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憎しみのかなたに  作者: 此道一歩
第1章 貧しさに埋もれて
3/25

命を絶った母

 中野智也が【高木GS】で働くようになって1年が過ぎた頃、彼が他のガソリンスタンドからうちに来ないかとの誘いを受けたことを知った店長は、 

「社長がお前の頑張りを見ていて、正社員にしてやりたいって言ってきたよ」

「えっ、本当ですかっ」智也が目を輝かせると

「でも、給料は1万円しか上がらないんだ、いいかな?」

「はあー」正社員になれば3万円くらいは上がるはずと思っていた智也ががっかりしたのを見ると

「お前が大変なのは知っているし、騙されたらかわいそうだから、早く正社員にしてやってくれって、社長にかけあったんだ」

「えっ、騙されるって?」

「お前の前に勤めていた奴は別のスタンドから誘われてさ、条件がいいからって、うちを辞めて、そこに再就職したんだよ。だけど、いざ勤めてみると嘘ばっかりで、うちより相当に条件が悪かったらしい。そいつがさ、慌ててうちにやって来て、もう一度勤めたいって言ったんだけど、社長が、そんな無責任なやつは雇えないってさ……」

「そ、そうなんですか……」

「今の時代になかなかいい話なんてないんだよ、だけど迷ったんだなー、俺はお前のことが心配だからさ、必死に社長に話したんだぜ」

「あ、ありがとうございます」

「だけどさ、お前はよく頑張ってくれているから、給料のことは、もう一度か掛け合ってみるよ」

 高木は、給料が2万円上がるため、フィードバックを4万円にしようかと思っていたが智也の様子を見て無理はできないかと考え直した。


 その2日後、給料が2万円上がることを聞いた智也は喜んで何度も店長に頭を下げた。

 その後、整備士の2級を取れば給料がさらに1万円上がることを聞いた智也は懸命に勉強して、23歳の時にその資格を取得したのだが、その通知を受けた翌日、動けないほどの痛みに初めて仕事を休み、悔しさに涙を流しながら祖母と二人きりの苦しい生活を思い出していた。


( せっかく2級を取ったのに…… これじゃあ、仕事もできない、くそっー! )

涙があふれ、再就職後初めて心が折れそうになってしまった。

( こんなに痛いのに、なんで生きてんだ…… 

もう死んだ方がいいんじゃないか…… 

いつか動けなくなるかもしれない、動けなくなったらどうなるんだ…… 

動けるうちに死んだ方がいいんじゃないか…… 

どんなに頑張ったって…… 

くそー、もう婆ちゃんのところに行きたい 

死んだら父さんにだって会えるんだろう…… 母さんにも会えるのか…… 母さんの顔なんて見たこともない、なんで写真もないんだ、あの世に行ったら皆に会えるのか……  )

 生まれて初めて彼は死を考えた。


( 婆ちゃんは、誰の助けも借りなかったもんな…… 神様なんていない、いるとしたらとんでもないやつだ、人の不幸を楽しんでいるとんでもないやつだって言ってたよな…… 誰かに助けてもらったら神様に負けたことになる。とことん苦しめたらいいっ、絶対に手は合わせないからって…… 本当に婆ちゃん言うとおりだ )


