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叶わなかった約束


 (らく)(れん)は王宮を後にして、ある場所へと向かった。


 都の西側にある大きな屋敷が並ぶ通りの中でも、その屋敷は派手な作りで特に目立っていた。そして、花の彫刻が立派な門の前では、一人の少女が行ったり来たりしている


 そわそわした様子を見て、樂は自然と笑顔になった。


(いく)!」


 大きな声でそう叫ぶと、少女は満面の笑みでこちらを向いた。


 薄茶色の長い髪がゆらりと揺れ、くっきりした大きな瞳は涙目で樂を捉える。整った顔立ちで、小さな鼻に小さな唇は白兎(しろうさぎ)のように可愛らしい。


 郁は樂に思い切り飛びついた。しっかりと受け止めると、もう離れまいと樂の背中をぎゅっと掴んでいる。


「会いたかった…」


「待たせてごめんね」


 背中をとんとんと撫でると、郁は顔を上げた。その目からは大粒の涙が零れ落ちている。


「もう…離れないんだから!」


 と言って、郁は樂をまた強く抱きしめたが、存在を忘れられた錬が(しび)れを切らして咳払いした。


「…郁には俺が見えてないのか?」


「…錬!もちろん貴方のことも待ってたわ」


 ようやく郁は樂から離れると、衣や髪を急いでととのえ錬に向かって微笑んだ。


 ()家の門を通ると、そこは相変わらず王宮より派手な建物が並んでいる。庭には溢れんばかりの花々が植えられ、部屋の中には豪華な調度品がずらりと並んでいる。


「…娘よ!父は会いたくてたまらなかったよ」


 広間に入った途端、郁と同じように抱きついてきたのは父の清愁(せいしゅう)だ。子どものようにはしゃぎながら、樂の頭をざつに撫ではじめる。


 郁とそっくりなその顔は、四十代とは思えないほど若々しく、無邪気な姿は少年のようだ。目が痛くなるような派手な衣を着ている。


 清愁はそんな見た目から変わり者と陰口をたたかれることが多いが、こう見えても商売で成功しこの屋敷を築いた華家の主だ。


「僕も」


 樂の足に必死にしがみ付いてきたのは、可愛い弟だ。


 陸はまだ十二歳で、樂と郁の二人の顔を混ぜ合わせたような顔をしており、周りからは良く美少年だと言われている。


 あまりに可愛いしぐさに、樂は陸を抱きしめその小さな頭を優しく撫でた。樂は亡き母に良く似ているため、普段はしっかり者だが樂にだけ甘える。


 家族との再会が、樂にとってはどんな貴重なものより尊かった。


 その夜は華家に錬も混じり、家族団らんの時間が開かれ、樂は幼きころ住んでいた部屋へ案内された。


「この部屋、派手すぎない…?」


「お父様はこの部屋の手入れを(おこた)らず、気に入るものがあったら買って来ては、樂がいつでも帰ってこられるようにと用意していたの。これでも華美になりすぎないよう抑えた方なんだから」


「お父さんの趣味は変わってないわね」


 寝台の天蓋(てんがい)は樂自身なら絶対に選ばないような可愛らしい布が垂らされ、調度品も女性らしい物ばかり揃えられている。戸棚を開けると派手な色の衣がこれでもかと並んでおり、父らしさに呆れながらも嬉しかった。


