禁忌⑪
その夜、島﨑はふらふらと歩いていた。
辿り着いたのは寂れた港町だった。
二階建てより高い建物は無く、雑然とした住居とトタン屋根の倉庫が雑多に生活臭や生活用具を外に出しながら、潮の空気に浮かんでいる。長い灰黒いコンクリートと白線の道路は先程から海辺の蒸された湿気が立ち込めたり、海からの風で湿気が消えて清々しくなったり、忙しい。そんな道路に標識以外に立つ影はなく。
「止まれ!」
「駐停車禁止!」
「一方通行!」
「右左折禁止!」
「転回禁止!」
「警笛鳴らせ!」
と島﨑の視界を塞いで、並んで整列しているそれは視界の暴力のように空間を支配する。そうして赤色信号の点滅さえ、見えなくなる。
島﨑はそんな道路の真ん中、停止線に止まることもなく、徒歩で歩いていた。
車はない。あるのは島﨑の足音のみ。あとは静まり返って寝静まった人気の無いゴーストタウンが夜闇に紛れている、ただそれだけ。
島﨑は標識の言う通り、進む。止まることを許されていないわけではない。しかし、今の島﨑には標識に従い進む以外の選択肢が思いつかなかった。
そこでふと。
思えば。
どうしてこうして歩いているのだろう。
警察に追われているから?それが第一だろう。しかし、島﨑の手にある辞書のような‥‥否、元は『聖書』という形と中身をしていたそれをつかえば、どこかに潜伏したり、海外に逃げたりも出来ただろう。だが、そうはしなかった。こうして、進む以外の選択肢を考えずに歩いているのだろう。目的なんてないのに。
何故だろう?
理由を考えるが、島﨑には分からなかった。
何故だろう?
そう言えば、どうしてここに島﨑はいるのだろうか?もっといい場所があった筈だ。寂れた港町、子どもは既に成人していなくなり、偏屈で嗄れた明日が無いような老人しかない町にどうして島﨑は来たのだろうか?逃亡先をどうしてこの町にしたのか、何故だか自分で決めたはずの島﨑にはさっぱり分からなかった。
偶然?
島﨑は足を止めようとした。どこに自分は向かっているのか、分からなくなったからだ。しかし、何故か、足はふらふらとそれでもどこかに向かって進んでいく。
は、と島﨑は気づく。
自分の身体が自分のではないという確信。何かの術中にでもハマったようだ。島﨑は内心焦り始める。何が起こっているのだろうか?自分は何故、こんなところに‥‥いや、こんなことをしているのか。
青天の霹靂。
思考は途端にクリアに、透明にスッキリとするのと同時に、焦燥と混乱の混じった汚い色に染められる。
島﨑は必死に足を止めようとする。行きたくないとばかりに背筋を逸らし、腕で足を掴む。
しかし、足取りは止まらない。
周りから見れば滑稽な格好で抵抗する島﨑だったが、本人は必死だった。まるで下半身だけ別人になって、島﨑の意思は上半身止まりになってしまったようだ。
息が焦りから上がる。
しかし、足は未だにふらふらと島﨑の抵抗から逃れ、規則正しく、真っ直ぐ、何者にも邪魔されず、どこかに向かう。そんな様子に島﨑は舌打ちした。
誰だ、こんなことをしたのは‥‥!
そう、島﨑が内心叫んだ時。
ぴたりっ、と足が止まった。
それに驚いて島﨑は思わず瞬きしたが、次の瞬間、自分に向かってスポットライトが照らされた。
唖然とする。驚く島﨑は辺りを見回すように顔を上げる。
そこは既に標識だらけの道路ではなく、無垢なコンクリートの地面をした行き止まり。
聞こえたのは荒々しい潮騒。
鼻につく強烈な潮と海の匂い。
そうして、視界いっぱいに群れなすのは武装した人間と、そんな人間とは反対に音も明かりのない港だった。
「島﨑‥‥春記だな。」
真っ黒に武装した彼らが物陰に隠れ、バリケードを抱え、それをお前は重罪人とばかりに向けながら、スポットライト‥‥犯罪者を捕らえ爛々と血走る光を島﨑に浴びせる。
「大人しく投降しろ。」
でなければ、殺すと。口外に言っていたように島﨑は感じる。足は既に島﨑の意思の通りに動くようになっていた。
物々しい無骨な凶器の銃口がこちらに向けられる。次の瞬間、島﨑は蜂の巣になるだろう。そうして島﨑は察する。
自分は彼らに引き寄せられたのだ。
どんな手段かは分からないが、彼らは自分を貶める為に島﨑をここまで操って連れてきたのだ。
