宿命の女神
智也の生い立ちと実情を知った麗奈は、 時折、一人で出かけ、道路を挟んで向かいにある公園の駐車場に車を止め、彼の様子をうかがっていた。
車がスタンドに入るといつも飛んで出てくるのは智也だった。他の店員が歓談している時も、彼はいつもせわしく動いていた。
( なんであいつだけ、あんなに働いてんの…… むかつく )
そんなことが1ヶ月近く続いたある日、
( 私はなんでこんなことしてんの? )麗奈の脳裏に一瞬だけ疑問が生じたが
( これか…… ママが言ってたのは、こういうことか…… )
亡くなる前日の母親の言葉を思い出し、勝手に納得してしまった麗奈がついに決心した。
2日後、8月初めの蒸し暑い夜であった。
桐谷にお願いして、相当に古くみすぼらしい軽四を用意してもらった麗奈は、閉店間際を狙って高木GSに向かった。
「いらっしゃいませ、レギュラーでいいですか」智也がとんで出てきた。
「あのう、この車、なんか調子が悪くってー、視てくれませんか?」
麗奈がすがるように話すと
「もう8時で閉店なんです。それにここで視るとお金がかかりますから……」
あまりにもみすぼらしい車に驚いた彼が、お金のことを心配して小さな声で囁くように言った。
「えー、お金ないしー、サービスしてくれないんですか?」
麗奈が困ったように顔をしかめると
「すいません、あの、もし明日でもよければ、100mほど、この道を行くと、齋藤自動車っていう小さな工場がありますから、そこに来ていただければ、私が個人的に視てみますので……」
「えっ、お金はいらないんですか?」
「はい、明日は休みなので、仕事とは関係なしに視てみます。でも、もし部品代がいる時には……」
「それは、もちろんですよ、それくらいは支払いますから」麗奈が微笑んだ。
「じゃあ、10時でもよろしいですか」
「はーい、お願いします」
そして、翌日、10時に齋藤自動車で、車を調べた智也は、あまりにも行き届いた整備に驚いた。
「全然問題ないですよ」彼が頭を傾げながら言うと
「ええー、でも、あっ、運転して走ってみたらわかりますよ」
麗奈が思いついたように弾んだ声で訴える。
「えっ、私が運転するんですか……」
「今日は忙しいんですか」彼女が困ったように尋ねると
「いや、特には……」彼は困惑していた。
「じゃあ、行きましょうよ、保険は誰が運転しても大丈夫ですから、ねっ、お願い!」
( この人、なんかおかしい、やばいぞ…… )
彼は少し不安になったが、あまりにも強引に誘われ断ることができず車に乗り込むと運転を始めた。
「ねえ、高速に入って!」
「ええっ、お金がかかりますよ」
「大丈夫よ、お金ならちゃんと持ってるから」
「はっ、はー」智也は困惑していたが
「ねえー、智也君……」
「えっ、どうして……」彼は突然、名前を呼ばれて驚いた。
「君、私のこと、覚えていないの?」
「えっ……」
「小中と同級生だったのよ、吉岡麗奈」
「えっ、すいません」
「ええっー、吉岡麗奈っていう名前にも記憶がないの……⁉ 」
「ご、ごめん」彼は運転しながら懸命に記憶をたどったが、全く聞き覚えのない名前に不思議そうな表情をした。
「もう信じらんない……」麗奈は呆れてしまった。
しばらく沈黙があったが
「ねえ、高速に向かっている?」
「は、はい…… でも、俺、本当にお金は持っていないんですよ」
「はあー、そんなこと、知っているわよ」
「じゃあ、なぜ……?」
「とりあえず、高速に入ったら、どこかで止めて、話したいことがあるから……!」
麗奈は、どのようにして話を切り出そうか考えていた。
20分後、高速のパーキングに停止すると、
「あのね、取って食べようって言うんじゃないから、そんなに緊張しないでよ」
麗奈は固まっている智也に少し戸惑っていた。
「はあー……」彼はハンドルを握ったまま正面を向いて彼女を見ようとはしなかった。
「私の顔を見たくないの?」
「いや、そんなことはないんですけど…… こういうことになってしまった意味が分からなくて……」智也は一瞬だけ彼女に目を向けたがすぐに正面を向いてしまった。
「あのね、小学校の3年生の時にね、私の父の会社がある家族の工務店を差押えして、その一家が心中しようとしたのよ…… 」
「あっ、思いだした! あの時の人ですか?」声に少し元気が出てきた。
「なんなのよ…… そのことは覚えているの?」
「いや、あまりにきれいになっているんで、全然わからなかったです」
智也は顔を赤くして懸命に答えた。
「どういう意味よ、子供の頃はブスだったってこと?」
「い、いや…… いつも下向いて歩いていたし、人と目を合わせたくなかったので、同級生の顔なんて、ほとんど覚えていないんです。すいません。ただ、お金がある人って良いなーって、子供心に羨ましかったのは覚えています」
「じゃー、どうしてあんなところで…… ごめん」
麗奈は、はっとして、思わず出てしまった言葉をとどめた。
「いえ、いいです。でも、あそこしか雇ってくれるところがなかったんです。ばあちゃんが死んで一人になって、どうでもいいって思っていたんですけど、腹は減るし……」
「ねえ、その生活を変えてみたいとは思わないの?」麗奈の優しい言葉に
