148 地に足がつかない
勇者。
様々な物語に登場する英雄たちは、小さい頃から憧れの人だった。
前人未到の土地を冒険し、自分の命も顧みず勇猛果敢に敵に挑み、時には小さな願いにも快く協力し、そして、世界に、多くの人に平和と幸福をもたらす存在。
……どうしよう。
今まで、たくさんの英雄譚を読んだ。
初代国王をモチーフにした聖杯伝説も。光の勇者の物語も、英雄ジョージのドラゴン退治の物語も。そういえば、名もなき王の物語も、冒険したり強い敵と戦う英雄譚だっけ。
……自分が、そんな物語の当事者になるなんて。
勇者とは。
強くて。
慈愛に満ちていて。
皆の為に命をかけて敵に立ち向かって。
そして、伝説として語り継がれる存在になる。
……そんなの、無理。
どうして、引き受けちゃったんだろう。
こんな大役。
エルと一緒に行きたいけど。
私には、エルと並ぶ勇者を名乗る資格なんて、ない。
……物語の英雄たちと重なるところなんて、何一つないのに。
それなのに。
皆、私たちに協力してくれるって。
国王陛下も、大陸中の国々も。
冒険者ギルドも、魔術師ギルドも、商人ギルドも。
大精霊や妖精たちも……。
「ただいま」
え?
顔を上げると、エルが目の前に居る。
「エル。おかえりなさい」
いつ戻って来たんだろう。
扉を開く音にも気づかなかった。
マリユスとライーザに送ってもらって、部屋に戻って。
ベッドに座って……。
「着替えて、出かけよう」
「え?」
出かける?
「これから、あの人の所に行くの?」
「行かないよ。しばらく休みだ」
「え?」
休み?
「でも、勇者がやらなきゃいけないことは……」
エルが私の隣に来る。
「別に、気負う必要なんてない」
「でも……。人も、精霊も、皆が協力してくれるって……」
「そんなの、これまでと何も変らないだろ。今までだって精霊たちは味方してくれたし、俺たちのことを助けてくれる奴はたくさん居た。この防具だって、皆が協力して作り上げてくれたものだろ?」
「そうだけど……」
でも。
勇者だって。
「私……。勇者なんて引き受けて良かったのかな。今までの勇者は、英雄って呼ばれるぐらいすごい偉業をなした人ばかりなのに……。私、世界の為になるようなこと、出来るのかな……」
「英雄になる必要なんてない」
そうじゃなくって。
結果として、勇者は英雄になるはずなのに……。
「私……。勇者なんて向いてない」
エルに抱きしめられて、そのままエルの胸に顔を押し付ける。
どうしよう。
……こんなところで泣いてる人が勇者だなんて。誰が思うの?
いつも、足手まといにならないよう頑張るので精一杯で。
目の前のことしか出来ないのに。
皆の為にとか、大局を見るようなことなんて出来ない。
だって。
私が優先することは、勇者とは言えないことだ。
「私、エルを守りたい」
「俺を?」
涙を拭って、エルを見る。
「もし、エルに危険があったら。あの人と戦うことよりも、勇者の使命よりも、エルを助けることを優先したい」
だから、勇者なんて……。
「良いよ」
「良いの?」
「俺もリリーを助けることを優先するから」
「勇者なのに?」
「肩書きなんて関係ない。リリーを失うなんて……」
エルが、途中で言葉を切る。
そして。
私を強く抱きしめる。
「二度と、あんなことしないで」
……あの時のことだ。
「……はい」
身体の力がどんどん抜けて。目を開けていることすら出来なくなって、意識が途切れて……。
だから、何が起こったのかは見ていない。
でも、あの時、エルは……。
「勝っても負けても、何が起こっても。必ず、二人で一緒に帰ろう」
「はい」
誓って。
自分の命を大事にするって。
必ず、二人一緒だって。
「でも……。それだけじゃないの。私、あの人と戦うべきなのか、迷ってる」
あの人とヴィエルジュの関係。
あの人は、本当に悪い人なの?
戦う以外に解決方法はないの?
「戦うことは決まってる」
……それが、勇者の目的だから?
「でも、決着の付け方は俺たちで決めよう」
決着の付け方?
勝敗以外の方法がある?
「それが、勇者らしくなくても?」
「俺とリリーは、月虹の勇者だ。あの時、一緒に答えただろ?」
―両名を月虹の勇者として選出する。
―この決定に従ってくれるか?
