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東亜の途 -2010-  作者: 伊東椋
第一章 日韓併合100年
6/29

第六話 斎間家と朝鮮光復軍

 週明けの月曜日の朝が、一番憂鬱だと思うのは葉山利彦だけではないだろう。

 しかし今回の月曜日は今までに増して憂鬱だ。

 あの悪夢が起こった週末の日。平穏の内に締めくくろうとした祝典の末、目の前で起こったショッキングな光景は、現場に居合わせた学生たちの記憶に生々しい程に刻み込まれた。

 怒声、悲鳴、銃声。パニックになる周囲。何もかもが異常だった瞬間。つい先程まで、壇上で眠くなりそうな話を長々と口にしていた総監が血を流して倒れ、学生だった自分たちの周りにいた大人たちが悲鳴を上げ混乱する様は余りにも非日常過ぎていた。

 警備をしていたはずの警察官が他の警察官や憲兵に取り押さえられている光景は意味がわからなかった。あの後、会場は暫く騒然となり、静まる頃には学生たちも教師の指示に従うままにその場から連れられ、気が付いたら解散していた。

 憂鬱な気分で学校に行けば、案の定校内は普通ではない空気だった。教室までの道中、視線と噂話が絶えることはなかった。逃げるように足早に、何時も歩く廊下とは思えない廊下を行き、やっとの思いで教室に辿り着く。クラスの全員が、このような思いをして登校したのかと考えると、教室の中はきっとここに向かうまでに味わったものより不穏で窮屈な空気が充満しているに違いない。

 そう思うと今直ぐにでも回れ右をして家に帰りたくなった。

 隣に立つ彼女も同じ気持ちなのだろうか。

 あるいはまた別の種か。

 何を考えているのかわからない斎間京の表情は相変わらずで、校門前で出くわしてから一緒に教室に向かう間も終始無言だった京の足取りは葉山よりも毅然としたものだった。

 教室の扉に手を掛けたのは葉山だった。せめて最後は自分が毅然として行こう。葉山は扉を開き、毅然とした足取りで教室に足を踏み入れるが、直ぐに後悔することになった。

 

 目の前に飛び込んできた字の羅列。濃緑の黒板に書き殴られた字と中心に貼られた新聞の一面という光景は、悪意に満ちていた。


 「何だよ、これ……」

 その光景を見た途端、葉山の足は黒板の前で止まり、その顔は間抜けにも呆然としてしまった。

 クラスメイトたちが書いたであろう乱暴な文字の数々。赤や黄色などの様々なチョークを駆使して書かれたものはどれも攻撃的だった。

 『疫病神』

 『死神』

 『出て行け』

 『俺たちを巻き込むな』

 どれも自分勝手な言い分ばかりだった。それらは、葉山の隣でまたしても表情を変えず、黒板を見上げている京に対する生徒達の言葉であった。

 葉山が卑劣なクラスメイトたちに対して口を開きかけた瞬間だった。葉山の耳にクラスメイトたちの潜めた声が聞こえた。

 「……あいつの家の会社も狙われた」

 「……死人も出てる」

 「……また爆弾、仕掛けられるんじゃないの?」

 「……あいつのそばにいたら、危険だ」

 「……この学校も狙われるのかな」

 乱暴に書き殴られた字に囲まれた中心。そこに貼られた新聞の一面には、京城で発生した連続テロに関する報道が記載されていた。

 その一面にはテロの現場となった各所の建物などの現地の写真も載っていた。その貼られた写真から導かれる真実。その真実が伝える、連続テロの標的となった場所は、クラスが参加した併合百周年記念行事が催された総監銃撃の現場となった併合歴史記念館、朝鮮総督府庁舎、そして―――


 ―――斎間グループの傘下にある大企業本社ビルだった。





 斎間京は京城に拠点を置く世界的に有名な大企業斎間グループ社長の娘である。

 斎間グループは日本が統治を始めた朝鮮に逸早く渡り、朝鮮の近代化と発展に一役買った企業としても知られる。やがて京城の土地を所有し、斎間グループは朝鮮の発展を通じて世界的大企業にまで成長し現在に至る。

