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悲しき別れ


 大柄の花が施された調度品により飾られた部屋で、珞燕(らくえん)は銅の鏡越しに映る自分の顔を無言で見つめた。


 壮華国は寒地のため、王宮は寒さをしのぐために床から熱が送られる仕組みになっている。部屋の中は暖かいはずなのに、珞燕の顔は蒼白だった。


 麗承国(れいしょうこく)の天女と呼ばれる(らく)公主とそっくりだ。父はそう言った。


 父から聞いた公主の話は、珞燕にとって夢のような話だった。女子でありながら男子よりも強く、公主でありながら剣を手にして戦場に立ち民を守る。聞けば聞くほど憧れは強くなった。


 憧れの天女が、燭により囚われたと聞いた時は、心臓が止まるかと思った。最も恐れていたことが起きたのだ。


 何度も燭に頼み込み、真っ暗で寒い地下牢へ初めて足を踏み入れた。


 天女は闇の中に、囚われていた。闇の中でも消えることのない輝き続ける瞳に、珞燕はおもわず見惚れてしまった。


 美しい肌は痣だらけで、火傷や斬り傷が目を背けたくなるほど刻まれ今にも息絶えそうな姿だったが、その瞳の強さは失われていなかった。囚われていてもなお、彼女は美しかった。


 珞燕には、そんな強さはない。


 確かに自分でも彼女と似ていると思ったが、顔はそっくりでも生き方はあまりに違う。


 自分には、あの瞳の輝きなどない。珞燕は鏡の前に置いていた両手を強く握りしめた。


 命をかけて愛する者と民を守った樂と比べ、珞燕は自分のせいで国と愛する人を滅亡へと導こうとしている。


 樂の姿を見ていると、珞燕の胸の奥で眠っていた何かが強く掻き立てられた。


 もう一度、鏡の中の自分と見つめ合う。


 頬は痩せこけ、元々真っ白な肌はもはや色がない。幼い頃から患っている病は、もう珞燕の隅々まで(むしば)んでいる。苦い顔で、主治医はそう言った。


 今は誰が見ても、先が短い命だと感じるだろう。


 珞燕がだるい体を動かし座椅子から寝台の上に腰をおろした時、荒々しい足音が聞こえた。先ほどまでの思いつめた表情を隠し、珞燕は顔を上げその足音の主を待つ。


「珞燕!」


「兄上、待っていたわ」


 黒地の衣に銀の刺繍が入った見慣れた衣に、自然と声が上がる。珞燕が立ちあがろうとすると、燭は心配そうに眉を下げた。


 民や臣下の前で吊り上げられる目つきは、珞燕の前だけでは優しいものに変わる。


「無理しなくていい。ほら横になるんだ」


 疲れている。燭を見てそう思った。


 燭はそんな姿を隠すように、優しい声で珞燕を寝台の上に寝かせた。布団を丁寧に肩までかけてくれる。


 武人らしいごつごつした手だが、その手つきはいつも優しい。心に染みて、無性に泣きたくなった。多くの人の命を奪った手でも、珞燕にとっては誰よりも優しい手だ。


 燭は昔から王である父と意見が異なりぶつかることが多かった。元々強気で喧嘩っ早い所もあるが、妹には心配性で根はとても優しい兄だった。それが珞燕の前だけだとしても、その優しさは本物だと信じていた。


 しかし、燭はとうとう天女まで捕え、父の遺言まで虚像しようとしている。


 耳に入ってくる燭の暴挙を聞くたびに、燭に優しくされるほど自分の罪深さを思い知った。


 珞燕が手を伸ばすと、燭は穏やかな表情で珞燕に頭を近づけた。燭の髪をそっと撫でる。


 短髪の男性は極めて珍しい。燭の髪は元々長く美しかった。美しい髪を結い上げている姿が凛々しく、剣の稽古をしながら揺れる髪を眺めるのが好きだった。


 全てはあの日から変わった。


 父たちにより珞燕に縁談が持ち込まれた日、燭は父との決別の意味を込め長い髪をばっさり切り捨てた。


 あの日から燭の瞳の色は変わり、自ら戦場へ向かい血を目の前にして笑みさえ浮かべるようになってしまった。


「兄上、我儘(わがまま)を言ってもいい?」


「あぁ、珞燕の願いなら何だって叶えてみせる」


「今日の夜はずっとそばにいて…」


 その一言に、燭の表情が曇る。


 珞燕が求めているのは妃の座でも、権力でも、何ものでもない。そばにいる、たったそれだけのことなのに、燭は困り果てたように眉を下げた。


 髪に触れ続けている珞燕の手にごつごつした手を重ね、そっと自分から珞燕の手を離した。


「それは…。すまない、今日はすぐに出ないといけないんだ。明日には必ず戻る」


 思わず珞燕は腰を上げた。燭は珞燕に余計な情報が回らないよう手を回しているが、王宮は噂の宝庫だ。


 珞燕は幼い頃から、王の娘として生まれ体が弱かったこともあり、自由の代わり蝶よ花よと立派な宮殿の中で大切に育てられてきた。外出ができない分、それなりに都や外の情報が入るように人脈は作ってきた。それなりに情報が入ってくる。


