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東亜の途 -2010-  作者: 伊東椋
第一章 日韓併合100年
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第四話 併合百周年記念行事

 ―――2010年

 京城府龍山区。

 

 京城の都心からやや離れた位置にある龍山は李氏朝鮮時代から交易拠点として発展した地域である。

 1884年に港が開かれ、外国から大勢の商人が訪れるようになってからは韓国近代化の先駆けとなり、現在も多くの外国人が訪れる観光の街としても知られている。

 古来より繁栄の光を灯すと同時に、軍事基地を長く抱えてきた歴史も併せ持つ。

 壬午事変での清国軍の駐留。日露戦争では半島に上陸した当時の日本軍が兵営を置いた。これを端として、龍山には半島を取り込んだ日本の軍事基地が置かれるようになった。

 広大な規模を誇る龍山基地には日本朝鮮軍(朝鮮半島の防衛と警備を担う日本軍)と東亜連合軍の司令部が置かれ、近隣には併合歴史記念館がある。

 併合歴史記念館は日韓併合以後の日本と日本の一部となった朝鮮半島の歴史を中心として展示している歴史博物館だ。

 今年、併合記念館では併合100周年を祝した一大イベントが催されていた。

 併合歴史記念館の敷地内には民族衣装を着た大勢の学生たちの姿があった。祭りに参加した人々が見守る中、和服と韓服という日韓の民族衣装を着た少年少女たちの行列が手を繋いで歩く光景は、日本と朝鮮の100年の歴史に喜びと祝福を強調させていた。

 その行列の中に、斎間京はいた。彼女は韓服を着たクラスメイトの男子生徒と手を繋いでいるが、その顔は憮然としていた。対して和服を着た京と手を繋いだ男子生徒は笑顔で周囲の人々に手を振っている。

 京の表情の原因は、別に(韓服を着た)異性と手を繋ぐことに抵抗があるわけではない。ただ祭りに参加する人々が誰しも、全員が喜んで参加しているとは限らないということだけだ。それを京が最も体現しているだけに過ぎない。

 併合から100年を祝す併合歴史記念館の催しに京の学校が参加することは不思議ではなかった。京の通う学校は併合時の朝鮮に投入された教育の先陣として、京城の中でも歴史ある由緒正しき学校であり、このような祭りに参加するには充分にふさわしかった。

 京たちは祭りの項目の一つであるメインイベントに参加することとなった。それは、日本と朝鮮の民族衣装を身に纏い、記念館の敷地内を行列を成して歩くものである。

 それぞれの民族衣装を纏った生徒たちが手を繋ぎ歩く姿は、日本と朝鮮が共に歩んできた歴史を示すかのようだ。

 行列を見守る人々からは拍手と歓声が送られ、沢山の日の丸を振るい、生徒たちのパレードを歓迎する。

 正に祭りとしては最高の雰囲気だった。そんな雰囲気でさえ、京の表情から雲を取り除くことはなかった。

 「まだ不貞腐れてるの?」

 京の隣を歩く男子生徒が声を掛ける。京の睨むような視線が男子生徒の細い顔付きを射抜いた。

 「別に不貞腐れているわけじゃない」

 「そう言う声も、機嫌が全然よろしくなさそうだね」

 「あなたは楽しそうね?」

 「君みたいに楽しくない人の方が少ないんじゃないかなぁ?」

 男子生徒が苦笑する。京は興味が無さそうに言葉を紡いだ。

 「大勢の人間が集まる場所が苦手なだけ。その輪の中心に自分が含まれているのは尚更」

 「確かにそういう人はいるだろうね」

 意外と同意を示す男子生徒の反応に、京は怪訝な色を浮かべる。

 「それでも、こういう所に居るとさ。だんだんと自分も楽しくなっていくような気がしない?」

 「全然しないわね」

 笑顔を浮かべる男子生徒に対し、ぴしゃりと切り離す京。

 「それにさ、こういう民族衣装というのも着る機会が中々ないものでしょ」

 「………………」

 そう言って裾を摘む男子生徒は本当に楽しそうに笑った。京はその笑顔が眩しくて目を当てられないのか、沈鬱な表情で彼から視線を逸らした。

 「……別に。そんなに珍しくない」

 蚊の音のようなその声は、危うく周囲の騒音に消されてしまいそうだった。しかし隣で手を繋ぐ男子生徒は、微かに強くなった手の力を感じながらその声を掬ってみせた。

 男子生徒は思い出す。彼女は普段からクラスでも浮いた存在だったが、元々彼女は家柄から端を発して様々な意味で周りより逸していた。

 斎間家は京城府でも指折りの名家であり、広大な土地を所有する大地主でもある。朝鮮が併合された直後から地主として顔を効かせ、京城に拠点を置く大手企業をも抱え、その影響力は政治にまで及ぶと言われている。

