新しい香り袋
王宮の中に作られた衛兵の訓練場には、早朝だというのに訓練に励む衛兵達が多くいたが、彼らの足は止まっていた。普段よりも人が多いのは、ある人を一目見ようと多くの衛兵達が集まっているからだ。
皆の視線は、中央で手合わせする男女の二人組へ向けられていた。
まっすぐに向かってきた青風の拳を樂は細い腕で受け止める。
さすが永翔の右腕だと、樂は笑みを零した。
正確な型で、力もある。その代り、次の攻撃が手に取るようにわかってしまうのが難だが、ここまで自分に食らいついてきてくれたら十分やりがいがある。
樂がくるりと身をかわすたびに華やかな衣の裾が靡き、汗臭い訓練場が花の香りに包まれる。衛兵達は高揚した様子で、まるで舞っているような樂の剣さばきに夢中になっていた。
青風の顔を見て、樂はそろそろかと剣を持つ腕に力を入れる。
攻撃の手を速めると、青風の表情から余裕がなくなる。樂はなまった体を存分に動かし、疾風のような速さで青風を追い詰めていく。
戦っているはずなのに、その姿は舞っているかのように美しい。蘭譲りの華やかさとしなやかさがある剣さばきは、見た者を魅了する。
樂の一手に青風がよろめき地面に膝を付いた所で、周囲から拍手が起こった。
「…全く歯が立ちませんでした」
「日々の鍛錬の成果が十分出ていたわ。私の方こそ、最近腕がなまっていたから助かった」
青風を立ち上がらせ訓練場を出ようとすると、衛兵達が勢いよく集まってきた。特に若い青年達が多い。
我が先にと、樂に武術を見てほしいという衛兵たちの懇願に、樂は辺境での日々を思い出した。
「もちろん、私で良ければ…」
快く受け入れようとした時、そばにいた衛兵達が顔色を変え樂から数歩離れた。
その人が現われただけで、空気が変わる。
彼はその美しい容姿で皆を虜にする。ただ者ではない、そう思わせる何かも持っている。
いつもどんな時でさえ胡散臭い笑みを浮かべている玲俊が、人前で笑っていないのを久しぶりに見た。玲俊の静かな怒りを感じ取った衛兵達は、青ざめ逃げるように去っていった。
訓練場を出た樂は、王宮の長い回廊を歩きながら大きなため息をついた。
「久々に体を動かせたのに…」
「まだ病み上がりというに衛兵達の相手までして…こちらは肝が冷えました」
「まさか、小鈴が玲俊に報告したの?」
無事に王からの了承済みで樂の従者となった小鈴は、ずっと昔から樂に仕えていたからのような関係性になっていた。
小柄ですばしっこく、頭の両脇に作っているお団子頭の黒髪が可愛らしい。
痩せ細り苦労が見える少女だったが、今は質の良い衣を着こなし、樂に仕えることで自信がついたのか、びくびくしていた小鈴はいない。今はいきいきしている。
郁とも親しくなり、郁から医学を学んだり樂の力になろうと努力してくれているが、面倒見がよいということもありとても小言が多い。郁と錬から、無理をする樂を見張ってほしいと頼まれるほど今や樂のお眼付役だ。
先ほどは小鈴の目を盗み部屋を抜け出し、訓練場へ向かっていた青風を捕まえようやく体を動かせたところだったが、玲俊の登場で訓練場は静まり返った。
「していませんよ。私も樂様がいないと、どれだけ探したと思うんですか?衛兵たちが騒いでいたのを聞いて、玲俊殿下も急いで来たようです。殿下が来てくれて良かったですよ」
樂が剣を持たせてもらえない中、錬は武術の腕をかわれ衛兵の師範として、若者の指導にあたり忙しい。羨ましくてたまらない。
思い切り体を動かし、楽しい気分だった気持ちは大きく沈んだ。
「…小鈴はやけに玲俊の肩を持つわね」
「私は誰よりも、樂様の肩を持ってますよ。ただ、私では何を言っても無理をする樂様を止めれないので、今回は止めてくださった玲俊殿下に感謝しているだけです」
まだ長い月日が経っていなくとも、小鈴は樂のことを良く理解している。小鈴の小言がちくちくと胸に刺さる。
わざと嘆くように仰々しく言ってのける小鈴に、樂は居心地が悪くなり話を変えた。
「…小鈴が知っている玲俊ってどんな人?」
その問いに、小鈴は少し考えたあと答えた。
「…容姿端麗、品行方正、文武両道と完璧な人という印象で、陛下からの信頼も大変厚いようです。何よりあの見た目で、麗承一の麗人と言われるお人なので、令嬢達からの求愛が止まないと聞いていますが、玲俊殿下はいつもさらりと縁談を断るそうです。そのため…玲俊殿下には、ずっと想う人がいるのだと女官の中で噂になっていました。あの方に求愛されて断る人などいるのかと不思議です」
