禁忌⑬
その声に島﨑は振り向く。
声の主は島﨑の背後、まだ火が回っていない暗がりに悠然と立っていた。真っ黒なスーツを着込んでいても分かる。女性だ。女性らしい姿でそこにいた。
スレンダーなその女性はこんな異常事態にあるというのに落ち着きはらった様子で、あまり興味が無さそうに周りを見ていた。そうして、小さくため息を吐いた。
「凄いですね。」
まるで他人事のような評価。惨いと怒りもせず、酷いと恐怖に震えることもない。ただ目の前のことを淡々と彼女は処理して、島﨑を状況をそう評した。
「‥‥どうも‥‥。」
常人の反応ではないそれに島﨑は思わず、そう返答した。困惑したのだ。この異常事態よりも異常な人間に出会って、島﨑の表情は当惑し、困惑し、惑乱した。
すると、女性は緩やかに知り合いに会いに行くような足取りで暗がりから島﨑に向かって歩き出した。
1歩、1歩、意味のある足音が赤赤と燃える港を歩いて、島﨑の元へ向かう。
そうして島﨑が気がつけば女性は目の前にいた。艶やかな髪の灰色の瞳をした女性は、贔屓目に見ても普通では無かった。まるで暗がりに照らされたダイヤモンドのような煌めきと高潔さ、気品のある令嬢にも思えた。もしくは、子どものような無邪気さと残酷を持った魔性の悪女にも見えた。あるいは、満開の桜の真下で桜に吸い込まれる、そう花びらに視界を覆われて自分が分からなくなって狂ってしまうような不気味な妖しい美しさを持つ美姫にも感じて恐怖した。見れば見るほどに彼女という存在に多面性を見て、ゾッとした。その容姿の美しさも纏う雰囲気の異様さも‥‥普通の人間では無かった。
島﨑は一瞬、自分の同類に出会ったかと思った。この異様さ、人らしくなさ、それらが自分の中にも見えたのだ。しかし、首を横に振る。
同類ではない。
本物だ。
ふと、
女性は壮絶としか表現仕様がない生々しい、艶めかしい、それでいて心の鉛が重たくなるような笑みを浮かべた。花が散るように儚いのにまるでこちらに軽々しく死刑宣告を授けるようなそれに島﨑に嫌な汗を流させた。
「知らないようなので、」
そう言っても女は笑うように微笑んでいた。
「ご自身が何たるかをご存知でしょうか。いいえ、いいえ、貴方の出生のことでも今、貴方が起こしたことでもありません。」
「貴方のその辞書を、いえ、貴方の今、起こしたことを我々は『作品』と読んでいます。」
作品‥‥?
島﨑はこんな状況の中で何の話をしているのかと戸惑う。
「人によっては異能だとか、超能力だとか、魔術だとか、はたまた超人能力だとか、または妖、怪異と言いますが、我々は『作品』と呼び、『作品』を生み出す人間を、所謂使用者を『作家』と読んでいます。‥‥貴方は『作家』です。正しく、間違いようもなく、『作家』です。それが貴方。」
やがてその微笑みを彼女は嬉しいとばかりにやや深くして、こちらを楽しそうに見つめた。
それに島﨑は蛇に睨まれた蛙の図を思い浮かべ、やがて先程まで無かった罪悪感を覚えた。そのこちらを見る目に島﨑は出会っては行けなかったのではないか、という深い後悔を心に感じた。ここまで感じてしまうと、男は自分の今までの行いすら、後悔を感ぜずにいられない。彼女は何しろ、彼女の言うところの『作家』らしい男を、まるで長年、獲物に飢えていた肉食獣のようにこちらを見つめているのだ。島﨑の息の根すら止めるそれに、惑うままに舌足らずに、息が足りないまま口を開く。
「貴方は、私をどうする気ですか?」
それに彼女は答える代わりに世の中に夢を見ている無邪気な少女の、または、童貞の青年を誘惑した人妻の笑みを浮かべた。
「‥‥っ。」
その瞬間。
島﨑は本能的な危機を感じる。
目の前には美しい女が蠱惑的な優美な表情をしている。その綺麗な白い手には何も無い。所謂、丸腰だ。無力だ。自分の方が遥かにこの場に置いて優位であり、脅威であり、有利だ。一瞬で相手を永遠に黙らせることだって出来る。
しかし、島﨑の額から脂汗が流れ、息が詰まるような死の気配が背筋を凍らせた。
そう、島﨑は確かに今‥‥。
たった一人の女性に怖気づいていた。
「‥‥は、‥‥っ!!」
島﨑は思わずその感情から辞書を‥‥元は聖なる書物だったそれを手に持って、開いた。
出したのは拳銃。一発で女性の命を終わらせられるだろうと取り出した。
しかし。
き、ギィィィキキキィーーー!!