 燭はあわよくば麗承を呑みこもうとしていたが、樂の兵を受け継いだ玲俊殿下が、天女の羽衣を引き連れ徹底的な守りで燭を脅かしていると聞いている。


 今燭の頭の中をしめているのは、珞燕ではなく玲俊にどう勝つかだけだ。


「最近そればかりで、全く一緒にいてくれないじゃない。これじゃあ、何ために…」


 多くの人を傷つけ、命を奪ったのかわからない。


 泣きそうになった珞燕をみて、燭は落ち着いてくれと言って、なだめるように珞燕の両肩を優しく掴んだ。


「珞燕、いいか。もう少しなんだ。もう少しで俺達は堂々と一緒になれる。もう誰にも、文句は言わせない」


 言い聞かせる様な言葉は次第に熱を持ち、鋭い口調へと変わっていった。ここにいない、二人のことを反対した人達へ向けられている。


 燭は多くの人を苦しめ人道を外れてまで、何と戦っているのだろう。珞燕はもうわからなくなっていた。


 悪くなった空気をさくように、扉を叩く音が突然響く。燭の部下が呼んでいる合図だ。燭は迷わず立ちあがった。


「珞燕、いい子して待っていてくれ」


「待って…」


 珞燕は必死に手を伸ばしたが、燭は振り返らずに去っていった。


 これが、わかっていたのに…ずっと目を反らしていた現実だ。 


 燭が出て行った扉が、溢れ出た涙で霞んでいく。珞燕は細くなった手で涙をぬぐうと、決意を固めて腰を上げた。


 まずは最も信用できる侍女である恵佳(けいか)を呼んだ。


 恵佳は三十代後半の侍女で、珞燕が幼い頃から世話をしてくれた。彼女のことは燭も信用し、臣下に癇癪(かんしゃく)を起したとしても、彼女だけは傷つけない。だから、今まで恵佳に動いてもらっていた。


「私を耀兄上の所へ連れて行って」


 突然の願いに恵佳は狼狽したが、珞燕の真剣な表情を見て小さく頷いた。









 閉ざされた寒い牢も、長く囚われていたら慣れてくる。樂は冷たい石壁に背を預けたまま、顔を上げていた。闇が怖くないのは、心の支えになっている人たちがいるからだ。


 しかし、ここ最近は珍しく樂を襲う不安があった。この前珞燕と会って以来、彼女に会っていない。


 あの時でも十分に、顔色を見るだけで、病状が進んでいることが分かった。あの笑みは、死期が近づいてきた人の独特の表情だった。戦場で生きてきた樂は、あの表情を何度も見たことがある。


 戦場で磨かれた勘が、警鐘を鳴らし続けていた。


 深夜になり怠惰(たいだ)な看守から、雑な水浴びを受けた後、樂は牢の端に座り込み耀の手を待った。


 壁石が動き、樂より大きな上品な手を見た途端、樂は思わずその手を掴んだ。


「…樂、どうした?大丈夫かい?」


「耀。嫌な予感がするの」


 樂の言葉に、耀がおおきく息を吐いたのが分かった。少し時間を置いた後、


「やはり君は勘がいい」


 そう言葉が返ってきた。その声色は、困っているようにも、喜んでいるようにも聞こえた。

 

「何が起ころうとしているのか、きちんと教えて」


 耀は何か知っているのに、このままはぐらかす気だ。耀が話さないということは、おそらく樂が反対することか、樂にとって良くないことなのだろう。耀は樂が傷つくことを何よりも恐れるそんな人だ。


