第五話 憲兵と特高
併合歴史記念館で催された併合100周年記念行事は最悪の形で幕を下ろした。
閉会の辞にて壇上に立っていた朝鮮総督府の政務総監に向かって、一人の青年警察官が所持していた拳銃で発砲した。
三発の銃弾が政務総監の身体に命中し、重体となって直ぐに病院に搬送された。
政務総監を銃撃した青年の警察官はその場で他の警官たちに取り押さえられ、現行犯逮捕された。青年は政務総監を銃撃すると、「大韓独立万歳!」と叫び拳銃の銃口を自らの頭に当てて自決を図ろうとしたが、直前で他の警官たちに捕縛された。
更にほぼ同じ時間帯に、別の場所でも事件が起こった。朝鮮王朝の景福宮にある朝鮮総督府庁舎付近で仕掛けられた爆弾が爆発し、何人もの職員が死傷した。更に京城駅近くの企業ビルでも同様の爆弾テロが起こり、こちらでは企業の社員、現場に居合わせた一般府民にまで被害が及んだ。
その後、朝鮮独立を主張する朝鮮光復軍から京城の各テレビ局に送付された犯行声明が発表・放送された。これにより一連の事件は、併合100年の節目を狙った朝鮮光復軍による連続テロ事件であることが判明した。
京城憲兵隊本部。
「まさか警備に従事していた警察官の中から、テロリストが出てくるとは……」
司令官室で難儀な表情を浮かべた新発田憲兵司令官の呟きに、近江は直立したまま恥じるように頭を下げる。
「我々が居ながらこのような事態を招いたことは極めて遺憾に思います。どのような処分も甘んじてお受けする次第です」
「警備は確かに完璧ではあった。あの場にいた誰もが、そこにある平穏を維持しようと努力していたのはわかる」
しかし、と。苦慮したような面持ちで、新発田は言う。
「実際に、それは起こってしまった。これは変え様がない事実だ」
政務総監を襲った青年は正真正銘の警察官であり、年齢は21歳の新人警察官だった。憲兵隊が捜査した結果、青年は朝鮮系であり、過去に朝鮮光復軍との接点が指摘されたことは一度もなかった。
逮捕後の取り調べでは自らを朝鮮光復軍メンバーを名乗っており、事件の動機を「大韓独立」の一点張りだった。
それは、これまでに逮捕、検挙された朝鮮光復軍メンバーの特徴と一致していた。
この事件を受け、警察内では朝鮮系を中心に全ての警察官の素状を調べる方針を固めた。元より警察に限らず、朝鮮では他の外地政庁や機構、組織と異なり、朝鮮系を最初から多く抱えている現実があった。今回の連続テロ事件で爆弾テロを受けた総督府の職員も半数以上が朝鮮系である。
総督府庁舎と企業ビルの爆弾テロでは職員や一般府民を含む二十数名が死傷する惨事となった。爆弾は自動車に仕掛けられたものだった。
かつての朝鮮王朝の宮殿正面に建設された総督府庁舎は、宮殿の姿をその体躯で隠しており、街の方角からは見えないようになっている。それを民族の屈辱だとする朝鮮光復軍にとっては総督府庁舎は正に憎悪の対象に他ならないのだろう。
そんな事情から庁舎を狙った理由も充分に頷ける。彼らのテロは見事に敵の中枢に対して小さくない打撃を与えることに成功したのだ。
「大佐殿」
「何だ、近江大尉」
「我々が逮捕した金少佐と、青年の関連性は見つかったのでしょうか」
近江の質問に、新発田は再び難しい表情を浮かべる。組んだ手の陰にきつく結んだ口を隠し、刺さるような視線が近江の顔を見上げた。
「状況的には充分に疑われるが、苛立つ程に警察側は出し惜しみを続けている。依然として不明だ、としか言い様がない」
青年の身柄は警察にある。故に今回の事件に対する捜査の主導権も警察が握っていうのだろうが、同じ現場にいた憲兵隊には満足な情報が行き届いていなかった。元より警察と憲兵隊のよろしくない関係を伺えば、その理由も容易く想像できる。