けたたましい金属が悲鳴を上げるような音がする。島﨑が音の方向を見るとそこには猛スピードでこちらにむかってくる一台の車がいた。運転手は傍目からでも分かるほど正気のある顔ではなく口から涎を垂らし、目はくるくると回っていた。アクセルが踏みっぱなし、ふらふらと頼りない運転ながらも狂ったようにスピードを出したそんな車が島﨑にむかって走ってきた。
島﨑はすぐに飛び退って車から距離を取る。
車は島﨑が先程までいた場所を通過すると、奇声を上げながら、火の海に入っていき、やがて、海に突っ込んでいった。
そんな様を島﨑は呆然と見る。
「一体、何事だ‥‥?」
と、疑問に思うと同時に島﨑の首が背後から締められた。
「‥‥っ!?」
いつの間にか島﨑の後ろには見知らぬ男がいて、先程の運転手と同じ焦点の合わない目で島﨑の首を両手で掴んで釣り上げていた。首に指が食い込む程に強く締められ、呼吸はおろか、血流さえ止められかける。島﨑は突如降って湧いた死の予感に掴んでいた本から、瓶を取り出すとやっとの思いで男に向かって瓶を投げ、中身の液体を男にかけた。
「ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!」
硫酸の液体が男をたちまち焼く。思わず、島﨑の首から手を離した男を島﨑はすかさず、蹴り飛ばして火の海に落とした。
島﨑は焼ける男を見ながら、息を飲んだ。
「‥‥今、何故‥‥。何が、起こって‥‥。」
次の瞬間、島﨑は頭上から気配がして、見上げると、鉄筋が束になったものが、港にあるクレーンに釣られて島﨑の頭上にセットされていた。そして、それが突如としてクレーンのワイヤーから外され島﨑の上に降ってきた。
「!?」
すぐさま避けて被害は無かったが、鉄筋の甲高い悲鳴が耳を劈く。クレーンの操縦席を見れば、ぼうっとした様子の人間が島﨑をじっと見たまま、クレーンを操作して更なる攻撃を島﨑にしようとしていた。島﨑はそれに眉を顰めると、手にある本から、小さなスイッチを取り出して、それを左手で押した。
すると、クレーンの操縦席が爆発した。ガラスと鉄の骨組みが紙くずのように飛び、クレーンは根元が粉砕されて、アーム部分が海に落ちていく。操縦席にいた人間に至っては跡形もないのか、血らしき赤以外には最早何も残っていなかった。
島﨑は荒く息をした。
次々と命を狙われた。偶然ではない。しかも、島﨑を狙った彼らは明らかに警察の人間ではなかった。動機のある警官達ならともかく、彼らは島﨑とは何ら接点のない一般人であるはずだ。
何故?
