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真の勝者


 派手な調度品が並べられた()家の屋敷の一室で、(いく)はお気に入りの猫脚の椅子に腰かけ、手巾(しゅきん)に針を通していた。手巾に咲き誇る花々の刺繍(ししゅう)を見て、満足げに微笑む。


 昔から武術が得意な双子の姉とは正反対で、郁は刺繍や料理が得意だった。樂は逆に女子らしいことが苦手だ。


 自慢の母に似て美しい美貌を持つ樂は、表舞台に立ってることもあり皆の憧れの女性で、敵も多いが民や兵達からは(あが)められている。


 そんな姉とは比べられることは多いが、郁は樂に劣等感など持ったことはない。


 逆に樂が苦手なものを自分が補う。樂が人に見せることがない苦しみや悲しみを少しでも背負ってあげたい。そう思っている。


 貴族の令嬢でありながら、医術を学び始めたのもそれが理由だった。


 樂は病にかかっても傷を負っても自分の体を(かえり)みず、自らの命を盾に皆を守ろうとする。そんな姉のためにできることは、医術を学びおせっかいを焼くことだ。


 それ以外にも、樂がそばにいるうちにやってあげたいことがたくさんある。


 好物の料理も振る舞ってあげたいし、似合う衣も見繕(みつくろ)ってあげたい。樂の持ち物にできる限りの刺繍をほどこすというのも、その中の一つだった。


 ようやく形になってきた刺繍を見て、郁は肩をほぐすために手を伸ばす。窓の外を見て雨が降っていることに気づいた時、(りく)が隣へとやってきた。


郁姉(いくねえ)(れん)に縫ってるの?」


「違うわ。これは樂によ」


 そう言うと、陸は呆れたように息を吐いた。


 歳が離れた弟の陸は、亡き母似の樂の前では大人しいくせに、郁の前では年上かと錯覚してしまうほど上から目線である。


 私が姉だと言いたくなるが、樂から郁を守るように言いつけられている陸なりの気配りだ。


 陸も幼いながらに、樂が華家の犠牲になっていることを理解しているのだろう。華家の皆は、樂に頭が上がらない。


「錬にも縫ってるの、僕が知らないとでも?」


「もう…何が言いたのよ?」


 父似の童顔でぎろりと(にら)んでも、陸には全くきかない。


「早く錬に好きって言ってしまえばいいのに」


「なっ…!錬は…樂のことしか考えてないわ」


 適当に理由をつけ、大人びたその端整な顔を再び(にら)むと、陸は大げさに肩をすくめた。


「錬は確かに姉上のことを大事に想っているけど、忠誠心からってわかってるだろう?郁姉のまえでは違う顔を見せてると思うけど」


「それは…私が樂の姉妹だからよ」


 錬を狙う令嬢達に、言い訳として何度も言った言葉を弟に伝えると、


「何で、郁姉は錬への気持ち隠すかな…。錬も錬で…永遠に隠し続けそうだし。どうせ、自分たちだけ幸せになれないとか思ってるんでしょう?」


 陸は大人びた表情で、そう確信をついてきた。その言葉に、郁は笑みを失くす。


 ひやりとした何かが胸を刺した。わざと刺繍から視線を外さず、止めていた手を動かす。


 樂は家族を守るために、自ら初恋を手放した。


 もう過去のことだと笑っているが、樂にとって玲俊の手を手放すことがどれだけ辛かったか、郁には良く分かる。そして、まだ叶わぬ想いを抱き続けていることも。


 何も応えない郁に、陸は盛大なため息をついた。


「何で郁姉はさ…姉上は幸せになれないって勝手に決めつけてるの?」


「…樂と玲俊殿下は姉弟になってしまったし、何より…玲俊殿下は変わってしまった」


 樂は知らない話がある。


 母(らん)がいた頃は、蘭が王の従兄妹(いとこ)だったこともあり王宮へと良く出入りしていた。そこで、樂と玲俊は出会った。


 玲俊は体が弱いくせに王宮を何度も抜け出し、華家に忍び込んでいたが、郁も体が弱く寝込むことが多かったため樂は郁の世話で忙しかった。


 そのため郁と玲俊は、樂に隠れてどこか敵対し合っていた所がある。樂の関心を得た方が勝者。


 本人が知らない所で身勝手な勝負を始め、二人は泣き虫で甘えん坊と言われるようになった。


 あの日も王が開いた祝宴で、両親と共に郁と樂も王宮へ呼ばれていた。


 郁はあまり王宮が好きではなかった。それは、華家を良く思わない公主香翠(こうすい)や、第二王子の凌成(りょうせい)がいじめてくるからだ。


