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東亜の途 -2010-  作者: 伊東椋
第二章 不逞鮮人
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第九話 憲兵対女学生

 斎間京の朝は道場の稽古から始まる。

 まだ薄暗い早朝の時間帯、斎間京は8時間の睡眠を経て自室にて起床する。寝間着から道着に着替え道場に向かう事を朝食より優先し、京は祖父の代から続く斎間道場に足を踏み入れる。道場に入る際は正面の国旗と掲げられた天皇皇后両陛下の御真影に深く一礼する。挨拶から稽古は始まっている。一礼を済ませた京は防具を身に着けると、竹刀を手にしてそれを何度も振り始めた。

 京はこの行為を何年も毎日欠かさず続けている。亡き父の教えを受け継ぎ、京は一人になっても稽古を止めようとしなかった。

 只、最近そんな京の習慣に変化が生じた。一人、竹刀を振る京を見学する人物が現れた。

 男は道場の壁際から京の稽古を眺めていた。道着姿の京に対し、彼は軍服だった。兵科を示す唯一の装備品の左腕の腕章が『憲兵』の二文字を記している。

 京は憲兵の視線を感じつつも、稽古を続けた。


 任務の度に変化が生じる近江一宇の日常は常に定まったものではないが、最近はその日常が固定しつつある。

 先ず、毎日決まった時間に起床するようになった。捜査の為に徹夜をすることも珍しくないのだが、現在近江が就いている任務は実に規則が確立されており、起床はその規則に従ったものになっている。

 少女の起床に合わせ、近江は毎夜寝泊まりの場にしている車内から起き出て道場に向かう。当然朝食より優先して、近江は朝から少女の稽古に夢中になって眺める。

 京城連続テロ事件(歴史博物館での総督府政治総監襲撃事件及び府内爆弾テロに対する名称)以降、事件の主犯格である朝鮮光復軍の捜査に乗り出した近江は、斎間京の護衛及び監視の任務に就いたのは必然の流れだった。テロ組織への捜査が、一人の少女に関係する所以とは何か。それは彼女の過去に関わる部類だ。

 近江は一心不乱に竹刀を振る京の姿を眺めながら、彼女と出会った日を思い返す―――



 「旭……」

 近江が見せた防犯カメラの映像写真を前にした京が、震える声で呟いた。

 斎間さいまあさひ。斎間京の実妹であり、戸籍上は死亡扱いとなっている人物だった。

 しかし斎間家の墓に、骨が納められているわけではない。

 確かに戸籍上でしか、死者として認識されていないのである。

 斎間旭、そして姉の斎間京の父親に当たる斎間さいまとおるの両名は共に同じ日、同じ場所で死亡している。それはある事件が因縁だった。

 『エンペラー号爆破事件』。2003年、乗客324名を乗せた豪華クルーズ船『エンペラー号』が横浜港にて船上パーティを開催中、船体の一部から突然の爆発を起こし炎上した。爆弾は船内の各所に秘密裏に仕掛けられたもので、大勢の参加者達が集った船内の大ホールのパーティ会場が甚大な被害を受けた。

 パーティは当時の外務省の事務次官が主催したもので、大勢の政治家や組織、企業等の関係者が居た。

 事件の犯行を行ったのは朝鮮光復軍内で『光復勇士』と呼ばれたメンバーで、犯行目的は朝鮮方面の事務を担当していた主催者とそれを支持する支援者達を狙ったものだった。当時最大の支援企業であった斎間グループの社長として斎間帝もパーティに参加しており、斎間京・旭を含む家族と共に事件に巻き込まれた。

 生き残ったのは斎間京一人だけであり、一時斎間京と離れ離れになっていた斎間帝と斎間旭は行方不明となった。

 事件後、斎間帝の遺体が発見されるが斎間旭の遺体は発見されず、行方不明扱いとされた。法律上の期限を経て、斎間旭は死亡扱いとなった。

 今回の京城連続テロ事件の襲撃現場となった併合歴史記念博物館で撮影された犯人と思しき写真に、その光復勇士の一人であり事件の主犯格と疑われた男と、エンペラー号事件での被害者の斎間旭らしき少女が写っていた事実。これが何を意味するのか、それを確かめるためにも、近江は京の身辺を監視することが重要と判断した。

 その前に、近江は斎間京の存在を既にマークしていた。連続テロ事件の捜査を巡って接触した、特高の亜厂あかり警部から得た情報から、近江は一つの真実を知ったのだ。

 警察がやるべきと言った近江に対し、軍が彼女を守れと返した朱。

 それが意味するもの。

 朝鮮光復軍と斎間姉妹。この二つを結びつけようとする因果を掴むため、近江は決意を新たにした。

 「(俺は、もう二度とあんな思いは御免だ……)」

 近江は憲兵人生の中で最も苦い記憶を思い起こした。

 1999年の中ソ国境衝突の要因となった中華民國兵ソ連領脱走事件。

 紛争の停戦と共に中止とされた捜査。近江は未だに諦め切れていない部分を自覚していた。

 今でも夢に見るのだから、間違いない。

 捜査は最後まで行い、闇の底に沈んだ真実を掬い取る。近江はあの事件以来、その心情を定かに生きていた。

 たとえこの身がどうなろうと―――

 「……近江さん。近江さん!」

 「………む?」

 呼ばれる声に気が付くと、近江の目の前に竹刀を手に持った斎間京が立っていた。道場の中心で稽古をしていた京は、近江の目の前から顔を見上げている。後ろに髪を纏め上げ露になった額が汗で光り、尚も疲れが見えない真っ直ぐな瞳は、剣道少女らしい凛とした美しさを醸し出している。