島﨑の頭の中をそんな言葉が駆け巡る。が、冷静に考える暇は無かった。
ふらりと小太刀や斧、ナイフなどを持った男達が数人現れる。そうして、彼らは島﨑を視界に入れると奇声を上げ、襲いかかった。足元がふらついているのに、凶暴な勢いで凶器が島﨑に迫る。やっとの思いで避けるが、火の海に照らされた刃物の鋭利さ、冴えた殺意には恐怖さえ感じる。
島﨑はそれに息を詰めて、また本を開き、今度は手榴弾を4つ取り出した。安全ピンを外し、男達にむかって投げる。
いとも簡単に男達を消しクズにしたが、島﨑は安心できなかった。辺りを見回し、他の襲撃者に警戒する。
そこで、島﨑はふと気づいた。
先程の場所から全く動くことなく、あの女性がこちらに微笑んでいた。
島﨑はそれを見て、確信した。
‥‥あの男達をけしかけたのは、この女性だと。
何がそう確信させたのか、島﨑に考える余裕は無かった。今、島﨑は全く未知の敵にその命を狙われている。目を細め、この女を殺す為、島﨑は本のページを捲る。
だが。
「‥‥ところで、気づいていましたか?」
女性が世間話でもするように島﨑に声をかける。
「私達、今回で会うのは2回目なんですよ。覚えています?」
「!?」
その言葉に島﨑の手が思わず固まった。女性は事も無げに話す。
「ほら、この前‥‥飲み屋街でコーヒーを貴方に渡したでしょう?」
そこで島﨑はハッとして、女性の方を見た。
そうだ、あの時。
間違えただとかで突然、自販機のコーヒーを手渡した女がいた。
「‥‥すみません。間違えて買ってしまったんです。‥‥良ければ貰って下さいませんか?」
「‥‥え?」
その時、飲み屋街の雑踏に紛れて、島﨑は逃亡している最中だった。追手は相変わらずいたが、酔っ払いに絡まれて追手は立ち往生していて、島﨑は距離を取るべく早足で飲み屋街を通り過ぎようとしていた。
そこに女性が一人、島﨑に声をかけたのだ。
島﨑は断ろうとしたが、「代金はいりません。貰って下されば良いのです。」と押し切られ、断りきれずにコーヒーを受け取り、女性は立ち去った。
彼女はその時の女性だ。ただ島﨑の記憶の中では自販機の前にいた彼女は“異常な程に酷く印象のない”女だったが。
「それから貴方、ここに来るまで不思議ではありませんでしたか?」
気づいた島﨑に女性がすかさず言葉を紡ぐ。その言葉に島﨑はまたしてもハッとした。そして、彼女はその艶やかな髪を右耳にかけながら、島﨑を真っ直ぐ見て言った。
「貴方は賢い人間なのでしょうね。思考が単純な方はたった今、貴方が殺した人間のように我も忘れて、指示通りに動くんですよ。でも、貴方は途中で振り切った。驚きましたよ。」
「‥‥‥‥え?」
島﨑は思わず絶句した。目の前の女性は事も無げに話している。出会うのは二度目であること、彼女は島﨑や男達を操るような術を持っていること‥‥島﨑は彼女と出会った時、既にこうなることを強制されていたのだ。どのような手段でこうなったのかはさっぱり分からない。何せ島﨑と彼女はあの自販機の前で交わした会話しか接点がない筈で、こんな場所に行くような話はしていない。
「‥‥貴女は私に何をしたのですか?いえ、まず、本当に私をどうするつもりなのです‥‥?」
戸惑う島﨑は怯えを心のどこかで強烈に感じながらも自身の武器である本から、拳銃を改めて取り出し、女性に向けた。女性は凶器を向けられているというのに涼しい顔のままだった。周りは火の海で信じられないほどここの気温が上がっているのに。
島﨑の問いに彼女は淡々と答える。
「そんなこと、どうでも良いでしょう。」
「な‥‥。」
「それよりも貴方は理解した方がよろしいのではないでしょうか?」
私も貴方と全く違う『作品』を持っているのですよ。
そう彼女が話すと同時に、火の海に包まれた港にガソリンを積んだタンクローリーが突っ込み、大爆発を起こした。爆風と熱風によりあたり一面、嵐となる。ただし、雨水ではなく完全に人間を消し炭にするようなそれだったが。
島﨑は当然ながら避けきれず、灰と化したが、彼にとって無問題だった。先程と同じように自分と似たような顔と同じ人格を持った別の人間が“複製”されて“精製”されたことで即時、そこに新たな島﨑が現れる。彼はすぐさま自身も脅かしかねない程に地獄と化した港から逃亡した。
無茶苦茶だ。
島﨑は真っ先にそう思った。
彼女が何を考えているのかさっぱり分からないが、これだけは分かる、彼女は“無茶苦茶な程に強い”。自身など比ではない。全く道理が分からないが、島﨑をこの場所へ連れ出し、警察ではない彼らをけしかけたのは彼女だ。しかし、やはり彼女は“無茶苦茶”だ。こんな大事故を起こせば、自分だって助からない。
現に逃げ出した島﨑の視界には彼女らしき影はなく、先程まで島﨑達がいた場所には凄まじい火柱が周りの空気も巻き込むように燃え上がっていた。島﨑のすぐ側にいた彼女もまた熱風に巻かれて灰になったに違いなかった。
だが。
島﨑の視界にはいないだけ、ということを島﨑は失念していたのだ。