しかし警察と憲兵と言う伝統の不仲関係の実態が公になれば、両者に対する世論の声はますます厳しいものになる。警察は身内から総督府の政務総監を襲った犯罪者を出してしまい、面子が立たない状態にある。そして憲兵隊も同じ現場にいながら事態を阻止できなかったことに、同様の視線が厳しく当たっている。
「組織は相性が悪いからと言って、個人までそうとは限りません」
「ほう?」
近江の無愛想な顔を見て、新発田はその口元が動くことを普段以上に期待する。
「それはどういう意味かな、近江大尉」
「警察内部に信頼に値する友人がおります。現時点で既に、本件の捜査に関わっている友人に会う手筈を整えております」
「それは期待しても良いのか?」
「必ずや、大佐殿のご期待に見合った成果を得られることを確信しております」
近江の変わらない表情の裏には、絶大な自信が満ち溢れているように見えた。
京城府 喫茶店。
京城駅に近い都心にある小さな喫茶店。連続テロ事件の被害を受けた企業ビルが近隣にある。店内はテロの影響か依然と比べて客足が減っているが、それでも駅前という立地条件の恩恵は健在で充分な盛況を見せていた。その店内の一角では、注文を伺う店員ですら近寄りがたい雰囲気を放った、二人の男女が居た。
「誰が協力するか、ばーか」
「……………」
見事なまでに一蹴を捧げた女を前にしても、近江の表情はぴくりとも動じず、それがまた更に異様な雰囲気を醸し出していた。
一瞬の間に降り立った沈黙に、珈琲に浮かんだ氷がからんと鳴る。
近江の真っ直ぐな視線と、女の鋭い視線が交叉する時間は大して長くは要しなかった。
「わざわざ敵に塩を送る真似をしてどーすんのよ。私達特高がそんな甘っちょろいことを平気でする組織に見えるかしら?」
内務省の中核に名を連ねる特高一課に属する亜厂朱は近江のことを、近江が新発田の前で自信満々に言っていた信頼に値する友人として見たことは一度もなかった。二人は同じ高校に通う同級生だったが、学生時代はいつも首位を取る近江に対し二位止まりの朱が試験の度に目の敵にしたものだ(当時近江に関しては朱を勉強熱心な優等生と見ていた)。憲兵と特高という、職業すら対立関係に至ってしまう二人の関係は不思議と途絶えることは無かった。
今振りかえれば、過去に憲兵隊と対立していた事件の捜査を巡っては、しばしば近江と衝突した経験がある程だった。しかし近江本人は朱のことを敵として見たことは学生時代から一度もなかった。
「組織同士が相性悪いのに、なんで貴方と私は相性が良いと思えるのよ? 貴方、頭おかしいでしょ」
特別高等警察。特高とは特別高等警察の略称で、反政府思想や言論、行動を取り締まる秘密警察であり、普通の警察と違って内務省直属の強大な国家権力である。警視庁を始め、日本の各府県警内に設置されている特高の権力は幅広く、国家に仇名す相手なら容赦なく己の手で神罰を下すことが出来る。
憲兵隊と特高は共に反政府思想の弾圧などに当たっているが、お互いに国家の安定を担ってきた自負はあるものの両者は伝統的にしばしば対立しており、よくいざこざを起こした所以もある。
「……亜厂警部。一つ確認したい」
「なによ」
「俺は、警部に敵視されるような行為をしたのだろうか……?」
「貴方、正気で言ってる?」
冗談を言っているようには全く見えない近江の表情に、朱は口端をぴくぴくと引き攣らせるしかない。
そう、学生の頃からそうだった……。こいつはいつも私を見ていない。今度こそ勝ってやると試験勉強に勤しんで、一人で勝手に意気込んで、結局勝てない私だけが馬鹿みたい……朱はぶつぶつと呟くが、その声は蚊の音みたいに小さくて近江にはまるで聞こえていなかった。
