。まだ蒸気をパンが出しているので敢えて袋の口は閉じない。
「あの、明日もお店やってますか」
「はい」
「明日も君が店番しますか」
「はい、たぶん」
「良かった。じゃあ、また明日」
「はい、ありがとうございました」
特に商品の予約はいいのかな、と思いつつもお客様を見送る。すると、入れ替わるように別の男性客が来店し、ショーケースの前に立つ。
「俺もおすすめください」
「塩パンですね、ありがとうございます」
俺も…ってことは外で聞こえていたのかな。如何せん狭い店内だからお客様もせいぜい二人か三人ぐらいまでしか同時に入店するのが難しい。わざわざ外で待ってくれていたのかな、と申し訳なくなる。
「髪型変えたんだね」
「え? あ、はい」
トレーに置かれたお金を取ろうとすると、男性客にぎゅっと手を掴まれた。
「や、あの……っ」
怖くて咄嗟に振り払う。すると男性客は慌てて手を引っ込ませ、
「似合ってるってこと伝えたかったんで! じゃ!」
と逃げるようにして店から出ていった。するとまたドアの横に立っていたらしく、別の男性の姿が現れ、入店してきた…………まさか
「あの、並ばれて待っていらっしゃったのですか」
「はい、一目会いたくて」
な、な、何事!?
まさかと思いつつも店の入口を出て外を確かめる。
「嘘……………」
お客様が8人程並んで待っている。
行列が出来るなんて初めて! どうして急にこんなに人気店になったのだろう。
そういえば髪型のことお客様にも指摘をされたけど………そうか、店員の清潔感か! やはり毛先が痛みまくりの店員よりも、艶髪の店員が売っていた方が買いやすいのかな! お店がお洒落に見えたり、パンが美味しそうだなって思えるのかも!
「お待たせしてごめんなさいっ! もう少々お待ちくださいませ」
慌てて店内に戻ろうとすると
「すごい大盛況だね」
背後から声がした。
「イース!」
振り返るとイースがお客様の列をじっと見ていた。
「そうなの、こんなこと初めてで。お店戻るね、ごめんね」
せっかくイースが来てくれたけれどお客様優先。再び店内に戻ろうとしたら、
「無理をしないでシュガー。君はもう君一人のカラダじゃないんだから」
後ろからぐっと肩を掴まれ、少し低音のほろ甘い声に囁かれる。
肩が、耳が、顔が、胸が……全部熱い。
彼による熱で思考も動作も停止していると、それまで待っていたお客様が散り散りにいなくなってしまったのだった。店内に居たお客様まで。
「良かった。これでゆったり過ごせるね。じゃあ」
満足そうに微笑むイースから手が伸びる。
―――――私のこと……もっと触って………
今朝見た夢を思い出し、触れられると思うと咄嗟に下がって避けてしまった。
「え」
イースの手が空に止まったまま動かない。
「あ………」
私も避けたは良いけれど、上手く言葉が出ない。何か冗談とか気の利いたことを言えたら良いのに。
イースは手を戻し、
「また来るね」
軽く笑うと背を向けて去ってしまった。
忘れたいのに思い出してしまう、避けたこと。何度も何度も。店番に集中しようとしてもお客様もそんなに頻繁には来ないし、新作のパンを考えようとしても、ふとした瞬間にさっきの出来事が脳裏をよぎる。
「……………」
常連のお客様が来る時間では無い。思い切って私は一旦お店を締めた、クロワッサンが入った包を抱きながら。
ちょっと探して居なかったらすぐに諦めよう。
期待と不安を抱きながら警備隊の本部の建物に向かった。お店から歩いて15分ぐらいの場所。
「今日もイース、カッコイイ♡」
「あの笑顔が本当に素敵だわぁ♡」
あ、絶対イース居る。ワンピース姿の良い家柄の娘たちの後ろ姿しか見えないけれど、その先に彼が居るのだろう。
………良く考えたらこの状況で彼にプレゼントを渡すのは戦場に行くのに等しいのではないだろうか。
こんなボロいシャツにスカート姿の貧しい女が村一番の色男に近寄るなんて、他のお嬢様たちから非難轟々され、針の筵になるに決まってる。
