百目 ⑫
「何で別れたのよ!駄目じゃない!雛とはじめ先輩は結ばれる運命なのに!まあ、いいわ。こうして互いのゴミを捨てて、また復縁するなら。」
「‥‥は?」
声まで、彼女は橋山雛だった。しかし。
「ああ、良かった。良かったわ!今日はお祝いね!本当に嬉しいわ!雛とはじめ先輩が結婚するんだものね!だから、私の前に来たのでしょ、言わば仲人だものね。あはは、嬉しいなぁ!!」
その会話でそこにいる誰もが、その彼女が誰だか理解出来た。
「‥‥枡カナタ‥‥貴方?」
橋山雛が青ざめながら、答える。それに彼女は大きく頷いた。
「ええ!久しぶりね!どうして連絡しなかったのかしら!?兎にも角にも良かったわ!これで運命の人と結ばれるのよ、貴方!一体、そこのピザキモデブがどんな手段ではじめ先輩との仲を裂いたのか知らないけど、これで貴方は晴れて幸せよ!!」
迫る、彼女‥‥枡カナタは橋山雛に躙り寄る。鈴木始の方は殆ど見ていない。違う。彼女は橋山雛を見ていながら、橋山雛も含め全員見ていなかった。だから、アンと島崎を除く全員が引いていることにも気づかず、橋山雛に至っては吐きそうになっていることにも気づかない。
「貴方だってイケメンで高収入で高学歴な男がいいでしょ?こんなアバズレ女に乗っ取られてさぞ悔しかったでしょ、ね?こんなぱっとしない女、はじめ先輩には似合わないし、やっぱり貴方じゃないと、はじめ先輩だって満足しないでしょ?ねえ、で、ホテルはいつ行くの?子ども作るでしょ?絶対イケメンか美女が生まれるわ。最高ね!あ、二人産んで、生まれたら次男か次女は私に頂戴ね。大丈夫、高学歴アイドルにしてあげるから!」
最早、何を言っているのか分からなかった。この橋山雛の姿をした枡カナタという女は、狂っているとしか思えない。いや、実際、狂っているのだろう。結婚は海外挙式にして、披露宴は私と貴方と先輩だけでしようね、避妊具なんて使うな、出来れば双子がいい。老後は3人で過ごそうね?そんな馬鹿みたいな話を大真面目に、それでいて何処にも焦点の合わない目で語る。狂気、虚妄、狂言、虚実をさも当然必然絶対のように語る。
そんな中、二組の夫婦がここで倒れそうになるのを防ぐようにアンが口を開いた。
「彼女の話は話半分で構いませんよ。もう妄想で頭がどうかしてると思った方が正解ですから。」
当人の前でよく堂々と言えたものである。それにどう反応していいのか、鈴木始が戸惑う表情をする。一方、アンという存在に再度気づいた枡カナタは先程の怯えが嘘のように、まるで橋山雛を味方につけたように怒った。
「何よ!貴方!邪魔よ!私の雛を連れてきたことはいいけど、変なこと言わないでくれる!?名誉毀損で訴えてやる!」
そんな枡カナタにアンは心底小馬鹿にたように笑った。
「なら、こちらは傷害致死罪‥‥いえ、殺人罪で突き出しましょうか?出産前の赤子だったとしても重罪にしてあげますよ。」
「‥‥え?」
アンの言葉に橋山夫妻は二人揃って、驚愕した。
そんなアンの言葉に枡カナタは嘲笑い返した。まるで橋山雛が笑ってなじっているようだった。
「馬鹿じゃないの?あれは不要な存在を消しただけじゃない。社会のお荷物の権化みたいな男の子どもなんて雛に産ませるわけがないじゃない!!!」
自白。自爆。事実。
鈴木なつみはあまりの話にへたり込み、鈴木始はそんな鈴木なつみに駆け寄って、彼女の耳を塞いだ。‥‥酷い、醜い、犯罪者の話を無かったことにするように。
橋山俊彦は膝から崩れ落ち、息を乱して、這いつくばりながら、枡カナタに詰め寄った。
「どういうことだ!」
「何だよ!豚!離れろ!」
枡カナタの服を掴み、橋山俊彦は枡カナタを揺さぶる。それに枡カナタは目を釣り上げて嫌悪感を露にした。
「汚い!その手を離しなさい変態!あんたがいるだけで殺したくなる!いっそ、子ども共々殺せば良かったわ!」
そして、縋るように彼女は橋山雛を見た。
「ねえ、雛!そうしようよ!したら、貴方喜ぶし、私を褒めてくれるでしょ!?そしたら、婚姻届だって清々しく出せるよ?最高でしょ!」
キラキラに光る瞳、貴方が好きで仕方がない目、貴方の為なら何でもしてあげるという目、目、目、目、目、目、目。
ああ、目玉。
自分を求めながら、自分を全く見ない目玉。
橋山雛は今度こそ倒れそうになったが、その前に問わなければならない。
「アンさん‥‥!」
「はい。なんでしょう?」
「貴方、私に教えなかったのね!枡カナタが私の子どもを殺したアイツだって!!!」
涙が止まらない。何故、コイツと接触させた!私は会いたくなかった!こんなキチガイな女に二度と会いたくなかった!何故、何故、連れてきた!