 二人でも強気な樂は手強いらしく、郁が一人の時を狙って嫌味を言ってきたり、ひどい時は手まで出してきた。


 あの祝宴の日もそうで、人気がない広い宮中の回廊で凌成がわざと郁を転ばせた。


『姉がいないと…一人では何もできないんだな』


 悔しいことに、郁は意地悪げに歪む顔を見上げることしかできなかった。地面についた郁の手を凌成が踏みつけようとした時、


『それは兄さんもだろう?』


 どこからか現れた玲俊が、凌成の手を掴んで振り払った。


 凌成は後ずさりながらも玲俊へ拳を上げたが、簡単に避けられる。諦めずに殴りかかろうとした凌成の手を玲俊が細い腕で掴んで止めた。


『お前…』


 凌成は驚いたように玲俊の顔を凝視した後、悔しそうに去っていった。郁も、華奢(きゃしゃ)なくせに(たくま)しく見える玲俊の背中をぽかんと見つめた。


 いつも凌成にいじめられ、泣きついている玲俊はどこへ行ったのか。


『何で…』

 

 玲俊は振り返ると、郁の言いたいことが伝わったようで不機嫌そうに下を向いた。


『…郁が傷つくと樂が悲しむから、今のは仕方ないだろう…』


 二人の間に気まずい沈黙の時間が走ったが、郁を探しに現れた樂の姿を見た途端、玲俊の表情が変わった。


『郁!…玲俊もいたの?』


『樂…!』


今にも泣きそうな顔で樂に抱きつく玲俊の姿に、郁は何とも言えず固まった。


 彼はただの泣き虫で甘えん坊の王子ではない。


 顔が美しいだけの頼りない王子と周囲から(ささや)かられても、彼にとってはどうでもいいことなのだ。


 そこまでして樂を独り占めしていたのかと最初は腹が立ったが、嬉しそうに樂へ微笑む姿を見ると、郁は素直に負けを認めてしまった。それからは、樂の隣を良く譲っていたように思う。


 きっとこの人は樂のためなら、何だってするのだろう。


 そう思うほど玲俊の樂への想いは強いと感じていた。そのため、残酷な形で引き裂かれてしまった二人の想いの行き場がどうなってしまうのか怖い。


 樂が辺境にいる五年間、玲俊と樂は一切連絡は取っていなかった。


 表向き玲俊は、樂へ冷たい態度をとっているようには見えるが、結果的には樂の立場を守る行動をとっているようにも見える。


 あの方を信用していいのか、ずっと悩んでいる。

 

 国一の君子と言われる美しい笑みの下に、計り知れない何かがあるような気がしてどうしても疑ってしまう。


 郁は、樂が玲俊によって傷つくことを一番恐れている。


 もしも、玲俊のあの強い想いが別の人へ向けられていたとしても樂は傷つつき、あの想いが残っていたとしても姉弟になってしまった二人が結ばれる未来はない。


 どっちにしろ樂は、愛する人に傷つけられることになる。


 そんな残酷な運命を辿る姉のそばで、自分だけ初恋を実らせるなどできない。


 そう考え込んでいると、郁の顔のそばで陸がぱちんと両手で音をならした。はっとして顔を上げる。


「父上や郁姉は心配してるけれど、僕は意外と姉上も幸せになると思うよ」


「…陸、まさか何か知ってるの?」


 やけに自信があるその顔に、郁は疑問を持った。


「…いや何も」


「その態度…何か知ってるでしょう?」


「…知らないよ」


 逃げ回る陸を追いかけていると、長年仕えてくれているばあやが血相を変えて部屋へと入ってきた。その後ろには、びしょ濡れになった見知らぬ娘を抱いた錬の姿があった。








 居てもたってもいられず、郁は部屋の中を歩き回っていた。


 もう夜は明けそうだが、まだ雨は振りやまず外は真っ暗だ。陸は無理やり部屋へと戻らせたが、きっと不安で寝付けていないだろう。


 隣の部屋では、樂が助けたという娘小鈴(しょうりん)が休んでいる。彼女は相当弱っていたが、郁の看病で目を覚ましてくれた。


 彼女は樂を案じ続け、瞳から零れ落ちる大粒の涙が止まることがなかった。今は父と錬が看てくれている。


 早く王宮へ向かいたいが、深夜に王宮へ勝手に入ることは許されない。結局、郁一人で何もできないこの状況が歯がゆくてたまらなかった。


 我慢できずに傘を差し門の前でうろうろしていると、飛ばして来た馬車が目の前で勢いよく止まった。中から永翔(えいしょう)のお付きである青風(せいふう)が顔を出したのを確認して、郁は馬車の中へと飛び乗った。