 そんな物凄い家の娘である斎間京は、正真正銘のお嬢様なのである。

 更に京個人には、斎間家が開く斎間道場に幼少の頃から稽古に励み、剣道の全国高校生大会に準優勝までしている。

 彼女に近づきたいと思う人も稀だろう。

 男子生徒―――葉山はやま利彦としひこは、そんな稀な一人である。

 教室で浮いた彼女に話しかけては軽くいなされるのは日常茶飯事であった。一年生の頃から同じクラスだったが、二年目も同じクラスになった縁を最大限利用して、京に接触することが趣味になりつつあるこれもまた特殊な人間であった。

 これまでに頭の中に浮かべ整理した斎間京の個人情報は、別に葉山が追跡調査ストーキングして得られたものではない。それ以前に自分はストーカーではないと葉山は断言する自信が九割あった。

 彼女と彼女に纏わる斎間家の話は、葉山以外の生徒の殆どが知る周知の事実だ。彼女を語ろうとすれば、必ずと言って良い程彼女個人に収まらず、むしろ斎間家という背景に重点が置かれる程だ。

 彼女のことを知ると同時に、それ以上に彼女個人に触れる者もまた殆どいない。葉山を除いて。

 葉山が言った言葉に対して、先程とは打って変わってらしくない儚い声を漏らした京。

 隣で手を繋ぐ彼女をじっくりと見てみる。

 平均より小さな背丈の彼女には身に纏う着物が粛然と着られ、清楚と共に慎ましさが強調して表れている。少し俯いたおかげで、滑らかで甘そうなうなじがラインを形成。元より慣れた様子で調和を果たしており、着物姿の斎間京は美しいの一言に尽きた。

 本物のお嬢様である彼女には着物を着る機会も少なくなかっただろう。そんな事情を先の言葉から察して、葉山は繋いだ手の感触に意識を集中させる作業に戻ることにした。

 表では周囲の人々に笑顔で応え手を振るように見せつつ、日常となりつつある彼女への接触も忘れない。何度も言うが、自分はやましい気持ちで彼女に接触しているわけではない。そもそも可愛い女の子と手を繋ぐことは男子として喜ぶべきことだろう。断罪される筋合はないと主張する。

 儚き手の感触―――先程に一瞬だけ強く握り締められた感覚。それが嘘のように、今の彼女の手にはどこにも力はこもっていなかった。



 楽しい雰囲気に満ちた祭りも、厳重な警備の上で成り立っていることを忘れてはならない。

 しかしここにいる大衆の中で、この平和な一時が打ち崩される心配をしている者は一人もいないだろう。

 むしろ楽しい場に似つかわしくない自分たちの存在を鬱陶しいと感じる者の方が多いのではないか。

 それとも、視線すら向けたくないかもしれない。

 太鼓の音や歓声の中、民族衣装を纏った学生たちの行列が歩く光景を見据えながら、近江は思った。

 併合100周年を祝す意味で開かれた本イベントには、参加する学生や観光客の他に、大勢の警官や近江のような憲兵隊が警備のために動員されていた。

 本来なら、このような催しに対しては警察が警備を一任するものだ。

 しかし元々軍隊内の警察部隊である憲兵が介入することは異常である。

 勿論、近江のような憲兵が動員されたには理由がある。

 先の一件で逮捕された金少佐に関する捜査で得た情報から、憲兵隊はこの併合祝賀イベントが狙われている可能性を摘んだのだ。

 憲兵が見張るように各所に居る光景は、一般大衆にとっては異様なものとして映っている。


 ―――何故憲兵が?


