あたオカ美食国家 水島領 その九
明日、二回投稿します。今回の短編は、それで終了になります。
「え~……徳田新之助です」
あまりにも今更ではあるが名乗ってみる。
しかし、まあ当然のように誰も俺の言葉など聞いていなかった。
親父さんは何してんだと言いたげな目で二人を見ているし、お初ちゃんは口を吉次に塞がれ今もフグフグ言っている。そんな吉次は、お初ちゃんの口を塞いだままこっちを見て『すみません……』って泣きそうな目をしていた。
せっかく偽名まで用意してきたというのに……。
涙が出てくらぁ……。でも、俺は強い子だから泣かない。泣かないったら泣かないのである。
「……吉次。もういいよ。放してあげな。遊びはお終いにしよう」
一つ深い息を吐いて宣言する。
「ほんとすみません……」
吉次は詫びた。
でも、まあ仕方ない。確かに俺の顔と名が一致する人間は少ない。でも、ゼロではないのだから。
ふだん藤ヶ崎の館に籠っているか遠くに出ているかという俺だが、この藤ヶ崎に籠る爺さんのもとに千賀を連れて行った時に伝七郎と並んで表通りを歩いている。あれだけど派手にやったのだから、あの場にいた人間のなかには覚えている者もいるだろう。
あの時はまだ名前こそ知れ渡っていなかったにしても、千賀と伝七郎と一緒に町中を突っ切っているのだ。人並みに感が働く人間なら、後に出てきた神森武という名前と結びつけることはそう難しくない。
まして、お初ちゃんは商売柄ひとの顔を覚えることなんか朝飯前だろう。絶対、このパターンだ。
そんなお初ちゃんは、ようやくフリーズから溶けて親父さんに一生懸命説明している。俺が良しと言ったので、吉次はもう彼女を止めようとはしていない。
俺としては、改まった場所ではない所で名を伏せて一般人と話しているのだから気にしなくていいと思うんだが、彼女の立場からしたらそうはいかないというのもわからん訳ではない。顔を青ざめさせたまま真剣に父親に説明している彼女を見ていると、少し申し訳なく思えてきた。
そんな彼女の説明はまだ終わりそうもない。まだしばらくかかりそうだ。
仕方がないから周りの様子に目を移した。
若い娘が大声を上げたので一瞬周りの男たちが何事かとこちらを見たが、もうすでに興味を失っていた。すでに何事もなかったかのように、それぞれの日常へと戻っている。
そんな周りの景色を眺めていたら、しばらくして声を掛けられた。
「……あのう、その……神森……様?」
親父さんが恐る恐るといった感じで声を掛けてくる。その隣で、お初ちゃんも不安げな顔をしていた。
「おっ、話は終わった?」
これ以上脅かさないように、ゆったりと返事をする。しかし、その思いは通じなかった。二人はバネ仕掛けの人形のような切れ味で、勢いよく腰を折って頭を下げる。九十度だった。
「「申し訳ありません!」」
あまりの勢いに思わず面食らう。
「二人とも。神森様なら大丈夫だから……」
吉次はなんとかとりなそうとしているが、哀しいかな「どうかご勘弁を~」と悲痛な声で謝るお初ちゃんは止まらない。親父さんも親父さんで「お許し下せぇ~」の一点張りだった。
困った。
こんなことになるのは想定していなかった。正体を明かす気なんてなかったし。まさに緊急事態だった。
でも、こうなってしまった以上なんとかしないといけない。俺がなにがしかのリアクションを起こさないと、これはこのままだ。
でも……、どうしたらいいんだ? 気にスンナの一言で済むならこんなことにはなっていない。
とはいえ、済む済まないではなく言うしかない。
「はは。まあ、今更隠しようもないから言うが、確かに俺は神森武だ。だが、そんなに気にしなくていいよ。お初ちゃん、俺は親父さんをどうこうする気ないから。親父さんも、普通にして普通に」
当然と言えば当然かもしれないが、二人は恐る恐ると言った感じに俺の様子を伺っている。そんな二人に、俺は苦笑いをしながらヒラヒラと手を振って見せた。
それを見て、親父さんは『本当に?』と言いたげな様子ではあったが、ようやく頭をあげてくれる。そして、もう一度謝罪した。
「本当にすみませんでした」
「良いって、親父さん。それより、ここからは神森武としてもう一度ゴロツキ連中のことと不良役人の話を聞かせてくれないか?」
親父さんはウンもスンもなく協力してくれた。ただ、名前を伏せていた頃よりも不逞役人への言葉はトーンダウンしていた。やっぱ、最初に偽名を使ったのは正解だったなと。
二人には悪いことをしてしまったが、素の言葉は神森武では知ることのできなかった空気感を知ることができた。たかが俺ごとき……と言えるのは俺だけで、良くも悪くも俺の名に箔がついてしまっているのが原因だ。
とはいえ、話を分解していくと内容そのものは、先ほどまでに聞いていた話と変わらない。
ゴロツキが屋台村に来るようになった。屋台村のあちこちで問題を起こしている。それを役人に訴えてもまったく改善する気配がない。完全に無視されているようで、むしろ状況は悪くなっていく一方だ──と。
ここで一計を案じる。
