千賀の不思議な一日 その三
勝手に思い込んだ千賀は、お冠のまま武の部屋を出た。
それでも、コソリコソリと、武が来ると思われる方向を気にしながら進んでいく。
ほんとに来ないのじゃ……って、来た! 来たのじゃ!
武は、庭に面した外廊下を千賀がいる方へと向かって歩いてきていた。あくびをし、はだけた胸元に手を突っ込みバリボリと掻きながらという、非常にだらけきった様子ではあったが、千賀は一気に機嫌を直し興奮状態になる。遊んでもらえるならば、彼女にとって細かいことはどうでもよかった。
というか、それどころではない。
いかん、いかんのじゃ。
千賀は慌てる。彼女は現在廊下のど真ん中。武の目がこちらに向けば、それで終わりという状況であった。
きょろきょろ。
周りを見渡す。
彼女は侍女らの私室が連なる一角にいた。そして、ちょうど現在空き部屋になっている部屋の前だった。しかも、風を通していたのか、部屋の入り口である襖も開かれていた。
「とおっ、なのじゃ!」
千賀の判断は早かった。まるでネズミが小穴に駆け込むがごとく、迷わずその部屋に飛び込んだ。
……ぼて。
「ふみゅっ」
部屋の中というものは、池でもなければ川でもない。下は板か畳であることが普通だ。受け身のことなど考えていなかった千賀は、盛大に畳の上に落ちた。顔からいかなかっただけでも上出来だったと言えるかもしれない。
「……いたいのじゃ」
それは、そうだろう。遠慮なく畳に飛び込めば、痛いに決まっている。
だから、そんな彼女は問いかけられた。
「痛いの?」
千賀はハッとして顔を上げる。さっき見たときには、部屋の中には誰もいなかった筈なのだ。無様に俯せに潰れたままではあったが、それどころではなかった。
「だれじゃ!」
思いの外大きな声が出てしまった。千賀は慌てて口を押さえる。しかし、その視線は自分に語りかけた何者かにしっかりと向けられていた。
そこには、真っ白な着物に真っ赤な帯を締めた、ちょうど千賀と同じくらいの年頃の少女が立っていた。
千賀は訝しむ。ここに、こんな少女はいただろうかと。
ずいぶんと変わった少女だった。着物も白いが、髪の色も真っ白である。それどころか、肌も病的なまでに真っ白だった。
それに、何よりも目の色である。
……あかいのじゃ。
白い肌にまっ赤な目。まるで雪うさぎのような少女だった。
千賀はまじまじと見つめてしまう。しかしその少女は、千賀の視線に臆するようなことはなかった。むしろ、千賀の情けない格好を見て、うっすらと笑みを浮かべてさえいる。
その少女は、手に持った赤い鞠を足下に置くと千賀の前までやってくる。そして膝を折り、スウッと千賀に手を伸ばした。
「大丈夫?」
手を伸ばされた千賀は、思わずビクンと体を震わせる。
……手もまっしろなのじゃ。
千賀は伸ばされた手をまじまじと見つめた。少女の手は、やはり真っ白だった。
千賀は、伸ばされた手におずおずと手を伸ばす。目の前の少女に、自分へ害意をまったく感じなかったからだ。しかし、
「ひゃ! 冷たいのじゃ!」
千賀はびくりとして、重ねかけていた手を慌てて少し引っ込めてしまった。
しかし、誰も千賀を責めることなど出来ないだろう。もう春だというのに、彼女の手はそれはとてもとても冷たかったのだ。驚くなという方が無理な話だ。
少女も、そんな千賀を面白そうに見ているだけだ。
「ふふ。ほら、立って?」
「ひょっ!?」
少女は宙を漂っている千賀の手をしっかと捉えると、うんしょとばかりに千賀を引っ張った。今度は抵抗する間もなかった。
やはり、少女の手はものすごく冷たい。色もそうであるが、その冷たさもまるで雪のようだった。起き上がった千賀は、そのあまりの冷たさに聞かずにはいられない。
「ほ、本当にだいじょうぶなのかや? おててがこおっておるぞ?」
「ふふ。私は本当に大丈夫。それより、貴方こそ怪我はない? ダメよ、畳に飛び込んだりしたら」
少女は、見た目は千賀とそんなに変わらない年頃に見えるが、ずいぶんとしっかりとした口を利いた。
「うっ……」
千賀はバツの悪そうな顔をする。そして、それを誤魔化すかのように少女に尋ねた。
「それで、お主はだれなのじゃ? 妾は知らんのじゃ」
「ふふ……そうね。私の名前は白姫って言うの」
「おぉ、なんと!? お主も姫なのかや?」
「そうね。一応、そう呼ばれているから」
「ふぉぉ、そうなのかや……」
千賀は興奮していた。両拳をグッと握り、目をまん丸にしている。
何せ彼女は、今の今まで自分と同じ年頃の少女に会ったことがない。おまけに、自分と同じ『姫』だと言う。千賀の頭の中では、『=お友達』となってしまっていた。
そんな千賀の様子に、自らを白姫と名乗った少女は微笑んでいた目を更に細めた。千賀の方も千賀の方で、そんな白姫に興味津々である。
「そんで、そんで、なのじゃ。白姫はこんなところで何をしておるのじゃ?」
「私はね。お姉ちゃんを待っているの」
「白姫にはお姉ちゃんがいるのかや?」