国王陛下の問い。
……どれだけ、私に勇者の素質がなかろうと。
……どれだけ、私がだめでも。
私は、エルと一緒に答えた。
「私とエルは、月虹の勇者」
これは、もう覆すことが出来ないことなんだ。
紅の瞳が私を見つめて。
私の手を握る。
「だから、俺たちが出した答えが勇者らしい答えだ。それが間違いだって言うなら、勇者の選出の時点で間違ってたんだよ」
……そっか。
「そうだね」
エルらしい。
私は、伝説で語り継がれるような英雄にはなれないかもしれない。
選んでくれた人の期待には応えられないかもしれない。
それでも。
エルは、私と二人で勇者になることを望んでくれた。
「リリー。リリーは勇者である前に、俺の大切な人だ。それを忘れないで」
「ありがとう。エルは、私の大切な人だよ」
だから、大丈夫。
大切なことは何も変わらない。
「明日は、アーランに会いに行こう」
「闇の大精霊に?」
「あぁ。アーランは、グラム湖の光の洞窟に居るんだ。そこに、今日来ていた他の大精霊も居るかもしれない」
グラム湖?
「そこって、初代国王がエイルリオンを授かった聖地だよね?ヴィエルジュに頼めば連れて行ってくれるかな」
―あの場所は私の御使いの保管場所であり、アークトゥルスとの契約を行った契約の地。
「明日、聞いてみよう」
「うん」
グラム湖がどこにあるのか、良くわからないけど。
「あいつと戦うのは、十六日。デルフィに頼んで、熱気球で神の台座に向かう予定だ。それまでに、やっておきたいことを考えておいて」
あの大きな風船で行くんだ。
あれって、船よりも早いのかな。
風が味方をしてくれるなら、すごく早そう?
「帰ったら、すぐに大陸会議に参加しなくちゃいけない」
「えっ?あ……。うん」
確か、今夜は大陸会議の晩餐会があって、明日、大陸会議の開催宣言がある。
儀式に参加人たちだって、本当は大陸会議の為に集まってるんだ。
エルも自分が担当してる議題があるし、帰ってきたら大事な仕事が待ってる。
「それが終わったら、リュヌドミエルの休暇を貰える予定。一か月あれば、グラシアルにも行けそうだな」
「旅に出るの?」
「王都に居たら、何を頼まれるかわからないだろ」
確かに、家でゆっくりしてることって、あんまりないかも。
でも、グラシアルは、だいたい知ってるし……。
「行き先はどこでも良い?」
「あぁ。行きたいところがあるのか?」
「西南諸国。あ、でも、南部の方にも行ってみたいかも」
せっかくだから、行ったことのない場所が良い。
西南諸国は、グラシアルからちょっと下に行っただけのところだし、そんなに遠くないはず……。
「一か月じゃ足りないな」
「え?」
足りない?
……そんなに笑わなくても良いのに。
エルが楽しそうに私の頬をつつく。
「良いよ。ずっと遠くへ行こう」
……本当に、楽しそう。
「そろそろ出かけるか」
そういえば、着替えて出かけるって言ってたっけ。
そろそろ夕飯の時間なのかもしれない。
でも……。
立とうとしたエルの腕を引く。
「もう少し、ぎゅっとしてて……」
上手く言えないけど。
もうちょっとだけ。
こうしていたい。
※
「気分は?」
えっと……。
「お腹空いたかも……」
「なら、食堂に行くか」
「まだ開いてるの?」
「夜中でも開いてるよ。夜勤の兵士も居るからな」
「そっか」
王国兵士の子から、夜勤中の話も聞いたっけ。
※
夜は冷えるから、温かい服に着替えて。
エルと手を繋いで食堂を目指す。
夜のお城は、昼間とは雰囲気が全然違うよね。暗くて、とても静かで……。
少し、怖い。
耳の近くを風が通り抜ける音がして。遠くで、何かがゆらめいて。
思わず、繋いだ手に力が入る。
「どうした?」
「だって……。王国兵士の子が、お化けが出るって言ってたから」
「お化け?」
「夜勤してると出るって」
―お化けなんて居るわけないでしょう。
って、バニーは言ってたけど。
「お化けって、亜精霊のことか?」
「えっ?亜精霊じゃないと思う……?」
「じゃあ、どんな奴?」
どんなって言われても……。
「なんか……。白いシーツが踊ってる?」
エルが眉をひそめる。
「誰かが脅かして回ってるのか?」
「違うよ。中には誰も入ってないと思う」
「風の精霊の悪戯?」
「そうかもしれないけど……」
エルには、怖いものなんてなさそうだ。
「他にも何か聞いたのか?」
「えっと……。女性王国兵士の為のお風呂は広いって」
皆、気に入ってるみたいだったよね。
「後で風呂に行こう」
「王国兵士の?」
「違う。王族用の浴室がいくつかあるんだ。露天風呂とか」
「あ、露天風呂はロザリーと一緒に入ったことがあるよ」
「じゃあ、別のところにするか」
「勝手に使って良いの?」
王族用なんだよね?