「耀、私はそんなに弱い?」


「君は弱くなんてない。誰よりも強い。だから…」


 そこで耀は言葉に詰まった。顔を合わせていないからこそ、どんな言葉を選んだらいいか、耀は深く悩んでいる。


「…きっと…君が想像しているとおりだよ」


 やっとのことで、そう返ってきた。


「耀…それは」


「私は麗承国で、本当は死んでいたはずだった」


 耀に追求したいことは多くあったが、突然の話に樂は拍子抜けた。


 壮華国が同盟のため麗承を訪れていた時、燭は間者に壮国の使者を襲わせ、同盟を怖そうとしていた。それを樂と玲俊、そして兄の暴挙を止めに麗承まできていた耀が阻止した。


 その際、樂は耀を庇い深い傷を負った。耀はそのことをずっと気にしているが、なぜそんな話をするのか、樂が言葉を遮ろうとすると、


「何を…」


 耀の樂の手を掴む力が強くなった。


「君があの時、命がけで救ってくれたから、今の私がいる。君には普通のことかもしれないが、見ず知らずの者のために…君は迷わず剣を受けた。誰もができることではないんだ。兄は私にずっと毒を持っていた。死には至らないが体が衰弱する薬だ。私は兄の毒に気づいていたのに、知らぬ顔して毒を服していた。兄がおかしいとわかっていても、兄とぶつかることから逃げ続けていた。しかし、君のおかげで…、私は自分の愚かさを痛感した」


「初めて会った時、貴方の様子がおかしいとは思ったけれど…、まさかそんな…。そこまでして、耀は兄を信じたかったのね」


 兄弟だから、無条件で分かり合えるわけではない。樂も麗承の王宮で痛いほど思いしったが、自ら兄の毒を受け入れていたなど、人がいいにもほどがある。


 兄である燭を止めれなかったこと、耀は今心から悔んでいる。


 樂からしたら耀は何も悪くないが、兄の暴挙を自分の罪かのように重く受け止めている。


 兄から地下牢で拷問を受け続けてもなお、耀が諦めずに生きているのは、兄を止めるためだと樂に決意を語ってくれたこともある。


「樂、これだけは忘れないでほしい。私は何があっても、君を救い出してみせる。命をかけて…必ず。だから、決して諦めないでほしい。何があっても…生きてくれ」


 力強い声だったが、泣いているようにも聞こえた。


「待って…耀!」


 その瞬間、手のぬくもりが消えた。耀は地下牢の中から去ったのだと、樂は感じ取った。


 燭により何か害を受けたのか、それとも何者かに救われたのか。今の樂には何もわからない。


 ただ、この闇の中で樂を支えていた光が一瞬で消えたのは確かだった。






 



 真っ暗な牢の中でも、朝はやってくる。樂は眠ることができず、ただ閉じていただけの目を開けた。


 深夜の一人だけだった看守が朝になり、二人に増える。深夜の看守より真面目な中年の看守たちに変わった。


 彼らは真剣な表情で監視にあたっていたが、突然うろたえ始めた。


 樂が座ったまま身構えると、現れたのは珞燕(らくえん)だった。

 

「…珞燕」


 驚いたのはその顔があまりにも真っ白で、血の気を感じなかったからだ。桃色の美しい衣を羽織っているが、いつもそばにいる侍女に支えられ、ぐったりとした様子でどうにか立っている状態だった。


 その傍には、壮華国の医務官である珞燕の白髭をはやした主治医までいる。二人とも深刻な表情で珞燕の様子を見守っていた。


「貴方にどうしても会いたくて…我儘言っちゃった」


 珞燕は苦しそうに息をしながらも、いつものようにお茶目に笑う。


 樂は勢いよく立ち上がり、牢の中へ入ってきた珞燕に手を伸ばした。樂が体に触れた途端、珞燕は力なく地面に膝を付く。樂が支えていなかったら、そのまま地面に体を打ちつけていたところだった。


「こんな状態でこんなところに来るなんて。なんてことを…早く珞燕を部屋の中へ…」


 立ち尽くしている侍女と主治医に叫んだが、珞燕はやめてと言って樂の手を握った。その手は氷かと思ってしまうほど冷えていた。


 珞燕へ視線を向けると、肩で必死に息をしながら言葉を紡ごうとしている。


「どうしても伝えたいことがあって…私の我儘で連れてきてもらったの。彼女たちは悪くない。どうか…怒らないで。貴方に…伝えないといけないことがあるの」


「…わかった。ゆっくりでいいから…」


 傷だらけの手で、氷のように冷たくなった手を必死に温めていると、


「私が…王印の片割れを持っていたの」


 珞燕は、そう告げた。


 それは燭が血眼になって探していた壮王により半分にされていた王印の片割れだ。


 壮王は、半分の一つの場所を樂に伝えていた。燭はもう片方のありかを聞き出すために、今日まで樂を痛めつけてきた。


 珞燕の澄んだ美しい目は大きく揺れていて、樂の反応に恐れているようだった。


 樂は驚きはしなかった。静かにその言葉を受け入れた。


「やっぱり…そうだったのね」


「…貴方は賢いから、気づいていたのね。私は父上から大事な王印を預かっていながら、今日までずっと…」


「確信はなかったけれど、この壮華で燭が絶対に傷つけない人は…珞燕貴方しかいない。ただ…貴方に渡すということは、壮王にとって…とても勇気がいることだったと思うわ。貴方なら正しく導けると、壮王は珞燕を心から信じていたのね」


