初段『桜芽吹く、奇蹟の神社の段』
私は葺草アヤメ。生後およそ一年。
現在、ご主人様と旅行中。
いつもならこんな豪華なことはしないのに、何故だろう……と不思議には思ったが、楽しいから良し。
外を見ると、川沿いに桃色の木がアーチのように、沢山植っていた。
車の窓が開いていたからか、舞っていた花弁が私の鼻の頭に乗った。花だけに。
そんなくだらない事を考えているうちに、目的地に辿り着いていたようだ。
「アヤメー。着いたぞー。」
ご主人様に抱っこされ、車から降りる。
辺りを見渡してみる。当たり前だが、初めて見る場所だ。
境内は素晴しく美しい。木々が生い茂っており、大きな水溜りがある。その中では魚が優雅に泳いでいた。庭園はしっかりと手入れがされているからか、雑草なんて何一つなく、床はピカピカだ。
ご主人様から下ろしてもらい一歩、また一歩と歩く。
そして灰色の凛々しい犬に近付き、匂いを嗅いでみる。
……あれ?生き物の匂いを感じない。
「これはな『狛犬』って言うんだぞ。」
へえ、狛犬か。見た目に相応しい、カッコいい名を持っている。
まあ、私の方がカッコいいんだけどね。どやー。
「そうだ、アヤメ。境内でマーキングは禁止だぞ?」
うっ……バレたか。
次は少し気になっていた大きな水溜りだ。なんだかんだ、水溜りや川に飛び込んだことないんだよね。
「アヤメ。池に飛び込むのも禁止だからな。」
ご主人様は慌てて飛び込むポーズをしていた私を抱き抱えた。
「あ……危ねぇ……。」
ふぅ……と溜息を吐くご主人様。
同時に頭を撫でられる。
「今日もアヤメは触り心地が良いなぁ。」
そうでしょそうでしょ、と言わんばかりに尻尾を振る。
ご主人様とは違って、会話が出来ないから、こうやって感情表現をしているのだ。
「取り敢えず、参拝してこようか。」
さんぱい……?何だそれ。
ご主人様に引っ張られるがままついて行こうとするーーーと。
「キャーーーーーッッッ!!!!」
突然、神社の入り口から響く金切り声が。
恐怖の声音だ。誰か襲われているのか?
「何だ何だ?」
「どうしたんだろう?」
悲鳴を聞いたのか、人間様達が騒めきだす。
少し目を凝らしてみると、キラキラと輝く小さな球体が女性を追っていた。
あれは……何だろう?ボールか何かか?
「おいおい……なんかヤバくないか?」
ご主人様がそう呟く。
刹那。
球体は女性に激しく衝突。女性は後頭部から大量の血を噴出させ、力を失い倒れた。
目の前で、あっさりと。
嘘だ。信じられない。
しかし、道路に降り注ぐ血の雨が、今起こったことが本当だと証明している。
「きゃああああああああ!!!!!」
「た、助けてくれえええ!!!!!」
人間様達の声音が、“興味”から“恐怖”へと変わっていった。
逃げようとする者。
スマホを構える者。
恐怖で足が竦む者。
それぞれがそれぞれの行動をしている。スマホを構えるのはどうかと思うが。
球体は今もなお、無慈悲に人間様達に襲いかかっている。ぶつかる度に痛々しい、真っ赤な鮮血が飛散していた。
ぶつかられた人間様達はーーー動かない。
本能が警鐘を鳴らす。
この球体には近付いてはいけない、そう訴えている。
「っ……!逃げるぞアヤメ!」
ご主人様はそう叫び、勢いよく走りだした。勿論、リードが付いているので私も強制連行される。
更に悲鳴があがった。そしてバタバタッと倒れる音。
「アヤメ!あそこの森に行くぞ!」
「わん!」
ご主人様とともに猛ダッシュで駆け抜ける。
「ぐわぁぁぁぁぁ!!!」
「いやっ!嫌ぁぁぁっ!!!!」
悲痛な叫びが脳内に響く度に、口元は震え、まともに呼吸が出来なくなっていく。
何故だろう。今まで一度も血を“怖い”だなんて思ったことはなかった。
昔なんて、当たり前のように狩りをして、当たり前のように血を見てきた。
それなのにーーー今、とても“怖い”と感じている。
「よし、もう少しだ……!」
次の瞬間、真横でバタッと倒れる音が。
同時に私もリードを引っ張られ、先へ行くのを阻まれた。
「つ……あ……っ!」
まずい。落ちていた石の所為でご主人様が転んだ。
このままだと追いつかれる……!
「わん!くぅーん……。」
「駄目だ……足が動かないっ……!」
どうすれば良いんだ……。
あの球体に見つかったら、殺されてしまうかもしれない。
だが考えても良い答えが見つからず、あたふたする。
「アヤメ!お前だけでも逃げろ!!」
ご主人様は必死に、心から叫んでいた。
その声は、私の心髄を強く震わせる。
「俺を置いて行け!お前の嗅覚ならきっと、俺を探し出せる!
俺もどんな手を使ってでもお前を見つけるから!!
だから……だから……絶対に会おう……!
お願いだ…っ………!!」
ご主人様の声は震えていた。
私がもし人間様だったら、泣きながらご主人様に抱きついていただろう。
私がもし人間様だったら、ご主人様の放った言葉を否定出来ていただろう。
私がもし……もし…………!
「俺を…信じろッ……!!」
ご主人様の声が、瞳が、全てが私の心の迷いを貫く。
絶対に会える、そう訴えている気がした。
「………わんッッ!!!」
それは苦渋の決断だった。もうご主人様と会えなくなるかもしれなかったから。
……いや、私は信じる。
必ず、ご主人様の元へ戻るんだ!!
私は弾かれたように素早く、全力で森の奥へと駆け出した。
ーーー私がもし人間様だったら、ご主人様の手を引いて逃げる事が出来ていただろう。
なんて、叶わぬ願いを心に秘めながら。
葺草アヤメの「葺草」は「ふきぐさ」と読みます。