千賀の不思議な一日 その五
千賀は、白姫に手を引かれながら北へと飛ぶ。もうあと少し飛べば、藤ヶ崎を守る北の砦が見えてくるというところで、西に進路が変わった。
風を切る音が、千賀の耳に新しい。
空を飛んだことは勿論だが、ここまで早く移動した経験は千賀にはなかった。いや、おそらくはこの世の誰もが未経験に違いない。
千賀は、真新しい刺激の連続に顔を輝かせている。もうすでに、千賀の顔に恐怖の色はなかった。その手はしっかと白姫の手を握りしめてはいるものの、見たこのない景色、聞いたことのない音、そして体にぶつかってくる風の冷たさに感動しっぱなしだ。
そんな千賀に満足そうにしていた白姫だったが、目的の山の近くに来たところで眉根に皺を寄せた。
「何あれ……?」
白姫が呟いた瞬間、ゴオと音がして目の前の山で地滑りが起きたのである。そして、恐怖に充ち満ちた悲鳴が上がった。
「ひゃっ、なのじゃ!?」
千賀は思わず目を固く閉じ、首をすくめる。
大きな音がして、流れ落ちる地面に人が呑まれた。それが何を意味するのかまでは理解できなくとも、何故かとても怖かったからだ。
「あれ? お姉ちゃん?」
そんな千賀の横で白姫が呟いた。その声を聞き、千賀も恐る恐るぎゅっと瞑っていた目を開ける。
「あらあら~、だから引き返しなさいと言ったでしょう~」
そこには、頬に手を当てて困った様な顔をした少女が、白姫や千賀と同じように空に浮いていた。
「お姉ちゃんっ!」
「あら、白姫~。こんなところにどうしたの~?」
「それは、わたしの言葉だよう」
白姫は、そんな少女の様子に呆れて溜息を小さく吐いた。
この少女の名は佐保という。どこかぽわぽわとした雰囲気のある少女で、白姫や千賀たちよりは少し年上のようにも見えた。しかしその少女は、今し方不思議な力で軍を一つ、地滑りの中に沈めたばかりである。空を飛んでいるだけでも十分分かる話だが、決して見た目通りのほんわかほえほえ少女ではなかった。
「で、お姉ちゃん。これは一体何事なの?」
白姫は、たった今地滑りを起こした辺りに目をやりながら佐保に尋ねた。そこには半壊した壺、破れた俵が散見され、そして上がり藤一文字の旗も折れて土に汚れているのが見える。
上がり藤一文字――千賀と同じ『水島家』の家紋であった。ただしそれは、千賀を擁する藤ヶ崎勢のものではない。千賀の命を狙う彼女の叔父・水島継直の軍の旗だった。
佐保はにっこりと優しい笑みを浮かべながら答える。
「だって、お昼寝していたらやかましくするから~。それに悪い人たちよ~? 私たちのおうちに攻めてきた人たちだもの~」
佐保はのんびりゆったりとした口調で言う。
やはりというか、佐保がやったらしい。話している内容が話している雰囲気と著しく乖離しているが、佐保はまったく気にしていなかった。
「私たちのおうちって……水島のお館のこと?」
「妾のおうちのことかや?」
白姫の言葉と同時に、それまで驚きで固まっていた千賀が口を挟んだ。水島の名前が出たおかげで、なんとか戻ってこられたらしい。
「あら~、貴女は~?」
「妾かや? 妾は千賀なのじゃっ!」
どーん。
そう音が聞こえそうなくらいふんぞり返りながら、千賀は自己紹介する。もし武がこの場にいたら、既視感を覚えたことだろう。
「あ~、貴女が千賀なのね。これからご厄介になります~」
佐保はにこにことしたまま、そう言ってぺこりと千賀に向かって頭を下げた。
「お姉ちゃん……」