 部屋の前には姉妹専用の庭があり、扉を開けたらすぐに夜月を眺めることができる。立派な梅の木まで植えられていた。


 庭の中央にある石造りの椅子に座っていると、郁もその隣にちょこんと座った。


「樂、不機嫌なことがあったのでしょう」


「…さすが郁ね」


 樂と郁は、双子の姉妹だ。


 双子だが似ているのは母譲りの薄茶色の目だけで、樂が母似、郁が父似のため全く似ていない。


 人離れした容姿で武術が得意な樂と、可愛らしい容姿で大人しい郁は、性格も正反対だ。


 それでも、誰よりも分かち合える唯一無二の存在で、郁を守るためならば何だってできると、樂は心から想っている。


「錬から聞いたわ。玲俊殿下のことでしょう?」


「もう少しで兄上に勝てそうだったのに…」


 結局、玲俊の登場により永翔(えいしょう)との手合わせは中断され、騒ぎを聞いた王により樂は華家へと帰された。


「樂のためとわかっているでしょう?あの場で永翔殿下を負かしていたら、それこそ王子達の存在を(おびや)かすと余計警戒されていたわ。おそらく…殿下なりの配慮よ」


「そうわかってるから悔しいのよ。もうあの可愛い玲俊はいない…」


 樂は寂し気に口を尖らせた。あの時の自信に満ち溢れた表情が忘れられない。もう樂など必要ないと、言われたのと同じだ。


「五年は…長すぎたわ。いつまで…都にいれるの?」


 郁は不安げに、樂の腕を掴んだ。


「…わからないわ。壮華(そうか)国の使節団を迎えるための帰還だから、終わったら戻らないといけないかもしれない」


「私達を守るために、樂だけ…辛い想いをさせてごめんね」


「そんなことない。郁がこうやって寄り添ってくれるだけで十分よ」


「公主からは、また嫌がらせを受けたのでしょう」


「あっちの妹は本当に可愛くない」


 そう言うと、郁は困ったように笑った。


 樂は今、王の娘(しょう)(らく)として生きている。


 この華家で華樂(からく)として幸せに過ごしていたが、事が変わったのは母が亡くなってからだ。


 母である(らん)は王の従兄妹(いとこ)だった。蘭の母親は当時の王の妹で、父親は名を(とどろ)かせた華瑛陸(かえいりく)大将軍だった。


 祖父は天下の大将軍と言われ、民から慕われ兵達からも厚い信頼を得ていた。


 ひたすら国のために尽力(じんりょく)していたが、その誠実な人柄は人望を集めすぎてしまい、当時の王からいつか権力を脅かす存在と恐れられてしまった。


 無情にも辺境に送られ、隣国との国境を守るために命を落とした。


 その娘であった蘭もまた、父と同じように戦場へ立った。女が将軍になるなどありえないと臣下からの批判が多かったが、蘭の武術に勝てる男子はいなかった。


 蘭も兵たちから厚い忠誠心を受け、国境を守り続けた。その美しすぎる美貌から、戦場に舞い降りた天女と言われていた。


 誰が蘭を(めと)るのかと噂されていたが、蘭の相手は成り上がり商人の父清愁(せいしゅう)だった。


 清愁は男子でありながら怖がりで武術が不得意、女性が好む衣や化粧に詳しく、都でも有名な変わり者だ。


 また、突いただけで倒れてしまうような体つきで、蘭とどう夫婦になるのかと都を騒がせたが、清愁は蘭へ求婚し三人の子をもうけた。清愁は婿(むこ)となり華姓を名乗っている。


 蘭は戦場にいることが多かったが、清愁が家庭を守り、華家のみんなは幸せに暮らしていた。清愁が蘭の後を追いかけているようにみえて、蘭は誰よりも清愁を信頼し愛していた。


 しかし、母もまた華家の兵権を持つがゆえ、従兄妹(いとこ)である今の王隆成(りゅうせい)(うと)まれてしまった。


 隆成は(りく)を産んだばかりの蘭を辺境へと送った。蘭はそれでも辺境を守り続けたが、戦場でおった傷により七年前亡くなってしまった。


 多くの兵は隆成が蘭を殺したと、王への不満を露わにした。


 華家の兵は、天女の刃衣(はごろも)と呼ばれるほど特別である。


 隆成が華家に兵権を返還させなかったのは、代々華家につかえている者たちが多く、心から華家を慕っているため、無理やり奪っても兵たちを従わせることができないからだ。


 そのため隆成たちが下した判断は、蘭の生き写しだと言われる樂を養子にすることだった。


 樂は名だけの公主になり、王子達とも兄妹となった。


 そして、樂は蘭の部下であった(とう)将軍と共に辺境に送られ、隣国との国境を守り続けてきた。 


 この五年もの間、都に帰ることは許されず、いつ敵が迫ってくるかわからない戦場の中で生きてきた。


 鄧将軍と、その息子(れん)が家族の代わりに樂を支えてくれた。また、華家の家族が都に帰ることができない樂のために、身の危険を冒して辺境まで会いに来てくれたこともあった。