 そして午後、這うようにして病院へ行った彼は、さらに強い痛み止めを処方してもらい調剤薬局へ向かった。


「中野さーん、お待たせしました」年配の女性に呼ばれた彼が、彼女の前に腰を下ろすとその名札には山城明子と記されていた。

「中野智也さんって、あのお好み焼きをされていた中野さんよね?」彼女が優しく微笑んだ。

「はい、父が昔……」

「そう…… じゃあ、お母さんは洋子さんね」山城が確認をとるように話した。

「えっ……! もう名前も忘れました。顔も見たことないし……」

 言葉を投げ捨てた智也の矛先を変えたくて

「腰が悪いの、これはとても強いお薬よ」彼女は薬の話を始めた。

「はい、もうどうにもならなくて…… 手術も怖いし、もし動けなくなったら……」

「お一人なの……?」

「はい…… こんな痛い思いして、仕事して、馬鹿みたいです。もう、いいかなーって」

 智也は初めて感じた暖かい女性のまなざしに触れてつい、愚痴をこぼしてしまった。


 しばらく沈黙があった。

「私はあなたのお母さんが亡くなったときに、その病院に勤めていたの……」彼女が俯きがちに話すと

「そうですか…… 死んだ人はいいですよね、痛くもかゆくもないし……」智也は遠くを見つめて思いを語った。

「中野さん…… ちょっと奥へ入ってくださる?」

 人生投げやりになっている彼に、彼女は意を決した。

「えっ」


 半ば強引に奥の部屋へ通された彼は、うつ伏せになり腰にクリームを塗ってもらった。

「私も膝が痛くてね、このクリームをずっーと使っているの。個人的に使っているものなので、薬局で出しているものじゃないんだけど…… どう?」

「す、すごいですね、痛みが無くなりましたけど…… でも熱いですね」

「うん、それはすぐに収まるから……」

しばらく意識を腰に集中した智也が

「し、信じられないです。それ、いくらするんですか、僕にも買ってください」嘆願するように言うと

「わかった、このビンをあげるから……」彼女の優しい言葉だったが

「いや、それは駄目です。施しは……」無意識のうちに施しという言葉が出てしまった。

「いいのよ、その代わりにお願いがあるの」

「えっ」

「聞いて欲しいことがあるの、私の話を聞いてもらうお礼にそれは差し上げる。それだったらいいでしょ。無くなったら次は買えばいいから、一瓶八千円よ」

「は、はー」

「隣が私の家なの、ちょっと来てくれる?」


 不思議に思いながら表に回って、住居部分に入った彼は居間のソファに腰を下ろした。

「中野さん、あなたのお母さんがどうして亡くなったのか知っている?」山城が優しく語り掛けてきた。

「はい、病気です」

「そうよね、そう知らされているわよね」彼女が目を伏せた。

「えっ、違うんですか?」

「ちょっと待っててね」奥へ入った彼女は、1枚の紙をもってきて、それを智也の前に差し出した。


『一生のお願いです。家族には病死と伝えてください  中野洋子』


「な、なんですか、これは?」智也は驚いた。

「あなたのお母さんの遺書よ」

「えっ……」

「あなたのお父さんが、幼馴染の借金を背負うことになって、洋子さんはとても悩んでいたの。毎月の病院代が10万円くらいかかっていたから、彼女は、もう死にたいって……」

「えっ、自殺だったんですか」智也は驚いて身を乗り出した。

「私はね、あなたのお母さんと同じ施設で育ったのよ。私は中2の時に養女にもらわれて大学まで出してもらって薬剤師になったの。洋子さんとは病院で再開することになってしまって…… 」

「そうですか……」

「あなたのお母さんにはね、大丈夫よ、何かあれば私だって力になるからって、何度も話したの。そのたびにお母さんは悲しそうに微笑んで、ありがとうって……」涙を賢明にこらえる彼女の言葉が途切れる。

「……」

「でも、ある日、あなたのお母さんは睡眠薬を飲んで人工呼吸器を外してしまった……」こらえきれなくなった彼女の瞼に涙があふれた。

「そ、そんな……」

「その傍らにはこの遺書が1枚だけ残されていたの……」

「……」

「医師と看護師が慌てて私に連絡してきて…… あなたのお父さんをこれ以上苦しめたくなかったから、私が責任を持ちますって断言して……」

「……」

「病死ということにして、3人は口裏を合わせてしまった……」

 嗚咽に遮られながらも、彼女は一言、一言を丁寧に話した。

「……」

「私は…… あなたは『死んだ人はいいですよね』って言っていたけど、あなたのお母さんがどんな思いで人工呼吸器を外したのか想像ができる?」

こんなにやさしい言葉があるのだろうかと思うほど、彼女の心が伝わってくる。  

「……」智也は俯いたままだった。

「たとえベッドの上にいたとしても、生きてさえいればあなたを抱きしめることができたのに…… 成長する子供の姿は見たかったはずなのに…… それなのに…… それなのに人口呼吸器を外してしまった…… その時のお母さんの思いが想像できる……?」

