ナーサリー・ライム
「よし。それじゃあ、一家心中するぞ」
夕ご飯を食べ終わったあと、お父さんがウキウキした声で宣言した。
お母さんは待っていましたとばかりに手を叩き、私も多少の高揚感をおぼえながらコクコクとうなずく。
本日の十七時をもって、お父さんのお勤めは満了。晴れて定年退職となった。
会社の都合で延びに延びて、六十五歳。
待たされたぶん喜びもひとしおといった様子で、ご馳走をたいらげ、お酒を飲み、しゃべって笑って一息ついて―― 先ほどの一家心中宣言へつながるわけだ。
お父さんが定年を迎えたら家族で心中をするというのは、私が物心つく前から決まっていたことだから、それほど抵抗はなかった。
『門限が八時と決められている子』 と同じような気持ちといえば、近いかもしれない。もう少し遊びたかったけれど、時間だから仕方ないよね。みたいな。
お父さんが、ずっとこの日を待ち焦がれていたことを知っている。
定年が延びるたびにお預けをされたチワワみたいな顔をして、そのたびにお母さんが励ますという光景を何度も見てきたから。
その日が、ようやく来たのだ。
私はといえば、大学にも行かせてもらえたし、その間に友達とはしゃいだり恋人といちゃついたりもできたし、勉学もまあそこそこ励んだし、希望先に就職できて仕事も及第点の結果は残せたと思う。
十分だ。
両親には感謝しきり。二人の夢を叶えられるのはとても嬉しい。それはいつからか、私の夢にもなっていた。
少し残念なのは、ここに弟がいないこと。
「俺、医者になるのが夢なんだよ。だから、心中はしたくない」
申し訳なさそうに言う弟に、お父さんは―― 内心ではずいぶんガッカリしていたはずだけど―― 頑張りなさいといって送り出した。
今は夢を叶えて大学病院に勤務しており、さらには結婚をして、この間赤ちゃんが生まれたばかりだ。
幸せそうじゃんと私が言うと、弟は少し困ったように笑った。
私たちの後始末は、遺産をすべて相続させる伯父に―― 借金まみれで首が回らない彼の救済もかねて――任せるつもりだったけれど、弟が残るのだし、本人の希望もあったので任せることにした。
遺産の分け前が減ることをひどく心配していた伯父も、弟が全て譲渡すると宣言したので、今は心穏やかに私たちの終幕を待っていることだろう。
私とお母さんは乾燥機から食器を取り出し、帰るべき棚へと戻していく。
お父さんは、この日のために購入したグラスをテーブルに並べている。
「これはオーダーメイドのグラスでな、取引先だったドイツの職人に作ってもらったんだ。見ろ、この透明度、この薄さときたら! 触れている感触はあるのに、光をすべて通してしまって、まるで輪郭がわからないときてる」
「使うのが一度きりで良かったわ。こんな繊細なグラス、スポンジでちょっとこするだけで割れちゃいそうだもの」
「ほら。ここにこう、液体を注ぐことで初めてグラスの輪郭がわかるというわけだ。なかなかにロマンティックじゃないか」
「お父さん、ウキウキだね」
私がこっそりお母さんに言うと、お母さんは小さく笑ってうなずいた。
「そりゃ、そうよ。本当なら五年前にこうしているはずだったんだもの。私だってウキウキしてるんだから、お父さんのウキウキはそれ以上でしょうね」
「よし。じゃあ、注ぐぞ」
お父さんは三本の瓶を取り出して、テーブルに並べた。知らずに見たら胃腸薬と勘違いしそうな、茶色の小瓶。
弟が手に入れてくれたスペシャルな薬で、そちら方面では 『子守歌』 と呼ばれているそう。
この子守歌をグラスに20CC(一本分)を注ぎ、ソーダ水で割るのが一般的で、酸味と甘味が炭酸によって上手く調和され、飲み干した次の瞬間には酩酊状態となり、この上ない幸福感の中で命と身体を分けてくれる――らしい。
お父さんはおすすめのレシピ通り、ナーサリー・ライムを20CC注いでから冷えたソーダ水でグラスを満たした。液体は柔らかなピンク色の発泡水となり、極度に薄いグラスの輪郭を浮かび上がらせる。
「まずは母さん」
言って、置く。
「それから、お前」
私の前に。
「で、俺」
最後に、自分の前に置く。
本当はもう一本あったのだけど、オーダーメイドのグラスと一緒に弟が持っていった。自分の部屋のマホガニー製の机の引き出しに、今も眠っているはずだ。
テーブルの上に並ぶ三つの子守歌。気泡のはじける微かな音は、まるで眠りを誘っているかのよう。
「何か、最後を彩る音楽でもかけるか」
「静かなほうがいいわ。これから子守歌を聴くんでしょう?」
「…それもそうだな」
お母さんの素敵な答えに、私とお父さんは顔を見合せて微笑む。
「乾杯をしたいところだけど、グラスを合わせると割れてしまいそうだからな。せーの、で飲むことにしよう」
「そうね」
「いいよ」
お父さんが、グラスをそっと持ち上げる。あとを追って、お母さん。私。
「口にグラスをあてて」
オーダーメイドのグラスの繊細な感触。子守歌の甘い香り。
お母さんが微笑む。
私は眼を閉じる。
ポケットの中でスマートフォンが振動する。
きっと、メールを読み終えた恋人からだろう。
誘えば一緒に飲んでくれたかな。なんて。
そんなことを思いながら、私はお父さんの恍惚とした声を聞く。
「せーの」