禁忌 終
「なるほど、やっと貴方の『作品』の全貌が分かってきました。」
その声に島﨑が思わず足を止め、固まるのも無理はなかった。あんな絶望的な状況から何故?と思う暇もない。ただ、背後に先程までいなかった人を気配に息を飲んでしまう。
声はそんな島﨑の息の根ごと止めるようにかけられた。
「私、気になっていたんですよ。貴方の『作品』は一見して複雑で、しかも、その『作品』の『作家』は実年齢と外見の年齢が違う。これはどういうことなのだろうと、貴方の生い立ちやここに至るまでのことはある程度調べられましたが、貴方のそれはどうしても分からなかった。‥‥でも、貴方が先程死んでくれたことで理解できました。」
カツン、コツン、とコンクリートをヒールの靴が歩いて、こちらに近付いてくる。
島﨑は殺されるような思いがしたが、ゆっくりとその靴音のする背後を振り返る。
そこにはやはり、あの女性がいた。涼しげな表情で、背後の火の海に照らされながら、怪我一つしていない。どころか、何事も無かったかのようにそこに最初から佇んで彼女はそこにいた。その姿に覚悟した島﨑はゆっくりと口を開いた。
「‥‥貴方は一体何者なのですか?」
それに不気味な彼女はくすり、と笑った。
「私ですか?私はサカグチ‥‥いえ、そうですね、アンと呼んで下さい。探偵事務所をしています。この度、貴方の件を依頼されたものです。」
案外、すんなりと先程とは違ってこれには答えたアンという妖しげな女性に島﨑は僅かに目を見張ったが、続くアンの言葉に完全に目を見開いた。
「さて、島﨑春記さん。こちらも聞きたいのですが、貴方、“一体どれだけの自分を殺した”のですか?」
「‥‥。」
絶句。図星。絶句。思わず口を閉ざす島﨑にアンは淡々と話す。
「ずっと気になっていたんですよ。貴方、お気づきでしょうけど、死ぬ度に顔が変わっているんですよ。貴方は“若返っている”。それも悪い意味で。」
火の海は広がっていく。船を家を街を生活を焼いて焦がして灰に変えていく。過去に積み上げてきた栄光も思い出も汚濁も屈辱も全て無かったことになる。そこには善悪なんというものがなく、破壊があるだけだった。
「‥‥貴方の『作品』は1人の人間を100人分複製できるということだけではないのでしょう。その本から凶器を出せたことも含め考えると、貴方のそれは、一度、その本に修めた情報を実体化させることが出来るという『作品』。やろうと思えば、いくらでもその本から対象の物を出せる。また、逆のことも出来て対象を本の中に入れて情報にしてしまうことも出来る。違いますか?」
「‥‥。」
島﨑は答えない。
沈黙は肯定であった。
アンは続ける。
「でも、貴方のそれは明らかで、それでいて地味で、どうしようもないデメリットがある。無限に同じもの‥‥つまり、全く同じ性質で全く同じサイズのものを増やし続けることは出来ない。極めて緩やかに僅かな綻びが増産すればするほど出てくる。ぱっと見、100個体程ではそれは現れないのでしょう。警察が同じ顔で同じ死体と発言していて、差は無かったそうですから。
ですが‥‥貴方が先程、自分を量産した時に明らかな違いがあった。貴方は死ねば、すぐに新しい貴方になる。ですが、前の貴方より今の貴方は若返っている。‥‥そう、今は滅多にありませんが、昔あった写真を何度も焼き増し、印刷、コピーするうちに、元の写真からボヤけて輪郭や肌の質感が変質していくように、実際の年齢はそのまま、変質して顔や形が変わっていく。
そして‥‥それは精神もなのでしょう?