 「……何だ」

 「先程から何度もお呼びしたのですが、一向に反応が無かったので失礼ながら大声で呼んでしまいました」

 「……そうか。それは悪かった」

 無表情でつらつらと事実のままを言った京の顔はどこか恐い。近江は詫びつつ、用を聞く。

 「それで、俺に何か用か」

 近江の問いに、京の眉がぴくりと動いた。初めての表情の色だった。

 「本当だったらこちらが聞きたいぐらいですが。近江さんは何故、毎朝私の稽古を見に来るのかと。それは大した問題ではありません。それより、監視をするのにここまでする必要が本当にあるのですか」

 京が聞いたのは―――近江の任務と、それに準じた京に対する近江の課した命令であった。


 現在、斎間京は事実上の監禁状態に置かれている―――


 斎間家に訪れた近江達憲兵隊は斎間京が朝鮮光復軍に狙われていると言う信頼性が高い推測を元に、斎間京の自宅監禁を勧めた。というよりは、命令に近かった。当初、京は良い顔をしなかったが近江が示した朝鮮総督の命令書を前に「総督の命令は陛下の御命令と同様」と言われては首を横に振ることなど出来るわけがなかった。

 「念のために言っておきますが、私は納得していません。いくら陛下の御命令に等しいとは言え、軍が一般市民の生活を阻害する権利があるなんて、本気で信じているのならお笑い草です」

 「君は結構、強かなのだな」

 憲兵を目の前にしても堂々とした少女の姿に近江は関心を禁じえなかった。

 自宅に監禁された京は、おかげで学校に行くことも叶っていない。

 朝に稽古をし、シャワーを浴びて朝食を済ませた後に登校するという京の日常は確かに大きな変化を生じさせていた。

 学校に行けず、近江の許可が無い以上外出出来ず―――出来たとしても、憲兵の同行は必須。年頃の現役女学生である京が不満を持つのは当然だった。

 「私を逮捕しますか?」

 「そんなことをする権利こそ今の俺には無い。俺は君を監視するが、同時に護衛する対象なのだからな」

 「護衛……ですか」

 京の凛とした瞳が、近江の瞳を射抜いた。

 「貴方に私が守れるのですか?」

 京の質問は、近江には厳しくぶつかってくる言葉だった。

 簡単に頷けるものではない。

 相手は国家に仇名すテロ組織。当然、これを駆逐するのが自分達の目的だ。京城を騒がせたテロリスト達がこの家に襲撃を仕掛けてきたら―――反撃し、かつ彼女を守り切ることが出来るのか。

 それを自分自身が確かめるためにも、近江は京の竹刀に視線を向けた。

 


 防具を観に着けた近江と京の二人が、竹刀を手に向かい合っていた。

 何故か試合をすることになってしまい、近江は久方ぶりに防具の匂いを嗅ぐことになった。

 「近江さんは剣道のご経験は?」

 「憲兵学校での習得以来だ」

 「……そうですか」

 朝の道場で、一人の男と一人の少女が対峙する。近江の部下たちがこの対決を知れば挙って観戦に殺到するだろうが観客は一人もいなかった。

 只、二人の対決する者同士しかいない。

 「………では、宜しくお願いします」

 向かい合うと立ったまま、二人はお互いに一礼する。

 礼を終えると帯刀し―――お互いが三歩歩くと、竹刀を抜いて構える。

 「では……始めよう」

 近江の一言で、試合は開始された。

 「………………」

 「………………」

 先ずは、無言のぶつかり合いであった。竹刀を構え、両者はぴくりとも動かなかった。

 初期段階における間合いでは打てる距離には至らない。

 文句無しの一本勝負。つまり、一回決まった時点で終わる。

 「遠慮は無用です」

 試合前に告げた京の言葉通り、近江は本気で目の前の少女に竹刀を向けていた。剣道の試合で女学生と対峙するなど初めての経験だが、本気の勝負となると尚更だ。しかし相手は学生とは言え全国級の選手。故に相手に不足無しとも言えた。

 憲兵学校で積み重ねた技量を遺憾なく発揮することが近江の勝つ方法だった。憲兵学校で剣道を習得するのはあくまで保身と己の敵を倒すためだったが、まさか女学生を相手にする事になるとは夢にも思わなかった。一人の大人として、そして剣道を愛した人間として―――近江は竹刀を握る。