でも、でも、クロワッサンを届けたい。
あそうだ! 配達風にすれば良いかもしれない。「ご注文のお品をお届けに来ました」って。それいい、そうしよう。
お嬢様たちの群れにさらに接近をすると、
「また今日もエスメ様をこっちで匿っているのね」
「町の町長選挙が終わるまでこっちに昼間は来るらしいわよ」
「イースとお付き合いするのも秒読みね」
「悔しいけれどお似合いだわ」
そんな会話が耳に入ってきた。
「では気晴らしに外の空気を吸いましょうか、エスメ様」
「ありがとうイース。今日はとってもいい天気ね」
お嬢様たちの間からイースと女性の横顔が僅かに見えた。艶やかな緑色の宝石のように透き通る長い髪をウェーブで揺らしながら美しく溢れんばかりの気品を漂わす女性の微笑む顔と、応えるように爽やかに……………。
背を向けて店へと踵を返す。
早く声が聞こえない場所へ。
イースの笑い声なんか聞きたくない。
―――――僕もだよ。
今日の夢はイースの幸せそうな顔だった。
あれは、私に向けられない。あの顔を見せる相手は……。
ぶるっと嫌悪感が突然下半身に感じられた。トイレへと急ぐ。
月のモノが赤子は居ないと知らせた。
ああやっぱりね。私がイースと結ばれるわけがないのよ。イースと過ちがあっても、絶対に結ばれない運命。
イースはあの日以来私に気遣ってくれている。
ううん、私のお腹の中にいると思われる自分の子どもを気にかけてくれていた。
鮮血を見下ろしながら無気力に佇む。
私、イースを解放しなきゃ。
「元気無いけど大丈夫? お母さん残ろうか」
「大丈夫。月のモノなだけ。行ってらっしゃい」
ブレッドを学童に預け、今日も町へ商売に行く両親を見送る。
開店前の静かな村。穏やかな風が木から木へと移り、ほんの数枚だけ葉を落としていく。
土を踏む足音さえもよく聞こえる。
「まだ居るかな」
トントン、と私はノックをした。お隣さんの家を。
「あら、シュガーちゃん。おはよう。どうしたの?」
すぐにおばさんがドアを開け、驚きながらも笑顔で出迎えてくれた。笑顔がイースにもよく似ている。
「あの、朝からすみません。イースはいますか?」
「いるわよ。イース!! シュガーちゃんが来てくれたわよぉ!」
おばさんは家の中へ振り向き、大声で呼びかけると、奥から「すぐ行く!」とイースの声が聞こえた。
「あのねシュガーちゃん、ここだけの話なんだけどね」
おばさんはふふっと笑うと顔を近づかせて小声で話す。
「最近イースったら、家に帰ってもよく笑うようになったのよ。前までは、あぁ疲れた〜ってすぐぐったりしていたのに。シュガーちゃんと話す機会が増えたのが嬉しいみたい」
違うよ、おばさん。もしかすると自分の子どもが出来たかもしれないって気遣ってくれているだけ。
「私もね、シュガーちゃんみたいな家族想いの子が息子と仲良くなってくれるのは嬉しいわ」
「はは………」
ごめんなさい。私は悉くイースに迷惑をかけていて。イースは優しいから責任を取ろうとしていて……。
「ごめん、お待たせ!」
警備隊服だけど、頭に寝癖を少し残したイースが慌ててやってきた。
「ううん、朝からごめんね。少し話しがしたくて」
「じゃあ………泉の方へ行かない? 朝早いから人も居ないだろうし」
イースに提案され、私達は家の裏へと周り、さらさらと風がそよぐ村を歩いて行く。田にトンボが空を泳いでは葉に停まって美しい透明な羽を休ませるのが見えたりと、田園に挟まれる畦道。細い道をイースの後ろに並んで歩く。幼い頃に比べて逞しくなった彼の後ろから。
泉に着くと、こんこんと清水が中心から湧き出し、水面が円を描くように揺れている。
泉を存分に眺められるように置かれたベンチの前にイースが立ち、横に座るようにと微笑みながら促し、私が座るとイースも隣に座った。
「話って…………」
彼は前屈みになりながら私の顔を覗き込む。朝の風景と絵になる爽やかな笑顔で。
「イース、あのね」
「うん」
解放しよう。私は本当は彼の隣に居る権利なんて無いのだから。