「…遅くなってすまない」


「いえ、永翔殿下には感謝しています。今の…状況は?」


 錬からいきさつを聞いた郁達が助けを求めたのは、第一王子である永翔だった。永翔は迷うことなく、樂を守るために動いていてくれた。


 永翔は王族の中で、唯一樂を大切に想ってくれている。


 彼もまた、初恋の人が妹になるという残酷な運命を受け入れた人だ。

 

 頭が切れるくせに恋愛事には無頓着な樂は気付いてないが、永翔は樂を女子として想っている。もちろん永翔は、不憫な妹を優しく見守る兄として、その想いを上手く隠している。


 五年前に、仲睦まじい樂と玲俊の姿を切なげに見つめる姿を目にしていなかったら、郁も気づかなかっただろう。


「小鈴の無実を証明しようと調べたが、無実の証拠は全て握り潰されていた。今、父上へ樂を許すよう文を届けさせているが、もう樂の体は限界のはずだ。こうなったら…強行突破しかない。責任は俺がとる」


 悔しそうに言葉を吐いた永翔に、郁は深く頭を下げた。胸の前で両手を握り、樂の無事を心から祈る。


 みんな、樂のことを強いという。


 確かに樂は強い人だが、最初から強かったわけではない。本当は優しく弱い人なのだ。


 人が悲しみ苦しんでいるのを見ていられない。そんな姿を見るならば、自分が辛い目に合えばいいと、自分が強くなって守ってあげればいいと思う人なのだ。


 そんな優しい姉は今王宮という恐ろしく悲しい場所で、拷問とでもいうような酷い所業に合いながら、たった一人で戦っているのに、郁は零れ落ちる涙を我慢することができなかった。