 涙をこぼしながら懸命に話しかけてくる彼女の母に対する思いが痛いほど伝わってくる。

「……」

「愛よ、あなたの将来を心配した洋子さんの愛よ、こんな大きな愛を私は知らない……」

「……」智也が初めて人前で涙を流した。

 その様子に安堵した彼女は

「たった一人ぼっちになって、頑張ろうって思っても腰が痛くて頑張れないで…… もうどうにでもなれ、生きていてもいいことなんて何もない、もう死んでもかまわない…… そんなことを思っていたんでしょ」優しく尋ねかけた。

「……」しかし智也はピクリとも動かない。

「わかるわよ、あなたがどんなに辛い人生を歩んだのかよく知っている。私はね、洋子が身を引いてくれたおかげでこの家の養女になることができたの。だから、彼女のために何かしたかったの、だけど援助させて欲しいって、何度お願いしてもあなたのお祖母さんは受け入れてくれなかった。あなたのお祖母さんは神様に対して怒りを持っていた。とことん来なさいよ、絶対に他人の施しは受けないから! 連れて行くのなら連れて行きなさいよって…… 」

「……」智也は静かに頷いた。

「だけどね、あなたのお母さんが自らの命を絶ってまで守ろうとしたあなたの未来なのよ、あなたはその未来を捨ててしまうの? お母さんのその思いをなかったことにするの……? 」

「……」かつて智也はこんなに突き刺さってくる言葉を聞いたことはなかった。

「お祖母さんが亡くなったことを知ってとても心配したけど、でも、高山自動車に就職したのを知って私は一安心して……」彼女はそこから智也に気をかけなかった自分を後悔していた。


 その後、智也がここに至った状況を説明すると


「それで、そこの仕事は辛くないの?」

「はい、腰の痛みさえなければ…… 」

「そう…… でもね、痛み止めを飲むのはできるだけ止めて、このクリームを使いなさい。身体のためにもその方がいいと思う」

「はい、ありがとうございます」

「それに、手術をした方がいいと思うわよ。場合によっては、切らずにレーザーで……」

「でも……」

「お金だったら私が出してあげる。気になるんだったら少しずつ返してくれればいいじゃない。痛みと戦いながら……」気を使って切り出した彼女だったが

「ありがとうございます。考えてみます」その言葉は遮られてしまった。

 

 その時、

「お母さーん、できたわよ」奥でカレーを煮込んでいた娘が微笑んだ。

「カレーなんだけど食べて行ってね」

「いえ、施しは……」

「智也君、こんなのは施しでも何でもないのよ。大好きだったけど亡くなってしまった親友の息子さんに会えて、私はうれしいのよ。その息子さんと食事を一緒にして、その親友のことを話してあげたいのよ。施しじゃないの、私の思いなのよ。そのくらいはわからないと駄目よ」

「は、はい」


 食事をしながら、

「お母さんの写真とかはないの?」

「はい……」


 かつて、突然家を差し押さえられ、十分に荷物の整理もできないまま家を後にしなければならなかった智也の祖母は、息子夫婦の思い出の品々がわからないまま、古いアパートの一室に引っ越してしまったため、物心ついた智也が、両親の写真を目にすることはなかった。


