塞翁が馬……?
その日は朝から散々だった。
通勤電車の中で、見も知らぬムキムキマッチョにいきなり眼鏡を奪われて握りつぶされたのが始まり。
幸いレンズは無事だったものの、お気に入りだったセルフレームはバキバキに折れて、修復不可能になってしまった。
眼鏡がないと部屋の中でもつまづくほど視力の悪い私にとっては死活問題だ。生活必需品、ライフラインといっても過言じゃない。
とにかく眼鏡屋に寄って出社する、と駅に着いて会社に連絡したら、いつも不機嫌な上司は虫の居所が悪かったらしい。即刻首、と言い渡された。
ブラックな職場であることは認識していたが、ここまでとは思わなかったなあ。
労基署に訴えるにしろ何にしろ、とにかく今は眼鏡が先だ。眼鏡がないと駅の電光掲示板も見えやしない。
人に聞きながらなんとか戻る列車に乗り込んで、いつもの駅に降り立った。
ちなみに電車は実にガラガラで、珍しく座れたものだからついうたた寝をしてしまった。
目を覚ましたら二駅ほど行き過ぎていて、慌てて飛び降りた際に鞄を忘れてしまった。駅員に伝えると、すぐに確保してもらえたが、それを受け取りに結局四つ先の駅まで行く羽目になった。四つで済んだのは、幸いにもそこが終点だったからというだけなのだけれど。
鞄の中味は財布の中身まで無事だった。
これがラッシュアワーの逆方向だったらどこでどうなったか分かったものではない。しれっと持ち去られてただろう。ラッキーだった。
駅を降りて、いつもお世話になっている眼鏡屋へ向かう。駅前からちょっと離れたところにあるのだが、店主が職人気質できっちり調整してくれるから気に入っている。
今日も特に何も話さなくても、すっと席を勧めてくれた。差し出したレンズをじっくり見つめて、目を細めている。
一時期姿を消していたセルフレームも最近は増えてきた。だが大抵は細長タイプで分厚いガラスレンズを収められる大ぶりのものはなかなかない。元のに似た形のフレームの在庫がわずかながらあるというのでそれで作ってもらうことになった。
レンズもフレームもあるから、出来上がりまで半日ほどで済むらしい。夕方にまた来ることになった。
店を出て、さてどうしようとため息をつく。
眼鏡がないとなると図書館で時間をつぶすわけにはいかない。いや、行ってもいいのだが、目の前に本があるのに読めないのは活字中毒患者にとっては拷問でしかない。
労基署に行くにしても、本当に首なのかどうかも確認しなければ門前払いだろう、と思う。詳しくはないけど。
零細同族企業のことだ、上司に人事権があるのは知っているので、首と言われれば首だろう、と思ってはいる。
だが、首を言い渡したのを忘れて、翌日来なかった子を無断欠勤したと詰り、それを理由に首を切った過去の例を知っている。
そうなると、後々の転職にも響くし、失業保険もなかなかもらえなくなる。
あれはわざとだといつだか御局様が言っていた。いつものやり口なのだとか。それが本当なら二の舞にはなりたくないし、このまま泣き寝入りするつもりもない。
家に戻ることも考えたが、夕方また出てこなければならない。夕刻になると家の近くは結構暗くなる。眼鏡がない状態で家からここまでまた戻るのは回避したいところだ。
ぶらぶらと駅方面に戻りながら、いつも通らない道を通ってみよう、と思ったのが悪かったのだろうか。
曲がった先にあったのは、小さな喫茶店だった。
丸太のロッジハウスチックな小さなその店にふらふらと寄せられたのは、魔がさしたとしか言えない。
そう、魔が差したとしか――。
「新入り、鍋の準備は」
「いまやってます!」
体がすっぽり入るほど巨大な鍋に梯子をかけてよじ登る。