「妊娠、していなかったよ」
泣いちゃ駄目。たとえ彼とデート紛いが出来た日に恋しさがあっても。
「シュガー」
「良かったぁ!」
もう彼の顔を見たくない。そう思って彼に背を向けて立ち上がる。
「妊娠していたら一大事だったよ! お店のことやブレッドのこともあるのに。それに、イースと付き合ってもいないのに妊娠とか、身体だけの関係って思われちゃうしさ。 ほんっと、イースの赤ちゃんが出来ていないってわかってほっとした!」
意外と笑顔を繕うことって出来るものなんだな。そうだよ、涙は卑怯だ。笑え、笑え、笑え私。
「だからさ、もう前みたいな距離感に戻っても大丈夫。今まで気を遣ってくれてありがとう。あの日のことは無かったことにしちゃいたい」
イースの方に振り向くと、彼は…彼は………
「シュガー、僕は無かったことになんかしたくない」
立ち上がって、腕を私の背中に………。
「やめてよ」
抱きしめるつもりだったの? 今度は私の初めてに対する責任? 同情? イースと並ぶのが不釣り合いな私をこれ以上甘やかさないでよ。
拒絶の一言に彼の手が止まる。
「イースに甘やかされるのが、辛い………」
ああ駄目だ泣きそうだ。
彼の手を払い除け、私は全力で駆け抜けた。
身重ではない身体で彼から逃げるように。
あの日から夢を見なくなった。
彼がクロワッサンを買いに来ることも無い。
以前よりも開かれた距離感。
これでいい、これでいいんだと毎日自分に言い聞かせる。
「ブレッド、バイバイ!」
今日は学童の日。ブレッドを学舎に迎えに行くと、ブレッドの同い年の女の子、チェリーが見送りに来てくれた。
「またね、チェリー」
「あ! ブレッドのお姉さん! ねぇねぇ、あのイースのお隣さんなんでしょ!?」
「うん。そうだよ」
どうやら彼は幼い子どもからも人気らしい。
「イースの好きな人って知ってる? エスメさまの告白を断ったんだって! ずっと好きな人がいるからって」
「知らないよ。家は近いけれど、プライベートな話はほとんどしたことが無いから」
彼にずっと片想いの相手がいるなんて。好きな人がいるのに別の女に無理矢理抱かれるなんて、どれほど惨めだったのだろう。
目の前の女が好きな人だったらなと、切なく願っただろうに。
「むむむ。あのイースが片想いってまさか……相手はきこんしゃ?」
有り得そうで怖い。
「まさかぁ。じゃ、チェリー、またね」
これ以上イースの話題は御免だと思ってブレッドの手を引き、学童を去ることにした。
「ねぇ、お姉ちゃん。本当にイースの好きな人知らないの?」
帰り道に突如ブレッドにまでイースの話題を持ち出される。勘弁して欲しい。
「知らないよ」
「本当に?」
「本当だよ。ほとんど喋ったこともないし」
「この間お出かけしてたじゃん」
「してたけど……でもそんな、好きな人の話とか出なかったよ」
「ふ〜ん。僕、イースの好きな人知ってるよ」
「えっ!?」
弟でさえ知る彼の秘密を私は知らない。所詮同じお隣さんでも彼と私とでは関わりが薄いことを意味する。
「ごきげんよう、パン屋さん」
ブレッドに降ろしていた視線を声の主の居る前方へと移す。
「エスメ様………?」
以前イースと並ぶ姿が絵になっていた隣町のお嬢様。何故この人が私に用?
彼女の他にも村の中で家柄が良い娘たちも背後に控えている。何か嫌な予感しかしない。
「あら私のことをご存知でいらしたの? イースから聞いていたのかしら」
勝手にあなたとイースが居るのを覗いたことがありますとは言えない。
「彼がねぇ、今あなたを探しているのよ」
「イースが私を?」
「今朝ね、警備隊にこんな通報があったの。最近覇気の無いパン屋の娘が自暴自棄になって森の奥深いところへ入ってしまったのを見かけたって。それを聞いた彼が飛び出して行ってしまって、なかなか戻って来なくて不安で不安で。どうしてあなただけが戻ってきたのかしら」
誤報だ。私はあの日以降森へ入っていない。
解放したのに、突き放したのに、どうしてまた私を助けたりなんかするの?