クソ役人は俺が手ずから処分してくれるが、何人いるかもわからんゴロツキを根こそぎにするのはけっこう難儀だ。
老中として命を発し部下たちに調べさせて──というのが正攻法だが、無駄に時間と手間がかかる。
まずいことに、すでに民の間に水島への不信感も芽吹き始めている。
ここで部下に投げて、その部下が適当な仕事をしようものなら致命傷になるだろう。なにせ、今はもう俺が『神森武』であることが親父さんとお初ちゃんにバレてしまっているのだから。
水島家の上位の人間までもが自分たちを助けようとはしてくれなかったなどと思われたら最悪だ。水島家への信頼にひびが入るどころではない。明確な割れ目となって信頼を破壊していくだろうと容易に想像できる。
だが、俺は神森武。
ここのところ、無茶振り以外されたことがない男。その経験が窮地の知恵を授けてくれるのだ。
ン・フ・フ~~。良いこと思いついちゃったもんね。
久しぶりに、水島家の重臣や軍師ではなく高校で悪友と戯れていた頃の俺を思い出した。
翌日から五日だけ、お初ちゃんの親父さん──竜さんに仕事を休んでもらうことにした。
無論、その間の手当ては俺が出す。そんなのとんでもないと言われたが、これはきちんと受け取って欲しいと言って渡した。俺の『命令』だから、と。これは正当な対価であり報酬でもあるので、きちんと受け取ってもらう必要があった。
そして────。
ギコギコ。トン、カン、トン、カン。ギコギコ。
太助、吉次、八雲の三人が鋸や木槌で格闘している。
店を閉めて大工仕事を始めた俺たちに、周りの店の連中も興味津々だった。多くの視線を集めたが、それぞれに自分たちの仕事もあるので、それほど時間を要することもなくその視線の数も減っていった。
この場には俺と太助ら三人しかいない。
竜さんとお初ちゃんは自宅でトレーニング中だ。
竜さんには、『蕎麦打ち』と『蕎麦切り』を覚えてもらうことになった。
あれだけ真剣に蕎麦掻と向き合ってきた竜さんだけに蕎麦粉を扱う技術は十分にある。あとは製麺と切る技術、ゆでる技術だ。
しかし少なくとも俺は、名もなき蕎麦職人たちが長い年月をかけて作り上げてきた技術や道具を知っている。
道具の形……そして、『二八蕎麦』という技術を知っているというのは蕎麦を扱ううえで圧倒的に強い。
蕎麦掻から発展した蕎麦切り……麺状の蕎麦は当然当初は『十割蕎麦』だった。全部蕎麦粉で作られていた。だが、その十割蕎麦……非常に難しい。麺状にするのも、ストレスなく食べられるようにするのも職人技術の極みみたいになる。つまり、一朝一夕ではまず無理。
蕎麦粉百パーセントの十割蕎麦は香りが豊かで風味を一番楽しめる。それは間違いないんだがボソボソとした食感になりがちだし、そもそもゆでる時にブツブツになってしまいがち。
それをどうにかするために歴史の中の蕎麦職人たちが生み出したのが『二八蕎麦』。蕎麦粉を八割にして残りは小麦粉を混ぜる。こうするとのど越しもよくなり、何より製麺とゆでが楽になる。
そこに蕎麦打ちセットをご提供だ。
麺台・麺棒・こね鉢・こま板・蕎麦切り包丁……ええ、チートセットでございますとも。現時点から見れば、これらは明らかに『未来の道具』です。
実際、江戸時代の蕎麦は不揃いで不格好だったようだ。麺の断面も正方形ではなく長方形……下手をすれば名古屋の『きしめん』に近いような形だったりしたと書かれていた記憶がある。俺のいた時代の均一に美しく製麺された蕎麦とはかけ離れている。
だが、それもこのチートセットを使うと、だいぶ違うだろう。
とはいえ、いくら蕎麦粉の扱いに長けた竜さんでも、すぐに完璧な蕎麦を打つのは難しい。というか、ムリゲーと言って差し支えない。
しかし、この世界にはまだ麺状の蕎麦がない。蕎麦と言えば蕎麦掻と蕎麦団子……せいぜい蕎麦粥しか食ったことのない連中しかいない。
つまり、どんな麺を作ろうと失敗はなく成功である。客が食ってどう思うかだけが評価だ。
だから、人生の大半を蕎麦粉と本気で付き合ってきた竜さんなら、完成された道具がありその基本的な使い方さえ覚えれば、それなりのところまではなんとかなる……そう信じたのだ。
そして、五日後────。
太助らの大工事もすでに終わり、明日のお披露目を控えて布がかぶっている竜さんのニュー屋台。
準備を整えた俺は、太助らを連れて竜さんたちの住む裏長屋へと向かう。
訪ねると真剣な顔をした二人が出迎えてくれた。そして、差し出されたのは湯気が立ち上る一杯の蕎麦──『蕎麦切り』だった。想像以上に細く綺麗に切れている。出汁の香りも湯気と一緒に鼻をくすぐる。
うん、これは自信を持って言える。俺の知っている『蕎麦』だ。
器を受け取り、その蕎麦切りをがっつりと箸で持ち上げて啜る。そして、器に口をつけると熱々の汁を口の中へと流し込んだ。
目を閉じ、味わう。
その間、誰も声を出さずにただ静かに俺の言葉を待っていた。
俺は二人に向かって、ニッカリと笑ってただ親指を立ててみせる。明日から営業だ。
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