「そ、それは変えてみたいし、もっと、いや、もう少しでもいいから、いい暮らしがしてみたいと思いますけど、世の中、そんなに甘くないです。腰が悪いし、定時制の高校しか出ていないし…… 」彼はまた俯いてしまった。
「フーン、やっと話しだしてくれたね」麗奈が微笑むと
「ど、同級生と知って、少し安心しました」それでも彼は顔を向けない。
「でも、君のお父さんは、その同級生に、しかも幼馴染に裏切られたんでしょ」
「そんなことまで知っているんですか……?」驚いた彼が麗奈に目を向けた。
「だけど、世の中って不公平よね、私みたいに生まれた時からお金の苦労なんて知らない人間だっているのに、君のお父さんみたいに、正直に生きて、何も悪いことはしていないのに…… 」
彼は、お金があるんだったらもう少し良い車に乗ればいいのにと思って、つい
「でも…… この車……?」と不思議そうに尋ねたが
「はははっはは、こんな車で、こんな格好していないと、あなたに近づけないって思ったのよ」そう答える麗奈に
「はー…… でも、俺は本当に何も持っていないですから…… 」
どうも、何か魂胆があるような気がして、智也は懸命に貧しいということをアピールした。
「あなたねー、私が何をするって言うのよ?」
「で、でも……」
「とりあえず、その腰を治そうよ。明日、知り合いの病院に予約しているから……」
「いや、仕事が……」
「今日、弁護士が退職届を出しに行っているわよ」麗奈があっさり言うと
「ええっー、そ、そんな無茶な」彼は目を見開いたが
「いいじゃない、とりあえず、腰のこともあるから、マンションの管理人をして」
「ええっ」
「はい、これ私の名刺」
名刺を受け取った彼は
「レナコーポレーション、代表取締役社長、ええっー、社長なの!」
驚いて彼女をじろじろと見まわした。
「そんなに驚くようなことじゃないのよ、父親の会社のマンションを3棟、私の会社で維持管理しているのよ、っていうか、親父が私の世間体を考えて、こんな会社つくったのよ。社員は私のほかには一人、あっ、今日からあなたが入るから二人ね」
「でも……」
「大丈夫よ、あなたの腰はおそらくどこか神経が出ていて、そこをレーザー何とかっていう電磁波かなんか知らないけど、切らないで治すのよ、あなたのはおそらくそれよ、すぐ済むって言ってたよ……」
「ええっ、でもそれ、お金が……」
「大丈夫だって、スカウト料よ。それにね、ガソリンスタンドからたっぷり退職金を取ってくるはずだから」
「ええー、お世話になったのに……」
「あんた、馬鹿?」さすがに麗奈は呆れた。
「えっ」
「お世話したのはあんたの方でしょ、いいようにこき使われて、皆がだべっているのに一人だけ作業させられて、腹が立たないのっ!」
「いやー、でも」
「もういいから、黙って私の言うとおりにしなさいって、それに腰が治ればどこだって就職できるわよ。私のところが嫌になったら、どこでも行けばいいんだから、だけど時々、運転手はしてね」
一方、ガソリンスタンドに出向いた桐谷奈々が、弁護士の名刺を出して中野智也の代理で退職届を出しにきた旨を店長に伝えると、
「そ、そんな、急に……」彼は驚いたが
「何か問題があるの?」桐谷の威圧的なまなざしに
「い、いえ、別に……」俯いてしまった。
「彼が会社で積み立てしていたり、借入したりしているものはないでしょうね」
「は、はい、ないです」
「相当に理不尽な扱いをしていたみたいだけど、法に抵触しているようなことはしていないわよね」 厳しい目つきが彼を突き刺す。
「そ、そんなことはしてないです」一瞬の動揺があった。
それを見抜いた桐谷は
「そう…… 中野智也と明日は詳しい話をすることになっているんだけど、もし何かあれば、警察、監督署、税務署にはすぐに連絡するからね、覚悟しておいてね」
「そ、そんな……」
「なによっ! 問題はないんでしょ、それなら心配はないでしょっ!」突然強くなった語気に店長は再び俯いてしまった。
「あなた、私が馬鹿だと思ってんの?」桐谷が微笑むと不気味である。
「そ、そんな……」
「あなたの噂はいろいろなところで聞いてるわ、やってたことの想像はできるのよ」
「……」
「まっ、監督署と、税務署は飛んでくるわよね、じゃっ」桐谷がそう言って背を向けると
「まっ、待ってください……」
彼が俯いたまま、給料の一部をフィードバックさせていたことと、週に一度ボランティア出勤させていたことを告白すると
「それって、犯罪でしょ」
「す、すいません……」
「ボランティア分は彼が納得していたのなら仕方ないところもあるけど、どうせアルバイトでも雇ったことにして、あんたがかすめていたんでしょ。」
「……」
「まっ、それはいいわ。でも給料だけでも、1ヶ月に3万円、7年で252万円、いくら払うのよ」
「ご、50万円の退職金で……」
「はあー、ふざけるんじゃないわよ。全額払いなさいっ」
「か、勘弁してください。 ひ、百万が精いっぱいです」
「ふー、わかったわ、まっ、彼が困っていた時に雇ってくれたんだし、彼も感謝しているみたいだし、今日中に100万円振り込みなさい」
「は、はい……」
(くそー、智也の野郎、弁護士なんか雇いやがって…… 、許さねーぞっ!)