ねぇ、島﨑さん。貴方は何故、今の貴方になってしまったのですか?」
その言葉に島﨑は閉口する。その表情は傷ついたようにも無関心にも見えた。
火が広がる。燃え盛る。灰になる。そんな残酷な光景に誰かが何かをする事に何かを得て何かを失うという真理を誰かが見たような気がした。
やがて、島﨑は彼女と対峙するように身体を、目を、その手にある凶器を向けた。
「‥‥何がどうということはありません。自分が嫌悪の対象だった‥‥というだけです。」
そうして、懺悔するように諦めたように吐き捨てた。
「私は生まれたその時から、家族以外の人間に祝福されることがないことが決定していた。だから、聖人君子の振りをして生きようとした。そこに自分らしい生き方はなくとも。」
それが島﨑春記の前半生。
「そうでもしないと生きてはいけないと考えていましたが‥‥その結果をきっと貴方は存じている。語りません。とかく何をしても、自分が指を刺される立場にあるのなら、自分らしく生きてみようと思った。しかし、自分らしく生きるには、自分は憂鬱な欲求があった。知の探求。それも、死に様に‥‥生まれからして卑しいとされる私と一緒なのか‥‥。結論としては私はやはり卑しい人間で他とは違う‥‥ということでしたが‥‥。」
そこで、彼は怒りを顕にするように手にある凶器を握りしめた。
「私は“死ななかった”。」
酷い絶望だった。
「私のこの欲求を満たすために、比較対象として、自分を手始めに殺したのです。その一方でここで死んで、この禁忌の欲求に歯止めをかけられるのではと、淡い期待もしていたのです。しかし、結果‥‥私は確かに自殺したというのに、次の瞬間、私の死体の隣に私がいたのです。」
この本のせいであることは明白だった。
「この本は‥‥聖書だった。私が聖人君子たる為に帰依していた思想だった。だったというのに私が自分らしく生きたらどうなるのか疑問を抱いたその時‥‥自分が持っていた聖書が‥‥こうなった。私の聖なる本は禁忌をいつでも起こせる凶器になっていた。後は転がり堕ちるように、私は‥‥人の戒めを‥‥破り続けることなったのです。」
でも、それを彼は確かに止めようとした。
「私は堕ちたくは無かった。だから、自分を止めようと‥‥自分を殺した。何度も、幾度も‥‥しかし、私は‥‥!」
自分を殺せなかった。
「飛び降りようが、溺死しようが、火炙りになろうが、爆死しようが、割腹しようが、毒を煽ろうが‥‥私はここにいた‥‥!私は許されない人間だった!人として死ぬことすら許されない人間だった‥‥。それに加え、自分は死ぬ度に色んなものが摩耗していく。身体も精神も‥‥記憶も‥‥。知の探求‥‥欲望だけが強く残って、自分が不可解なものになっていく。」
まるで死ぬ度に化け物に‥‥人が汚いと罵る存在になっていくようだ。
「私は‥‥生きたいのか死にたいのか最早分からない。司法に殺されようとも思ったが私を自己中としか認識しない警察に捕まるわけにはいかず。今となっては、人間なのかそうではないのか、その結論が出た以上、知の欲求はなく、ただ憂鬱のみ。しかし、死ぬことは出来ず、消えることも出来ず、ただ彷徨うが如く生きている‥‥。」
島﨑の目はアンを見つめている。
「こんなことを貴方は知りたかったのですか?」
アンはそれまで黙って島﨑の話を聞いていた。彼女の黒のスーツジャケットが潮風と火の粉に揺れるだけで、彼女は何もすることは無かった。
だが。
島﨑がそう聞いた直後、緩やかにその艶やかな唇に弧を描いた。
「知りたかった、ですね。えぇ、聞いてみたかったので。結論としては『もったいない。』の一言ですが。」
それに島﨑は訝しげに目を細めた。
彼女はそして、言い切った。
「貴方の知の探求は終わっていません。」
島﨑はまたも目を見張る。更なる犯罪を犯さないか、と勧誘されたようなものだった。
「‥‥は‥‥?」
言葉を失う島﨑に、アンは更に言葉を紡ぐ。
「言っておきますが、貴方は人間ではないのは当然なのですよ。そもそも前提からして変わっている。
穢多だの何だのそういう生まれだと他人に人間として否定された話ではありません。それは、もう関係のない話です。
その本を『禁忌』に変えてしまった時点で、貴方は人間ではなくなっている、ということです。言ったでしょう。貴方は『作家』だと。貴方は『人間』では無く、『作家』。比較対象が大間違いなのです。ただそこら辺にいる人間と自分を比べたって違うのは当然だと思います。」
いつの間にか自分が揺れていることに気づいた島﨑は息を飲んだ。手が震えているのか、膝が笑っているのか、自分の今までの苦悩を全否定されたことに対する怒り、若しくは嘆きなのか‥‥本人でも分からなかった。
「‥‥では、私が今までしたことは‥‥。」