 その大企業を持つ家の娘である斎間京だが、今回の連続テロ事件では斎間グループも無視できない影響を受けている。

 朝鮮総督府庁舎と同時に標的として狙われた企業ビルが、斎間グループの傘下にある大企業の本社ビルだったのだ。

 テロは総督府庁舎と同様に自動車に仕掛けられた爆弾が爆発したもので、出勤していた社員や通りがかりの一般府民が巻き込まれ死傷者が出た。

 国家と並んでテロ組織の標的にされた斎間家―――その娘である京に悪意のある噂や憶測が流れるのは、葉山にとっては不快でしかなかった。

 微かに聞こえた溜息のようなものに気付き、視線を向けた先には、黒板の字を黙々と黒板消しで消し去る京の姿があった。その横顔は相変わらず普段と変わらないものだったが、葉山には普段と全く同じとは思えなかった。

 「………ッ」

 クラスメイトたちへの文句は後回しにして、葉山も黒板消しを手に取る。目の前に広がる不愉快なものを力任せに消し去り、背中に突き刺さる視線は完全に無視した。

 どうにかホームルームが始まるまでに黒板を綺麗に消し終えたが、葉山は京が気に懸かって仕方がなかった。

 葉山は京に何か言葉を掛けようとしたが、予鈴のチャイムが葉山の口を遮り、その隙に京はさっさと自分の席に戻ってしまった。

 「ホームルームを始めるぞ。席に着け」

 担任教師の登場により、その場は完全に流れる決着が決まってしまった。歯がゆい気分を味わいながらも、葉山もまた、京に一言も言えずに自分の席に戻った。


 

 朝のホームルームは当然のように週末のテロ事件のことが担任教師から話された。クラス全体が事件の現場に居た当事者である事情から、警察の捜査が入り、学校側も警察に協力する意志についても生徒たちに伝えられた。

 教室内は不穏な空気に満ちていた。教室中を見渡しても、その異変は手に取るようにわかる。あの事件のショックで欠席した生徒もいた。落ち込む者、思い出して泣く者、苛立つ者。様々な者がいたが、葉山は一人だけ別だった。

 いや、周囲の生徒とは別の者がもう一人いた。葉山はその一人に視線を向ける。斎間京だった。

 そして気付く。周囲の生徒たちの視線も、京の方に向けられていることを。

 それも良くはないもので。彼女を視る者の殆どが、ひそひそと噂話を立てながら。

 普段以上に、悪い意味で。周囲は彼女を視ていた。



 一日の授業は変更となり、学級集会が開かれ校内全体に事件と警察の捜査に関する説明が伝えられた。

 学校は半日で終わり、全生徒たちが自宅に帰された。

 しかし生徒たちが下校する中、葉山が一人向かった先は職員室だった。

 「先生、斎間さんのことなんですけど……」

 葉山は職員室にいた担当教師に開口一番、京のことを問い質した。葉山の問いに対し、担当教師の答えは「警察署に詳しい話を聞くだけで、夕方には家に帰される」というものあった。

 「……そうですか。ありがとうございます」

 葉山を含めた他の生徒たちもそうだが、特に京は総監襲撃の現場にいた当事者であり、同時にテロの標的となった斎間グループの一族でもある。つまり被害者でもあるのだ。当事者と被害者の二面性を併せ持つ京に警察が関わろうとしてくるのは当然の摂理だろう。

 「心配なのか? 彼女のことが」

 「李先生……」

 訊ねたのは封筒を脇に挟み通りかかった日本史教諭の李忠邦だった。葉山は李の眼鏡の奥にある瞳を見据えると、「はい」とはっきりと答えた。

 「そうか」

 李はただそう言って頷くだけだった。葉山は、李と担当教師の微妙な表情を見て気付く。校内に広まっている京の噂を、教師たちが知らないわけがない。

 「彼女は被害者なのに、周囲から変な噂を流され言われています。何とか出来ないのでしょうか」

 先生たちもご存じでしょうと言わんばかりの強気を張った声色で、葉山は目の前の二人の教師に問いかける。担当教師は困ったような表情を浮かべ、李は真剣な表情で応える。

 「僕たち教師側も校内に流れている噂は知っている。集会でも校長が申されたが、根拠のない憶測や風評に影響されないよう全生徒に伝えられたはずだ」

 「それだけでは駄目だってこと、先生たちもわかっているはずです。クラスでは、彼女に対する風当たりが……」

 以前から彼女はクラスで浮いていた存在だったが、先日の事件を境にますます悪化したとも言える。

 今回の事件はいじめなどといった次元の話ではない。国家に反するテロが、京の家がそんなテロ行為の被害を受けたという、もっと大きくて厄介な案件だ。

 「……先生、教えてください」

 葉山は目の前にいる李に訊ねる。李の視線と、葉山の視線が交叉した。

 「斎間さんの家……斎間グループって、なんでテロ組織に狙われるんですか」



 