 いつも姉の代わりに、涙を流すことしかできない。


 馬車の歩みが、こんなにも遅いと感じたことはなかった。


 王宮の裏門で、馬車は止められた。鋭い目つきの衛兵たちに囲まれ緊張が走ったが、永翔のおかげで王宮の中へ入ることができた。


 その間、郁は馬車の中で息を潜め身を隠していたが、千香殿の近くまで行くと、もう隠れることなど忘れて走り出した。


 千香(せんか)殿の庭へと入ろうした時、郁と永翔は足を止めた。


 雨の音が全てを掻き消していく中、ぐったりとした樂を横抱きに抱いたまま、歩いてくる玲俊がいた。樂は意識を失っている。


 玲俊は郁達に気づくと、冷たい視線を向けた。


 その傍で樂が濡れぬように、玲俊の従者である柊敬信(しゅうけいしん)が傘を差している。傘は二人分の広さはなく、傘が守っているのは樂だけだ。


 玲俊の姿に、郁は息をのんだ。本当に絵のような人だ。暗闇の中で、白い肌が映える。


 雨が滴るその姿は、生身の人とは思えない美しさがあった。


「…樂!」


 駆け寄った永翔が樂に触れようとしたが、玲俊は樂を抱いたままその手を避ける。永翔へ向けられた鋭い視線に、郁の足まで止まってしまった。


 やはりこの方は、闇が続くような目をするようになってしまった。近づくのは許さないと言っているような視線に、郁の足まで動かなくなる。


「兄上、樂を守ると言ったくせに…こんなものですか?」


 玲俊は皮肉めいた薄い笑みを称えているが、その瞳には隠しきれない怒りが見える。


「もちろん…守る。今父へ文を送っている。全ての責任は私がとるつもりだ」


 永翔は行きようのない想いをぶつけるかのように拳を固く握っていた。その姿からは覚悟が伝わるが、玲俊は声を出して笑った。


 こんな状況でどうして笑えるのかと郁は思ったが、すぐにその視線は冷たいものへ変わり、永翔を責めるように見た。


「責任?その必要はありません。父上への文は、私が止めさせました。私の部下が預かっているはずです」


「…何だと?」


「小鈴の無実を皆へ知らせ、小鈴は樂へ譲るよう、香翠とはもう話を付けています。父上へは、香翠が上手く説明するでしょう。もちろん、それなりの責任は取らさせます」


「お前は…いったい何をしたいんだ?」


 静かに見守っていた郁も同じ疑問を持った。


「そこまで兄上に話す必要がありますか?今は樂を休ませるほうが先です」


 そのままそばを通り過ぎようとした玲俊の腕を永翔が強く掴んだ。その反動で、意識がない樂の衣から何かが落ちる。


 郁はゆっくり近づくと、玲俊にかしずくように落し物を拾った。立ち上がりそれを確かめると、とっさにそれを胸に押し付けるように抱きしめる。


 樂の大切な香り袋だった。


 元々古くぼろぼろだった香り袋は水たまりに落ち、庭の泥で真っ黒になっていた。もう…使うことはできないだろう。


「樂の大事なものなのに…」


 玲俊に抱かれ眠っている姉の顔に生気はない。体が弱い人ならば命の危険だってある行為だ。


 なぜ姉は、こんな酷い目に合わなければいけないのか。あまりに樂が(あわ)れで可哀想で、郁の腫れ上がった目からはまた涙があふれ出る。


 香り袋を握りしめていると、玲俊から痛いほどの視線を感じた。玲俊は香り袋を固まったように凝視していた。


「それは…」


「…何でもないです」


 と慌てて隠そうとしたが、


「それを…渡してくれないか。…頼む」


 掠れた声は、気のせいか泣いているのかと思うほど震えていた。郁は悩んだすえ、差し出された玲俊の左手に恐る恐る香り袋を置いた。


 すると玲俊は瞳を閉じ、唇を噛みしめるように香り袋を握りしていた。何かをこらえるように息を吐き、瞳を開け迷わず樂へ視線を向ける。


 樂を支えている右手で優しく樂の頭を撫でた。まるで壊れ物に触れるように優しい手つきだった。


 彼は、自分が渡した香り袋だとわかっているのだろうか。


 そこには、胡散臭(うさんくさ)いと思う完璧な君子の姿はなかった。


 見ているこちらの胸まで痛くなるような顔で樂を見つめ、最後は愛おしそうに樂の頭を自分の胸にそっと抱き寄せる。


 その姿を見て、郁は無性に泣きたくなってたまらなかった。











 あの笛の音だ。ゆったりとしているが隠しきれない切ない曲調は、胸を酷く締め付ける。


 何の曲かは知らないが、この音を聞くとどうしても戻ることがない初恋の記憶が蘇り、心の中に幼き少年が浮かぶ。


 もう少しこの音を聞いていたいと思ったが、誰かに必死に呼ばれている気がして重たい(まぶた)を開いた。眩しさに目を細めた途端、細い腕が伸びて来た。


「…目覚めたのね。良かった!」


「郁…」


 泣き腫らした目の侑が、樂の上に覆いかぶさるようにのしかかってきた。よしよしと、小さな頭を撫でる。その隣には、永翔の姿もあった。


 人が好さそうな端正な顔は、明らかにやつれている。目覚めた樂を見てほっとしているのと同時に、その表情は自分自身を責めていた。