王宮へ上がったばかりの小鈴は、樂と玲俊の関係を知らない。昔を知らない小鈴に、樂が口を閉じたままでいると、小鈴は何か想い出しように声を上げた。
「あっ、似たような話ですが、永翔殿下もいつも縁談を断るので陛下たちは困っていると聞いています。血の繋がりなく樂様に本当に良くしてくれますし、あんなに誠実な方ならどんな令嬢も喜んで嫁ぐというのに…」
小鈴の話を聞きながら歩んでいると、前から嫌な人物が現れた。
「これは、樂公主。今朝は衛兵達から大人気だったと聞いています。お気に召した者でもいましたか?」
会った瞬間に嫌味を浴びせられ、樂は心の中で大きなため息をつく。
目を合わせると吊り上がった目で、馬鹿にしたようでにやりと笑われる。
仕官している芙飛将とは、王宮でも良く顔を合わせるようになった。飛将は、永翔の部下で兵部に所属し武術に自信があるため、特に樂を目の敵にしている。
「私の噂はそんなに有名なのかしら、それとも貴方は私の噂をいつも待っているのかしら?」
「まさか。聞きたくもないのに耳に入ってくるので困っているのです」
飛将はさらに皮肉な笑みを浮かべた。
「なら、忠告しておくわ。私の噂全てに反応していたら大変よ。私の噂を気にしていたら、貴方が気を休める暇はなくなってしまうわ」
母譲りの容姿で、樂は美しく微笑む。飛将の言葉で傷ついてなどやらない。
悔しそうに顔を歪めた飛将のそばを樂は笑みを浮かべたまま通り過ぎる。小走りで後ろをついてきた小鈴が、樂の耳元で呟いた。
「香翠公主が寺院へ行き、ようやく嫌味から解放されたと思ったら…次は飛将殿ですね」
王宮で、樂を疎む者は多い。
香翠の祝宴から数日後、香翠は寺院へ祈祷しに行った。
表向きは干ばつにあった地域のために王族を代表して祈祷を行うというものだが、何らかの形で香翠の行いが王へ伝わったようだ。
被災地で香翠が炊き出しを行ったが、貧しいもの達へ暴言を吐いたと、都では香翠の良くない噂で持ちきりだった。
その話を聞いた王は珍しく香翠へ憤慨し、王宮へ帰らず被災地の民のために尽くせとの命を出した。
華やかな王宮で、誰よりも甘やかされた彼女にとって、被災地での生活は牢獄のようなものだろう。
いつもなら王妃が香翠の我儘の後始末をする所だが、今回は王妃の手が回らない所まで事態を進めた者がいる。それが誰なのか、玲俊は何も言わない。
樂も知らぬふりをしているが、ようやく静かになったと思ったら、飛将が嫌味を言ってくる。芙家と華家の不仲が終わることはないだろうが、気にすることでもない。
飛将を無視したままその場を去ろうとした時、
「姉上、遅いから迎えに上がりました」
「…玲俊」
奥から現れた玲俊は、樂を見て先ほどの表情が嘘のような笑みを浮かべていた。胡散臭いが、子供のように無邪気な笑みだった。
玲俊は手にしていた若草色の上衣を樂の肩にかける。しっかりとかけると、満足そうに微笑む。あれから二人きりの時だけ、樂と呼ぶようになった。
最近、玲俊はこんな表情を良く見せる。その表情を見る度に、樂は心の中で途方に暮れてしまう。
「行きましょう。姉上」
無言のまま、玲俊の後をついていった。
七日後に迫った隣国である壮華国の使節団を迎えるため、樂は忙しい日々を過ごしていた。
樂は壮華の王と親しいことと、使節団の警護と王宮の警備のため辺境から帰ってきた。責任者である玲俊の補助として、共に計画を立てたり準備にあたっている。
正直、樂は不要なのではと思うほど、玲俊の用意は周到だった。
壮華の文化や、王の好みと性格を把握しており、誠意を伝えるための迎える準備は完璧に近かった。使節団と王宮の衛兵達の配置にも余念がない。
余裕の笑みを向けられると少々腹が立つが、王が彼に全てを任せた理由は良く分かった。
一人残った執務室で、樂は広い台に広げた都の地図をじっと見つめていた。
「まだ休まないのか?」
「兄上。都には長い間いなかったから不安で」
聞きなれた足音に、樂は顔を上げる。永翔はすたすたと執務室の中へと入ると隣に腰かけた。
「天女様がそんなに何を悩んでいるんだ?」
「私を何だと思ってるの?」
そう言い返すと、永翔は嬉しそうにくしゃりと笑う。