 職員室と隣接する指導室に、葉山と李の二人がいた。

 夕陽が窓から射しこみ、室内がオレンジ色に染まる中、真剣な表情を浮かべた李と葉山が向かい合って、話が始まった。

 「君と同じクラスにいる斎間京のご実家は、日本が朝鮮を併合した当初から内地から渡ってきた家の一つだった。斎間グループは今や世界的に有名な大企業の一つだが、当時の斎間家は黄海道と鎭南浦で鉄鉱事業を行い発展した。更に斎間家は朝鮮の鉱業会や山林会、水産協会などの創立にも貢献している。現在の斎間家の朝鮮に対する影響力はそこから起因しているんだ」

 つまり斎間家は、朝鮮の近代化に貢献し、発展する朝鮮の歴史と共に歩んできた家と企業なのだ。今尚朝鮮に影響力を持つ斎間家、斎間グループは余りにも大きくなり過ぎた。それは朝鮮の独立を目指すテロ組織に狙われる程に。

 「現在の斎間グループ会長は政治にまで影響力を有するとまで言われている。彼らに狙われるには充分すぎるだろう」

 「本当に凄そう……いや、凄いんですね。斎間グループって……」

 「斎間家という家自体が、それなりに名を馳せた名家だったからな。未開の地であった朝鮮を開発したことで拍車が更に掛かったということだろう」

 「ていうか、お詳しいですね。李先生……」

 「日本史を習う上で、朝鮮の歴史に斎間の名は欠かせないからな」

 それにここまでは別に誰でも知っているようなことだぞ、と李は当たり前のような表情で言うが、葉山には理解が難しかった。

 「斎間家や斎間グループに関してはより深い複雑な事情が眠っているのだが、この話をするのはまたの機会で構わないだろう。ここからが本題だ。君が知りたい答えを教える」

 李の言葉を聞いた葉山は、意識を集中させて、李を見詰める。

 いつの間にか、室内を染めていたオレンジ色は陰りの色を増し、ゆったりと夜に向かいつつあった。

 「朝鮮の発展に貢献した斎間グループは、朝鮮光復軍かれらにとっては自分たちの土地を奪った盗人でしかないのだ」

 「は……?」

 葉山は言われた意味が理解できず、呆然としてしまった。李は続ける。

 「先ず、先日の連続テロ事件を実行した朝鮮光復軍と名乗るテロ組織。彼らの目的はなんだ?」

 葉山はよくテレビやラジオで聴いたことを思い出す。

 「朝鮮の、日本からの独立……」

 「その通りだ」

 李はいきなり立ち上がると、端にあったホワイトボードを引っ張った。

 まるで普段の授業風景のような立ち振る舞いで、李がホワイトボードに数字や言葉を書き殴りながら口を開く。

 「朝鮮光復軍の『光復』とは、奪われた主権を回復させるという意味を持っている。大陸に亡命した独立派たちが集まって出来た抗日組織の下に朝鮮光復軍は生まれた。日本が国民党軍と共に共産党軍との戦いに明け暮れていた大陸で、彼らは密かに活動を始めた」

 欧州では二回目の大戦が開かれ、日本が加わった国共内戦が大陸各地で展開する最中、彼らはひっそりと生まれた。以後彼らはゲリラやテロ行為を繰り返し、日本の統治に対する抵抗を続けてきた。

 「彼らはこの創立から現在に至るまで、日本との間で長い抗争を続けている。70~80年代の大規模なテロ事件以降、首脳部が逮捕され前世紀末に一時組織は消滅したように見えたが、近年になって活動を再開。先日の連続テロが、彼らにとっては約三十年ぶりの大反攻作戦だっただろう」

 李の言い方に妙な違和感を覚えながら、葉山は真面目に李の授業に耳を傾ける。李先生も朝鮮系だからかな、と淡い程度に考えてみる。

 「しかし併合から100年が経った現在、君もわかる通り、朝鮮は併合前と比べて目覚しい発展を遂げている。授業でも教えたが、併合前と併合後の朝鮮の写真を見比べれば一目瞭然だろう」

 南大門前に並んだ小屋と裸足で歩く人々と、高いビルや路面電車が走った写真が脳裏に浮かぶ。日本によるインフラや科学整備は、確かに朝鮮の近代化に大きく貢献した。

 「少なくとも京城は李朝時代と比べ、日本の統治によって遥かに発展したことは疑いのない真実だ」

 「じゃあ何故、朝鮮光復軍は日本を攻撃するんですか?」

 やはり独立国になって、他国に縛られない体制にしたいから?