「兄上、心配をかけてごめんなさい」


「守れなくて…すまない」


「兄上のことだから、私のためにたくさん苦労したのでしょう?ありがとう」


 そう言うと、永翔は言葉に詰まりながら樂の手をそっと握った。細長い指を確かめるように触れる。


 少し離れた所から、その様子を見守っていた錬と目が合う。


「錬、苦労かけたわね」


「今回は、さすがに(きも)を冷やしたぞ」


 寝不足の顔でため息をついた後、


「でも、樂らしいよ」


 と諦めたように(めずら)しく笑った。その後、錬は部屋の奥で肩を震わせている娘へ目を向けた。どうするかと、目で尋ねてくる。


「小鈴、顔を上げて。私の所へ来てくれる?」


 樂はそう声をかけ、郁に支えられながら体を起こし寝台に腰かける形になった。小鈴は歯を食いしばりながら樂の目の前まで来ると、床に膝を付き深く頭を下げた。


「私のせいで…申し訳ありません」


「貴方のせいではないわ。そもそも、私達の姉妹喧嘩が原因よ。貴方は巻き込まれただけ」


 夜明け前まで跪き続けていた樂だったが、香翠は自分だけ濡れないように傘を差しながら樂の元まで来た。


 あくまで自分の立場が上だという態度は変わらなかったが、その表情は明らかに焦っていた。


 小鈴の無実が証明されたため罰は受けなくいいと、不服そうに告げた。濡れ衣を着せ罰を強要した代わりに、小鈴を樂付きにすると自ら進言してきた。


 実は王妃と香翠が手を回したことにより、樂を世話する女官は手配されていなかった。


 そのことも含め香翠から王妃には話をつける。その代り、今回の件は王の耳に入れないことを条件に出して来た。


 小鈴の命など何とも思っていないくせ、自分の身を守るためならば簡単に利用する。自分の身ばかりを考えている義妹の姿に、体が辛い状況でも笑みが出て来た。


「小鈴に手を出さないなら、何でもいいわ」


 そう告げると、香翠は了承し、雨で濡れてしまうとすぐに去って行った。


 王宮の者の口は軽い。どんな形であれ、今回のことは王の耳へ届くだろうが、王が実の娘に重い罰を科すことはない。


 あの香翠が潔く小鈴を手放すだけでも十分と言っていいだろう。


 感覚が無くなった足を動かし立ち上がった所で、意識を失ってしまったのは良く覚えている。


 樂はまだ震えている小鈴へ優しい表情を向けた。


「小鈴、貴方の兄は小海(しょうかい)でしょう?」


「兄を…覚えてくれているのですか?」


「もちろん」

 

 小鈴が、樂を恨んだ理由は王宮の兵であった兄が原因だと言っていた。香翠の話は、全てが嘘ではない。


 樂は辺境で小海と出会い、共に戦ったことがある。


 彼は小柄だが勇敢で真面目な青年であったが、辺境で病にかかった。腕のある医者にも診てもらったが回復が難しいということで、樂は家族と最後の時間を過ごしてほしいと都へ返した。


 この命は国を守るために使うと、小海は最後まで帰ることを渋っていた。


 それでも、樂は彼を無理やり都へ帰した。国を守るために戦ってきた小海の尊厳を傷つける行動だとわかっていたため、恨まれることも覚悟の上だった。


 小鈴は瞳に涙をため、頭を大きく横に振りながら口を開いた。 


「兄は貴方のことを恨んでなんかいない…逆に感謝していました。樂様のおかげで、最後に家族と幸せな時間を過ごすことができたと。兄は…あんなに美しく優しい人はいないと、いつも樂様のことを嬉しそうに話していました。いつか、樂様に会わせたいと言っていましたが、まさかこんな形で…」


 顔色が悪くやつれた樂の顔を眺め、小鈴は顔を歪め辛そうに視線を落とした。樂はそんな小鈴の手を握り、顔を上げさせた。


「私も小海から、可愛い妹たちがいると聞いていたのよ。特に長女は自分のかわりに幼い姉弟たちの面倒をしっかり見てくれて、自慢の妹だと良く話してた」


「兄が亡くなり…私が家族を養うしかなく下働きとして王宮へ入りました。そこで私の兄が辺境の兵だったという話が伝わり、香翠様に目をつけられてしまい…」


 樂のことを貶めようとした香翠に目をつけられたということだ。


「家族を盾に取られたのでしょう?」


「…はい…」


 小鈴は突然、香翠のお付きに選ばれた。


 それだけならよかったが、恐ろしいことを告げられた。樂が香翠を(おとし)めたように見せるため、樂の贈り物に毒葉を入れるように命令されたのだ。


 実行しなければ家族の命はないと、大切な家族を人質にとられ誰にも助けを求めることができなかった。


 そのまま当日を迎え、家族を人質にとられても、小鈴は兄が慕っていた樂を傷つけるができず葉毒を入れなかった。


 命がけの決断だったが、結局玉泉(ぎょくせん)が葉毒を入れており、樂は自らのその疑いを晴らした。樂に害が及ばなかったことにほっとしたが、香翠が何のために自分を巻き込んだか、その後良く理解した。