 郁は貴族でありながら薬学を学び、怪我の手当の方法や、傷や病に効く薬草を文で送ってくれていた。それだけではなく、都の様子やささいな噂話までも全て教えてくれた。


 樂が背負っているものを一緒に背負おうとしてくれている。


「樂、虎符(こふ)をどうするつもりなの?」


 郁は樂にしか聞こえないよう小さな声で尋ねた。


 華家の兵権をしめす虎符(こふ)は、樂の手の中にある。


「…わからない。今回の帰還の命令も、虎符を狙ってのことかもしれない」


「…渡してしまうの?」


「それを見定めるために帰ってきた」


 母が命がけで守った虎符をどうするべきか、樂はずっと考えていた。








 郁が眠ったのを確認して、樂は一人で庭へ出た。


 夜空を見上げ、魅惑的に輝く月に目を細める。都は賑やかで華やかだが、月の姿だけは辺境の地と変わりはない。


 樂は月を見上げたまま、暗闇に向かって口を開いた。


「こんな夜分に、王子が人の庭に入ってきていいの?」


「さすがだ」


 振り返ると、華家の庭に玲俊(れいしゅん)が立っていた。樂でなければ気づかなかっただろう。足音も気配もなかった。


 見抜かれたと言うのに、満足そうな玲俊へ鋭い視線を向けるが、玲俊はその視線を無視して持っていた扇を白い衣の胸元へしまった。


 昼は後ろで結い上げていた茶髪をおろしているため、また雰囲気が違う。


「隠し扉は、そのままだったよ」


「…まだ使えたのね」


 姉弟になる前、玲俊はもしも時のために作られた隠し扉を通り樂のもとへ良く会いにきていた。もう昔の話だ。


「そんなに(にら)まないでくれ。挨拶にきただけだ。五年ぶりの」


「…変わったわね」


「君は全く変わっていない。都は君の噂で持ちきりだ。美しい天女が舞い降りた、蘭将軍の生き写し、樂公主が率いる天女の刃衣は最高の兵だろうと」


 言葉だけでは褒めているようだが、その目は笑っていない。責めるような視線に、樂は笑みを貼り付けた。


(しかばね)姫のままが良かったと?」


「君のことだ。都の噂は、香翠(こうすい)仕業(しわざ)だとわかっていたのだろう?」


「噂も真実には勝らないと、妹に教えてあげただけよ」


 樂のことは何を言われても痛くも(かゆ)くもないが、命がけで国を守る兵達のことまで悪く言われたら黙っていられない。そのため、兵を率いる樂の実力を披露(ひろう)しただけのことだ。


「華家と君は敵が多い。君の存在は…危うすぎる」


 華家の力を(けず)るために、華家が邪心を抱かぬように、天女の刃衣は王の物だと示すために、樂は公主とは名だけで辺境へと送られた。


 樂は今、母であった蘭と同じように兵達の心を掴んでいる。都でも戦場の天女と称えられはじめた。玲俊の忠告はよくわかっている。


「警告に来たの?それとも…?」


 玲俊を真っ直ぐ見上げると、彼はふっと口角を上げ、樂の右手首を強く掴んだ。強引に自分の方へ引き寄せる。


 振り切ろうとしても、強い力で掴まれびくともしない。袖から見える玲俊の腕は一見白く細いが、よく見ると筋が入り相当鍛えられている。


 薄い笑みを浮かべるその顔へ、樂が非難の視線を送ると、玲俊はおかしそうに首を傾げた。


「…それとも?」


 そのまま鼻と鼻が触れてしまいそうなほど、顔を近づけてきた。樂の手を掴んでいない玲俊の右手は、逃がさないとでも言うよう樂の背中にしっかり回されている。


 その自信に満ちた視線は、真っ直ぐに樂を捉え逸らされることはない。


「何を言いに来たと思う?」


 低い声と同時に、あまりの近さに玲俊の吐息さえ感じてしまう。樂が必死に睨み返すと、美しい顔が一瞬だけ歪んだ。


 少女のように、可愛らしかった少年の面影はもうない。 


 この五年は、二人にとってあまりにも長すぎた。

 