すでに中には色々な色の野菜やら肉やら、うごめいているものたちで八分目まで埋まっている。その上から、両腕に抱えていたバケツの中身をひっくり返すと、悲鳴とも断末魔ともつかない音が鍋に響き渡る。自分の声も聞こえない状況で、空のバケツを手に梯子を降りる。
いま入れたのは料理長の作った出汁だそうだ。すごい匂いがするらしいのだけれど、ここにきてすっかり鼻がバカになった私にはわからない。
というか、なぜ私はこんなところで巨大な鍋と格闘する羽目になったのか。
それはあの日足を踏み入れた喫茶店のせいだ。
喫茶店、と思って扉を開けるとーー顔色の悪い人が立っていた。
悪い、というのはアレだ。揶揄ではない。皮膚の色が緑だったり真っ黒だったり、赤かったりしたのだ。
何が何だかわからないうちにそのうちの一人につまみ上げられて、ぽいと放り出されたのはまな板の上。
これ、比喩でもなんでもないから。すぐ横に私よりよっぽどでかい包丁らしきものもあって、あろうことかそれを誰かの手が握っていた。
ギョッとしてその手の持ち主を辿ると、掃き溜めに鶴、を地で行けるお姉さんがいた。ーーただし巨大な。
お姉さんの手がすっと上がって巨大包丁が持ち上がるのを呆然と見る。周りはこれまた比喩でなく黒い人だかり。逃げ場などない。一体あの小さな小洒落た喫茶店のどこにこんなでかい人たちを大勢隠していたのか。このまな板一つでさえ、ロッジからはみ出るに違いない。なんてバカなことを考える。
人はいつかは死ぬ。それは自明の理だし、避けようもないことで、その時が来たら諦めよう、と思っていた。
でも、生きながら短冊切りされるのは許容範囲外だ。自分でも思考が止まってるのを自覚する。こういう時って本当に笑いしか出ないんだなあ、とか思いながら、喉から漏れる自分の声を聞いた。
が、案に反して、巨大な包丁は落ちて来なかった。ぶん、と振り回したお姉さんの手から包丁が消える。悲鳴と怒号、阿鼻叫喚とはこういうことを言うんだろう。びちゃりと何か生暖かいものが頰にかかる。
誰かが何かを言ってたような気がするけど、過度の緊張やなんだかんだでオーバーヒートした私は、あっけなく意識を失った。
その後色々あって、あのお姉さんの計らいで彼女の店で下働きをするようになったのだけれど、視力の低下著しい私には、料理の具材の見分けもつかず、鼻はバカになったままで、言われた通りのことをやるしかできないただの運搬係となっていた。
幸いというかなんというか、言葉については共通なのか向こうが日本語を覚えたのかは知らないが、困ることはなかった。
が、読むことができない。こちらの文字というのは私の知る文字とはまるで違う。一見、花模様にしか見えない。おかげで見落とすと命の危険があるものを何度も見過ごして、見かねたお姉さんから覚えるように言われたのだ。
で、こちらの文字を幼子に混じって習うことになった。幼子とはいえ、なかなかにでかい。私よりでかいサイズの聞かん坊な三歳児など誰が制御できようか。毎回、三歳児のぶっとい腕に掴まれ、振り回されて時間が終わるので、結局文字は、あのお姉さんが教えてくれることになった。多少なりとも文字が読めるようになれば、図書館の本が読めるはずだ。
ここには巨大な図書館があるという。文字を必死で覚えるモチベーションには十分だった。
しかし、視力は相変わらず底辺を這いつくばっている。店の下働きが務まるのは、お姉さんたちが簡単な仕事を回してくれているおかげなのだ。
なんとか眼鏡をーーそういえばあの眼鏡、受け取りに行けなかった。店主は今頃怒っているだろうか。顔を出しにくいな。などと考えてしまう。
ここから帰る方法などないというのに。
「そういえばあんた、ここに来てどれくらいかね」