「この時間なら、大丈夫だろ」
大丈夫じゃなさそうだけど。
エルなら怒られない気がする。
※
食堂も薄暗い。
いつも、あんなに賑やかで明るいのに。
座席もほとんど片付けられてるし、料理を置いてるテーブルも小さめだ。
「紅茶で良いか?」
「うん」
「頼んで来るから、適当に選んでて」
「待って、私も行く」
置いていかないで。
慌てて、エルの腕を引く。
『そんなにお化けが怖いの?』
「だって……」
食堂は人も少ない。食事中の人は居るけど、メイドさんも居ない。
それに、今はリュヌリアンも持ってない。……お化けが剣で斬れるのかわからないけど。
エルの腕を掴みながら食堂の端の方へ行くと、エルがカウンターの中を覗いた。
「また夜勤か?」
知り合いが居たみたいだ。
「そりゃあ、こっちの台詞だ。大陸会議が始まるって言うのに、こんな時間にふらふらしてて良いのか?」
デュグレさん?
そっか。この中は厨房なんだ。
「良いんだよ。紅茶を二つ頼む」
「二つ?……承りました。少々お待ちください」
急に敬語になったデュグレさんが、私に向かって会釈をする。
どうして、敬語?
皇太子近衛騎士だから?
「おい。新しい店の話、レオナール様から聞いたぞ。ウエストの一等地だって話じゃないか。前は、イーストの端って言ってなかったか?」
「あれから色々変わったんだよ。店のことは、レオナールが世話をしてくれることになったんだ。開店資金は心配しなくて良いから、新しい店のメニューと仕入れは考えておけよ」
また、何か変わったらしい。
というか。エルに敬語を使わないなら、私も敬語じゃなくて良いはずだよね?
「本当に、お前に関わると予定がめちゃくちゃだ」
「リリーに甘いものでも作ってくれ。なんでも作れるだろ?」
「なら、丁度、試作品がある」
「変なものじゃないだろうな」
「ティルフィグンでは有名な菓子だ。ティラミスって言うんだが。……御存知ですか?」
ティラミス!
「知ってます」
「では、食後にお持ちしてもよろしいですか?」
「はい。お願いします」
レシピは知ってるけど、見たことも食べたこともないデザートだ。
楽しみ。
あっ。そうじゃなくって……。
「温かいスープもご用意しますか?」
「あぁ。頼むよ」
「かしこまりました」
「あの……。敬語じゃなくて大丈夫です」
「しかし、」
「私、その……。エルと結婚してるから……。エルと同じ感じで扱ってもらえた方が……」
だから……。
エルが私を抱き寄せる。
「ってわけだ。どうせ城を出るなら身分なんて気にしなくて良いだろ?わかったな」
「お前は、本当に……」
エルに手を引かれて、その場を離れる。
顔が熱い。まだ、ちょっと慣れない……。
「適当に選んで座ろう。この時間は残り物しかないけど」
「うん」
目の前には、残り物とは思えないぐらい、充分な量の料理が並んでる。
どれにしようかな?後で、スープとデザートを貰うから……。
薄く切られたローストビーフや、コンキリエのサラダを選んで、空いている席へ。
座ったところで、デュグレさんがスープを持って来てくれた。フェンネルのクリームスープらしい。
「いただきます」
「いただきます」
美味しそう。
控え目に選んだつもりだけど、充分、豪華な夕食だ。
そういえば。
「さっき、デュグレさんが言ってたことって?」
色々変わったって言ってたよね。
「フローラの店の隣を貰うって話になっただろ?レオナールの案で、そこを改築することになったんだ。屋敷の通り道を作って、残りはデュグレに貸す。料理屋ならメインストリートにあった方が良いからな」
「じゃあ、薬屋は続けるの?」
「薬屋が出来るかわからないけど。しばらくは残しておく。ルイスが研究所で働くようになったら、一時的にレオナールに預ける予定だ」
そっか。
誰も使わない間、レオナールさんに任せるってことにしたんだ。
「レオナールさん、あそこでお店をやりたいの?」
「エンドの開発拠点にでもするんじゃないか?あの辺も、一般市民が住める場所に整備していくはずだ」
「え?じゃあ、あそこで暮らしてる人たちはどうなっちゃうの?」
だって、エンドに住んでる人って……。
「もし、誰かの不利益になるようなことが起きるなら、俺とリリーの立場を使って介入できる」
「私も?」
「あぁ。皇太子近衛騎士だろ?」
身分を上手く使うってこと?