 無駄な肉がないすっとした輪郭、男らしい筋が入った首筋、怒っているようにも、悲しんでいるようにも、喜んでいるようにも見える揺れる(つや)やかな瞳。


 元々美しい容姿は、そのままなはずなのに何かが違う。樂には、彼が今何を考えているのか全くわからない。


 玲俊はまだ何か言おうとしたが、扉が開く音に顔を上げた。玲俊は樂をまた強く引き寄せ、耳元で囁くと颯爽と庭から消えた。


 暗闇に一人佇んでいると、眠りについたはずの郁が部屋から出てきた。


「…樂?」


「郁。おこしてごめんね」


 眠たそうな郁の体を支える。


「もしかして…玲俊殿下が来たの?」


樂が頷くと、郁はいがいと冷静だった。


「…そんな気がしたわ」


「何を考えているのかわからない」


 そう吐き捨て、樂は郁と回廊(かいろう)と庭をつなぐ階段に座った。郁は長い間黙っていたが、決意したように口を開いた。


「…今まで隠してきたけれど、樂が去った後の玲俊殿下は…見ていられないほどだったのよ。私たちはまだ子どもだったけれど、人は愛するものを失ったら、こうなってしまうのかと…教えられた気がした。殿下は無力な自分を責め続け、貴方がいないことを誰よりも悲しみ荒れていった。痛々しくて見ていられなかったけれど…、ある日別人のようになった。今では陛下を補佐するほどになり、弱虫だった殿下はもういない。もはや、怖いものはないようにまで見えるわ」


 何かが、誰かが、玲俊を変えた。


 樂は込み上げてくる感情に唇を噛み締めた。


「…忘れられた方がいいのか、恨まれた方がいいのか、どちらが耐えれるかずっと考えてた…」


「答えは見つかった?」


 樂は横に首を振った。


 郁と月を眺めながら、胸に痛いほど刻まれたあの日を思い返す。







「…樂!辺境なんか行かないで…!」


 五年前、星が綺麗な夜に、樂は辺境へ送られることになった。


 あまりに玲俊が騒ぐため深夜の出発となったが、王宮の門を出ようとした時、玲俊が泣きながら駆け寄ってきた。樂は駄目だと思いながらも振り向いてしまった。


 玲俊は真正面から樂に抱きつくと、もう離れまいと痛いほどしがみついてくる。玲俊の上等なはずの衣はぼろぼろだった。


 樂を行かせないと暴れるため、王隆成(りゅうせい)の命により部屋に禁足(きんそく)されていたのだ。兵の監視をすり抜け、ここまでたどり着いたのだろう。


 怖がりで泣き虫な玲俊が一人でここまで来たと思うだけで、樂の胸は苦しいほど痛くなり目頭が熱くなった。


「…玲俊、ごめんなさい。どうしても…行かなければならないの」


「なら僕もいく。樂から絶対に離れない。…約束しただろう?」


「玲俊を…連れていくことはできない」


 樂が行かされる辺境は、いつ敵からの奇襲が来るかもわからない恐ろしい場所だ。死と背中合わせの場所だとわかっていて、王宮の者たちは樂を行かせるのだ。


 そんな場所に…何よりも大事な人を行かせるわけにはいかない。


「何で?僕もいくと父上に願いが通るまで頼む!それが駄目なら…樂を行かせないでと、もう一度頼んでみる」


 隆成の元へ行こうとした玲俊を楽は止めた。切れてしまうのではないかと思うほど唇をぎゅっと噛み締め、玲俊の手を引いて優しく抱き寄せた。その感触を温もりを記憶に焼き付ける。