「ええ、三人いるわ。その中で一番上のお姉ちゃんが、ここにやってくることになっているんだけど……、お姉ちゃんぼけぼけだから……」
白姫は、最後の言葉だけ少し言いにくそうに言葉を小さくした。どうやら、彼女のお姉ちゃんは遅刻しているらしい。
千賀は、眉根に皺を寄せて首を傾げた。
右を見る。左を見る。そして、前を見る。どこを見ても館の中だった。こんな所で待ってるって……と、そういう顔だった。
しかし、そこはそれ。千賀は千賀だった。ちょっと考えて分からなかったので、まあいいかと思考を放り投げる。
「そうなのかや。じゃあ、今はひまなのかや?」
「そうね。暇と言えば暇ね」
「じゃあ、妾と鬼ごっこするのじゃ」
「鬼ごっこ?」
「そうなのじゃ。いま武が妾を探しているからの。一緒にかくれるのじゃ」
千賀はこそりこそりと襖の影から部屋の外を窺う。武が来ないかを確認しようというのだが、本来ならばとっくに見つかっていただろう。しかし武は、先ほど千賀が見つけた位置からほとんど動いていなかった。廊下で、千賀の侍女の一人である咲という娘と、楽しげになにやら話している。
むう……武のやつ、メッなのじゃ。
千賀は再びほっぺを膨らませる。
しかし、いま飛び出ていっては見つかってしまう。ぐぬぬと唸りながら、その様子を眺めていることしか出来なかった。
「千賀? どうしたの?」
そんな千賀に声が掛けられる。
「ふおっ!? 妾の名をしっているのかや」
千賀はクルリと振り向いた。
「それは勿論。だって貴女、ここのお姫様じゃない」
「ふぉぉ。妾はお主の名をしらなかったのに、白姫はすごいのう……」
「ふふふ」
さっきまで風船のように頬を膨らませていた千賀だったが、もうすでに腹を立てていたことなど忘れてしまったようだ。白姫を見て、すごいすごいと繰り返す。
白姫は、そんな千賀を見て笑っている。
「んーむ。武の奴めは咲とおはなししてて来ないし、このまま隠れていてもつまらんのう……」
千賀は、白姫を誘ったもののどうしたものかと悩む。
鬼が来ない鬼ごっこなど面白くない。千賀にとってこの鬼ごっこは初めてのものだったが、今のこの状態は本来の鬼ごっこではないと、流石に気づいていた。
「んーむ……」
千賀は腕組みをして唸り始める。
これから何をして遊ぶのか――これを決めることは、今の千賀にとっては一大事であった。だから、極めて真剣だ。執務室における伝七郎や武に劣らぬ難しい顔をしている。
「ねぇ、千賀? ちょっとお庭に出てみましょうか」
唸り始めた千賀を見て、白姫はクスクスと笑いながら、そう誘った。
「んみゅ? お庭であそぶのか? お庭をあらすとメッてされるのじゃぞ?」
「ふふ。子供は怒られてなんぼ、よ。えいっ」
そう言うと白姫はトトトと小走りに駆け、外廊下を突っ切って庭に飛び降りた。
ジャリ――――。
枯れ山水の庭に波紋ができる。
「ん? なんの音だ?」
ちょうどその場所は、武らからも見える場所だった。しかし武は、白姫の方を見るが首を傾げるだけで咲との話に戻ってしまう。
白姫は、そんな武たちを気にすることもなく再び千賀を誘った。
「千賀も、こちらにいらっしゃいな」
しかし、千賀は逡巡する。
白姫は笑った。
「ふふふ。千賀は臆病ね。それなら、ほら」
水をすくうような仕草で両手を口元に持ってくると、白姫はふっと息を一吹きする。そして、その両手を開いた。
すると、どうだろう。白いキラキラとした光が風に乗り、そのまま千賀を包みこんだ。しかしその光は、周囲に溶けるようにすぐにかき消えていく。
「な、なんじゃあっ!?」
千賀は驚き飛び上がった。
「ふふ。もう、しばらくは誰も貴女には気づかないわ」
白姫は、どう? とばかりの目で、千賀を見た。
「なんじゃと!?」
白姫の言葉に、千賀は度肝を抜かれた。いくら千賀でも、そんなことがありえるのかと疑問に思わずにはいられなかったのだ。
しかしそんな千賀を気にすることなく、白姫は誘う。
「ほら。いつまでもそんな所にいないで、千賀もこっちにいらっしゃいな」
「そんなことしたら、武にみつかってしまうのじゃ」
「見つからないわ。それに声も聞こえない。だって、ほら。私とこんなに話しているのに、あの人はまったく気づいていないのよ?」
白姫はそう言って、武の方を指さす。千賀は再び、んーむと考え込んだ。
「ふふ。仕方がない子ね」
白姫は飛び降りた庭から廊下へと上がる。そして考え込んでいる千賀の手をとると、今度は一緒に庭へと飛び降りた。
「それっ」
「わぁ、なのじゃ!」
今度は庭に、二つの波紋が出来た。
「な、なんだ!?」
またも聞こえる庭の小石が踏みしめられる音に、武はギュンと振り向いた。しかし今度も、そこには誰もいない。確かに庭の石には荒れた様子があるが、そこには誰もいなかった。
「お、おかしいな……。俺、もしかしてヤバイ状態なんだろうか……」
武はそう呟いて、両手で頬をパンパンと叩き始めた。