 しかし対して京の方は現役だ。こうして毎朝稽古も欠かさず、全国大会で優秀な成績を収めると言う実績を残している。お互いの技量の差にどれ程の差があるのかなどわからない。

 感服の溜息が漏れてしまいそうになる程に研ぎ澄まされた京の姿を目の前にして、近江は冷静に状況判断に尽くした上で攻撃に踏み切る算段を伺った。その合間は、近江にそのような思考を巡らせる程に平和な静寂と言う名の錯覚を植え付けていた。

 遂に攻撃に踏み切ろうかと京に視線を定め、間合いを詰めようとした時だ。既に間合いを詰めるまでもなく、気が付いた頃には目の前に自分の喉元を狙う剣先があった。

 「―――ッ!?」

 正面から突っ込んできた相手に対し、咄嗟に迎え撃った近江だったが、胸に急激な圧迫を受け身体全体が吹き飛んだような錯覚を覚えたまま、彼は見事なまでに京の『突き』の一本を決められてしまったのだった。



 昼時。近江は斎間家正面に目が届く道路の脇に停めた小型軍用車両の車内で、部下がコンビニで買ってきた昼食の惣菜パンを頬張っていた。

 しかしパンを一個食べただけで、それ以上袋にあるものに手を伸ばす気配は無かった。隣の運転席に座った村上少尉が不審に思い言葉を投げかけるも、近江は首を横に振った。

 「これだけで良い。後はお前が食ってくれ」

 「大尉?」

 ぽかんとなる村上を置いて、近江は車両から鋭い日光が射す外へ出た。ふらりと斎間家に向かった近江の背中を見届けた村上は、袋に残った昼食に視線を向けて信じられないと言う風に呟いた。

 「近江大尉に一体、何があったのだろう……」

 特に作戦行動中に限っては、腹は減っては戦は出来ぬと言う言葉を体現したようによく食べる近江がパン一個で済ませる等、今まで無かった事だっただけに村上は驚愕を禁じ得なかったのだ。

 まさか女学生と剣道で負けた事が小食の起因であるなんて想像できる筈がないのだから。


 

 「近江さん、少し宜しいでしょうか」

 斎間家に戻った近江を迎えたのは、意外にも京だった。京はまるで待っていたかのように玄関先で近江に話しかけてきたのだ。

 京に呼ばれ、近江がやって来たのは朝方ぶりの道場だった。国旗と天皇皇后両陛下の御真影が見守る場内の中央で、二人は向き合って腰を下ろした。

 「朝の一件に関連し、近江さんにお話しがあってお呼びしました」

 朝の苦い記憶が呼び起こされる。近江は目の前の少女に対し、正に手も足も出なかった。それ程までの技量差を見せ付けられたのだ。憲兵が女学生に負けるなど笑い話にもならない。

 「あれから私も考えたのですが、やはり不公平だと思うのです」

 「不公平?」

 近江は京が何を言っているのか、意味がよくわからなかった。

 「はい。勝負の前に、近江さんは剣道の経験に関する私の質問に対しこうお答えしました。憲兵学校での習得以来だと。近江さんの歳から考えて、それは何時頃のお話になるのでしょうか」

 「憲兵学校に在学していた頃は15年程前になる」

 「それ以降、特に剣道に対してはまともな稽古はしていなかったと思いますがどうでしょう」

 「確かに、今でも剣道に身を入れている程ではない。ただ経験がある程度だ」

 「そうでしょう。だと思いました。それではやはり不公平ではないかと、私は感じたのです」

 言葉を続ける京に、近江は耳を傾けた。

 「不公平とは、片寄りがあるという事と同義です。その片寄りを是正する事を私は望みます。ブランクの差もありますが、私と近江さんでは余りに力の差があり過ぎます。そんな人に護衛をさせられるのも、元々望んではいませんでしたが正直頼りないと言わざるを得ません」

 「………………」

 「―――そこで、私は考えました。近江さんを斎間道場の門下生として迎え入れてはどうかと」

 「……何?」

 近江は想像を絶した京の口から出た言葉に、唖然とした表情を不意に浮かべてしまった。

 「憲兵としては剣道の腕を鍛えるのに損は無いでしょう。それに、門下生なら我が家の敷地内に入る事も以前よりは私も許す事が出来ます」

 京の提案に近江は驚嘆したが、同時に京の真意に対して詮索と言う欲求が生まれた。実はこの少女は―――と考えた所で、まるで近江の思考を遮るように京の言葉が少し焦ったような口調で投げかけられる。

 「か、勘違いしないでください! あくまで私は対等でない勝負に価値は見出せないと思っただけですし、それに近江さんにとっても少しは利があるかなと思っただけで……ああ、今の無し! だから、ええっと、兎に角勘違いはしないでくださいね?」

 「わかった。とりあえず、深呼吸を推奨する」

 「……………」

 顔を真っ赤にした京は、無言で立ち上がるとそのまま正座した近江を一人残し、道場を後にした。

 「優しい少女である」

 見守る御真影に伝えるかのように、あえて口に出してみた近江だった。


 

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