そんな怒りに震える橋山雛にアンはしらばっくれる。
「おや?言ってませんでした?」
「言ってない‥‥!言ってない‥‥!私と殺人女と一緒にするなんて信じられない!」
「でも。」
そこでアンはとても冷たい声で橋山雛を突き放した。
「帰って構いません、と私は言いましたよ?」
ついてきたのは貴方ですよ?
そんなアンに橋山雛は愕然とする。なんて残酷な女なんだろう。ここで橋山雛はアンが味方ではないことを悟った。
‥‥この探偵は人を弄ぶ悪女だ。
悪女は放心状態の橋山雛に追い討ちをかけるように、その場に更なる混乱を招くように事実を述べる。
「この方は枡カナタ‥‥ではなく、今は未桑カナタという名前の人間です。改名と整形でそうは見えませんがね。ああ、鈴木さん。貴方の家の監視カメラに映っていたのも、あの手形も彼女ですよ。詳細に調べてはいませんが、まあ、すぐに調べて見れば分かるでしょ。」
「‥‥コイツがストーカー。」
鈴木始の顔が引き攣る。鈴木夫妻の部屋を荒らした張本人。つい先日、橋山雛の所在を聞くために連絡した彼女がまさかこんな妄言を垂れるような女だったとは知らなかった。気持ち悪い。頭がクラクラする。
そんな鈴木始のストーカーという言葉に枡カナタもとい未桑カナタは憤った。
「ストーカー?誰がストーカーですって?私は当然のことしたまでですよ。先輩、先輩だってそこの女と別れたがっていたでしょ!手伝っただけじゃないですか!!あ、そっか、私がした、と言わなかったのが悪いんですね!はじめ先輩だけには先に伝えておくべきでした。あんな女と別れられないなら、虐め抜いて別れさせますよって!!!」
そんな未桑カナタに鈴木始はプツン、と何か切れた心地がした。
「馬鹿野郎!誰が別れたいだ!」
狭い部屋に鈴木始の怒号が響く。
「俺が愛しているのは、なつみただ一人だ!あんたのせいで俺達の幸せは無茶苦茶になったんだ!警察に突き出してやる!檻から出さない!なつみを傷つけやがって!何が運命だなんだ!アンタ、病院行けよ。あの女と運命?反吐が出るね!俺の運命は俺が決めているんだ、運命はなつみただ一人なんだ!あんたが俺の人生を決めるんじゃねえ!」
それに未桑カナタは顔面蒼白になり、そして、真っ赤にした。
「はあ?‥‥何を言ってるの?はじめ先輩、貴方こそ病院行ったら?あの女に騙されているのよ!ああ、分かった!あの女をころせば良かったのね!そしたら、はじめ先輩だって目が覚めるものね。」
そう言って、鈴木なつみの方に行こうとする。咄嗟に鈴木始は鈴木なつみを庇うように前に立って、行かせないようにする。顔を真っ赤にして未桑カナタは本気で鈴木なつみをここで殺害しそうな雰囲気だった。
だが、その未桑カナタを止めたのは意外な人物だった。
「ま、まだ話は終わってない!」
橋山俊彦だった。彼は未桑カナタにしがみつき、一歩も動けないようにその腕で掴む。腕は怒りで震え、口元は何かを堪えるように戦慄いている。彼は瞳に涙を浮かべ、嫌悪感で離せ気持ち悪いを連呼する未桑カナタを詰った。
「俺達の子どもを殺したってどういうことか。まだ聞いていない!雛は!雛は‥‥!!本当に頑張っていたんだ!大切にしていたんだ!」
それはいつもの橋山俊彦では無かった。
勇気と怒りで立ち上がった男の姿だった。
ハッ、として橋山雛は彼を見た。未桑カナタが「五月蝿い!どうでもいい!」と吐き捨てるのを遮って、橋山俊彦は「どうでも良くない!!」と泣き叫び返した。
「どうでも良くない‥‥!あの日までの大変さを‥‥幸せを返せよ!雛は妊娠してからずっと体調が悪くて何度も吐いて倒れて、それでもずっと頑張って耐えてきたんだ!僕はずっとそれを見てきた!誰より雛の大変さを見てきたんだ!だから‥‥だから‥‥大切にしたかったんだ‥‥生まれてくる子どもを‥‥!二人で、ちょっと僕が多めに大切にしたかったんだ!それをアンタは壊した‥‥いや、殺したんだ!この一年の雛の努力と俺達の宝を返せよ!何で、何で、何で‥‥!殺したんだ!」
