中 庸
そして1週間が過ぎた頃、会社からマンションに帰ってきた智也が、花壇に草が生えていることに気づいて草抜きを始めると、30分ほどして
「中野さん、やめてください」清掃会社の担当が慌ててやって来た。
「えっ……」
「お願いです。そんなことをされたら、うちの仕事が減らされます。すぐにうちの作業員にやらせますので、お願いします」彼は平身低頭して訴えると
「そ、そんな…… 僕は別にそんなつもりでは……」智也は慌てるばかりだった。
「すいません。それはわかっています。でも、うちは吉岡不動産から仕事をいただいていて、レナコーポレーションの方にそんなことをさせるわけにはいかないんです」
智也は驚いたが、それでも懸命に説明する担当者に迷惑をかけてはいけないと思い、
「わかりました。でも、何かあったら言ってください」
「とんでもないです。こちらこそです。管理の行き届いていないところがあったら何でも言ってください」
部屋へ引き上げた智也は、しばらくは呆然としていたが、再び庭に出ると、懸命に草取りをしている女性に出くわし
「ご苦労様です」と笑顔で話しかけたが
「……」その女性は智也の方を振り向いて驚いたような表情をすると、黙って頷いただけで、彼に背を向けて再び草取りを始めた。
( 俺のせいで迷惑をかけたのかな……)
そう思った智也は近づくと
「草っていくらでも生えますよね…… 」話しかけたが返事がない。
「……」
「俺のせいですいません」智也はたまらず謝ったが
「笑ってるんでしょ」
「えっ……?」
「笑ってるんでしょっ、いい気味だって思ってるんでしょ!」
突然のことに智也は気が動転してしまい
「す、すいません。笑ってなんていないです」
頭を下げて立ち去った智也はすぐに会社に出向くと、前田にその事情を説明した。
「あなたと同じ年ね、鈴木佐美…… 知らない?」資料を調べた前田が尋ねたが
「全然わからないです」
「そう、麗奈さんも同級生よね」
「は、はい」
しばらくして、電話で事情を聞いた麗奈が会社にやって来た。
「智也、忘れたの? 同級生にいたでしょ、4年生の時は同じクラスになったわよ」
「ええっー、全然知らないけど……」彼が首を傾げた。
「あんたのこと『汚い』とか、『そばを通らないで』とか言ってた奴よ」
麗奈が腹立たしく話すが
「ええー、皆に言われていたから…… 」彼は全く気にしていない様子だった。
「はあー、露骨に言っていたのはあいつだけよ」
「そ、そうなの……」
「あんたね、腹立たしさとか、憎しみとか、そんなものはないのっ」呆れた麗奈の語気が強くなった。
その時
「なに、大きな声出してんのよ」
麗奈の車が駐車場に入ってくるのを見た桐谷が顔をのぞかせた。
「奈々さん、聞いてみ下さいよ!」
麗奈が懸命に状況を話すと
「麗奈ちゃん、どうしたのよ……」
いつになく冷静さを欠いている彼女に桐谷が驚いた。
「私ね、当時、担任に言ったのよ。『あんな言い方はひどい』って、そしたら松岡美智子っていうやつだったんだけど、なんて言ったと思う⁉」
麗奈の怒りが痛いほど伝わってくる。
「……」
「『貧しいっていうことは悲しいことね、でも誰も貧しさを助けてあげることはできないの、自分のせいなのよ』って、あいつのあん時の顔、今でもはっきり覚えているっ」
麗奈が唇をかみしめて一点を見つめる。
「そりゃ、ひどいね、よくそんなのが教師になれたね」桐谷も呆れてしまった。
「国会議員、松岡の娘なのよ」
「へえー、参ったね、でも、16~7年前のことでしょ、麗奈ちゃんも相当に衝撃だったんだね」
「そりゃ、職員室を出たとたんに、涙がボロボロこぼれて…… 」
「あっ、さっきの鈴木佐美って、逮捕された県議会議員の娘?」桐谷が思い出したように尋ねた。