「でも、上手な解決方法を見つけられるかな」
「困ったら相談すれば良い。相手はたくさん居るだろ?」
相手……。
「そっか」
私には、頼りに出来る人がたくさん居るんだ。
アレクさんも、近衛騎士もライーザ達も、秘書官の二人も。
マリーも、アルベールさんもバニーも。
そして、エルも。
この先、困ったことがあっても一人じゃないんだ。
……この先?
「あの人と戦うことばっかり考えてたけど。終わった後にもやることがたくさんありそう」
「当たり前だろ。リリーは、近衛騎士になったばかりなんだから」
なんだか変な感じだ。
勇者になったことで頭がいっぱいだったけど。やることが終わったら、すぐに日常に戻るんだ。
やらなきゃいけないことも勉強しなくちゃいけないことも、たくさんある。
……そう考えると、エルが休みって言ったのも納得?
「城ではもう迷わなくなったか?」
「えっ?……主君の部屋には行けるよ?食堂と、皇太子総務事務室と、後、北大門の方も行けると思う」
もう、何度も往復してるから、大丈夫。
「すごいな」
「うん」
お城も、慣れてきたよね。
『そんなにすごい?まだ迷う場所があるっていう方が驚きじゃない?』
『十分、迷わなくなっているだろう』
『今、アレクが使っている部屋は、少し複雑な場所だからな』
『外から行くと早いんだけどねー』
『……何それ。エルの影響?皆、リリーに甘過ぎだよ』
『一番、リリーに甘いのはイリスでしょう?』
『え?なんで?』
『そうねぇ』
『うん』
イリスは、優しい。
食事が終わったところで、デュグレさんが紅茶とデザートを持って来てくれた。
「俺は頼んでないのに」
「出資者なら、試作品の味見ぐらいしてくれ」
「どっちがティラミスだ?」
「どっちもだよ」
一つは、プリンカップに入ったティラミス。
もう一つは、平皿に乗ったティラミス。二種類あるけど、私がイメージしてたのは、こっちの方だ。
「もしかして、昼用と夜用ですか?」
「その通りです」
「なんで、わかったんだ?」
「えっと……。食べてみよう?」
先にプリンカップの方を食べよう。どんな味かな。
「美味しい」
ふわっとした食感で、すごく美味しい。
エルが私の持っていたスプーンを取って、プリンカップのティラミスを食べる。
「コーヒーと……?なんだこれ?」
ちょっと変わったクリームだよね。
「マスカルポーネだよ。ティラミスは、濃いコーヒーをしみ込ませたビスキュイと、マスカルポーネで作ったクリームを使ったお菓子なんだ」
「面白い菓子だな」
本来なら、クリームには生卵も使われるんだけど。
プリンカップのクリームには使われてないよね。
……こっちが本番。本物のティラミスだ。
どんな味かな。
エルからスプーンを貰って、平皿に乗ったティラミスを食べる。
これ……!