 刺さる視線が、皆が同じことを問いかけている。

 共同で警備に加わっている警察でさえ憲兵の介入を快く思っていないだろう。

 警察と大差ない、もしくはそれ以上の権限を与えられている憲兵に対して、快く思う警官の方が少ないはずだ。

 このように憲兵は誰からも好かれるような存在ではない。それは何時の時代も変わらなかった。

 「……………」

 これまでの刺さるようなものとは別の種類の視線を感じて、近江は足元を見る。

 そこには小さな子供が、豆粒のような丸い瞳でじっと近江の顔を見上げていた。

 近江が姿勢を低くし、子供に接する姿勢を整える。その光景を見た周りの人々が注目の視線を浴びせる。

 「どうかされましたか?」

 仮面のような冷たい表情とは裏腹に、紡がれた言葉は丁寧かつ優しげな節が垣間見えた。

 子供はじい、と近江の表情を珍しい仮面を見るような視線で見続けた後、近江の左腕に視線を移してたどたどしい口調で言った。

 「それ、なんてかいてあるの?」

 「これですか」

 子供の視線が何処に向けられているのかは、近江にはすぐにわかった。

 左腕に付けた腕章。白地に黒で『憲兵』の二字が記されている。

 「(まだ漢字を読める年頃ではないことは確か、よってその質問は不審なものではない……)」

 奇妙な解読を一瞬で済ませて、近江は律義に答える。

 「憲兵けんぺいと書いてあります。憲兵とは、言うなれば兵隊さんの警察……おまわりさんと言う認識が正しいと思われます」

 「へーたいさんの、おまわりさん??」

 子供は理解し難いと言わんばかりに小首を傾げる。少々難しかったようだ。

 「へーたいさんだけど、おまわりさんなの?」

 「そのような認識でもよろしいかと」

 「ふーん」

 子供はなんとなくわかってくれたような、曖昧な反応を見せた。しかし幼い子供には充分すぎる反応だった。

 「なんで、それ、つけてるの?」

 「憲兵という兵科にとって、この腕章というものは軍装をする上で必要不可欠な装備なのです。憲兵隊内では階級や任務の種類によって腕章の携帯基準は異なるものがありますが―――」

 近江は律義過ぎる程に腕章に関して丁寧な説明を与える。憲兵が幼い子供に真剣な面持ちで憲兵の腕章に対する基準を説明する光景は間違いなく異様だった。

 「ご理解されましたか」

 「ぜーんぜん、わかんない!」

 「でしょうね」

 大声を張り上げてはっきりと言い放った子供に対し、近江は予想通りの反応に頷く。

 憲兵を理解できなかった子供に、憲兵の装備品である腕章の話を理解できるわけがない。

 過剰なまでに律義な説明を加えた近江本人でさえ、理解できていたことのはずだった。

 「ツヨシ!」

 焦りを帯びた女性の声が近江に投げられる。視線を向けた先には、動揺の色を浮かべた若い女性がいた。

 「おかーさん!」

 女性は子供の母親だった。母親を見つけるや、子供は近江のそばから母親の下に駆け出した。

 手を広げた母親の懐に飛び込む子供。母親は安心したような表情で子供の頭を撫でている。

 「もう、どこに行ってたの。心配したんだから」

 「ごめんなさーい」

 母親は今まで迷子になっていた子供を捜していたようだ。近江は状況を理解し、立ち上がった。

 そしてすぐに背を向ける。近江が立ち去ろうとすると、近江の背中に子供の声が当たった。

 「へーたいさんのおまわりさん! またねー!」

 近江は振り返る。

 視線を向けた先には、困ったような表情を浮かべる母親と手を繋いだ子供が、満面な笑顔で手を振っている姿があった。

 母親は一瞬、近江と視線が合って、戸惑うように背ける。しかしその行為に、近江が不満を抱くことはなかった。

 兵士に恐れられる憲兵。それは一般民衆に対しても変わらない。

 そう、何時の時代も変わらない。

 子供の明るい声に、近江は微かな笑みを口元に浮かべ、手を小さく振り返した。


 

 民族衣装を着た学生たちのパレードが終わると、人々の群れは最も広い第一ホールに集まった。

 大ホールには行事に参加した主催側から観客までが一堂に会し、閉幕式が執り行われていた。

 ホールの上から下がった垂れ幕には『日韓併合百周年記念祝賀行事』と記されており、日章旗と京城府の旗が並んでいた。

 そしてその二つの旗の中心。その目の前で、一人の男が壇上に立っている。併合から100年に渡って朝鮮を統治してきた朝鮮総督府から出席した政務総監だった。

 「この100年と言う節目は朝鮮と日本において新たな出発点として記憶せねばならないと考えます。丁度100年前の8月、当時の大韓帝国と日本の間で結ばれた併合条約の下、朝鮮半島は日本の一部となりました。朝鮮半島は日本に、朝鮮人は日本人に。しかし、当時の朝鮮は飢えと貧困に喘いでいた。そんな朝鮮を、日本は莫大な予算と人員を投入し、立て直すどころかそれ以上の繁栄を齎しました。もし朝鮮が日本に併合されていなかったら、私達は今でも地べたに座り込んで貧しい生活を強いられていたでしょう」