「ごやっかいって……お主は妾のおうちに来るのかや?」
千賀は、コテンと首を傾げてしまった。
「あはは。千賀、千賀? いいの、気にしないで」
白姫は困った顔をして、千賀にそう伝える。
「でも、ごやっかいになると言ったのじゃ。平じーたちに伝えておかなくてもよいのかや?」
千賀は真面目な顔をして白姫に尋ねる。
「いいのいいの。というか、話しちゃ駄目よ? 別に話しても良いんだけど、きっと信じてもらえないから千賀が哀しくなっちゃうわよ?」
そう説明する白姫の眉毛は、幼女にあるまじき『八』の字になっていた。
「そうなのかや? うーむ、わかったのじゃ」
しかし千賀は、よく分からなかったのでとりあえず素直に頷いた。
「良い子ね。それで、お姉ちゃん?」
「なあに~?」
「あの人たちのことだけど……」
「ああ、北の方からやってきたのよ。良くない気配をぷんぷんとさせて。お昼寝していたのに起きちゃったわ~。気持ちよく寝ていたのに~。だから、『ポイ』したの」
にこにこ。
佐保は笑顔のまま、そう言う。
「そ、そうなの……」
「そうよ~」
白姫はタラリと冷や汗を流した。
温厚な外見とは裏腹に、容赦のない非情なお言葉。白姫にしてみれば、そういうのはどちらかというと自分の領分の筈なのだが――などと思う訳だが、彼女の姉の方がそういう部分は強かった。
「もう少し寝ていたかったのに~。お迎えも来ちゃったわ~」
「寝ないでよ、お姉ちゃん。もう交代よ? 今から三月の間、しっかり働いてきて」
「いいなあ、白姫は。これからお休みでしょお~」
「私は、もうしっかり働いたもの」
「お姉ちゃんと交代しよ~?」
「私は冬だから。そんなことしたら、草も木も動物も、みんな困るでしょ?」
ぐずる姉を、必死で説く白姫。幼い外見に似合わず、結構苦労しているようだった。
そんな姉妹の様子を、千賀は少しうらやましそうに眺めていた。自分には兄弟姉妹がいないから、ちょっと羨ましかったのだ。
そしてその寂しさが、父母に会えぬ寂寥感をくすぐり始める。
妾にだって、でしちろーもおるし、平じーもおるし、たえや菊もおる。いつも妾をいじめるが、たけるも構ってくれるのじゃ。さみしくなんか、全然、全然ないのじゃ。
千賀はそう自分に言い聞かせ、ぷるぷると頭を振る。
そんな千賀の様子を、妹と巫山戯あいながらも佐保はきちんと見ていた。そして、
「そんな顔したらダメよ~? 私たちはね~、一生懸命みんなで幸せになろうとする人が好きなの~。その為には、まずは笑顔よ~」
と微笑みかけた。
突然声を掛けられ千賀はビクと体を震わせたが、佐保が自分に言ったのだと気づくと、
「笑顔かや」
と呟いた。
「そうよ~。笑顔よ~」
佐保は微笑みをたたえたまま、更に自分の口の端をにゅっと両手で釣り上げた。千賀を説く佐保は、その言葉通りに顔中を朗らかな笑みでいっぱいにしている。
「……珍しく、お姉ちゃんがまともなこと言ってる」
妹の方も同様だった。こちらはやや苦笑混じりではあるものの、確かに笑っていた。
千賀は、
「そうじゃな。笑顔は大事なのじゃ」
と呟き、気を取り直す。菊や伝七郎、そして武に平八郎。それら千賀を見守っている人々が見たら逆に胸を痛くするような物わかりの良さだった。
「そうよ~。私たちも頑張るけど~、結局おうちが幸せになれるかどうかは、そのおうちの人次第なんだからね~。頑張れ頑張れ~、千賀~。おー!」
「お、おー? おうちが幸せ?」