店長ははらわたが煮えくり返るような思いだったが、その指示に従う他なかった。
翌日、麗奈に連れられ、病院に出向いた智也は、MRIでの検査後、レーザーを照射され、しばらくベッドで休んだ後、夕方には迎えに来た彼女と食事に出かけた。
「どう?」
「いや、信じられないです。少し重みが残っているけど、痛みは全然ないです」
「良かったね、その重い感じもだんだんと無くなるらしいよ」彼女もうれしそうだった。
智也は、腰の痛みが無くなり、美女を前に温かいハンバーグステーキを食べながらかつて経験したことのない幸せを感じていた。
( ハンバーグって、温かいと、こんなにうまいんだ…… )
「どうしたの?」ハンバーグを見つめながら微笑んだ智也を見た麗奈が不思議そうに尋ねると
「いや…… 温かいハンバーグって、おいしいね」
彼が幸せそうに微笑む。
「はあー、ハンバーグ、食べたことないの?」
「いや、弁当の中のハンバーグって冷たいでしょ」
「ホカ弁とかで注文すれば温かいでしょ」
「いや、9時過ぎて、スーパーで割引になったのしか食べたことなかったから…… 」
「……」驚いて彼を見つめた麗奈は言葉が出なかった。
( どんな生活してきたの…… )
「ところで管理人って、どんな仕事をすればいいんですか?」智也は仕事のことが不安だった。
「よくわかんないから、明日、会社に来て聞いて、それからこれ……」
麗奈が預かっていた通帳を返すと、
「なっ、な、なんですか、これは!」中を見た智也は百万円が記帳されていることに驚いた。
「何って、退職金よ」
「そ、そんなのもらえないです」智也が語気を強めると
「あんたねー、給料の一部をピンハネされたり、ボランティアで働かされたりして、足りないくらいよ。当然の権利よ」
「そ、そうなんですか……」虐げられて生きてきた彼は、【権利】という言葉に驚いたが、麗奈の説得力のある話に
「脅したわけじゃないんですよね……」このことだけは確認しておきたくて懸命に尋ねた。
「もう、何なのよ、労働者には権利があるんだから、何も心配しなくていいわよ」
「は、はー」彼は生まれて初めて手にする大金に頭が真っ白になってしまった。
翌日、会社に出向いた智也は、経理、総務など、事務全般を仕事にしている50歳前の前田という女性事務員、そして顧問弁護士の桐谷奈々を紹介されたが、清掃も含めた施設管理全般は、吉岡不動産がすべて行っていて、時々、不審者がいないか確認し、何かあれば前田に連絡することくらいで、ほとんど仕事がないことを聞いて驚いた。それでも彼は、なにか探せば仕事はあるはずだと思って気持ちを収めた。
その日のうちに引っ越しを済ませた智也は、電化製品はほとんど整えられ、借りれば10万円はするだろう3LDKの住まいに驚くばかりで、頭の中ではその現実を未だに受け入れることができないでいた。
その翌日から、朝、会社に顔を出すと、コーヒーをよばれ、何もしないでマンションに引き上げ、見回りを済ませ、齋藤自動車に顔を出し、親父さんの様子を見てまたマンションに帰る。
こんな日が1週間ほど続いたが、どんなに探してみてもすることがなく、彼は会社に出向くと前田の仕事を手伝おうとしたが、彼女自身もさほどの仕事があるわけではなく新聞を読んでいることが多かった。
隣にある桐谷の法律事務所を覗いてみても、彼女は難しそうな本を読んでいたり、誰かの相談にのっていたりで、ゆっくりと話すこともできず、結局彼はマンションに帰るだけだった。