 もしも珞燕が、燭と同じように民を傷つけても国を騙しても、愛する人と結ばれようとしていたのなら、珞燕に王印の片割れを渡すことはとても危険な事だ。


 珞燕が燭に王印の片割れを渡したら、燭は王印を手にし王座に就く。燭は珞燕のために王座につこうとしているが、珞燕は燭の想いを分かっていて王印を隠し続けていた。


 突然消えてしまった耀の謎がこれで解けた。樂は全て理解し、ほっと息をつく。


「珞燕、貴方はずっと…この日のために用意をしてきたのね。耀に王印を渡し、耀を逃がしてくれたのね」


 耀に壮華国を救ってもらうために。


 おそらく珞燕の手元にはもう王印はない。珞燕は燭の目を盗み、耀を逃がした。その際に、樂と珞燕が壮王から預かった王印を託したのだろう。 


 あの賢い燭を出し抜くためには、燭の珞燕への絶対的な信頼を盾に、相当の用意が必要だ。珞燕はこの一年近くの間、この日のために手を回し、ずっと機会を伺っていた。


 何より愛する人を自ら裏切ったのだ。


 その心中を思うと、樂はもう言葉が出てこなかった。


「樂には…何でも…お見通しね」


 眉を下げたまま悲しげに微笑むと、珞燕は咳込みそのまま倒れた。樂はその体をしっかりと支える。


 地面に座り込んだ樂の腕の中に、珞燕は仰向けになった。珞燕の体は冷たく、力が抜けた体はとても重い。


 珞燕はゆっくり息をしながら虚ろな目で、樂を眩し気に見上げる。


「樂…、貴方が剣をふるっている姿を一度…見てみたかった。貴方の剣さばきは、舞を舞っているかのようだって…父上が言ってた」


「…そんなの…いつだって見せてあげる。今からでも、舞ってみようか?」


 樂は込み上げてくる涙を堪え、わざと冗談めいてそう言った。舞ってみてと、いつものように笑ってほしかったが、珞燕は苦し気に目を細めると、またゆっくり口を動かし始めた。


「全て…私のせいなの。兄上が戦ばかりするようになってしまったのも…王座に執着するのも。父上を…死に追いやったのが兄上だと知っても…私は兄上を咎めることができなかった。そうさせたのは…すべて私なんだもの」


「…珞燕」


 倒れたまま珞燕の美しい目から、清らかな涙が溢れる。子どものように泣き始めた珞燕を樂は強く抱きしめる。


「兄上の手が血で汚れていると…兄上が間違った道を進んでいるとわかっていても…私はその手を放すことができなかった」


「珞燕は、ただ燭を愛していただけで…」


 樂が全て言い切る前に、珞燕は首を横に振り遮った。


「私が兄上の手を離すしか、兄上を止める方法はないとわかっていたのに…離さなかったの。兄上と離れることが…死ぬことが怖かった」


「そんなこと…」


 誰だってそうだ。


 樂も愛する人と離れることの辛さを嫌というほど知っている。六年前玲俊の手を離し、五年ぶりに再会し玲俊の温もりを知ったら、ますます離れがたかった。


 今までも、玲俊の手を離した胸の痛みにまだ苦しみ続けている。


 樂には、珞燕を責めることなどできなかった。


 唇を噛み締め俯いていると、樂の腕の中に仰向けになっている珞燕が、下から樂の頬にそっと手を当てた。


「でも、この地下牢で樂…貴方と出会って怖くなくなったの」


「…私と?」


 涙声でそう問いかけると、珞燕はゆっくり頷いた。


「私たちは生まれた国も違うし…生き方も全く違うけれど、昔貴方と私は…一つだったんじゃないかって…そんなことを思ったことがあるの。私はずっと…王宮という狭い世界で生きてきたけれど、貴方の話を聞いていると…まるで自分が体験したかのように喜びも悲しみも共有できた。これから…私の代わりに貴方が広い大地を駆け巡り…自由に生きてくれると思ったら…もう何も怖くない」


