不謹慎ギャンブリング
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
つ、つぶらやく〜ん……生きてる? どう、仕事の進み具合? 私、もうちょいで最後のひとやまが終わるってところなんだけど。
――そちらも同じくらい?
よ〜し、もうひと踏ん張りね。始発で帰って、ちょっとでも眠りたいところだし。
ふう〜、何とかなったわね。
いやはや、この時期は忙しくてまいっちゃうわ。こんな時でも一日は48時間に伸びたりしないもんね〜。
――48時間になったら、休憩したい気持ちに、負けるんじゃないか?
う〜ん、たぶんそうでしょうね。労働時間は一切伸ばさず、プライベートな時間を貪っている自分の姿が、目に浮かぶようだわ……。
この貯めることができない、すべての命へ平等に与えられ、流れていくもの、時間。それをめぐって、昔、少しおかしな体験をしたことがあるの。
――あら、メモする気? 徹夜明けだけど、大丈夫?
私は中学時代に忙しい部活に入っていてね。朝早くから練習のために家を出て、土日も半分くらいは、遠征とかで潰されていた。部活のみんなも同じ境遇なんだから、頑張らないとって、自分に言い聞かせていたけど、他の安穏と過ごしている人が目に映っちゃうと、どうしても……ね。
これが寝起きとか、疲れた身体を引きずっている帰りとかで、きゃっきゃっ騒いで遊んでいる人を見ると「ちょっとは気を遣ってよね……」とジト目を向けたりする始末。
頭では分かっているのよ。それぞれの事情があるんだって。もしかしたら、あの人たちは普段は自分よりもつらくて忙しい日々を送っていて、今日がたまたま手に入った貴重な休みなのかも知れないって。それを潰す権利なんか、私にも誰にもあるわけないってね。
疲れてくると、不快センサーが敏感になりがちなのは、人間の性分なのかしら。
そして、私が余裕を失いながら、暇人に見える方々へ、内心、牙を剥き始めた頃。
夏場だったから、部活が終わるのも午後6時と少し遅めだったわ。
私はくたくたになりながら、どうにか家路についたの。この時間帯になると、背広姿で仕事かばんを握った、仕事帰りと思われる方もちらほら見受けられたわ。
ただ、その日はちょっと嫌な気分になる人がいたの。
ビールの缶を片手に、ふらふらしながら歩いてた。時々、缶を煽っていたけれど、その口元からビールがこぼれていて、汚かったわ。その上、背広どころか、ワイシャツのボタンもいくつか外しちゃって、肌着がのぞいちゃっている。
やだなあ、と私は車道をはさんで向かい側を歩いていたけど、その人と帰る方向が重なっている。ちょうど遠回りできるわき道もなくて、私はこちらに近づいてこないか、ちらちら様子を見ながら、先を急いでいたわ。
家の近くの交差点。ここは国道で、道路に沿った信号については青である時間が長い。
私は国道を横断したい人。一度、赤になってしまうと延々と待ち続けることになる側だったの。
その間にも、横断歩道のたもとへ、足を止めた歩行者がほこりのごとく、どんどん溜まる。さっき引き離したはずの、酔っ払いおじさんも追いついてきた。しかも、後から来たくせに、お酒臭さを振りまきながら、最前列へ躍り出ようとする。みんなは、自然に道を開けるはめになったわ。不快そうな表情を浮かべながら。
彼はお望み通り、一番前へ出たけれど、もはや真っすぐに立つことができないのか、今にもその場で膝を折ってしまいそうなくらいふらふらしている。目の前の道路には、速度の違いこそあれど、時々、この歩道すれすれを通り過ぎていく車さえある。
「おじさん、危ないよ」と、さすがに私も心配し出した時、声がしたの。
「首の骨を折るのに、ありったけ」
すぐ近くで聞こえた。私はそっと振り返ってみたけど、周りの人の口は結ばれたまま。
「いいや、手くらいだろう。20」
「足もいけるんじゃね? 30かな」
「うんにゃ、ふつーに渡る。俺は賭けないぜ」
「ちぇ〜、面白みのない奴」
ざわざわと、声が続く。でも、周りの誰も口を開いていないし、気づいてもいないようだった。
やがて信号が青になる。酔っ払いおじさんがそのまま、フラフラと歩道を渡り始めると、あの声はもう聞こえなくなったわ。