「お姉ちゃん!」
「先に家に帰って! イースを助けに行く!」
無我夢中で足を森へと急がせた。私を呼ぶ弟の声がどんどん遠くなっていく。
茜色の空は森を不気味なまでに美しく照らした。間もなく夜の闇が訪れるぞと警告するかのように。
「イース! イース、どこにいるの!? イース!」
森の入口近辺を走っても人の気配など感じない。
陽の光が差し込まないあの場所まで探しに進んでしまったのだろう。
足が竦む暇なんて無い。必ずイースと一緒に帰るんだ。
「イース!! イース!!」
呼んでも返事はない。足音も息遣いも聞こえない。
森の入口付近に注がれていた橙色の西日はたちまち消え、暗闇に飲み込まれる。
「っ!」
怖い。けれど、イースを助けたい。
私が行ったところで役に立つのかわからないけれど、私のせいで森へ入ってしまったイースを何としてでも連れ戻したい。たとえ戻るのが彼だけになったとしても。
「イース!! どこー!? 返事して!」
見つからなかったらどうしよう。
私は彼に最後に何て言った?
「お願いっ、イース! イース!」
今更だけど、好きって伝えれば良かった。
勇気が無くてずっとずっと見ているだけだったけど。
「イース…………っっ……一緒に帰ろう……あなたのこと、家族と同じくらいに大切なんだから!!」
何度も何度も目を手で拭いながら森を進む。
すると、カサカサカサカサと葉が擦れるような音がした。
「イース!?」
だがそれは、私の足首を狙っているとすぐに察した。あの巨大植物だ。
イースを見つける前に捕まるわけにはいかない!
一旦潔く後ろを向いて引き返そうと全力で走る。だけど、予想以上に植物の触手は素早く、私の片足の足首を捉えた。
「痛っ!! 離して!」
足を振って解こうとしても力が強くて敵わない。すぐにもう片方の脚も呆気なく巻き掴まれてしまった。
絶体絶命。
お母さん、お父さん、ブレッド………イース……ごめんね。ごめん。イース、ごめんなさい、あなたのこと、守れなくて。
でも、でも、やっぱり………。
「助けて……っ! 助けてイース!!」
もう一度あなたに会いたい。
ずりずりと巨大植物の方へと身体を引きずられながら、泣き叫んだ。無意味だとしても、でも、もう一度あの時のようにイースに助けてもらえたら……っ! そして、もっと話せるようになったら……っ!
「シュガー!!!」
幻聴? あの時と同じ、イースが私の名前を呼ぶ声がする。
―――――グゥオオオオッッッ!!!
巨大植物の叫び声と共に足首に縛られた感覚が消えていった。
眼の前に、私に背を向けてイースが立っている。
「イース!?」
呼びかけるも、次の瞬間巨大植物は花をぐわっと開き、シュウウウウウウ!!! と大量の花粉がイースに直撃した。
あの、人を淫乱に豹変させる花粉を。
「イース、吸っちゃだめ!!」
イースは剣を振り下ろして巨大植物を切り下ろした。「ゲホッゲホッ!」とむせながら剣を仕舞い込む。
「イース! ごめんなさい、私のせいで」
「森小屋へ行こう。解毒剤がまだ残っている」
イースを支えながら私は暗い森を歩いて行く。辛いはずなのに、あまり私に体重をかけないように気を配りながらランタンを片手に持って暗闇の森に明かりを燈してくれた。彼の優しさを振り絞るかのように。
「イース、すぐに解毒剤用意するね! 確かこの棚に…」
イースが前に解毒剤を用意してくれた記憶を頼りに次々と棚を開けて探していく。背後から聞こえるのは彼の苦しそうな息遣い。
私もあの花粉のせいで記憶を無くす程性欲で身体も心も支配をされた。欲求が底無しに溢れ出して、解消されずにいると次第に苦しみに変わっていったのを覚えている。
「あった!」
粉末が入った小袋を取って、急いで少量を取り分けようとスプーンを見つけて手に持つと
「はぁはぁはぁっっ……はぁっ…………」
背後から乱れたイースに腰回りをぎゅぅぅっと力強く抱き締められた。
「イース………っ!?」
「はぁっ……はぁ……っ」
「苦しいよね。今薬を用意するから、ぁっ…ひぃゃぅっ…っ!?」
熱を帯びた生暖かな舌が首筋を這う。
「イッ……イース……っっ………んんんっっ…ふぁぁ……っ!」