「…もう決まったことなの。約束、守れなくて…ごめんね」


「約束は絶対だろ。樂は僕の妃になる。絶対に…結婚するんだ!僕達は…離れたらだめなんだ…」


 玲俊の涙ながらの言葉に、樂の視界までかすみ始めた。


「私はもう…玲俊の姉になったのよ」


 同じ歳だが、樂の方が数日生まれたのが早いため、樂は玲俊の義姉となった。


「…そんなの知らない!樂は僕の姉上なんかではない。樂は僕が好きな人だ!…姉上なんて、一生呼ばないんだ!」


 泣き叫びながら玲俊は、樂の手を痛いほど強く掴んだ。


 玲俊は何があっても、樂を姉と呼ぶことはなかった。


 樂と名前で呼ぶたびに、王の命により棒たたきの罰を受けても、絶対に姉上と呼ぶことはなかった。


 隆成に呼ばれた日の樂の絶望は、誰にもわからないだろう。


 樂だって玲俊と姉弟などなりたくなかったが、樂の決断に一族全ての命がかかっていた。玲俊との約束を破るとわかっていても、王宮へ上がるしか道がなかった。


 辺境へ行かされるのは、玲俊と引き離すためでもあると痛いほどわかっていた。


 それでも玲俊だけは、樂のことを諦めていなかった。それが嬉しくも、胸が引き裂かれそうでもあった。


 王のお付きたちが玲俊を無理やりに引き剥がす。絶対に離れたいとする玲俊を大人が必死に引っ張る。見ているだけで悲鳴を上げてしまいそうなほど、痛々しかった。


 掴みあっていた幼き二人の手が、無情にも離れていく。


「…樂!行かないで!お願いだから…僕のそばにいて」


 玲俊があまりにも暴れるため、玲俊がいつも愛用していた(かお)り袋が地面に落ちた。樂はもう零れる涙を止めれぬまま、静かにその香り袋を拾った。


「…この香り袋を…私にくれない?」


「やだ!あげるもんか!お願いだから、樂戻ってきて…!」


 玲俊の言葉に、(かお)り袋をぎゅっと掴んだ。


 樂は玲俊の言葉を無視して香り袋を手にしたまま、用意された馬車へと向かった。玲俊は兵たちに体を掴まれてもなお、樂の元へ行こうと最後まで諦めずに泣き叫んでいた。


 馬車の中で握りしめた手を開くと、爪が食い込んだ手のひらは血で赤く染まっている。まだ、玲俊の叫び声がかすかに聞こえていた。


「っ…玲俊…玲俊…」


 あの小さな手を離したくなかった。


 樂は馬車の中で一人声をだして泣き続けた。


 玲俊の奥さんになりたかった。なれると信じていた。ただ、もう樂はどんなにあがこうと玲俊と結婚することは叶わない。


 決まっているのは、玲俊はいつか樂以外の人と結婚すると言うこと。


 辺境まで長い道のりの中で、樂は止まることのない涙を流し続けた。どんなに涙を流しても現実が変わることはなかった。




 消えることのない痛みに、樂は珍しく自分から隣の郁の肩に頭を預けた。


『姉上、また会いに来ます』


 玲俊に耳元で囁かれた言葉が樂を追い詰める。


「笛の音を聴きたい…」


「良く話してくれた笛の音?」


 そう尋ねながら、郁は励ますように樂の手を強く握ってくれた。樂のもう片方の手には、古びた香り袋があった。無意識にぎゅっと握りしめる。


「うん。辺境で年に何度か、風にのって笛の音が聴こえてきたの。愛する人を失ったとわかる、あの悲しい音に(なぐさ)められた」


 どうしようもない切なさと、隠しきれない想いが溢れ出すような音色だった。あの音は、愛する人を失う痛みを知った人にしかだせない。


 なぜか、玲俊のことが恋しい時、大切な人を失った時、自分の無力さを痛感した時、樂が下を向いた時にかぎって、孤独で広大な辺境の地にその音色は聴こえてた。

 

 あの頃に戻れないと覚悟して帰ってきたくせに、あの音色を求めてしまうほど心を乱している自分に、樂は自嘲の笑みを零した。


 あれほど樂を姉上と呼ぶことを拒んでいた玲俊が、迷いなく姉上と呼んだ。もう玲俊の中に、樂はいない。








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