 樂とそっくりな顔で、珞燕は嬉しそうに微笑む。苦しげだが、その表情はあまりにも美しかった。


 初恋の人と引き裂かれ、戦場に送られ戦の中で生きてきた樂を皆、過酷な運命という。しかし、珞燕と出会い、彼女もまた過酷な運命を背負っていると思った。


 病弱な体のせいで王宮の鳥籠の中で生き、唯一愛した人との恋は絶対に許されることはなかった。愛する人は、珞燕を愛するがゆえに道を間違え暴君への道を進んでいる。


 そんな二人は、一年近くという短い時間の中でも十分に理解しあえた。


「お別れみたいなこと…言わないで」


樂はそう珞燕を叱って、ぐったりとした体をさする。


「貴方に…伝えることができたから…もう悔いはない」


「待って、せめて…燭が帰ってくるまでは」


 今にも永遠に目を瞑ってしまいそうな珞燕に向かって、必死に呼びかける。彼女を失うと思うと、あまりにも恐ろしくて樂の手が震える。言うことをきかない手で、珞燕の体を何度も揺らした。


 樂にとっては憎き敵でも、珞燕にとっては大切な兄で愛しい人だ。せめて最後に、一目でも会わせたかった。


 こんなに愛していたのに、あんなにそばにいたのに、最期に会えないなどあまりに残酷だ。


「兄上のことは…心残りだけれど、これが…私達にふさわしい…天罰よ」


 目を瞑ったまま、珞燕は儚げに笑った。


 彼女は自らに罰を与えるために、最後に自ら愛する人に会うことを拒んだ。


 そばで見守っていた恵佳も主治医も、もう堪えることができず嗚咽を流していた。もうお別れの時が来ているのだ。


 最後の力を使い、珞燕は樂の手を握った。苦しいのか眉を寄せ、樂を見上げる。


「樂、耀兄が助けてくれるまで…どうにか耐えて。貴方だけは…生きて」


 その願いに、樂は泣きながら何度も頭を縦にふった。そんな樂を見て、珞燕は穏やかな表情を見せた。

 

「もしも…もしも、また玲俊殿下の手を…握ることができたら、その手を…離してはだめよ」


 かぼそい声が、冷たい牢の中で消えていく。


 そのまま静かに、珞燕は目を閉じた。眠っているかのような健やかな表情で、どんなに体を揺らしても動かない。


「珞燕、珞燕…」  


 樂は震える唇を動かして何度もその名を呼ぶが、珞燕から返事が返ってくることはない。どうしようもない悲しみに、涙が溢れ止まらない。


「珞燕様!…珞燕様!」


 侍女と主治医も珞燕のそばにかけより、冷たくなった体に触れ泣き崩れた。


 主治医は涙を滲ませながら珞燕の腕を握り、脈を診る。樂達をみて、力なく横に首を振った。


「…珞燕…行かないで…」


 いつもの無邪気な笑顔を見せてほしい。


 とめどなく溢れる涙で、腕のなかの珞燕の姿が霞んでいく。嘘であってほしいと何度も願うが、彼女は目覚めない。声を出して、樂は泣き続けた。


 珞燕を腕の中に抱き牢の中で動けないままでいると、静寂な牢に荒々しい足音が響いた。顔を上げずとも、もう足音で燭だとわかる。


 牢の中に現れた燭は、樂の腕の中で眠っている珞燕を見て、茫然と立ち尽くしたていた。


 ゆっくり近づき冷たくなった珞燕の頬に触れると、樂の腕の中から動かなくなった珞燕を奪い取る。


 血走った目は、珞燕だけに向けられる。


「おい、珞燕…迎えに来たぞ。また、寝たふりか?怒らないから、早く目覚めてくれ。珞燕…珞燕!」


 動かなくなった珞燕の体を燭は何度も揺らす。冷たくなくなった頬をさすり何度も呼び掛けているが、珞燕が応えることは決してない。


 次第に燭の目が赤くなり、死体を見て笑う王子と言われた燭の目から涙が溢れた。


「珞燕…珞燕…珞燕!」


 それはまるで雄たけびだった。何度も珞燕の名前を泣き叫び続けた。


 燭の選んだ道は間違っている。樂は今でもその考えは変わらないが、彼がどれだけ珞燕を愛していたのか痛いほど胸に刻んだ。


 泣き叫ぶ燭のそばで、樂や恵佳は立ち尽くすことしかできなかった。


 どれだけ時間が経ったかわからないほど、その場にいたが、燭はようやく珞燕から視線を外した。


 そして、恐ろしいほど虚ろな目で樂を捉えた。



 

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