千賀は訳の分からぬ事を言う佐保に首を傾げるが、彼女の雰囲気に押し流され、なんとなく乗ってしまう。
「お姉ちゃんが、『おー!』って言ってどうするのよ」
「細かいことを気にしちゃいけないわ~」
「なんかよく分からんが、とりあえず分かったのじゃ。白姫のお姉ちゃん」
「あらあら~。まだ名前を名乗っていなかったかしら~。これから長いおつきあいになるのに~、私としたことがうっかりうっかり。私は佐保っていうのよ~」
「さお?」
「そうよ~。みんなからは佐保姫って呼ばれているわ~」
「なんと! お主も姫だったのかや!」
白姫が姫ならば、その姉である佐保も当然姫なのだが、千賀は驚愕の事実を知ったかの如く驚いていた。
そんな千賀に佐保は言う。
「ふふふ。そうよ~。みんな一緒ね~」
千賀は、
「!? うむうむ! そうじゃな!」
と、今度はまったく含むところのない笑顔になった。佐保はそんな千賀を見て、とても満足そうにしている。
ただそんな二人の横で、
「私としたことが?」
と冷静な突っ込みを入れる少女の姿もあったとかなかったとか。
そのあと三人は野山の上空を翔て遊んだ。佐保が帰る前にもう少し遊んでいきましょうと言ったからだ。
山から山へと飛び、花芽吹く山の草花を見ては、三人の少女たちは楽しんだ。
そして日が暮れ始めようとする頃――――。
「そろそろ、おうちに帰らないと」
と白姫が千賀に向かって言った。千賀はハッとする。
「ま、まずいのじゃ。みんなにメッされるのじゃ……」
今の今まで何もかもを忘れて遊んでいたが、自分は勝手に館を出てきてしまった。そのことを思い出したのだ。
「ふふふ。おっこられる~、おっこられる~」
佐保は、妙な拍子を付けて歌い千賀をからかう。
「歌うでない! 白姫! 佐保! なんとかするのじゃ! これはまずいのじゃ!」
千賀は必死で二人になんか知恵を出せと訴える。
「大変ね」
「他人ごとみたいに言うでない!」
「そうね。白姫も、そろそろ戻らないと怒られるかもよ?」
「私? 私は良いのよ……っていうか、お姉ちゃんが来るのが遅いからいけなかったんじゃない。お姉ちゃんが来ないと、『春』にはならないのよ? だったら、『冬』のままじゃないの」
妹もからかおうとする佐保だったが、逆にやり込められてしまう。しかし、この姉はも良い性格をしていた。急に知らないフリをして、明後日の方向を向いてしまう。
そんな姉に、白姫は困ったお姉ちゃんだとばかりに、一つ深い溜息を吐いた。
「なにか怒られずに済む方法はないかのう……」
白姫の『帰る』という言葉、そして『春』に『冬』。よく分からない話で姉妹が盛り上がっているは千賀にも聞こえていた。
しかし彼女は、今それどころではなかった。一人で頭を抱え込んでいる。
そんな千賀を見て、佐保は言う。
「そんなの簡単よ~。ほらっ」
佐保はにこにこと笑いながら、両手を口元に当てた。そして、フッと小さく息を一吹きする。その仕草は、千賀が空を飛ぶ前に白姫が千賀にやった動作と同じだった。しかしこちらは、白い光りの粒の代わりに桜とおぼしき花びら混じりの風が起きた。
その薄桃色の風が千賀の体を包む。
「わ、わあ、なのじゃ!」
今日は不思議なことばかりでずいぶんと慣れてきていた千賀であったが、やはりいきなりされると驚かずにはいられない。
千賀はどこからか花の香りがしてくるのを感じる。そして、それと同時に体がぽかぽかとしてきた。
な、なんじゃ、これは?