「知りません」
お姉さんに聞かれて即答する。
毎日鍋や食材やでかい人たちと格闘して、気を失ったように寝る。その繰り返しの中で、時間の観念は随分前に崩れ去った。
「そろそろかしらねえ」
お姉さんがポツリとこぼす。そういえばお姉さんの名前すら聞いてない。いや、聞いたのだったか。でも覚えられなかったのだ。以来、お姉さんと呼んでいる。
実際に女性であるかは聞いたことはない。巨大なお姉さんの機嫌を損ねればどうなるかーーあの日しっかり魂に焼き付けられたから。
「そろそろかねえ」
別のでかいのが言う。これはあの場所にいなかった『黄色いの』で、額の真ん中に一本角が生えている。
あ、言いそびれたけどお姉さんは二本生えている。いわゆる般若面と同じ場所に。
「何が」
黄色いのはお姉さんよりは気が弱く、お姉さんに使われている。私と似ていると言えなくもないが、サイズも立場もまるで違う。
お姉さんの彼氏的存在らしい。黄色いのが無理を言っても無茶をしても、お姉さんは怒らない。だから黄色いのにとりなしを頼もうとする連中の多いこと。それほどにお姉さんは怖いのだろう。
ともあれ、お姉さんには聞けないことも、黄色いのには聞くことができた。文字を教わるのが黄色いのになってからはなおさらだ。
大抵のことは、聞けばすぐ教えてくれた。だが、この時ばかりは違った。黙ったままの黄色いのに気がついて顔を上げると、黄色いのの顔が見えた。
顔が見えると言うことは、それなりに近くに顔があるわけで。
かぱりと開いた大きな口がやたらと赤く見えた。
「来るんだよ」
「何が?」
「恐怖の大王が」
そのネタは二十年ほど前に流行ったと聞いたことがある。
だが、ここは日本じゃない。ーー言葉通りのものが来るのだろう。
「でね、その前に味見をしようかと」
何の、と聞けなかった。
あの大きな鍋。
毎日よくわからない出汁をぶちまけているあの鍋の中身を、私は知らない。ーー知らないことになっている。目が悪いから、鍋の中に何が入っているか見えないのだ。
でも実は一度だけ失敗して落ちたことがある。
すぐに助け出されたものの、至近距離にあったものは見えた。あの時目に飛び込んで来たものは脳裏にくっきり残っている。
煮込まれた小さな手、恨めしげな目。
ここは地獄なのだ。
ツノが生えた人間などいない。ましてや身長が倍もある生き物でツノがあるとなればーーオニ。獄卒。
煮込まれていたのは亡者なのだ。
私はーー生きているのだろうか。
お姉さんに助けられたと思っていた。
だが、それは本当にーー助けであったのか。
「そろそろ美味しくなってるだろうからね」
黄色いのの実に嬉しそうな笑顔が目の奥に焼きついてーー目の前が真っ暗になった。
誰かが頬を叩いている。
「おい、しっかりしろ。ーーくそっ」
誰かは知らないが、口の悪い人だ。ほんの少し開けた目の隙間から、いかつい顔が見える。
どこかで見た顔だった。どこだろう、と考えてみるものの、思い出せない。
少なくとも会社関係の誰かではない。うちの会社の男衆でこんないかついのがいたら見忘れるはずがない。
ああでも、あれからどれぐらいだったんだっけ。
「おい、寝るなっ、せっかくーーたってのに」
あまりに眠くて聞き取れない。頬を再びぺちぺちと叩かれる。
「おい、起きろ。夏川瑞穂」
不意に名前を呼ばれて目が覚めた。
そうだ、そんな名前だった。あっちでは名前なんか呼ばれたことなくて、忘れるところだった。
「頭打ってないか?あいつら、好き勝手に使いやがって……」
体を起こすのを手伝ってくれながら、いかつい人はぶつぶつ言う。
「とにかく間に合ってよかった」
何が間に合ったのかわからない。倒れたところを助けてくれたのだろうか?