溜息を深く吐くのを最後に気を取り直して、朱は近江に向かってはっきりと言う。
「良い? 貴方達と私達は祖国の敵を撲滅する目的は共通しているとしても、同時に相容れない存在でもあるのよ。 大体ね、貴方達は自分たちの尻拭いだけやっていなさいよ」
金少佐の件を暗喩したような物言いをしつつ、朱は近江に辛辣な言葉を吐き続ける。
「これは私達の管轄よ。今回の事件の捜査は、事件の実行犯を逮捕した私達の権利であって、貴方達憲兵隊が踏み入れる余地は何処にも無いの。私は貴方に尻拭いしてろと言ったけど、これは同じく身内から恥を放ってしまった私達の尻拭い。大体、貴方達の一件とこの事件が関係する証拠はあるの?」
「金少佐の件と総監を襲った警官の関連性を追求するためにも、警部に情報の提供を求めているのです。もし金少佐が朝鮮光復軍のメンバーと思われる警官と深く関わっていると判れば、事は軍部に大きく関わってくる。我々が無関係であるかどうかは、そこで初めて判明するのだ」
「ふん……」
朱はまるで子供のように不貞腐れた感じにそっぽを向く。明らかに近江に対して否定的な態度だった。
亜厂朱はただ憲兵隊に関わらせたくない特高の事情を体現しているに過ぎないのだ。互いの上司が喧嘩した事など歴史を見渡せば何度も見つけられる。近江はそれを理解した上で懇願を続ける。
「警部は言った。祖国の敵を撲滅する目的は、共通していると……。為らば警部も判るはずだ。ここで組織同士の下らない確執に固まっていれば、同じ過ちを繰り返すだけだと。だから警部もこうして俺と個人的に会ってくれたのではないのか?」
「……………」
近江の言葉にびくりと反応した朱の瞳が、戸惑いがちに近江の顔を一瞥する。近江の真っ直ぐな視線は変わらず朱の純粋に揺れる瞳を射抜いている。
「警部。この通りだ」
頭を下げる近江に、朱の動揺が僅かに漏れ出る。
束の間の沈黙。珈琲に入った氷は、揺れなかった。
「……頭を上げなさい、馬鹿」
近江が顔を上げると、視線の先には頬を名前の通りに染めた朱の顔があった。
「気が変わったから、特別に貴方の要求に応えてやっても良いわよ。但し、勘違いはするな。これは別に貴方のためではなく、あくまで祖国の敵を駆逐するためなんだから」
そう言うと、朱は鞄の中から資料らしき紙束を取り出した。捜査に関係した資料らしき書類を近江の前に披露する朱の姿に近江は再び頭を下げる。
「バレたら色々とお終いね……」
資料が入ったカバンを漁り始めた朱は口元を緩ませながら呟いた。しかしその表情は苦笑というよりは友達の悪だくみを一緒に楽しんでいる子供のような顔だった。
実際、彼女のやろうとしていることは捜査情報の意図的な流出である。憲兵隊に情報を提供したと知られれば、積み重ねたキャリアだけでなく彼女の人生そのものが危機に晒される。
「感謝する、警部」
「ふん」
鼻を鳴らしつつも、しっかりと資料を出す朱の手際の良さに近江は礼を感じるばかりだった。彼女には想像する以上に危ない橋を渡らせてしまっているが、それを理解した上で堂々と乗ってみせる彼女の頼もしさに近江は感動すら覚えた。しっかりと資料を用意している周到さから、朱は最初からそのつもりで訪れたことを再認識し、近江の中の彼女に対する好感度はますます信頼する友人として上昇した。
二人の近寄りがたい空気に恐れ慄いていた店員を呼び珈琲の追加を注文すると、朱は周囲に気を配りながら近江に資料を手渡して説明を始めた。
「彼の名は桂洋一巡査。貴方も知っている通り、朝鮮系日本人。両親共に純粋の朝鮮系。昨年の春から龍山警察署に赴任した警察官で、年齢は21歳。六人家族の三男で、至って普通の家庭。家族に事情聴取を行った結果、家族ですら彼が朝鮮光復軍に加わっていたことを知らなかったようね」