私は相変わらず、おじさんから距離を置きながらも、声の出どころが気になって仕方なかったわ。
それからも日を置いて何度か。私は例の賭け事をしているかのような声を聞く機会があった。
場所は問わないけど、相変わらず私にしか声は聞こえていないようで、周りのみんなは気にする様子がなかった。
そして内容はいつも、対象となる人が危ない目に遭うか否か。誰かはその時になって判断するしかない。ただ子供や、重い荷物を持ってふらついている人が車道の近くを歩いている時などに、よく聞いていたわ。
なんて不謹慎なことをしているんだろう。私は、犯人を突き止めようとしていたけど、一向にそれらしき正体に出会うことはできずじまいだった。
それから数ヶ月後。秋の新人戦が始まろうとしていたわ。
私も選手に選ばれていたけれど、正直、先輩たちがすごすぎる人たちだったら、その後を継ぐことなんてできるのかしら、という不安もあったわ。実際、私は先輩たちが軽々とクリアしていった練習メニューをやり遂げるのに、一年が経っても青息吐息だったから。
でも、私の部活では弱音を吐いたところで、更に特訓がペナルティとして課せられるのみ。体調が悪い日もあったけど、仕上げられなかった分は、きっちり後日に返済させられることになる。どうにか、這ってでも終わらせなくてはいけなかったわ。
大会の数日前の調整日。すでに下校時間も過ぎているのに、残らされるという徹底ぶりで、私は身体を酷使されていた。学校を出てから休み休み歩いたけれど、すぐに疲労がぶり返してくるくらい。
明日は筋肉痛かなあ、とよたよた歩いていた私。やがて右手に車道。左手に用水路を臨む、やや狭い道に差し掛かったわ。ここは白線が引いてあるだけで、ガードレールがない危険な道で、いつも注意が呼びかけられる登下校ルートのひとつだったの。
不意にあの声が聞こえたわ。
「前から来た男に、殴り倒されるに20」
はっとした。私の前方から、黒いパーカーとジーンズに身を包んだ男が歩いてくる。フードを目深にかぶっていて顔は分からない。両手はパーカーについたポケットの中にしまわれていた。
私はぞくりとして、一歩後ずさる。すると、声が続いた。
「後ろから走って来たトラックにぶつかる。ありったけ」
車のエンジン音。見ると、砂利を乗せた青いトラックが、後ろ十数メートルのところに迫って来ていた。けれども、その動きは左右へフラフラと落ち着きのないもので、いつこちらに突っ込んでくるか分からない。
今から道路の反対側へ、渡る時間はない。車道の片側いっぱいを占めるような、大きい図体のトラック。その前へ身体を晒す時間が長すぎる。もし追いかけられるような動きをされたら、かわせない。
逃げ場は左わきにある、田んぼのための用水路。飛び越せる程度の高さしかなく、用水路事態も、私のいる高さよりもずっと下を水が流れている。数メートルはあるかと思われた。
前の男が駆け出し始める。後ろのトラック音も大きくなる。腹をくくるしかなかったわ。
けれども、私がジャンプしようとした寸前に、声が続いたわ。
「用水路で足をくじく。7」
ちょっと反則じゃないの、と頭の片隅で思いながら、私は用水路へ真っ逆さま。足から着いたのは良かったけど、右足にしびれるような痛み。
けれどもすぐ頭の上で、トラックの急ブレーキ音と、男の悲鳴が入り混じったわ。
その後、私は痛む脚を引きずりながら家に帰ったけど、翌日にはあのトラックをめぐる交通事故は学校の朝礼でも話がされたわ。そして、帰らぬ人が出てしまったことも。
恐らくあのパーカーの男の人。本当に彼が私を殴り倒そうとしていたのか、今となっては分からない。
私はねんざと診断されて、一週間のドクターストップを受けてしまったわ。あのくじく予想をした声と同じようにね。試合には出られず、先生からもお目玉を食らったけれど、久しぶりに部活から離れてゆっくりできたと思う。
あの賭けの数字。
コインとかではなく、そのケガとかで得られる、休みの日数じゃないかと思ったの。ありったけなら、おそらく「永くお休み」というわけね……。
今はもう、声を聞くことはなくなってしまったけれど、世界中が、限られた時間の中から休みをもぎ取るために、あの賭け事をしているのではないか、と私は思うの。