 そんな智也に山城は、幼いころからの洋子の写真を見せてくれた。

病院での写真はベッドの上であったが、それでも初めて目にする母の笑顔に智也はとめどなくあふれ出る涙をどうすることもできなかった。


 その日以降、彼は時々、山城から呼び出され、食事を共にするようになった。

 一ヶ月後、智也が3度目の食事に招待された時であった。肉のたっぷり入ったすき焼きをよばれた後、娘の亜紀が作ったというケーキを食べ、彼が幸せを感じていた時

「中野さんって、車のことは詳しいんですか?」娘の亜紀が突然尋ねた。

「亜紀ちゃん、迷惑よ」母親が娘を制したのだが

「えっ、いいですよ。調子が悪いんですか?」

「はい…… なんかエンジンかけると、前の右タイヤのあたりがびりびりいって……」

「そうですか……」

「国友オートってところで買ったので、そこへもっていったら30万円もかかるって言われて…… 1年前に50万円で買った中古なのに……」亜紀が泣きべそをかきながら訴えてくると

「あさっては、休みなんです。高木GSの前を100mほど行ったところに齋藤自動車ってあるんですけどわかりますか?」

「は、はい、わかります、わかります」彼女が笑顔で答えると

「じゃあ、あさっての10時にそこで……」

「30万くらいかかりますか?」彼女が心配そうに尋ねると

「見てみないとわかんないですけど、でも国友オートってところが言っているのは、すべて分解して調べてみるからそれくらいかかるって言っているんだと思うんです。だけどおそらく、どこかのビスが緩んでいるか、外れているか、そんなところだと思うんです」

「そ、そうですか」亜紀は嬉しそうだった。

「智也さん、ごめんなさい。厚かましい娘で、本当にごめんなさい」

「とんでもないです。俺にわかるのは車ぐらいなんです。だから車のことで頼りにされるとうれしいです」彼が微笑むと

(この子はこんな笑顔もあるんだ)そう思った母親は、自ら命を絶った親友を思い懸命に涙をこらえた。


 2日後、齋藤自動車で亜紀の車を検査した智也は驚いた。

ボンネットを開けて何か所かのボルトのゆるみを確認していた彼は

「親父さん、どう思う」彼が大将を呼んで問いかけると

「こりゃ、ひでーな」

「えっ、そんなにやばいんですか」山城亜紀が驚いたが

「ここ、見てくれる?」

「は、はい……」

「ありえないことだけど、プラスチック製のナットウを使ってる。もう割れてしまって、止めていないのと同じことになっている」

「ええっー、」

「どこかで修理したことがある?」

「いや、買った時のままです」智也は親父さんと顔を見合わせた。

「な、治らないんですか」

「いや、だいじょうぶ、ナットウだけちゃんとしたものに代えておくから」

 智也は3か所のナットウを交換して亜紀にエンジンをかけるように指示をした。


 ジュルルーン

 エンジンがかかったが、雑音は全く聞こえて来なくなった。

「中野さん、治りました。うれしい」

「あのさー、下手に騒ぐと営業妨害になるし、国友に文句言っても、絶対にうちじゃないって逃げるから、ここは我慢して、今後は関わらないようにした方がいいよ」

「はい、中野さんと知り合いで良かったです。うれしい、いくらお支払いしたらいいですか?」

「じゃあ、1000円だけ、大将に払ってあげて……」

「ええっー、1000円でいいんですか」山城亜紀は目を丸くして驚いたが、智也は彼女の力になれたことがとてもうれしかった。


 人のぬくもりに触れたことのなかった彼にとって、山城の家で食事をよばれ、楽しく語らい、その娘からはこんなことで感謝され、なんとも言えない穏やかな時間は唯一の楽しみになっていった。祖母とともに他人の親切を拒み続けてきた彼にとって、山城が母親の親友であったということが、唯一のよりどころであった。智也のわずかな心の隙間に入ってきた山城の思いは彼にとってはかけがえのないものになりつつあった。


 そんなある日、齋藤自動車の大将から呼び出された智也は

「この原付、治してみるか? お前にやるよ」大将の言葉に驚いた。

「えっ、いいんですか?」

「ああ、鉄くずで売りゃー、200円だ。施しが嫌なら200円で売ってやるよ」


 高校卒業間近に、車の免許は取ったものの、お金のない彼は依然として自転車生活を送っていたのだが、喜んで200円を支払った彼は、2日ほどで整備を済ませると、ようやく快適なバイク生活を始めた。


 

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