「すごく香りが良い。舌触りも滑らかで……。エルも食べてみて」
こっちの方が大人の味だし、きっと好きなはず……。
スプーンですくったティラミスをエルの方に向けると、エルが口を開く。
食べてくれた。
「生卵?」
「正解。良くわかったな」
すごい。
レシピを知らないのに、わかったんだ。
「生食出来る卵なんて手に入るのか?」
「もちろん。他のソースにも使うからな。取引先は見つけてある」
ティラミスは、材料を集めるのが難しくて作るのを断念した覚えがある。
プレザーブ城では卵の生食は推奨されなかったし、コーヒーを飲む文化もなかったから。
「っていうか、もう少し感想をくれ」
「こっちの方が美味かった。昼も出せば良いのに」
……それじゃ、駄目だと思う。
「あの、どっちも美味しかったです。プリンカップの方は、食後のデザートにぴったりな味で、子供も好きだと思います」
「そう言っていただき、安心しました。ありがとうございます」
もう少し食べても良いかな。
……うん。美味しい。
すごく贅沢なデザートだよね。
「お前の感想は当てにならないな」
「だったら、試食はリリーに頼めば良い」
「では、新しい料理が出来たら、お願いします」
「えっ?役に立てるかわからないですけど……。よろしくお願いします」
食堂のデザートって、豊富で美味しいものばかりだし。デュグレさんは、お菓子のレパートリーも多そうだよね。
※
紅茶とデザートをのんびり食べた後は、エルと一緒にお風呂に行く。
ここも、露天風呂みたいに外が見えるようになってる場所だ。一方の壁だけなくて、お風呂に入りながら紅葉が見えるようになってる。
暗いけど、小さな明かりに照らされた紅葉は綺麗だ。
『ボク、向こうに行ってるよ』
『私も。ここは、ちょっと熱いわ』
『じゃあ、私も行くわぁ』
「いってらっしゃい」
イリスとナターシャに続いて、皆が飛んで行った。
エルの精霊は、皆、仲良しだよね。
足元の方にある湯口を見る。お風呂のお湯は満杯なのに、お湯は全然止まる様子がない。
なんだか勿体ない気がするけど……。
「お湯って、ずっと流れっぱなしなの?」
「深夜だし、そろそろ止まるんじゃないか?」
「勝手に止まるの?」
「ボイラーが止まれば止まるよ。お湯は、貯水槽にある水を利用してて……」
「貯水槽って、給水塔?」
「それとは別。王都は平地で水害に弱いから、大雨でシレーヌ川が氾濫しないよう、雨水や河川の管理を徹底してるんだ。城や貴族の邸宅、王都のあちこちには、雨水を貯めておく貯水槽が設置されていて、お湯を作るのに利用されてる。この浴室に流れてるのは、余った一の湯だ」
「一の湯って?」
「沸かしたての湯。一の湯は、各施設のお湯用蛇口に流れる仕組みだ。でも、ボイラーは動きっぱなしだから、湯温の調節の為に、使われなかった一の湯は風呂に流れるようになってる」
でも、浴槽に溜まったところで、溢れた分は……。
「風呂から溢れた湯は、二の湯として洗濯や掃除に使われるようになってるんだ。ほら。再利用する風呂用の排水口はこれ。洗い場の排水口とは別になってるだろ?」
「本当だ」
一の湯と、再利用する二の湯があるんだ。
ここから流れ出るだけなら、二の湯も十分、使える水だよね。
あれ?でも、貯水槽が空になったら、お湯は使えないってこと?
「雨がない時期は、お湯を作れないの?」
「あぁ。水不足の時は、貯水を優先する為に湯を止める。大雨の時も廃水制限で止めるけど。最近は、滅多に聞かないな」
貯水槽で上手くバランスを取ってるらしい。
目に見えないところで、こんな工夫があるんだ。
「じゃあ、お湯が出てる間は、王都に水害の心配は要らないってこと?」
「そうだな」
お湯がたくさん使えるのは、平和の証ってことだよね。
あれ?でも、王都で貯水槽なんて見たことないような?
「家で使ってるシャワーは?」
「あれは、イーストにある貯水の一の湯を使ってる」
「一の湯?王都にも二の湯があるの?」
「公衆浴場の排水だ」
「えっ?イーストに大きなお風呂があるの?」
公衆浴場って、皆で使う大きなお風呂のことだよね?