そこにいた誰もが橋山俊彦の言葉に呑まれた。橋山俊彦の悲痛な叫びは橋山雛への、その子どもへの愛だった。
橋山雛は思い出す。すっかり子どもが亡くなったことで忘れてしまったけれど、彼はそう昔から実は表に出さないけれど、そうだった。
子どもの妊娠が分かった時、真っ先に言ったのは「ぼ、僕、何を勉強したらいい?‥‥赤ん坊の世話なんてしたことないよ‥‥!」という気の早い子育ての手伝いについてで、体調が悪化して病気になってしまい入院した時も「お金気にしないで‥‥!俺が稼いでくる間は子どもと自分だけを考えてよ。」と心配そうに言われた。入院中毎日面会時間ぎりぎりに来て、私以上に検査に一喜一憂してたっけ?一時退院した時、家には私の買ってない育児雑誌とか哺乳瓶とか用意してあった時、こんな人でも本気で向き合ってくれるんだって嬉しかったな。
頼りない、役に立たない、情けない旦那だと思う。思うけど、本気で私や子どもを想ってくれる優しくて、不器用で愛しい、そんな旦那なのだ、彼は。
「だから、私は結婚したのよ。」
橋山雛が橋山俊彦に応戦するように立ち上がる。
そして、橋山俊彦と未桑カナタを引き離す。一瞬、未桑カナタがそれに歓喜の表情を浮かべたが、それを一瞬で橋山雛が崩した。
パチンっ!
橋山雛が未桑カナタを張り倒したのである。平手打ちでは無かった。文字通り、張り倒したのだ。
信じられないと起き上がる未桑カナタに橋山雛はもう一発入れて、また未桑カナタを床に転がした。橋山俊彦が呆然と自身の妻を見る中で、橋山雛は旦那と同じように目に涙を湛えて、目の前にいる殺人鬼に淡々と話しかけた。
「死ね。死んでよ。貴方が死んでよ。」
呪いのように、唱える。
「私は彼、橋山俊彦と結婚したくてしたのよ。ヘタレでどうしようもないくらい頼りないのは認めるよ。でもね!貴方に否定される程、安い男じゃないのよ!私の旦那よ?私が生涯捧げていいって思って結婚した世界に一人だけの旦那なんだから!貴方みたいな人殺しに貶される男じゃない!キモピザデブですって?貴方の方がよっぽどブスで人の真似ばっかして自分が無くて気持ち悪い癖して、なに勝っている気でいるの?子どもを返してよ、貴方みたいなクソに殺される子どもじゃなかったのよ!私と彼の家族だったの!馬鹿みたいな貴方の妄想は他所でやって野垂れ死ねよ!今頃、私は幸せだったはずなのに、貴方のせいで全部無くなった!死んで償えよ!」
その言葉に鈴木なつみは息を飲み、橋山俊彦は別の涙を流した。橋山俊彦は橋山雛を愛していた。橋山雛もそんな橋山俊彦を愛していた。ここにそれが目に見える形で判明したのだ。
一方、橋山雛の静かな怒りは未桑カナタを青ざめさせた。鈴木始に続き、橋山雛に否定され、その上、橋山雛にブス、自分が無い、気持ち悪いと言われ、顔の色は青を通り越して、土黄色だった。未桑カナタは腫れ上がった自分の頬に手を当て、信じられない、とその表情に書かれていた。
「雛‥‥何で死ね、とかいうの?私達、友達でしょ!?友達に何でそんなこと言うの!」
「あら、私、貴方と友達だったの?そんな覚え無かったわ。」
「え?」
「私、ずっと、貴方のこと嫌いだったもん。最初に友達一人作れないボッチが可哀想だったから優しくしただけ。付け上がらないでくれる?大体、貴方みたいな人と友達だなんて冗談でも嫌だ。」
「え?え?ええ?何で?何で?」
愕然として床にへたり込む未桑カナタを橋山雛は冷たい目で見下ろして。
「‥‥私、殺人するような人キラーイ。」
と小馬鹿にするように薄く笑った。