そして、千賀がそう思った瞬間のことだった。彼女はそこで意識を失った。
ポテ。
千賀は野原に広がる草の敷布の上に倒れ込んでしまう。
「もー、お姉ちゃん。乱暴なんだから」
「えー、それはひどいわ~。私は、千賀が怒られたくないっていうから、協力しようと思っただけなのに~」
「ま、いいわ。じゃあ、私も里に戻るけど、千賀のことはお願いね?」
「分かったわ~」
すー、ぴよぴよ。
だらしない顔をしながら幸せそうな寝息を立てている千賀の脇で、佐保と白姫はそう言って別れた。
◆
「だー、あのガキッ! どこに行きやがった!?」
「姫様ーッ。姫様ーッ」
「武殿、そちらは?」
「ダメだ。いねぇ」
一方その頃、藤ヶ崎の館では案の定大騒ぎになっていた。館にいる兵や侍女らを総動員して、館の内外で千賀の捜索が始まっていたのだ。
鬼ごっこをするぞといって、隠れた千賀を探しにいった武は当然千賀を見つけることは出来なかった。降参して、出てこいと呼びかけるもいっこうに出てくる気配はない。それはそうである。その時千賀はその場にいなかったのだから、出てくる訳がない。
だが、千賀は姫だ。どこかに遊びに行ってしまったで済まされる訳がなかった。お腹が空いたらそのうち帰ってくるではなく、今帰ってこないとまずい立場なのである。
「お前の所には行ったんだよな?」
「ええ。鬼から隠れなくてはいけないと言っていました」
「ってことは、とりあえずそこまではいたんだよな……。その後の消息がさっぱりだが。まさか、館の中で誘拐? いや、そんな馬鹿な。いくらなんでも、うちの兵はそこまで間抜けじゃない。それに千賀だって、無理矢理拉致しようとすれば多少は騒ぐだろう」
武と伝七郎は、焦燥感をあらわにしながら、そんな意見を交わしている。
そして、そんな時だった。
「おられましたーッ。姫様が見つかりましたーッ!」
庭の方で、そんな声がした。
その声が聞こえると同時に、二人は庭に飛び降りる。そして駆けだした。
二人がその声の元に付くと、すでにその場には、見つけた兵の他に菊が到着していた。その顔は、もう安堵でいっぱいである。
「……まったくもう、姫様は……」
そう言って菊は、岩陰で小さく丸まっている千賀を抱き上げる。その目は涙で潤んでいた。
しかし千賀は、気持ちよさそうに眠ったままだった。そして、
「ふみゃ、ふみゅ……すんごいのじゃぁ……」
と、なにやら寝言なども呟いている。
そんな千賀を見て、武と伝七郎はどっと力が抜けるのを感じた。
「こ、このガキは……」
「……ふう。攫われたのではなくて本当に良かった」
「とりあえず鬼ごっこは封印だな。伝七郎、すまんかった」
武は頭を掻きながら伝七郎に、そう言って詫びる。
「はは、ちょっと肝が冷えました」
伝七郎も苦笑を禁じ得ない。
「まったくだ。このガキ、起きたら折檻してやる」
「ふふ。程ほどでお願いします。それにしても、本当にびっくりしましたね。刺激的でした」
「刺激的すぎるわっ!」
そんな会話をしながら、二人は千賀の元へと近づく。千賀はピヨピヨと気持ちよさそうな寝息を立てていた。
◆
翌日、千賀は武に大目玉をくらった。
何がどうなってどこに行っていたのかを話し自分の無実を訴えた千賀だったが、それが認められることはなかった。
話があまりにも非現実的だったからではない。
伝七郎や平八郎、そしてたえや菊などは千賀の話を聞いているうちに、千賀がおかしくなってしまったのではないかと心配したのは事実だが、千賀の目をじっと見ていた武は、千賀が正気であることは確信していた。だから武だけは、話の突飛な部分ではなく、あくまでも誰かに伝えることなく勝手に館を飛び出していったことについて、コンコンと千賀を説教したのである。
千賀にとっては、どちらも辛い話であった。一方は話を分かってくれない。もう片っ方は、話は分かってくれるが、『やっぱりお前が悪いよね?』と問い詰めてくる。
千賀は結局、小一時間ほど怒られることとなった。
「佐保め、何が簡単なのじゃ……」と千賀は毒づいた。だが、決して佐保のことを疎ましく思っている訳ではなかった。それに、昨日の夢か現か分からぬ体験は千賀に強烈な印象を残していた。
だから――――
また、あの二人に会いたいのじゃ。
そう思っている。
その結果、以降、藤ヶ崎にある水島のお館には、『千賀のお友達の部屋』というものが出来た。千賀が武に相談したところ、彼は少し考えて、そうしたらよいと助言したのである。
その部屋は、侍女たちの私室が並ぶ一角に用意された。千賀が白姫と出会ったあの部屋である。毎日綺麗に掃き清められ、小豆ご飯が供えられることになった。
この一件について、後の神森武はこう語ったという。
「千賀のお友達の部屋? そりゃあ作るさ。始めはまさかと思ったけどね。でも、あの頃から俺たちに運気が向いてきたんだよ。だから、『ああやっぱりそうだったか』って、すぐに思った。ま、なんにせよ千賀のお手柄だったってことだね」
千賀の不思議な一日は、ここまでとなります。