「俺にとっては可愛いい妹だ。今回の任務のことだろう?協力するよ」
「ありがとう。何か…騒動を起こせそうな場所があれば教えてほしいの」
壮華国の使節団は、同盟のためにやってくる。
しかし、壮華国には第一王子が率いる麗承を配下に置くべきだという過激派がいる。今回はその第一王子がやってくる。
第一王子は、攻撃的で危険な男だ。今は唯一逆らうことができない父である王の手前、大人しくしているようだが、彼は本気で争いを求めている目をしている。
「第一王子が騒ぎを起こすと?」
「彼が大人しく麗承と手を組もうとしているなんて思えないの。彼は父の目を盗み、辺境で何度も奇襲をしかけて来たわ。明らかな敵意がある。今は王が手綱を握ってくれているけれど、彼が王座につく日が来ると思うと頭が痛い」
「他の王子達は?」
「温和で優しいと聞いているけれど、第一王子のあの性格ならまずは弟達から排除するでしょうね」
樂は目を瞑り、あの第一王子の気持ちになって考えていた。
どうしても麗承との戦を起こしたいとしたら、自分ならどうするだろうか。
野心はあるが、父である絶対的な王がいる。王は息子の性格を理解している。
戦を起こしたい隣国と同盟を結ぶことになり、使節団の顔として隣国へ行かされる。彼が怪しい行動をとらないように、異例なことにお目付け役で壮華の王まで訪れる。
麗承も完璧な警備で迎える。まず王宮で怪しい行動はとれないだろう。
そう考えた時、何かを起こすなら都の中でになる。
あくまで麗承の方が手を出したという形にしなくてはならない。都という範囲は広すぎるのに、樂はここ五年の都を知らない。
永翔の助言を聞きながら、ああではないこうではないと目星の場所を付けていると扉の前に影を感じた。
「…だれ?」
樂は走って扉を開いて外を見たが誰もいない。すぐに後ろに駆け寄ってきた永翔に大丈夫と頷いて、二人はまた地図の前へ戻った。
部屋へ戻ると、小鈴が待ち構えていた。
すぐに働き過ぎだや、何かをたべてくださいと、母親のような小言が散々振ってきた。
食事をとり湯あみを終わらせると、樂は離れようとしない小鈴を休ませた。彼女が休んだのを確認して、樂はいつものように星美苑の庭へと出る。
星美苑は王宮の端っこにあり塀による囲まれている。
華やかな王宮の中では質素に見えるが、広々とした庭は小さな池まであり風流がある。また木彫の屋敷は、繊細な造りで彫刻が施され、部屋の造りも過ごしやすく樂は気に入っている。
調度品も香翠の部屋のような華やかさはないが、品がある質が良い寝台や棚など、王により十分すぎるほどの品が集められている。
樂はいつものように、庭に置かれた石造りの椅子に腰かけ星空を見上げた。
今日も、夜空には宝石のような星達が瞬いている。夜空を見上げるたびに、辺境での日々を思い出し懐かしさに包まれる。
そうしていると、彼は当たり前のようにやってきた。
藍色長い上衣を着こなし、髪はおろしている。目の前の椅子に腰かけた玲俊に驚くことなく、樂は声をかけた。
「さっき執務室に来たのは貴方だったのね?」
「邪魔だったようだから」
不機嫌だなと、その表情を見てわかった。玲俊は、すました様子でわずかに首を傾げる。
昔、何か訴えたい時にこんな顔をして、樂の関心を引いていた。
玲俊は近頃、昔のような感情や仕草を見せるようになった。それが自然になのか、故意かなのかはわからない。
黙っていると、玲俊は大げさに石造りの台の上に木箱を置いた。蓋を開けると、蜜柑の砂糖漬けが入っていた。夜風にのり、爽やかな香りが樂の鼻をかすめていく。
「君が好きな菓子だよ」
「夜分に甘いものを食べさせる気?」
「眠れないときは、好きな香りをかぐと良い」
「私が眠れていないと?」
樂は玲俊をじっと見つめた。いつもこうだ。関われば関わるほど、彼が何を考えているのかわからなくなる。
「小鈴と錬が寝静まった後、いつもこの庭で星を眺めているだろう?」
「私を見張っているの?」
樂は別に驚かなかった。
王が今回、玲俊の補助に樂をつけたということは、彼に樂を見張らせたいと意志もあるはずだ。
永翔はあの誠実で優しい性格から、樂を疑うことなどできない。天女の刃衣を動かすことができる樂が邪心を抱いていないか。それを確かめさせるに、玲俊が選ばれたのだろう。
玲俊は否定することもなく笑みを浮かべたが、