「そ、そうなのよ。今思えば、松岡の親父は国会議員で、地元では県議会議員に票の取りまとめを頼んだりするものだから、松岡美智子も、そのことを知っていて、鈴木佐美のことだけは大事にしていたのよ」
「なんて奴なの…… それで、鈴木佐美は、自分が、昔、虐めていた智也に今の姿を見られて、『笑ってるんでしょっ』って、言葉が出てしまったのか……」
桐谷は納得したように頷いていた。
一方、智也は二人のやり取りを聞きながら、麗奈の怒りが不思議でならなかった。
いつも貧しさを受け入れて、他の子供たちとのかかわりを懸命に避けて少年時代を生きてきた彼には、全くそんな記憶がなく、貧しいから先生に蔑まれ、貧しいからみんなから馬鹿にされ友達もいない、彼は無意識のうちにそのことを納得して受け入れていた。
「智也君は全然覚えていないの?」桐谷が彼に目を向けた。
「は、はい…… 松岡先生のことは覚えているけど、その鈴木佐美っていう人はよくわからないです」
「あんた、よく不登校にもならないで頑張ったね…… そのことの方が不思議よ」
「給食があったから、あれは楽しみだった。何人かの人は、俺のところにはたくさん入れてくれてさ、うれしかったのは覚えていますよ」智也が微笑むと
「そんなことをしていたのは私だけでしょ」麗奈が突っ込むが
「いや、それは何人かいたと思う…… 」智也もそのことだけはよく覚えていた。
「やっぱり、子供なのよ、親から優しさとか思いやりをおしえられている子供は、声には出せなくても、そういうことをするのよ、無意識のうちにできることはやろうって……」
「へえー、屑しかいないって思っていたけど、そうでもなかったのか……」
「そりゃそうよ、クラスには30人くらいはいたでしょ」
「うん…… 」
「その皆が、鈴木みたいだったら、世の中、どうなんのよ」
「確かに……」
「大きな声、強い声は一人でも多数いるような錯覚を起こさせるのよ」
「なんとなくわかるような気がする」麗奈は頷いたが
「えっ、俺は全然わかんない」智也にはさっぱりわからない。
「ふうー…… 例えばね、10人で会議をやっていて、反対は2人、賛成が8人とするでしょ。だけど反対の一人が大きな声で力強く反対して、もう一人の反対者が『その通り』って、拍手するとするでしょ、賛成の8人がおとなしい人達だったら、もう何も言えないし、言わない。みんな、賛成は自分一人みたいな錯覚に陥ってしまうのよ」
「なるほどね…… 理路整然としているね」麗奈が感心する。
「それにね、賛成の人達も、絶対に賛成というわけじゃないけど、反対する理由もないっていうような感じだったら、必ずと言っていいほど、声の大きい反対者に引っ張られてしまう」
「そうよね、もし賛成者が意見を言ったら、その反対者は徹底的に攻撃するものね」麗奈が同意を求める。
「よくわかってるじゃないの、その様子を見ていたら賛成者は恐ろしくなって絶対に意見なんて言えなくなる」
「そうね、結果、全員が反対みたいな雰囲気になってしまうものね」
「智也君のことを思っていた子供たちだってそうよ。担任の松岡が冷たくて、その鈴木が大きな声で智也君を蔑めば、他の子供たちは自分の思いを表には出さないし、出せない。まだ10歳くらいでしょ」
「……」
「だからね、世の中、そんなに悪人ばかりじゃないのよ、人間って弱いものなのよ。麗奈ちゃんみたいには強くないのよ」
「なんか、すいません…… 俺のことなのに」
「そうなんだけど、麗奈ちゃんが許せないのは、傷ついている人、立場の弱い人を平気で攻撃していい気になっているその松岡とか、鈴木みたいな人間なのよ。なんの苦労も知らないで、苦労している人をただ蔑んで、忌み嫌う人たちなのよ」桐谷が麗奈を見つめる。
「でも、麗奈さんってすごいよね」智也が突然彼女に微笑んだ。
「えっ」
「麗奈さんだって、お金に不自由なんてしたことないでしょ、でも、真っすぐに歩いている、すごいなーって思いますよ」
