貧しさは罪なのか
「ばあちゃん、俺たちは何の罰が当たったんだ?」小学4年生になった智也が祖母に尋ねた。
「どうしたの?」
「先生が言っていた。悪いことをすれば神様が罰を当てるって……」
「そうなの……? でもね、神様なんていないんだよ。智也の父さんは、毎日まじめに生きてね、困った人がいれば助けてあげてね…… 婆ちゃんはあんたの父さんが誇りだった。でも、父さんは死んでしまって、店も無くなってしまっただろ。神様がいたらね、こんなことにはならないよ」
「そうだね……」
「人を騙したり、人のお金をもって逃げたり…… 罰が当たるんだったら、そんな人達に罰が当たるはずよ。神様なんているはずがない」
成人した中野智也は亡くなった祖母とのそんな会話をいつも思い出していた。
祖母と二人きりの貧しい少年時代を過ごした彼は、2学期の始業式が大嫌いだった。
教室に座った児童を前に、担任の先生は
「夏休み、どこかへ行った人……?」必ずと言っていいほどそう尋ねた。
小学4年生の夏休み明けもそうだった。若い女性教師が尋ねると、児童が一斉に手を上げた。智也もつられて、俯いたまま恐る恐る手を上げた。
( あてるな…… )心で叫びながら少しだけ顔を上げて先生を見ると目が合ってしまった。
腕を組んだまま口をへの字にゆがめて、意地悪く微笑んだその教師、松岡美智子は
「はい、中野君、どこへ行ってきましたか?」間髪入れずに尋ねてきた。
幼い智也にも
『嘘をつくな、どこへも行っていないでしょ』という先生の心の声が聞こえるようだった。
仕方なく立ち上がった彼は
「おばあちゃんの親せきに行きました」小さな声で答えたが
「そうなの、そこは遠いのですか?」
「……」智也が俯いてしまうと周囲が騒がしくなった。
「はい、他の人はどうですか?」松岡は他の児童を見回したが、智也の脳裏にはその教師の人を見下したような眼差しが残ってしまった。
この時から、彼が手を挙げることは決してなかった。
この松岡美智子という女性教師は、衆議院議員松岡康成の一人娘で、年老いてからできたこの娘を両親は溺愛し、彼女は幼い頃より忖度されながら成長した人であった。
その教師が一度だけ、智也の住まいを訪れたことがあり、彼は今でもそのことをはっきりと覚えていた。
冬休みに入って初めての日曜日のことであった。
突然アパートを訪ねてきた彼女は、もう少し智也の勉強を見てやって欲しいと強い口調で祖母に詰め寄った。
ドアを開けて、一間だけの部屋が不潔だと思ったのか、彼女は
「上がってください」という祖母を無視にして、話し始めた。
「智也君の成績が悪いため、クラスは3クラスある中でいつも最下位で、頑張っている他の子供たちがかわいそうです。お忙しいとは思いますが、せめて少しでも彼の勉強を見てあげてくれませんか」
彼女が懸命に訴える。
「すみません。ご存じのように貧しいもので生活していくのが精いっぱいなんです。この子のことは哀れで仕方ないのですが、仕事を辞めるわけにもいきませんし……」祖母が俯くと
「失礼ですけど、お婆様は、もう70歳ですよね。どうして生活保護を受けないんですか?」
冷たい言い方が突き刺してきた。
「働けるうちは頑張らなければ……と思っています」祖母が悲しそうに答えると
「でも、そのことで、智也君も勉強がわからなくなるし、クラスにも迷惑をかけているし、その考え方って間違っているんじゃないですか……! 浅はかだと思います」
懸命に訴えてくる彼女に悪意があるとは思えなかったが、それでも他人の苦悩を思いやれない、人生の何たるかも知らない小娘に傷口をえぐられ、返す言葉のない祖母は唇をかみしめて涙をこらえていた。
「息子さん夫婦が亡くなられ、高齢であるにも拘わらず、孫のために懸命に生活を支えようとしているのはわかります。でも普通の生活ができていないのだから、しっかりと現実を見つめて、生活保護の申請をするべきです」
( もう一押しだ、私の言っていることは間違っていない )と思った彼女はさらに追い打ちをかけた。
しばらく沈黙の後