 樂が小鈴を見捨てないとわかっていて、香翠は小鈴を利用していた。


 小鈴が悪事に加担しなくても、小鈴は樂を傷つける(こま)となってしまったと、涙ながらに全てを話してくれた。


 そんな彼女を樂は母のように大きく包み込んだ。


「もう大丈夫よ。これからは、貴方の事は私が守るわ」


「まるで(めと)るような言い方だな」


 呆れたような錬の言葉で、樂の部屋は笑いに包まれた。







 夜が暗くなるまで皆そばにいてくれたが、郁は帰らせ、小鈴と錬は早く休ませた。樂にはどうしても、一人で確かめたいことがあった。


 冷え切った体は温まったが、(ひざまず)き続けた膝は腫れあがり、郁からも医者からも絶対に安静にするようにと言いつけられたが、一人になった途端、樂は壁に手を付きながら部屋中を歩き回る。


 それでも、目的のものは見つからない。


 昨日、玲俊から貰った香り袋を衣に入れたまま千香(せんか)殿へ向かったはずだが、目覚めると無くなっていた。あれは、樂にとって初恋の形見だ。


 あの香り袋を見ていないかと郁に尋ねたが、困った顔でわからないと言う返事が返ってきた。


 部屋にないのならば、庭で落とした可能性が高い。まずは星美(せいび)苑の庭へ出た。


 歩みを進めるたびに膝が痛むが、腰をかがめ香り袋が落ちてないか確認していく。どんなに探しても見つからない。


 樂は力尽きたように、その場にかがみこんだ。


 昨日は雨で視界は悪く、地面は水たまりばかりだった。外で落としていたら、誰かに踏まれている可能性もある。また戻ってきたとしても、もう原形はないだろう。


 いつかは手放さなければならないものだ。


 込み上げてきた想いを堪えるため、瞳を閉じて大きく息をついた。これが…天命なのかもしれないと、自分に言い聞かせる。


 立ち上がろうと顔を上げた時、誰かが庭へ入ってきた。


 見慣れない姿にすぐ気づかなかったが、それは玲俊だった。珍しく暗い色の衣を身につけ、その後ろに仕えている敬信(けいしん)は木箱を大切そうに抱えている。


 庭にかがみこむ樂を見た途端、玲俊は怖い顔で近づいてくると有無を言わずに樂を抱き上げた。


 突然のできごとに樂は抵抗したが、軽々と抱き上げられ暴れると冷たい目に睨まれる。


「…あれだけ体を冷やして、まだ冷やし足りないのか?」


 確かにこれ以上冷えは禁物だと、郁たちからも散々言いつけられていた。仕方なく体を支えるため玲俊の首に手を回すと、玲俊は自分の部屋かと思うほど自然に樂の居室に入った。


 後ろをついてきていた敬信がすかさず寝台の布団をずらすと、玲俊は寝台の上に樂を下ろした。


 樂が態勢を整えたのを確認して、樂の足元に丁寧な手つきで布団をかける。


 敬信は寝台のそばの机に木箱を置くと、頭を下げて部屋を出て行く。樂が黙っていると、玲俊は木箱の中からお椀を取りだし樂の寝台の端に腰かけた。


「体を温める薬だ」


 (さじ)で薬をすくうと、当たり前のように樂の口元へ差し出した。


 どうしていいかわからず玲俊を見たが、玲俊は子に薬を飲ませる母のように、また有無を言わせず匙を前に出す。真剣な表情に戸惑いながら、樂は差し出された薬を飲んだ。


 薬を飲んだのを確認すると、玲俊は樂を仰向けに寝かせた。


 樂の肩が隠れるまで布団をしっかりかけ、流れる様な手つきで樂の前髪を掻き上げる。


 慣れたような手つきに一瞬だけ胸が痛んだが、玲俊の視線はそらされることなく樂へ真っ直ぐ向けられている。


「…ありがとう」


 ぶっきらぼうにそう言うと、玲俊は一瞬目を見開いたがすぐにいつもの笑みを張り付ける。


「何のこと?」


「今回の件は、貴方が動いてくれたのでしょう?」


「なぜ、そう思う?」


「香翠が自ら折れるなどまずありえないけれど、香翠が逆らえない人は三人いる。陛下と王妃と、貴方。二人が動くとは思えないし、香翠が最も恐れるのは貴女に嫌われることだもの。どこからが、貴方の思うつぼなのかはわからないけれど」