「それは無駄とは断じません。」
そして、島﨑の心情を言葉にしたそれもまた、彼女は即答で否定した。
「人間の人生に間違いはあっても、正しいというものは存在しません。故に、貴方の今までの行いに対し、司法と世間は間違いだと言うでしょう。しかし、彼らも私も‥‥貴方であっても行いを無駄と言うには暴論すぎる。それがあるから、今、私と話している貴方がいるのですから。」
わけのわからない人だと、島﨑は思った。島﨑の今までの行いを否定しておきながら、無駄ではないと言い切る彼女は裁定の女神で、慈愛の女神のようだった。
「‥‥さて、島﨑春記、話を戻しましょう。」
彼女は一体何者なのか、島﨑の中で黙っていた何かが動き出そうとしていた。
「貴方は『作家』だ。死を知りたいのなら、自身が何なのか知りたいのなら、他の『作家』を識るべきです。故に、その知の探求を忘れ去ることも、今後死ねないまま彷徨うのも、もったいない。貴方は、幽鬼、死霊の如く今後の人生を使い潰すおつもりですか?」
「つまり、貴方は‥‥。」
「私の下に就きなさい。島﨑。」
「!?」
衝撃が走る。その場に積み重なった死体が焼き崩れる音が響いた。
「‥‥何を言って?殺人教唆でもしているのですか?他の『作家』を殺せと?」
「似たようなものです。とはいえ、貴方と一緒で他の『作家』もまた寿命か、病気か、自分の作った『作品』に呑まれるか‥‥ぐらいでしか死にませんので、殺害自体はほぼ不可能です。しかし、死なない人間の死に様‥‥貴方と同じ条件の存在には興味あるでしょう?」
「‥‥。」
それに否定が出来ないのは‥‥何故だか分かっている。彼の中の真っ黒なそれがゆらりと立ち上がりかけているのに、島﨑は冷や汗を流した。
「‥‥では、なら、何をさせようというのです?貴方は探偵なのでしょう。事を明かすのが仕事でしょう。私を使って、探偵が何をするつもりなんです。」
「そうですね‥‥。私は探偵、素行調査が主。そこに貴方との共通などないように見えますね。疑問に思うのも仕方が無い。しかし、あるのです、共通は。私が取り扱う依頼はただ一つ絶対ではありませんが条件がある。『作家』か、その『作品』どちらかが関わっていること。しかし、その条件だと何故だが荒事ばかり。大体が貴方みたいに自身の作品で事件を起こしたり、作品がひとりでに暴走したり‥‥要は私は戦闘要員が欲しいのです。」
「‥‥戦闘要員‥‥。」
「極論ですがね。私の『作品』はどちらかというと荒事には不向きですので。もちろん、タダで雇用はしません。それなりの報酬は用意します。前払いも用意しています。貴方のその探求だって行って構いません。隠蔽も世間を欺くのも私がやりましょう。」
どくんっ、と鳴ったのは心臓か。それとも、かの欲求の息を吹き返したから鳴ったのか。
しかし、島﨑の表情にはまだ迷いがあった。擦り切れた良心が詰め寄るのだ。また人を殺すような開き直りをするのか、君はまだ戻れるのではないか、聖人のように他人に尽くし、自我を押えつけることが君の正道ではないのか、いつかまた生まれで追われることになろうともそれをすれば君は人に認められ愛され居場所が出来る、また自分の手で更に卑しくなろうというのか。
首を誰かに締められる感覚が確かに島﨑にはした。
しかし。
「おや、迷ってどうするのです。もう真っ当に生きる場所なぞ教師を辞めた時点で無いというのに。」
しかし、その良心を壊し、島﨑の悪しき欲を救ったのはまたしても彼女だった。
「貴方はもう二択しかないのです。このまま私と別れて、彷徨い漂いながら警察に追われ、いつかは死ねないのに殺人罪で処罰されるか。ここで私の手を取るか‥‥。
真っ当に生きるには貴方は社会的な罪を犯しすぎた。もうその手で聖書を握ることは‥‥不可能です。」
断罪の断言。
島﨑の中にいるそれが歓喜の声を上げ、島﨑の良心は死の断末魔を上げる。
彼女は淡々と聞いた。
「どうなさいますか?私はどちらでも、他を当たるだけですので、貴方は死ねないなら、どう生きたいですか‥‥?」
港町は火を吹いていて、そこに息絶えた人間と廃屋はあっても、他に何一つとして形あるものはなく、全て灰になったか、逃げてしまったか、還ってしまったのだろう。遠くでサイレンと、火を消そうと急ぐ声と、人を助けようとする声と、人と家が別の黒い何かになってしまうのに悲鳴を上げている音が響いているが、ここは目に付くものがないだけでなく、そんな音はなく燃え盛る音と潮風だけだった為、実に静かだった。
そこに当然ながら、先程まで、ここに生きた人間が二人いたというのを証明するものはない。
もう全て灰になっている。
では、その二人はどこに行ったのか。
この港町も逃げ惑う人も巻き込まれた人も死んだ人も知らなかった。