手渡された資料の紙面には総監襲撃の実行犯となった青年の顔写真が貼られていた。まだ少年の気が抜け切れていない青さを残した顔をしているが、総監を拳銃で襲ったテロリストだとは想像し難い程だった。
特高による精力的な捜査の結果、家族も嘘は付いておらず、朝鮮光復軍に関与していたのは彼一人だったことが判明されている。特高は更に彼の交友関係にも捜査の手を広げたが、彼の身近な周囲に朝鮮光復軍の関係は一向に見つからない様子だった。
「光復軍に加わったのは18歳の頃だけど、反政府思想を摘発されたことは過去に一度も無かった。今回の犯行に関しては、1年前から計画を練っていたという供述も取れている」
近江は驚いた。手元にある資料の一部には、桂本人の口から引き出した情報も多く有るようだった。
「私達は桂が龍山警察署に赴任したこと自体も関係していると考えてる」
「それはつまり……」
近江の呟きに、朱は頷く。
「ええ。嘆かわしいことだけど、警察内部にまだ敵が居る可能性がある」
朱の言葉を聞いた時、それは警察内部に限ったことではない、と近江は改めて思った。
憲兵隊が逮捕した金少佐の件を連想した近江は、朱達と同様に軍部内に敵のスパイがいる可能性を想起している。警察と軍。国家と社会の秩序を守る二つの国家機構が、同時に自らの懐に敵を潜ませてしまっている事実が確認されれば、事は短絡的には済まされない。
日本の統治下となった朝鮮を中心に活動する朝鮮光復軍は、その歴史は意外にもそれなりにある。欧州や大陸で戦火が交える中、日本の統治によって朝鮮から海外に脱出した朝鮮独立派の活動家たちは中國に集結した。欧州が地獄の戦場と化し、日本軍が国民党軍と共に共産党軍を討伐する最中、彼らは密かに内戦が続く大陸に潜伏し、各国に了承されないまま臨時政府を作り上げた。日華共同戦線と交戦状態にあった共産党軍と協約を締結した臨時政府は朝鮮光復軍を創設したが、実際に国共戦において朝鮮光復軍と交戦したという明確な記載は無いので、共産党軍に紛れていたという説も憶測を超えるものには至っていない。
共産党軍が敗北すると、朝鮮光復軍は自力で日本への抗戦方針を継続し、日本へのテロ行為を開始した。実は朝鮮光復軍が単身で日本に被害を及ぼしたのは記録的にこれが初めてで、大陸の国共内戦が終結して既に20年が経過した後だった。
この空白期間の間に朝鮮光復軍は何をしていたのかは不明であるが、その空白を巻き返すように彼らは日本に対するテロ活動を活発化させていった。特に1970年代から80年代にかけては歴史に名を連ねる程の大事件を何件も起こしている。
しかしその大事件の数々が元となり、日本警察や憲兵、特高の活躍によって朝鮮光復軍の首脳部が次々と逮捕され、1990年代の半ばには組織自体が消滅するにまで至った。一時は消滅した朝鮮光復軍の名を名乗る声が再び聞こえるようになったのが最近のことで、今回の連続テロ事件が日本との再会を謳っていいた。
それは過去と似ていた。彼らは空白期間を過ぎ、再び日本の前にその存在を現す。連続テロ事件後に各テレビ局から放送された犯行声明の一文には、こうも記されていた。
『我々は日本帝国が朝鮮を支配する限り、何度でも蘇る』
彼らは組織が壊滅状態に陥っても、再び体勢を整えてくる。それは実際に今回の連続テロ事件を機に証明されている。
では、何故彼らは再び目覚めることが出来たのか。世界的に見てもテロ組織が根絶されることは簡単ではに無いにしても理由は必ずある。彼らを根本的に支える何かが、ある。
「金少佐との関連性はありそう?」