 しかし朝鮮は併合から100年が経過している。これだけ日本に恩恵を授けられながら、今更テロ等で恩を仇で売り、果てに独立したいと言うのも身勝手な話だ。

 「そもそも、日韓併合は望まれてされたものでは……」

 「確かに、強制ではなかった。その点で既に欧米諸国のような植民地支配とは異なるものがある」

 「植民地って……」

 内地の大都市にも負けない程に発展した京城の都市を見て、植民地と言うのは余りにも馬鹿らしい話だ。植民地とは、もっと収奪され枯れ果てたものではないのだろうか。これはこれで変な偏見かもしれないが。少なくとも大都市にまで発展させる政策を、植民地とは呼べない気がする。

 「本当の植民地だったら、今の東南アジア諸国のように独立戦争を起こしますよ……」

 しかし100年の間に朝鮮で独立戦争は起きていない。三一運動のような独立運動はあったが、それは併合からまだ十年も経っていない頃で、その間に抵抗があっても不思議ではない。むしろ三一運動を契機に、朝鮮総督府は武断的な統治方針から文治的な方針に切り替え、統治政策が改善されることになったのも事実である。

 「朝鮮人自身が日韓併合を強く希望していたからな。ここも授業で教えたが、当時の朝鮮最大政党だった一進会も併合を主張し、結果的に朝鮮は併合されたことで奴隷制度も廃止され住民の生活も豊かになった。併合を拒んでいたのは清と露西亜に事大した朝鮮王室と両班ヤンバンぐらいだ」

 両班とは、李氏朝鮮時代の最上位の貴族階級のような人々のことだ。両班制度は時代と共に変貌しているので一概には言えないが、併合前の李朝時代の両班は特に評価が悪い。高位の身分にあった彼らは弱者に対し暴虐の限りを尽くした。当時の朝鮮を旅した外国人が文献に書き残している一文には、私利私欲のために金を要求し、断れば手足を縛り両手首を天井に吊り下げ厳しい拷問を掛け、要求した金額を奪い取ると言った部分もある。そんな両班が蔓延る朝鮮の実情を見た外国人は、朝鮮の貴族下級は世界で最も傲慢であると評した。

 日韓併合によって両班は没落し、その両班の下に縛られていた農民たちは奴隷身分からの脱却を果たした。

 「さて、多くの朝鮮人が望んだ併合に対し抵抗するのが朝鮮光復軍だ。こう言うと可笑しな話だが、三一運動の時に改革派と保守派がいたように、今尚日本の朝鮮統治を許さない勢力は存在するということだ」

 気が付けばホワイトボードの大半が黒の字で埋め尽くされている。すっかり授業風景そのままだ。

 「一、日帝が主張する併合は捏造であり、正しくは極悪非道の植民地支配である」

 「はい?」

 突然語り始めた李に対し、葉山は怪訝な表情を浮かべる。

 「二、日帝による植民地支配の目的は朝鮮人の奴隷化である」

 「…………」

 「三、日帝による植民地支配は、朝鮮に対する膨大な摂取である」

 「………………」

 「四、日帝は人類史上最悪の悪の帝国である」

 「……すみません、先生。それはギャグで言っているのでしょうか?」

 「これらは彼らの真面目な主張の一部だ」

 これで一部!?しかも真面目に言ってるの?!―――葉山は、噴き出すどころか呆れさえ感じていた。

 「いくらなんでも妄言過ぎます。この京城の発展ぶりだけを見ても、摂取どころかむしろ与えられまくっているような気がするのですが」

 「つまり彼らはこう言いたいのだ。日帝が実施したインフラ整備。鉄道や港湾、道路の設備は朝鮮人の生活向上のために行ったのではなく、その目的は、物資の大量輸送を可能にして経済的収奪を強化することであり、大陸侵略を画策する日帝の兵站基地にするためでもあった、と」

 「すごい妄想ですね」

 「朝鮮における鉄道や道路の設備といったインフラの整備は彼らの妄想どころか、僕たちの想像する以上に齎した利益は多いのだがな。鉄道が整備されたことで様々な資本や情報の流入が可能になり、村社会からの脱却が実現し、朝鮮全体に社会変革を齎した程だ」

 朝鮮半島が東亜アジアで第二の交通網整備地域となったのも歴史的事実である。

 「話が若干逸れたが、先に言った膨大な摂取。これは特に土地の侵奪だと彼らは主張している。京城の広大な土地を所有する斎間グループは、彼らから見れば土地を奪い農民たちを貧困に追い込んだ悪の権化だ。土地を奪った斎間グループ、更に朝鮮の政界にも影響力を持つ斎間家であれば、これ以上の敵はいないだろう」