「そうでしょ、告ってみる?」桐谷が微笑んだが
「と、とんでもないです!」彼は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「だけど、あの鈴木は、どうしてこの町を出て行かないのかしら…… 見られたくないのなら、どこか遠くへ行けばいいのに……」
「でもね、世間知らずのお嬢様でしょ、お金も何もなくなって、知らない町で生きていく勇気はないでしょうね、恥ずかしくても知り合いはこの町にしかいない。今の清掃会社の社長だって、父親の後援会長か何かしていたと思うわよ。関わりたくはなかったでしょうけど、昔のよしみで見捨てるわけにもいかなかったんでしょうね」
「それだったら、清掃なんてさせないで助けてあげればいいのに……」智也は不思議だったが
「そんなに甘くはないわよ、だいたい何のメリットがあるのよ。でも、出て行かなくて正解よ、あのまま出て行けば運がよくて水商売、運が悪けりゃ、悪い男に引っかかってどこかに売り飛ばされて、借金を背負うことになる」
「そ、そんなことになるんですか!」智也が驚いた。
「そんな人は売るほどいるわよっ。、何かいいことがあるはずって思って、東京に出て行って、さあ、どうしようって思っていたら、感じのいい優しそうなイケメンが声かけてきて、
『接客業でよければ、住み込みでいい仕事があるよ。アパートもちょうど一人空いているんだよ、早い者勝ちになるけどね……』って、微笑まれて事務所みたいなところに連れて行かれて、そのイケメンは100~200万もらって、その女は借金を背負って、そこから逃げられなくなる」
「とんでもない世の中ですね」麗奈が悲しそうな目を向ける。
「まっ、智也君はその鈴木のことは気にしないで生きていけばいいんじゃないの」桐谷が微笑むと
「そ、そうします」彼は話がよくわからなかったこともあって、慌ててそう答えた。
しばらく沈黙の後
「だけど、智也は松岡に対してはどう思っていたの?」麗奈が尋ねると
「うん……」
「……」
「一度だけ、祖母ちゃんのところへ来たことがあるんだ」
智也はその時の話を思い出しながら丁寧に語った。
「その時の祖母ちゃんの顔が忘れられない……」
彼が俯くと
「なんて奴なの、地獄に落としてやる」麗奈が唇をかみしめる。
「何言ってんの、あなたが同じところまで降りて行ってどうするのよっ。【中庸】っていう言葉、知っている?」桐谷が慌てた。
「ママが昔よく言っていた」
「一般的には、かたよらないで、過不足がなく調和がとれていることって言われているけど、いろんな使い方や意味があるのよ。私は、プラスマイナスゼロっていう風に思ってる。罪が大きければ大きいほど、罰も大きい、幸せが大きければ大きいほど、不幸も大きい」
「そ、それって、あまり幸せになってはいけないっていうことですか」智也が心配そうに尋ねた。
「ちょっと難しいんだけど、例えば、智也君はとても苦しい時代があったわよね」
「はい……」
「だけどその分だけ、幸せも大きくなる。だけど幸せになったと感じるのは依然と比べるからで、智也君にとっては、今の生活がごく自然に流れる中でたどり着いたものだと思うのよ。だけどもっともっとって幸せを望んで、お金を望んで、無理をしてさらに高くなっていくと、その反動は必ずある。だけど今の生活が自分の位置なんだって思って、幸せを感じて感謝して生きていけば、その位置が自然と高くなっていく…… まっ、自然に流れていくぶんには何も問題ないけど、強引に欲を出してしまうと、その反動は必ずあるって言うことかな。無理をしないで今の生活に感謝して、自然の流れに身を任せれば、それが一番素晴らしいことだと思うよ」
「……」智也には全く分からなかったが、このわずかな間に、桐谷が信頼に値する人間だということだけは確信していた。