「あの」
「体は辛くないか?あいつらのことならもう大丈夫だから」
「いえ、そうじゃなくて」
いかつい人はやけに馴れ馴れしく体に触れて来る。いや、体を起こすのに手を出したのは私だけれど、起き上がったら離そうよ。
「それとも何?」
「何でーー私の名前、知って」
「当然だからだ」
るんですか、と続けようとした言葉をぶった切って、いかつい人は言う。
はて、私が忘れてるだけで、もしかして同級生とか同僚とかだろうか。
しかも当然と言い切られた。
まるでこちらが彼のことを知っているのが当たり前かのように。
そう言われると、もしかして私が忘れてしまっただけなのかと記憶を探る。
「ごめんなさい、覚えてないです」
「いずれ思い出してくれればいい。さあ、帰るぞ。あいつらが来る前に」
「あいつら?」
「わすれてていい。むしろ積極的に忘れてくれ」
ところでどうしてこんなところで、といいかけて周りを見る。
もちろん全てがぼやけた世界だが、少なくとも通りがかる人の肌は健康的だ。
そう考えて、不意に妙な気分になった。
赤い肌や青い肌の人なんているはずないのに。
いや、そんなことより、この視界をどうにかしなければ。
空はまだ暗くないが、もしかしたらもうできているかもしれない。
立ち上がって礼を言い、後日礼をしたいからと連絡先を聞こうとしたが、ニコニコと笑うだけだ。
とりあえず眼鏡を取りに行かねばならない、と告げると、いかつい人はあからさまに不機嫌になったのが分かった。
「お前にあれは似合わない」
どきっぱりと告げられた。似合わなかろうが何だろうが、視力第一、その次は金だ。
あれがないと命に関わるのだ、と説明をしながら眼鏡屋への道を辿る。ともあれ頼んだものは受け取らなきゃならないし、あれがないと夜も開けないのだから。
店に着くと、店主はちょうど最後の仕上げ中だったらしい。大して待たずに眼鏡を受け取れた。
代金を支払い、店を出るといかつい男の周りに花、もとい女たちが群がっていた。女たちの垣根の向こうに見えるのは一つ分飛び出た後頭部だけ。こんな状況になるのか、と感心しながら眺めていると、男が振り向いた。
「瑞穂」
女たちの垣根をかき分けてやってきた男の顔を見て、思わず声をあげた。
今朝電車の中で遭遇した、あのムキムキマッチョだったのだ。どうして気がつかなかったのかと落胆したが、声を聞いたわけでなく、顔も判別できない状態では仕方なかろう。
「瑞穂は眼鏡をしないほうがいい」
「コンタクトは落とすから嫌」
買った翌日に落としたあの悲しみを私は忘れない。たっかいくせに、と何度も詰った。今でも残った片方のレンズは引き出しの肥やしだ。悔しいから捨ててない。
「ならこうすればよかろう」
不意にひょいと持ち上げられた。まるで荷物か何かのように軽々と持ち上げられたというのに、恐怖心が湧いてこないのは何でだろう。
周囲から女の黄色い声が上がり、そういえば衆人環視の中ではないかと思い至る。慣れてるはずがないのだ、こんなこと。
「何する」
「こうする」
せっかく調整してもらった眼鏡を取り上げられる。手を伸ばし、文句を言おうとした口を塞がれた。
どうしてこう私の言葉を遮るのだ、この男は。しかも今回は口を塞ぐなどと直接的だ。
眼鏡がないのにくっきりと男の顔が見えた。至近距離にあるせいだ。まつげの一本一本までよく見える。
なぜ見えるのだろう、と思い至ったところで唇にあたる感触に気がついた。
今まで浮ついたことなど一度もない人生を送ってきた私にさえわかるぞ。これはーー接吻。
なぜ、と混乱しているうちに、手が伸びてきて視界を塞がれた。女たちの悲鳴がうるさい。
顔というか頭に血が上ってきたのを自覚する。暑い時期でもないのに汗が噴き出してくる。他人の体温をこれほどまで感じたことは一度もなくて、色々と限界がくる。
最後に見えたのは、ムキムキマッチョの爽やかな笑顔だった。なんかムカつく。
ーーあーあ、捕まっちまったか。まあ、仕方ないねえ。