次第に舌は上へ上っていき、耳の穴に回る。まるで内耳から聞いているかのように、頭全体で彼の唾液音が響いていく。
彼の乱れた吐息が、一番……近い。
「はぁっ……はぁ……っ、いいの? このままだと僕に抱き尽くされるよ?」
「そ、それはぁ……はぁっ…ぁ…っ」
彼の大きな両手が私の胸に……っ。服の上から円を描くように揉み回していく。そこに胸を痛めつけるような荒々しさは無く、包み込むような優しさで。
彼に触れられて、身体中が火照ってくる。前回の花粉の苦しみから解放されたい感覚と違い………彼にワタシを委ねたくなる、甘美な欲求。
「いいよ……イースになら………」
「え…」
少し顔を振り向くと、彼は驚いた顔をしていた。同時に手の動きも止まる。
「私………話しかける勇気が無くて、ほとんどイースと喋ったことないけど………それでも……見ているだけだけど………イースのことが……ずっと……ずっと好きだったから……っ!」
花粉のせいで淫らに豹変したあなただとしても、私はあなたのためになるなら何だってしたい。
たとえそれが、男女が重なる行為だとしても。
「っっ!」
イースに身体ごと振り向かされ、彼と向かい合う。
切なそうな彼の顔を見れたのは一瞬で、すぐに抱き締められた。精一杯、離さぬように。
「やっと…………聞けた」
「えっ?」
吐息混じりでそう囁きながら、彼はもう少し、ぎゅ…、と抱き締めた。
「ごめん、シュガー。僕、かなり君に嘘をついている」
「ぇえっ!?」
彼の顔を見たくても身動きが取れず、彼の胸元に視線が固定をされたまま。
嘘って何だろう。告白をして、抱き締められて、シチュエーションとしては甘いはず………なのに、何か爆弾を投下されそうで怖い。
「まず………あの花粉は女性にしか影響が出ないから、僕は薬を飲まなくても大丈夫」
「えっ、でも、様子が…」
「それと、本当に騙していて申し訳なかったんだけど」
「えっ、何!?」
「僕たちには体の関係は無いんだ、本当は」
「ええっ!?」
そもそも妊娠する可能性すら無かったってこと!?
イースのことを襲ってなくてほっとした部分もあるけれど、でも、だったらどうしてあれから私を気遣ってくれていたのかわからなくなる。
「確かめたかったんだ。花粉に侵された君は僕のことを全身で求めようとしたから。シュガーの心に僕が居るのかって」
「そ、それは………っ」
告白をついさっきしたけれど、恥ずかしさが込み上がり、恋心を隠したくなる。単なる村娘が村一番の美男子に何年も片想いをしていたことを。
抱き締めていた彼の手が私の両肩をそっと掴み、私をじっと見下ろした。あ、いつか夢で見た彼の顔………。
「僕もだよ。ずっとシュガーのことが好きだった」
―――――僕もだよ。
まさか私にかけられていた言葉だったなんて……。
「シュガーの髪ってさ」
彼の指先がくるんっと私の毛先を絡める。夜に溶け込む程低く小さな声なのに、彼のほんのり温かな息が僅かに私の唇に当たる。
「カラメル色だよね。名前も相まって、熱で甘く溶かされてるみたいに」
彼の声が聞こえる度に唇が吐息で微熱を上げていく。
「好きだよ、シュガー」
そして、あなたの唇に溶かされていくの。
それから、耳、口の端、首筋、鎖骨、そして………私の全身が彼の唇に愛でられる度に、赤く火照り……。
辺りには誰もいない森小屋の中、甘くとろける夜を過ごした。
ずっと見ていただけであんなに遠いと感じていた彼が、ほら、すぐそこに……。
パン屋の朝は早い。
朝日が上る前には着替え終えて作業を始める。
だけど、今日は隣には長年想いを寄せていた彼。彼の滑らかな素肌に包まれながら眠りに落ち、彼の腕の中で朝を迎えた。互いの温もりを抱きながら。
イースの寝顔なんて初めて見た。それもとびきり近くから。私よりもまつ毛長いかも、なんて思いながら見てみる。
「見てるだけ?」
「えっあっ、起きてたの!?」
突然イースの目が見開き、思わず身体が驚きで強張った。
「うん、ちょうど今さっき」
「ごめんね、私が起こしちゃったのかも」
「そうだね。今度こそ逃げられないように捕まえておきたくなったのかも」
笑顔でサラッと何て、何て朝からお腹いっぱいになるようなるような言葉を……っ!!