 永翔たちから、玲俊の言動は聞いた。おそらく小鈴の無実の証拠を握りつぶし、樂を開放するように香翠を動かしたのは玲俊だろう。


「小鈴の兄と君が知り合いだったとは、予想外だったよ」


 予想外と言いながら、その表情は全く驚いていない。


「貴方は香翠の企みを知っていたの?」


 だからあんなにも樂が祝宴に来るのを止めたのか。


「予想外だったと、言っただろう?ただ妹の性格はわかっているつもりだ。香翠は何らかの形で君を貶める。まさか、ここまで君の性格を読んでくるとは思わなかったよ。香翠は本当に君が好きらしい」


 冗談でも好きだと言う言葉で片づけないでほしいが、樂の存在が香翠の何かを掻き立てるのは事実なのだろう。


 樂は玲俊の顔をじっと見つめた。


「貴方が私のために無条件に動くとは思えない。結局、今回の件は貴方の…満足な結果になったの?」


「あぁ、香翠の策を逆手に取らせてもらった。君が傷を負ったのは予想外だが、君に必要な人は得ることができた。母上と香翠により、君に女官はつけられていない。君は何でも錬を頼るから、今後は君の世話をあの娘がしてくれると思うと満足だ。もちろん、香翠にはそれなりの代償を払わせる」


 飄々とした様子で語った玲俊に、樂は眉を寄せた。


 彼にとっては、香翠は両親とも同じの唯一の妹だ。


 香翠が小鈴を巻き込み樂を(おとし)めたが、今回も香翠に罰はない形で終わりを告げた。玲俊は結局、香翠の尻ぬぐいをしているようにも見える。


「実の妹にそんなことできるの?」


「俺の大切なものを傷つけたからね」


 樂の問いに、玲俊は待ってましたと言わんばかりに笑みを見せた。美しすぎると、怖いとはこういうことなのか。


 玲俊は笑っているはずなのに、ぞくりとしたものが樂の背中を走った。


 何をするかわからないそんな危なさを含んでいる笑みに、樂の眉間の皺はますます深くなる。


「私は玲俊…貴方が何を考えているのか分からない。なぜ、私を助けるような行動をとったのかも理解はできないけれど、今回のことは…感謝するわ」


  正しい方法かと言われたら、そうではないと思う。だからと言って、樂の方法もきっと正解ではなかった。


 玲俊を真っ直ぐ見つめ不器用な感謝を伝えると、玲俊は一瞬苦しそうに顔を歪めた。


 何かを確かめるように樂の顔を長い間見つめると、次はどこか嬉しそうに笑みを浮かべる。


「…樂、俺の負けだ」


 熱を含んだ声で名を呼ばれ、樂は一瞬息をするのも忘れてしまった。五年前別れた時以来に、名を呼ばれた。


 もう一生…呼ばれることはないと思っていた。


「私は…貴方に勝った覚えなどないわ」


 今回も、全て玲俊の思う通りだ。


 名を呼ばれただけで、樂の胸はこんなにも苦しく嬉しくもなる。


「…ううん、樂はずっと俺に勝ち続けてる。今回も俺が負けたけれど、もう…それでいいんだ」


 玲俊は自分だけ納得したように頷いた。その表情は、昔良く見せた可愛らしい表情に似ていた。


「どういう…意味?」


 樂には本気で意味が分からず首を傾げると、


「もう俺から逃げられないってこと」


 玲俊はその美しい顔を寝ている樂に近づけてきた。樂と目を合わせた後、目を細め樂の唇へ視線を落とす。


 その(つや)やかな仕草に、あらがうため樂は眉を寄せる。


「何を…」 


 しかし、その続きを言う前に、言葉を遮るよう唇に美しい細い指をゆっくり押し当てられた。ずるいと、心の中で叫んだが、


「覚悟しててね。樂」


 あまり幸せそうに名を呼ぶので、樂はそれ以上何も言えなかった。


 樂が黙り込んだのを確かめると、玲俊は樂の頭をそっと撫でた。


「これ以上、耐えれそうにないからもう行くよ」


 困ったようにそう告げると、何ごともなかったように部屋を出て行く。


 樂は一人になり大きく息を吐いて、頭まで布団をかぶった。


 いつ自分が玲俊に勝ったというのか。今の彼はとてつもなく手ごわい。やはり樂は、玲俊に負けた気しかしなかった。





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