「家の近所にはないけど。貯水槽の近くには、だいたい市民向けの浴場があるんだ」
知らなかった。
イーストの公共施設はだいたい知ってるつもりだったけど、まだ知らないことがあるなんて。
王都って広い。
流れ出る水の音が止んだ。
お湯が止まったらしい。
「静かだね」
静か過ぎて……。
「夢みたい」
「夢?」
「こんなことしてる場合じゃないのに。こんなにゆっくりしてるから」
すごく安らげる時間のはずなのに。
……なんだか、不安。
「言っただろ?行く日は十六日だって。それまでは、休みだ」
「でも、あの人の方から来るかもしれない」
「王都に来たところで、ヴィエルジュが追い返すだろ」
「他の所に来るかも。港とか……。人の多いところ」
「どこに来ても一緒だ。守りに関してはヴィエルジュに頼めるから、心配しなくて良い」
「……そっか」
ヴィエルジュが味方してくれるから、たくさんの人を守ることが出来る。
それに、大精霊も協力してくれる。
戦うのは、私たちだけじゃない。
……大丈夫。
―あいつと戦うのは、十六日。
まだ、日にちはたくさんある。
―それまでに、やっておきたいことを考えておいて。
やっておきたいこと……。
やっておくべきこと?
「行く前に、ルイスとキャロルと一緒に過ごしたいな」
「じゃあ、家族で過ごす日を作ろう」
「うん」
私たちが帰る場所。
必ず、帰って来るって約束しよう。
きっと二人は、いつもみたいに快く送り出してくれるはずだから。
いってきます、って言おう。
大丈夫。
少し落ち着いたかも。
「ティラミスは、私を引っ張り上げてっていう意味で……」
「なんで、引っ張り上げるって意味なんだ?」
「元気にしてって意味」
熱い。
少しくらくらする。
向こうには壁が無いから、涼しい風が吹いてるはずなのに。
外の方に目を向けると……。
何か居る。
「そろそろ出よう」
あれは、何?
白い……、影っ?
「あっ、あっち……」
外!
外の方!
「お化け……」
「お化け?」
青くて、白い影。
「あそこに誰か居るか?」
無理。
見ることなんてできない。
「リリー。精霊じゃないか?」
「え?」
精霊?
影は、そんなに小さくなかったはず……。
ゆっくり、視線を外に向ける。
湯気の向こうには、青い光。
光?
あれ?この光って?
「あなたは……。え?精霊なの?」
『驚かせるつもりはなかったのだが』
喋った。
お化けじゃない?
それに、良く見ると人の姿をしてる?
「姿を現してくれ。リリーに見えても、俺には見えないんだ」
白いのは、着てるドレスだ。
風になびいてふわふわしてる。
「水の大精霊か」
そっか。この青い光って、水の精霊の光だよね。
あ。
この精霊、儀式にも来てた?
『私の名は、パール。手伝いが必要な時は呼ぶと良い』
それだけ言うと、パールの体がスライムのように半透明になって、水のように床に落ちた。
水と同化した?
「お化けじゃなかったな」
「ごめんなさい」
怖がらずに、ちゃんと見てたら……。
「もう怖くないか?」
「うん」
あぁ、怖かった……。
まだ、心臓がどきどきしてる。
あぁ。もう、だめ……。
※
結局、歩けなくて。
エルに、部屋まで抱えて連れてきてもらった。
「イリス、ナターシャ。リリーの傍に居て」
『了解』
『わかったわ』
ナターシャが、のぼせた私の顔に触れる。
『大丈夫?リリー。顕現した方が良い?』
「大丈夫……」
『平気だよ。このままでも、涼しい空気を感じてるはずだからね』
『そうなの?』
『そうだよ』
イリスとナターシャが暑い場所で暑いと感じるように、冷気の精霊が居る場所は他の所よりもひんやりしている。
『ねぇ。リリー。リリーは、勇者になりたくなかったの?』
なりたくなかったというか……。
そんな器じゃないっていうか……。
『勇者なんて、嫌ならやめれば良いだけだろ』
『えっ?あんな盛大な契約をしたのに?』
『出来ないことは、出来なくて良いじゃないか。ボクは、二人に命なんてかけて欲しくないよ』
『イリス……』
私たちのことを心配してるのは、私たちだけじゃない。そして、私たちも。
「大丈夫だよ、イリス。エルも私も、必ず一緒に生きて帰るって約束したから」
それを一番に考えるって。
「だから、私、頑張るよ。……頑張りたい」
勇者っぽいことは出来ないかもしれないけど。それでも。
イリスが、呆れたように肩をすくめる。
『それ、そんなぐったりして言う台詞?』
そうだけど。
『大人しく寝てなよ』
『そうよ。私たちが付いてるわ』
「ありがとう」
エルの精霊は、皆、優しい。
「誰一人欠けることなく、生きて帰ろうね」
目の前に居るイリスを見つめる。
『当たり前だろ』
良かった。
これで、安心して前に進める。