「先生…… 」
「何でしょうか?」この一家の本当の苦悩を知らない松岡の表情は冷酷にさえ見える。
「貧しいということは罪なのですか?」祖母が懸命に涙をこらえ顔を上げた。
「罪だとは思いません。でも、努力が足りない結果なのではないですか」責めるような言い方が続く。
「努力……?」祖母は俯いたまま苦笑いをした。
「はい、私の父は衆議院議員をしていますが、私は父の力は借りずに自分の努力だけでここまで来ました。教員の採用試験だって、30倍の倍率の中、自分の力で合格して教員になりました。だから、子供たちには努力すれば報われるんだということを賢明に教えています」
訳の分からない理論に頭がくらくらし始めた祖母は、俯いたまま目を閉じた。
「そうですか…… 努力しなかった者は、その報いとして貧しい生活を強いられるんだということですか?」
( こんな人にわかるはずがない…… わかって欲しくもない…… )
「はい、私はそう思っています。そのお年になってしまうと努力にも限界があると思いますが、それでもお婆様に今できることは、生活保護を受けて、智也君のために彼の勉強を見てあげることだと思います」
松岡が用意していた最後の言葉を悦に入って押し込んだ。
「わかりました。考えてみます」諦めた祖母はもうこの教師の顔を見たくなかった。
智也は、松岡が帰った後、
「何も気にすることはないよ」そう言って涙ぐんだ祖母の悲しそうな顔が未だに脳裏から離れることはない。
一方、智也の住まいを後にした松岡は、
( なかなかうまく話せた。理路整然としていた。誰かに聞いて欲しいくらい…… 私の話は心に届いたはず、せっかくの休みに来てあげたんだもの、思いはわかってくれるでしょ)
そんなことを思いながらさわやかな気分で車に乗り込んだ。
そんな悲しい子供時代を過ごした智也であったが、そんな彼にも唯一の楽しみがあった。
彼は時間があると、近所の齋藤自動車へ行って、大将の仕事を見ていた。
掃除をしたり、車の下にもぐっている大将に工具を取ってあげたりして、そのお駄賃に小遣いをもらったりおやつをもらって、幸せなひとときを過ごしていた。
智也が施しを嫌う子供だと知った大将は、いつも腹を減らしている彼のために、子供にできる仕事をできるだけ残していた。
中学生になった頃、相当な知識と技術を身に着けた彼は、十分に手伝いができるほどになり、ある土曜日の夕方、今週分だと言われ、1万円をもらって帰った彼がそれを祖母に渡すと、祖母は慌てて 齋藤自動車に出向いたが、大将から
「施しじゃない、労働に見合った報酬です。気持ちはわかりますが、彼が助けてくれてとても助かっている。これかも助けて欲しいんです」と言われ、祖母は深く頭を下げたことがあった。
祖母が納得してくれたことで、
「少しは婆ちゃんの役に立てる」智也はそう思って喜んだが、それも長くは続かなかった。
この齋藤自動車は、これまで地元大手、吉岡不動産の車両を独占的に整備、点検し、車検も請け負い、その人柄から、社員までが私用車の整備や車検を依頼してくるようになり、安定的な経営を維持していた。
しかし、智也が中学3年の春、大将の奥さんが亡くなってしまい、その葬儀の日に吉岡不動産からの緊急な依頼を受けた大将は、やむを得ずそれを断ったのだが、その翌日から、契約を切られてしまい、急に経営が厳しくなってしまった。
このため、智也に日当を渡してやるどころか、自分が食べていくのも厳しくなり、工場は閉鎖の危機に直面してしまった。
それでも智也は工場に通い、廃車予定の車をいじくりまわし、楽しそうに分解してはその部品を見つめていた。
中学を出たら働きたいと思っていた智也に、齋藤の大将は、暁の夜間高校へ通うことを勧めた。祖母もそれを望み、ここまで親身になってくれていた担任の佐藤も賛成してくれたため、昼間は配送業でアルバイトをしながら彼は、暁定時制高校へ通うこととなった。
しかし、高校卒業間近、智也がやっと車の免許を取ったその日に、祖母が突然他界してしまい、彼は天涯孤独の身となってしまった。