そう思った島﨑が抱いた感情は怒りだった。
「‥‥騙し討ち‥‥ですね。」
武装した彼らの奥から顔を覚える程に島﨑の跡を付け回していた刑事の怒鳴り声が聞こえる。
「島﨑!貴様だけは逃さんぞ!」
そんな怒鳴り声とともに。
「島﨑さん、貴方は死刑が確定しているようなものだ。だが、これ以上、罪を重ねるようなことをするな。もっと罪が重くなるぞ。」
という知らない誰かの要らない説得が続けられ。
「手を上げろ。抵抗すれば打つぞ!」
という一昔前の殺し文句を言いつつ、島﨑を追い詰める声がする。
「捕まれ!」
「親に申し訳ないと思わないのか。」
「いい加減にしろ。」
「お前が逃げ回るだけ罪は深くなるんだ。」
「ったく、早く降参しろよ‥‥。」
「犯罪者だ。島﨑!」
「めんどくせぇ、打っちまえば。」
「島﨑、てめえ、なんて!」
口々に言われる悪意と本音と建前の混じった言葉が、島﨑の脳内をぐるりと取り巻いて、言語の暴力となって島﨑を苦しめる。島﨑、島﨑、島﨑と訴える彼らに島﨑は冷や汗と息が上がるのを感じた。彼は小さく舌打ちし、肩にかけているバックに手を伸ばす。
が、そんな島﨑に向かって。
一発の発砲音が鳴り響いた。
「っ!?」
島﨑の身体から血飛沫が迸る。思わず目を見開く島﨑だが、状況を理解する暇は無かった。なぜなら、島﨑の身体は既に弾丸の形をした凶器が貫通した後で、しかも、それが心臓真っ直ぐ貫いていた為に、彼は即刻、死ぬしか無かった。
島﨑はバックに手を伸ばした体勢のまま、冷たいコンクリートの上に倒れ込む。そうして動けなくなったそばからその血潮が広がり出した。たちまちコンクリートは赤に染まり、深紅の水たまりがそこに出来た。
島﨑はたった一瞬。それで確実に死んでしまったのを分からない人間はその場にいなかった。
‥‥そして、そんな一連の様を見て、最も驚いたのは、今、島﨑を殺した筈の警官達だった。
「‥‥だ、誰だ!今、凶悪犯を打ったのは‥‥殺したのは誰だ!?」
「?!何故!?」
「計画には無かったじゃないか!」
「誰だ!命令違反だぞ!」
どうやら警官達にとっても計画外であり想定外であり計算外であったようだった。しかし、確実に無抵抗の島﨑を撃ち抜いたのはこの警官達のうち誰かであった。
「問題になるぞ。説得すら始めたばかりで抵抗するかも分からないまま人間を殺してしまった!」
「しかし、コイツは凶悪犯だったんだ。なんの問題がある?」
「‥‥ひっ‥‥!」
「いや、それよりも誰が撃ったかだ!」
「俺は違うぞ!」
「いや、お前だろ!」
「違うな!弾道からしてアイツだろ!」
「誤発もいいところだ。」
「私ではない。第一、撃つ時は5人一斉に撃つ手筈だったではないか。それを反してまで島﨑を殺す意味が無い。」
騒然となる警官達。
だが、誰一人として今、死んだ島﨑に近づくものはいない。彼らは保身と揚げ足取りに必死で仲間割れの様相で死者に興味などないのだ。所詮彼らは正義だの法だの社会だの掲げながら、大事にしているのは自分達なのだ。誰が命令違反をした、誰が撃った、誰の責任だ、と口々に罵りあいをしている彼らに冷静さはない。
「上にどう報告するんだ!」
「周りに記者はいないな!?無抵抗の人間を殺したなんざ大っぴらにされたら困る!」
「誰だ!早く白状しろ。」
「まあまあ、それなら弾倉を全員分調べればいいことじゃないかぁ?誰かは確実に一つなくなっているんだから。」
「それはそうだが‥‥。」
「奴はカバンに手をかけていた。それを反抗の証拠にして‥‥正当防衛で‥‥。」
死体から流れる血が警官達の足元まで及ぶ。やがて彼らの靴底にしがみつくように染み付いて、口惜しさをそのままに赤に染めていく。やがて靴底の隙間から足の甲に向かい、重力に逆らって駆け上がっていく。それに誰も気づかない。ただ、その赤は彼らの足を掴んでいた‥‥逃げられないように。
そして、それはまるで宣告のようでもあった。
「‥‥殺します‥‥。」
淡白で物静かで‥‥それでいて、殺意に満ちた小さな声が血溜まりに投じられる。
その声に気づいてその場にいた誰もがそちらを見る。
‥‥その声がした場所‥‥。
そこには、今、目の前で死んでいる島﨑と同じ顔をした生きている島﨑がいた。