「君に会いたくて庭の前まで来たら、明かりがついていた、と言っても信じないだろう?好きなように解釈していい。無理に眠れとは言わないが、君の体が心配なんだ」
困ったように笑った玲俊に、樂は眉を寄せた。
やはり、どこまで信じていいかわからない。彼が本気でそう思ってくれているの疑ってしまうのは、自分が玲俊を酷く傷つけたという負い目があるからである。
約束を破ったのは樂の方だ。
彼は最後まで手を放そうとしなかったに、振り払ったのは明らかに自分だ。だから、こんなにも玲俊の言葉を疑うことしかできない。
樂は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「…王宮に帰ってきたから眠れないわけではないわ。いつもこうなの。戦場へ出てから…眠れなくなった」
死を恐れない天女と言われたことがある。
辺境という地で、国を守るために仲間を守るために人を斬った。初めて人を斬った日は、涙と震えが止まらかった。
剣を持つことは好きだ。一番己に向いてることだとは思う。
錬の父である鄧将軍に、戦場での戦い方を学んだ。
元々剣の才があった樂を公主だからと、蘭の娘だからと、特別扱いすることなく、逆に戦場では女子というだけで狙われ不利になると、誰よりも厳しい訓練を与えた。
もう剣を持つ力さえない時も、歩く余力さえ残っていなくても、鄧将軍は歩みを止めずに進むことを樂に教えた。
血のにじむような経験のおかげで、戦場という地では無敵になったような気持ちにさえなる。誰かを守りたいという感情が樂を強くしてくれる。
しかし、眠りにつこうとする誰かを失う恐怖や、自分が人を傷つけたという恐怖が恐ろしいほど襲ってくる。いつしか、目を瞑ることが怖くて眠れなくなった。
体を動かしたいのは、剣を持ちたいのは、そうしたら強い自分を保っていられるからだ。一人の女子に戻ってしまうと、ただの怖がりに戻ってしまう。
妹の郁にでさえ零せない弱音を信用できないと思っている彼に見せてしまったのか、自分に問いかけてしまうが感傷に侵っていたせいにする。
「戦場で微笑んでいる私が、怖くて眠れないなんて…笑えるでしょ?」
樂は冗談めいてそう笑ったが、玲俊は真面目な表情で樂を見つめていた。
次第に辛そうに眉を寄せる。黒なのに光の加減で色が変わる綺麗な瞳が大きく揺らいだように見えた。
そんな顔で見ないほしい。
樂らしくないと、笑ってほしかった。そうでないと、苦しくても辛くても泣くことを忘れてしまったはずなのに、涙が零れてしまいそうになる。
涙腺を抑える術はもうわかっている。
大きく深呼吸して唇を噛みしめた時、樂は泣いていないのに、まるで泣いているかのように玲俊は樂の頭にそっと触れた。まるで慰めるように。
「俺も五年前から眠れなくなった。俺のいない所で、樂が泣いていると思うと眠れなくなった。…笑えるだろう?」
聞き慣れない低い声があまりに真剣で、泣いてしまうのではないかと思うほど震えていて、樂は喉の奥が熱くなるのを感じた。
「…何それ。笑えるわ…笑いが止まらなくなりそうよ」
荒々しくそう絞り出すと、玲俊はなぜか嬉しそうに微笑んだ。そして、胸元からあるものを取りだした。
「…香り袋」
男性の手とは思えない美しい手の上にのせられた。男性用の香り袋だった。
新しい白藍色の絹で作られた香り袋は、失くした香り袋でないことはわかるとが、同じ形に同じ色をしていた。
「眠れるように…代わりのものが必要だろ?」
「玲俊が持っていたの?」
驚きを隠せず、樂は立ち上がった。
あんなにぼろぼろになるまで、大事に持っていたことを知られてしまった。
戸惑いや、恥ずかしいという感情が一斉に押し寄せてきたが、最後に残ったのは玲俊がどう感じたのだろうかという疑問だ。
「あれは俺がもらう。これを代わりにすると良い」
玲俊も立ち上がると有無を言わせず、香り袋を樂の手に握らせた。甘く優しい香り。あの時と同じ香りに樂は目を見開いた。
「…もらっておくわ」
そう言って香り袋を両手で包み込むと、玲俊は穏やかな顔で頷いた。
「良い子だ」
そして、玲俊はこのままではまた体を冷やすと、樂を強引に部屋の中へと戻らせた。
一人になり新台の上で、新しい香り袋をぎゅっと握りしめる。手放すつもりだったに、新しい香り袋を手にしてしまった。
いつか手放すことができるだろうか。