 「だから、斎間グループは……斎間の家は、そいつらに狙われたってことですか」

 おそらくな、と李は頷く。葉山は奥底から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

 そんな妄想で、身勝手な話で、京は苦しめられている―――

 葉山は無意識の内に、拳を強く握り締めていた。




 斎間京の家は京城府内でも広大な敷地を有した日本家屋である。

 朝鮮では特に広く知れ渡っている『斎間』の名が掲げられた門前に、見慣れない軍用のトラックが停まっていた。

 帰宅した京を早速出迎えたのは、家主であり斎間グループの現会長を務める、京の実祖父。斎間京斗だった。

 「ただいま、お爺様」

 「お帰り、京。早々で悪いが、客人が待っているから直ぐに来てほしい」

 「客人?」

 門前にあった軍用のトラックを思い出す。軍の車でやって来た人間が一体ウチに何の用なのか。

 「わかりました。部屋に戻って、急いで着替えてきます」

 「そのままで構わない。さぁ来なさい」

 京は少し口を尖らせた。学校から帰ってきたばかりの京は制服姿のままである。客人を相手に制服姿でお出迎えをするのは慣れていないが、祖父の言うことには逆らえず、京は言われるままに従った。

 客間には、想像した通りの軍人が待っていた。数は四人。狭くはない客間だが、これだけ人が入れば狭く感じる。入室した小柄な女学生の京に軍人たちの視線が集まる。その中でも隊長らしい一人の男が、京の顔を見るや腰を上げ、挨拶してきた。

 「お初にお目に掛かる、斎間京殿。私は京城憲兵隊の近江一宇大尉である」

 京はびっくりして、目の前の軍人を見据えた。偉そうに挨拶を捧げた軍人の左腕に、『憲兵』と書かれた腕章が見えた。他の軍人の左腕にも、同様の腕章があった。

 「……初めまして。斎間京です」

 釣られて挨拶を返したが、名を言って気付く。そう言えば向こうは自分の事を既に知っている口ぶりだった。お爺様が既に話したのか、それとも―――

 京の表情に戸惑いの色を読み取った憲兵、近江が口を再び開いた。

 「我々は貴女に用があって来た」

 「私に?」

 お爺様ではなく私に?京はますます戸惑いの色を浮かべる。

 「何故、憲兵隊が私なんかに……」

 「先ずはこちらをご覧頂きたい」

 仏頂面の近江が内ポケットから取り出した紙束を開き、その中に挟まれていた一枚の写真を京に見せた。

 「この人物に見覚えはあるか」

 「………?」

 京は目の前に差し出された写真に視線を落とす。近江は併合歴史記念館の監視カメラが撮影したと言う。確かに見覚えのあるものが写っていた。おそらく館内のホールの一角だ。そしてその写真には男と少女の二人が写っている。

 その少女はとても不思議だった。何が不思議かと言うと、余りにも京に似ていたからだ。

 そしてそろそろ夏場だと言う季節なのに、首元にしっかりと巻かれた紺色のマフラー。

 見慣れていないはずなのに、見覚えがあるような顔。

 京の中で、奥底に眠っていた何かが起き出そうとしていた。

 「この写真に写っている男の方は朝鮮光復軍の一員であり、先日の連続テロに関与した疑いがある。そしてその男と一緒に居る少女の方は―――」

 近江が言い切る前に、京は驚愕した表情で京斗の方を見た。京斗の表情を見た京は、自分の想像が間違っていないことを知り、愕然とした。

 「旭……」

 死んだと思っていた妹の名を、京はぽつりと呟いた。



 

■解説



●両班

李氏朝鮮王朝時代に存在した身分階級の内、最高位に位置した貴族階級。1894年の甲午改革によって制度が廃止されたが影響力は消えることがなく、日韓併合が実現するまでは朝鮮の社会意識に変化が生じることはなかった。



●斎間家

併合直後の朝鮮に渡った日本屈指の名家。未開発地だった朝鮮で開発事業を推し進め発展した。当主の斎間京斗は世界的大企業である斎間グループの会長でもある。



●斎間グループ

京城に本社を置く日本最大の財閥。総合家電や電子部品、電子製品メーカーの斎間電子を始めとした総合電子部品企業や造船、プラント生産の重工業、軍事機器生産、商社事業と建設事業の斎間物産など、数多の企業を抱え持つ。東亜諸国に支店を置き、海外でも複数の拠点を築いている。




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