 欠席した総督に代わり代理として壇上に立った政務総監が辞を読み上げる。彼の滑らかで、丁寧に並ぶ言葉は会場にいる全ての者に良く聞こえていた。

 「当時の朝鮮に、大韓帝国には主権を有する程の独力を持っていなかった。清でも露西亜でもなく、日本を選んだ先人の判断は正しかったと私は思います。今の朝鮮はあの頃の朝鮮とは違います。日本の助けを貰い、発展を遂げた朝鮮があります。私達は今後とも朝鮮人として、日本人として誇りを持ち、朝鮮半島と日本、東北アジアの平和に貢献し、手を取り合って生きていかなければならないのです!」

 拍手と歓声が沸き起こる。日本と朝鮮が共に手を取り合って生きてきた100年を祝すように、大勢の人々が歓喜の声を挙げた。

 パレードを行った京たち学生は行事の主役として関係者席の最前列周辺を占拠していた。故に総監の演説染みた辞とそれに呼応するように沸き立つ観客の拍手と歓声が周囲から学生たちを包み込んでいた。

 列の中、どうにか欠伸を噛み殺した葉山は前の列にいる京の方に視線を向けてみる。後ろ姿で表情は見えないが、きっと無愛想な顔をしているに違いない。

 「お前、また見てるのか」

 後ろに並んだ男子生徒が葉山に言った。その笑みは友人をからかったものだった。

 「葉山は本当にお嬢様が大好きなんだな」

 「気になるんだ。仕方ないだろう?」

 葉山の返事に、声を掛けた彼に留まらず、聞き耳を立てていた周りの生徒たちからもくすくすと鳴る笑い声が漏れる。

 葉山は若干、不愉快な気分を感じる。

 「大概にしておけよ。俺たち庶民が関わると、ロクなことが起きない」

 「そんなこと、誰が決めた?」

 根拠もない言い分に、羽山は強い口調で返す。しかし周りの反応は相変わらずだった。

 「お嬢様から訴えられたら、勝ち目ないぜ?」

 「大丈夫。彼女に嫌われるようなことはしていないからね」

 周りから聞こえる微かな笑い声が増量する。しかしその内の一人が教師の視線に気付き、注意を促したことで場は沈静の一途を辿った。

 生徒たちの耳が再びホールから響き渡る声に戻る。葉山も意識をホールの方に移すことにした。

 

 その時だった。総監の声が途絶えると、周囲が異様な空気を感じ取ったようにざわつく。

 

 そしてざわつく観客席を引き裂くような、若い男の声が響き渡った。

 「100年に及ぶ日帝の支配に、天誅を下す!!」

 誰もがその言葉の真意をすぐに理解できなかっただろう。観客席の脇に並んでいた警察官たちの中から、拳銃を持った警官が大声を張り上げていきなり飛び出してきたのだ。

 飛び出した警官は真っ直ぐに総監が立つホールに向かっていった。拳銃の矛先が、総監の胸に向けられる。

 後から飛び出した警官や憲兵が彼を止めようとするが、間に合わない。

 

 そして何発もの銃声が連続して轟き、人々の悲鳴が沸き上がった。警官たちが彼を取り押さえた時には、既に壇上には血の池を広げた総監の身体が横たわっていた。


 

■解説



●併合歴史記念館

日韓併合と併合以降の朝鮮の歴史を中心に展示されている歴史博物館。

史実の韓国戦争記念館が、作中では併合歴史記念館となっている。



●壬午事変

1882年、朝鮮の漢城(後の京城)で起きた朝鮮軍兵士の反乱事件。朝鮮の政権を担当していた閔妃一族の政府高官や日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件。反乱鎮圧をと日本公使護衛を名目に派遣された清国軍が駐留、鎮圧したことで事件は終息する(同じく派遣された日本軍と対立し日清戦争の遠因となるがそれはまた別の話)。この派遣の際に清国軍が駐留した場所が龍山だった。



●朝鮮総督府

併合以後、朝鮮を統治することを目的に設置された官庁。

トップは総督とされ、その下に政務総監、総督官房と内部部局や施設等機関がある。

朝鮮の治安維持のための警察機構として朝鮮全土に軍(憲兵隊)と警察を配備し、総督は天皇から委任された範囲内の上で朝鮮防備のための軍事権を行使することが出来る。



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