資料を眺めていた近江に、朱は質問する。近江は一瞥を朱にくれるが、首を横に振ることで答えた。
「今はまだ、目を通しただけでは判らない。より深い捜査が必要になりそうだ」
桂本人に聴いてみないことには判り得ないことだ。警察が金少佐との関連性を追求した部分がこの資料に載っているわけがない。
「でしょうね」
わかっていたと言う風に、朱は肩をすくめる。近江はじっくりと資料を見詰め続ける。
「しかし貴重な情報だ。我々の捜査もこれでようやく進められるだろう。感謝に絶えない」
「……ふん、当然。こちらとしても憲兵に貸しを一つってことで」
「ああ。何時かこの借りは必ず返そう」
微笑を浮かべる近江。途端に、近江は鼻先から漂う固まった違和感に気付き視線を向ける。
「………………」
「どうした、警部。鼻が赤いぞ」
「……へっ? ああ……、な、何でもないッ! 人の顔をじろじろ見るな!」
「わ、悪かった。警部」
怒鳴られた理由は不明確だったが、近江は自分に非があると信じ謝罪した。それを目の前にした朱はやってしまったと言わんばかりの表情を一瞬浮かべたが、今更引き返せないのか赤くなった鼻を隠すようにそっぷを向くだけだった。
「―――て言うか、さっきから気になってたんだけど」
近江は朱の反応に動揺を覚えながらも逃げるように資料に視線を戻したが、朱に言葉を投げかけられたこおで再び朱の顔に視線を戻す羽目となった。
未だに鼻を赤くした朱が、尖らせた唇で言葉を紡ぐ。
「その呼び方、どうにかしてくれない? 第一ここは喫茶店の店内だし、警部警部と呼ぶのはやめてほしいんだけど……」
確かに、民間人が集まる店内でこのやり取りは不審に尽きない。しかも自分たちは今、職務に対する重大な違反行為を仕出かしている最中なのだ。近江は兎も角、捜査情報を流している朱の方は只では済まない。近江はそれすらも判っていなかった未熟な自分を恥じた。
「すまない、確かに俺の配慮が足りていなかった」
「判れば良いのよ」
「それで、俺は君のことをなんと呼べば良い?」
「それをいちいち聞くか?」
朱は呆れた表情で近江を見た。対して近江は真剣に悩んだ表情を浮かべる。
「俺は警―――ん、君とは旧知の仲ではあると自負しているが、肝心の呼び名は統一していない。お互いに現在の職に就き、再び交流を持った頃は階級で呼び合っていたのもある」
「だったら学生の頃は私のことをなんて呼んでいたのよ」
朱は自分で言って気付いた。そう言えば、目の前の男とは確かに同級生であったが、当時は成績を争う者同士でしか無く、それ以外で関係を持ったことは皆無だった。友達ということではなかったので名前を呼ぶ機会も互いに中々無かった。
「真面目で勉強熱心な優等生」
朱は愕然とした。それを言って本当に変だと感じていないらしい表情を浮かべている近江の顔を見て、朱の気持ちはますます崖っぷちに降下していく。
それが呼び名ってどうなのよー!と心中で叫んだ朱など露知らず、近江は顎を手で持ち更に悩み出した。
「ううむ、しかし今となってはその呼び名もおかしいか。そもそも既にお互い、学生では無いし」
そういう問題じゃねーよとまたしても心中で叫ぶ朱は、せめてとばかりに近江を強い殺気を孕んだ瞳で睨むが、近江はそれすらも気付かない。
「よし、ではこうしよう。警部の提案した呼び名を採用する。異論はあるか?」
何がよし、だ。しかもなんでそんな偉そうなんだ。異論なんて山ほどあるわ。いや、偉そうなのも何もこいつの言い方が少しズレているだけなのは今に始まったことではないから別にそこはどうでも良いのだが―――って、なんでこんな面倒くさく馬鹿みたいに悩んでるんだ私は。朱は頭痛を感じる頭に手を当てた。