誰かの話し声。枕元に誰かいるらしい。が、体が動かない。
ーー仕方ないさ、これも天の定めしものだ。
誰だろう。知らない声のはずなのに、なぜか無性に懐かしくなった。
ーーま、遠からず会える。
ーーそれも天の定めだ。それに、覚えていて嬉しい記憶でもあるまい。
それきり声は途絶える。よくわからない話だった。
その後再び寝入ってしまい、夜に聞いたことはすっかり忘れてしまった。
で。
目覚めるとーー世界が違っていた。うん、言葉通り。少なくとも私の知らない部屋で目を覚ましたのは確かだ。
誰もいないと思っていたが、すぐにあのマッチョが来た。名前を教えてくれたが、覚えることができなかった。なんか昔にもそんなことあったな、と思ったものの、いつのことかは思い出せなかった。
不便なのでマッチョはお兄さんと呼ぶことにしたが、そう呼ぶと途端に機嫌が悪くなる。困り者だ。覚えられないのが悪いのだが、おいとかあんたとか呼ぶのも失礼だと思うからこそのお兄さんなのだが。
マッチョは仕方なさそうにセツと呼べと言った。それなら忘れなさそうだ。季節のセツだね、と言うと微妙な顔をした。季節が嫌いな人がいるとは思わなかった。
セツに連れられて部屋を出る。着の身着のままであるが、そんなことには慣れている。ーーどうして慣れているのか思い出せないが。普段は帰ったら部屋着兼寝巻きに着替えるのだが、ここにはないらしい。そういえばどうしてここにいるのだろうと考えて、気を失う前のことを思い出した。そうだ。ーーセツにキスをされたのではなかったか。
そう考えると頭に血がのぼる。とりあえず手をーー気がつかないうちにセツに手を引かれていたのだーー引っこ抜こうとしたがびくともしない。
むしろひょいと担がれた。だから私はものじゃないんだってば。
「おろしてよっ、この、キス魔っ」
「誰がキス魔だ」
若干の余裕を見せながらセツは進む。
ふわりと風を感じて目を転じると、窓の外は果てまで広がる緑の大地であった。萌え出ずる木の芽が美しい緑色で輝く。風をそよぐ花々は受けた朝の雫を重たそうに抱え込んで、それでも陽の光に向かう。
これほどまでに美しい風景は見たことがない。それに、この立体感。まるで裸眼で見ているかのようでーー。
ふと気付いて顔に手をやる。両足を抱えられているが、両手はフリーなのだ。まあ、支えがないと怖いので、片手はセツの頭に置いているが。
そして、長年連れ添ったーーまあ、物自体は昨日受け取ったばかりだが、子供の頃からそれがそこにないことがなかったのだーー眼鏡がなかった。
「どうした?」
「眼鏡ーー」
「もう要らぬだろう?」
その通りだ。まさか、肉眼で世界を見られる日が来るなんて思っていなかった。眼鏡がないと夜も明けないのに、眼鏡を通して見る世界はどことなく扁平で、つかみどころがなかった。現実味が、と言うのが正しいのかもしれない。立体感を失った立像はなんの魅力もないが、生活していくにはなくてはならなかったのだ。
ある意味枷だ。それが取り払われる日が来ようとは。
驚きを持ってセツを見る。セツの顔もまた、見事な立体として目に映った。マッチョマッチョと言っていたが、これほど整った顔をしていたとは思わなかった。根元から立ち上がる豊かな黒髪は烏の濡れ羽色、強い光をたたえる瞳は黒曜石。肌は浅黒く、口元も鼻筋もすっきりしている。マッチョ、と呼ぶのは失礼だったな、と反省する。
そのセツがどうして私を担いでいるのだろう。
「綺麗だろう。これがこれからお前の住む世界だ」
「ーーへ?」
世界。どう言うこと?
そう問いかける私の言葉は声になることなく飲み込まれた。セツのどアップに埋め尽くされた視界の隅に花文字が踊る。
ーー捕まっちまったねえ。さて、どっちがよかったのかねえ。
なぜか読めたその花文字は、ふわりと空気に溶けて消える。
目を閉じると闇。セツに絡め取られた私に選択の自由はあるのだろうか。
ただ、現実味を取り戻した私の世界が、上司の機嫌一つで仕事をクビになる世界でないことだけは確かなようだ。