ついに不運の歯車が……
山城との出会いに加え、バイクでの移動を始めた智也であったが、それでも時折襲ってくる腰の痛みが完治することはなかった。
激しい痛みの時はクリームを使いながら日々のやりくりをしたが、それでも根本的な治癒には至らなかったので、彼はいつもわずかに腰を曲げ、腰に負担がかからないように、下半身だけでささっと動くようになっていった。
「おい、忍者が走ってるぜ」その様子を見ながら、事務所の中で店長の高木が笑う。
「ほんとに忍者みたいっすね」他のスタッフ達もそれを見て笑った。
それでも彼が26歳の時に1級整備士の資格を取得すると、給料も2万円アップし、ここに整備を依頼する利用者が増えていった。
一方、そんな智也のことが気になって何かあるたびに彼を思い出す同級生の吉岡麗奈という女性がいた。
彼女は、地元不動産業を経営する社長の娘で、その父は大地主だった祖父の資産を活用して、手広く不動産業を営んでいた。
彼女が小学3年生の時、父親の会社が差押えした工務店の一家が自殺を図るという悲惨な事件が起きて、幸い一家は命を落とすことはなかったのだが、それが噂になり、彼女はクラスでリスられてしまった。しかしそんな中で、一樹だけは、彼女にごく普通に接してくれたことがあって、その時以来、彼女は貧しい中野智也のことがいつも頭の片隅に残っていた。
まもなく27歳になろうとしている彼女が金目当てで近づいてきた男との恋愛に終止符を打ち、ふっと一息ついた頃、6月の初旬にも拘わらず太陽が照りつけて暑い日であった。
昼食に出かけた帰り道、運転していた桐谷が給油するために高木GSに入るとすぐに中野智也が走ってきた。
「いらっしゃいませ、レギュラーでよろしいですか?」
彼は、桐谷を見つめたまま、助手席にいる麗奈には目を向けなかった。
これまでも、何度かここに来たことがあった麗奈だったが、さほど何かを感じたことはなかった。 しかし、今回は彼のことが気になって仕方がなかった。
麗奈は6年以上も前、成人式の日にここで久しぶりに彼を見て、何かが気にかかったのだが、そのことが思い出せなかった。
一方、この桐谷奈々は、23歳で司法試験に合格し、司法修習の後、【2回試験】に合格、24歳で弁護士になった才女である。希望に燃えて大手弁護士事務所に就職したが、利益第一主義に愛想をつかし、3年半でそこを辞職した後、人権派弁護士と言われる事務所に勤めたが、そこでも貧しい者が敬遠されていることに唖然として、結局2年でそこを去り、しばらく人生を考えてみたいと思っていた時、父親の友人であった吉岡不動産の社長から声をかけられ、レナコーポレーションの設立について相談を受けたことがきっかけとなり、会社設立後、マンションの一角に個人事務所を開設し、麗奈のお目付け役として、当社から専属契約を結んでもらったのである。それは彼女が30歳、麗奈が24歳の時のことであった。
先日、中野智也を見て以来、麗奈は桐谷にお願いして給油は高木GSを使うようにしたのだが、運転席の窓越しに桐谷と話す彼は、依然として助手席にいる彼女には目を向けなかった。
そんなことが続いたある日
「ねえ、奈々さんお願いがあるんだけど……」思い余った麗奈が桐谷に目を向けた。
「えっ、どうしたの?」彼女の初めての【お願い】と言う言葉に桐谷は驚いた。
「あのガソリンスタンドの高木に行くと、すぐに飛んでくる男性がいるでしょ」
「ええ、覚えているわよ」
「あの人は、中野智也って言って同級生なんだけど、子供の頃、信じられないくらい貧しい生活をしていたのよ」いつになく麗奈が神妙である。
「それで…… どうしたいの?」
「父親が騙されて死んだとか、お母さんも早く亡くなったとか、そんなことは聞いたことがあるんだけど、どうしてそんなに貧しかったのかとか、今はどんな生活をしているのかとか、わかる範囲で調べることってできますか?」重苦しい雰囲気が伝わってくる。
「そりゃ、できるし、やるわよ」力強い言葉に
「えっ、本当ですか」麗奈が目を輝かせた。
「そりゃー、レナコーポレーションには事務所まで提供してもらって、毎月相談料として50万円もいただいているのに、そのくらいのことはやらないと罰が当たるわよ」
「うれしい、助かります」
「でも、ちょっと不思議な人よね」
「そ、そうなんですよ…… 昔から不思議な人なんですよ」
「だけど、何かあったの?」
「うん…… 昔ママが言っていたこと、ちょっと思い出して……」麗奈が言葉を濁すと
「まっ、社長の依頼なんだから理由は聞かないわ」桐谷も気持ちを察した。
「ありがとう」