「どこか体調でも……」
「あ……ヶ、み」
「え?」
ぽつりと呟いた朱の声を、近江は聞き取れなかった。これは決して近江が難聴だからというわけではなく、朱の声が一方的に小さ過ぎただけだった。
再度聞き直しを促す近江に対して、顔を上げた朱の顔は鼻どころか耳まで赤くなっていた。
「―――なんて言わせられるかぁッ! あかりで良い、あかりでッ!」
「わ、わかった。亜厂」
突然大きな声を上げた朱に近江は困惑したが、当の朱も自分の声に驚いた周囲の視線に気付いて、赤くなったミニトマトのように小さくなった。周囲の関心が薄れるのを見計らって、近江は再び捜査に関する会話の再開を、小さく縮こまる朱に進言した。
朱が持ち込んだ捜査情報の中で、近江はある一点の供述に目を止めた。
「これは本当なのか、亜厂」
早速名字で呼ぶことが板に付いてきた近江に対し、朱はええ、と頷く。
「桂は本当に、このようなことを言っていたのか」
「事実よ。何故なら、私もその取り調べに同行していたからね」
朱の表情と言葉を受け取れば、彼女が嘘を付いているとも到底思えなかった。近江は唇を噛んだ。
「これが事実なら、直ぐにでも行動に移すべきだ。こればかりは、こちら側より警察が動くべきだろう」
「珍しい。貴方がそんなことを言うなんて」
「俺達は警察部隊と言っても、自由気侭に何でも出来るわけではないぞ。こういうのは本来、本当の警察の仕事だ」
「憲兵が、どの口が言うの?」
冗談混じりの口調で朱が笑いながら言う。しかし近江は真剣だった。
「どうだ。既に実施しているのか?」
「マークはするつもり。だけど、本当に奴らが来たら……私達特高じゃ多分太刀打ち出来ない。だから、この件に限ってはむしろ貴方達の方が適任かと思う」
「!」
近江は息を呑む。最初は突き離すような態度を取り、なんだかんだ言いながらしっかりと捜査資料を手渡し、挙句の果てには捜査で得た情報の一件を任せたいと言う。
「可能な限り、私達も国やお上のためにこの身を打って投げ入れる覚悟で闘っているけど、仕事の判別はきっちりと行うつもりよ。犬死になんて決して犯さない。警察がやるべき仕事と、軍がやるべき仕事をちゃんと分ける。少なくとも私はそう考えている」
「亜厂。お前は……」
「お願い。彼女を、守ってあげて」
近江は知った。朱は最初から近江に託すつもりだったのだ。だからここまで危ない橋を渡ることも厭わずにやってくれた。協力してくれた。だから近江は朱の想いを受け止める。
「わかった。こちらは我々がやろう。大佐殿にも話を付けておく」
「ありがとう、……近江」
そう言えば初めて名前を呼ばれた気がする。確かに、階級以外で呼ばれるのも悪くなかった。
「必ず守ると誓う。約束しよう」
「絶対よ。もし破ったりしたら、今までの政治犯にやってきた尋問と同じことをしてやるわ」
近江は誓う。手元の資料には、年端もいかない少女の写真が桂の供述と並んで貼られていた。
「……ところで、亜厂。よく口の固いテロリストから、これ程までの情報を引き出せたな」
「特高を舐めるな。それに言ったでしょ?私も取り調べに同行したって」
「一体、どんな取り調べを?」
「知りたい?」
「……いや、良い」
にっこりと微笑んだ朱に対し、近江は引き攣った笑みを浮かべる。今までの政治犯諸々の発言を思い出して、近江は背筋が寒くなるのを感じた。
■解説
●特別高等警察
警視庁を始めとした主要府県警内に設置された日本の秘密警察。略して特高、特高警察と呼ばれることが多い。内務省直属の指揮系統を有する特別な警察組織で、設立当初は主に共産主義を対象に取り締まっていたが、政治や宗教などあらゆる反政府思想や行動を専門に取り締まるようになった。