幼き約束
広い屋敷の片隅にある花の香りに包まれた庭で、一人の少女が舞っていた。
まるで空を飛んでいるかのように軽やかで、動くたびに一つに結んだ漆黒の髪と、桃色の衣が優雅に靡く。大きな瞳は真っ直ぐと何かを見据え、眩しいほどの日差しが透き通るような白い肌を照らしていた。
少女には凛とした強さがある。樂はまだ十一歳と言うのに、一輪の花が咲き誇ったような美しさをもっていた。
息を切らしながら庭の中へ走ってきた小柄な少年は足を止めると、その光景に目を細める。
樂のその細い手が握りしめているのは木製の剣だ。
耳を澄ませると、剣が空気を切り裂く音が少年の元まで聞こえてくる。樂は自由自在に剣を振り回し、見えない敵へ立ち向かっていた。
まるで舞っているかのような姿に、誰が剣の稽古中だと思うだろうか。
樂は少年に気づくと、剣を持っていた手を下ろした。
「玲俊!また誰かに泣かされたの?」
「泣いてないよ…」
玲俊は頭を必死に振って、顔を隠すように下を向いた。
「なら、その泣き顔は何?」
樂は石造りの椅子に剣を置くと、女子よりも可愛らしい泣き顔を覗き込んだ。水晶玉のように澄んだ大きな目は腫れており、目を掻いた痕までもある。
「いつも言ってるでしょう。玲俊をいじめた奴は私が許さない。私がいつだって守ってあげる」
同じ歳だが玲俊より身長が高い樂は、膝を曲げて玲俊と顔を合わせる。樂の自信に溢れた笑顔を見た途端、玲俊の目は寂しげに潤み始めた。
「樂は…戦場になんて行かないよね?皆が、樂はいつか戦場に行くと言うんだ。樂が戦場に行くなら、僕も一緒に行くと言ったら、僕が樂の足を引っ張るって…皆が笑うんだ」
あまりに悲しそうな表情が逆に愛おしくなり、樂は玲俊の頭を優しく撫でた。太陽の光に照らされた髪は柔らかく、樂はこの感触がとても好きだった。
玲俊が涙を流した理由が、愛しくてたまらない。
「私は玲俊のそばにずっといるわ。もし戦場に行くことになっても、玲俊のことは私が守るから何も心配してなくいい」
「絶対にだよ。僕のこと置いて行かないでね…」
玲俊は樂にしがみつくように抱きついた。甘えるように、樂の肩に、顔を必死に押し付ける。
まるで母から離れまいとする赤子のようだ。玲俊は体が弱くひ弱だと周りから囁かれているが、こういう時だけ力が強い。
痛いほどの力で離れない玲俊に、樂は何を言っているのかと笑い飛ばした。
「私が玲俊を置いていくわけないでしょう」
ずっとそばで守ってあげるために、こうして日々鍛錬に励んでいるのだ。
そう言って宥めると、玲俊は何か想い出したように顔を上げた。その顔は宝物を見つけたかのように、きらきらと輝きを増す。
「そうだよ。樂が僕の妃になればいい。そうしたら、どんな時もずっと一緒にいれる」
「妃の意味わかってるの?」
樂は可笑しそうに笑みを零した。
「妃は奥さんだろ。父上にはたくさんの妃がいるけど、僕の妃は樂しかいない。僕の妃になると、約束して」
いつもは泣いてばかりの玲俊が、今だけは男らしく樂を見つめる。周りの大人たちが聞いたら、血相を変えるか、子供だからと笑うだろうが、彼は本気で言っている。
妃になることがどういう意味なのか樂は理解しているが、樂もただ玲俊とずっと一緒にいたいと素直に思った。
「わかった。約束するわ」
そばにいたい。ずっとそばで、玲俊を守ってあげたい。自分ならそれができると思っていた。
樂が迷うことなく、稽古で傷だらけの両手を差しだすと、玲俊は慈しむようにその手を撫でた。そのまましっかりと自分の手を重ねる。
自然と強く手を握り合い、二人は引き寄せられるように見つめ合う。樂が笑うと、玲俊もつられて笑う。二人で共にいれることが何よりの幸せだった。
「これで、ずっと一緒だ」
理由などなかった。
樂は玲俊を守ることが生きがいで、彼のために強くなることを誓った。また、玲俊は樂に守られることで、ずっと彼女のそばにいれるのだと信じていた。
幼き二人は初恋と言う言葉の残酷さも知らずに、心から永遠を願っていた。
『樂は私の子とする。そなたたちは、今日から姉弟だ』
その言葉一つで、約束が叶わぬものになる日が来るとは想像してもいなかった。