あ、でも
「すぐ家に帰ってもいい? 家族が心配しているわ」
すっかり無断外泊をしてしまった。
ブレッドから森へ行ったと聞いただろうし、両親たちは気が気でないはず。それにイースのご両親だって。
「それなら大丈夫」
「え?」
あろうことか、イースは離すまいと横になったままぎゅっと抱き寄せた。
「そうそう、シュガーは人を簡単に信用し過ぎだぞ。エスメ嬢が僕が森へ行ったなんて言ったのは嘘で、ブレッドはあの後冷静に警備隊の方に来て僕が居るか確かめに来たんだ」
「えっ」
幼い弟よりも冷静さを欠いた姉。
「それからブレッドをおぶって急いでシュガーの家に行って、おじさんたちにはシュガーといつもの場所で待ち合わせしているだけだから心配しないで下さいって言っておいた」
「そう……でもまだ帰って来なかったら流石に心配するかも」
「娘さんと一晩共に居させて下さいとお願いもしてあるよ」
しれっと爽やかな笑顔で大胆発言!?
こんなの、こんなの、親にイースとしちゃってると思われちゃう!
「娘をどうぞ大切にしてくださいって」
恥ずかしくて死にそう。
こんなに簡単に娘を男と泊まらせていいの!? 私の親。
「最初にシュガーを助けて家まで送った時に、おじさんにお礼をしたいって言われたでしょ? 実はさ、翌朝に工房でおじさんとおばさんに、お礼はシュガーを振り向かせたら結婚をさせて欲しいって伝えてあるんだ」
「ぇえっ!?」
驚き要素が多すぎて頭と心臓がいくらあっても足りない。私よりも先にイースの気持ちを両親が知っていたり、それに、それに、今のさり気なく……。
「僕と結婚、してくれますか。シュガー」
彼の手が私の頭をそっと包む。初めてのデートで綺麗にしてくれた、私のカラメル色の髪を。
「末永く、よろしくお願いします」
朝の澄んだ空気の中、彼と誓いのキスを交わした。ぷくっと唇が僅かに弾けながら離れる音さえ耳に届く。
心臓が跳ね上がる。私のも彼のも……。
そして
「ん………」
少し、腰を彼から離した。というのも
「逃げないの」
「え、だって、その……お腹に当たってくるから……」
イースの硬いアレを避けたかったから。その方が良いかなと思ったのに、逆にまた腰をぐっと引き寄せられた。
「朝だからっていうのもあるけれど、またシュガーを食べちゃいたい」
「ぇえっ!? 昨日あんなにしたのに!?!?」
腰とか諸々体力的に身が持たない!
お構いなしにイースは布団の中で私に覆い被さる。
ああ、そんな顔で見下ろしたら何も抵抗出来ないわ。そんな、幸せそうに笑うあなたに。
「たったの一晩で僕の長年の想いが満たされると思った? 甘いよ、シュガー」
「ちょっとイース…………っ!? ぁっ……あぁああぁぁっっ」
それからまた私達は甘く溶け合った。飽きる程キスをし、肌に触れ、繋がっていく。今までのどこか遠慮した寂しさを埋めていくかのように。
彼にこんなにも愛されていたなんて、つくづく私は甘いのかもしれない。
数ある作品の中からご覧いただきありがとうございます!
初めての短編です。
まだまだ拙さはありますが、懸命に描きました、ギリギリのラインを。
もしよろしければご感想等をいただけたら本当に本当に本当に本当に嬉しいです。
一言でも長文でもどっちでも小躍りして喜びます。
他の私の作品もちらりとでも良いのでご覧いただけるとさらに嬉しいです。
読んで良かった、と少しでも思っていただけたら幸いです。
本当にありがとうございました!
2022-11-12
誤字脱字報告を頂き、訂正しました。
ご報告を下さった方、ありがとうございます!
確認不足で大変申し訳ございませんでした。