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東亜の途 -2010-  作者: 伊東椋
第四章 京城動乱
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第二十八話 動乱の裏で

 仁川港の第六埠頭には、ソ連船籍の自動車運搬船『ムルマンスク』が停泊していた。全長は約200メートルで、自動車運搬船としては標準的な大きさだが、一度に6000台もの車が積載できる。普段から日本とソ連間を航路とし、今回もまた日本の中古車を祖国ソ連に運ぶために、積載量一杯まで積み込もうとしていた。

 だが、その船はそれだけが目的でなかった。中古車の他に、船はある“乗客”を乗せていた。

 船橋から荷役作業を見守っていた五十代の船長の隣から、青年の航海士が話しかけた。

 「船長、今朝船から下ろしたトラック……、一体どこに行ったんでしょうね?」

 「さぁね。 書類上には“特別な荷物を積んだトラック”と言う事で、詳細な事は教えてもらっていない。なにせ突然の事だったから、中を調べる余裕もなかった」

 「何なんでしょうね、一体。京城の都心部ではテロが起こりますし、色々とキナ臭いものを感じます」

 「たかがトラック一台だ。 それ以上に何かがあるとも思えないが」

 「それと、今日乗り込んできたお客さん。出港は何時だと五月蠅いですよ」

 「こっちは仕事中だぞ? 領事館の要請でいきなり乗ってきやがったくせに」

 船長は不満げに言った。領事館から「一人乗せてほしい」を要請され、突然乗船してきた軍人。夜まで続く荷役作業に業を煮やしたのか、早く出港しろとやけに喚き出す。余程、この国から出て行きたいらしい。

 「こっちに来る時は変なトラックと客を乗せられるわ、この船は客船じゃねえんだぞ! まったく、何だッてんだ」

 「まぁまぁ、今回の荷役を終えて帰国すれば一段落です。船長は休暇でしたよね?」

 航海士に宥められ、少し興奮していた船長が落ち着きを取り戻す。

 「ああ、三ヶ月ぶりだ。 娘が孫を連れて帰ってくるってんで、下船したら早速会いに行くつもりだ」

 「それは。 楽しみですね」

 「おう、こんなふざけた仕事をさっさと終わらせて、早く帰りてぇぜ……」

 船長は双眼鏡を覗き、甲板と港の間を行き来するクレーンを見詰めた。

 と、その向こう側で――こちらに近付いてくる何かを見つけ、船長は嫌な予感を覚えるのだった。





 空いていた居室にじっと留まっていたミハイルは、募る苛立ちと焦燥感に身を小刻みに震わせていた。

 眼前のテレビには、テロリストに占拠された朝鮮総督府が映っている。

 映像の画面上に速報のテロップが流れたのはその時だった。テロップには『皇軍の治安部隊が突入 人質の救出に成功』という文字が日本語で書かれていた。

 その程度の日本語はミハイルにも読めた。そして次の瞬間、事件の解決を伝える報道に切り替わった事で確信に変わり、ミハイルはいよいよ焦り始めた。

 「くそ、ここから早く脱出せねば。 いつまでもこんな国に留まっているわけにはいかないのだ」

 蓄積されていく苛立ちを表わすように、ミハイルは踵で床を何度も叩いていた。

 兵隊と武器を積んだトラックを積み込ませた船を、そのまま帰国用の足として利用するまでは良かったが、出港が想定する以上に遅れていた。船は出港時間を大幅に遅れ、今なお荷役を続けている。

 長時間、自分がここに留まっている事は明らかに危険だった。日本当局に追いつかれる可能性があったからだ。

 この船から下ろされたトラック(実際は装甲車)が、総督府に突入しテロリストの武器・装備として使用された。

 船員は知らされていないが、これはミハイルが手配したものだった。

 今この瞬間、ミハイルは朴の計画が破綻した事を知った。

 日本側は朝鮮総督府を占拠した朴一味を制圧したのだ。最悪の展開にミハイルは焦りを増した。

 ソ連本国からテロリストの一部と武器を積み込み、輸送の役割を担った船。総督府に突っ込んだ装甲車の経路を辿った日本当局が嗅ぎつけてくるのも時間の問題だろう。

 ミハイルはただ狭い船内で、刻々と刻まれる時の長さに怯えていた。

 「――!」

 居室に船内電話のコール音が鳴り響く。ミハイルは息を呑んで、受話器を取った。

 「私だ。 やっと出港か?」

 電話はミハイルが期待していたものではなかった。

 『少佐に客人が来ています』

 それを聞いた途端、ミハイルは一瞬息が詰まりそうになった。

 「……誰だ?」

 日本当局か。ミハイルは最悪の予想を浮かべる。

 『領事館の職員です』

 「何?」

 予想外の返答に、ミハイルは驚く。領事館の職員が今更何の用だろう。ミハイルは息を着くと、再び口を開いた。

 「わかった。通してくれ」

 ミハイルが伝えると、客人は五分も要しない内に彼の下にやって来た。

 船員が連れてきた客人は、ミハイルの顔見知りだった。

 「君は……」

 驚いたミハイルの前で、男が軽く微笑んだ。

 「ズドラーストヴィチェ、同志少佐。 お元気そうで何よりです」

 「安東からわざわざ、どうした?」

 客人は安東領事館の職員であった。朴と会合した際に、安東で世話をしてくれた男だった。

 「同志少佐にどうしても大事なお話がありまして」

 「話?」

 「そうです」

 職員は船員を立ち去らせると、室内に入り、扉を閉めた。

 ミハイルは違和感を覚えながら、問いかける。

 「遥々安東から来てする話とは何だね」

 職員は先程の軽い微笑から、不自然な程に表情を変えなかった。まるで微笑を浮かべた仮面を被っているかのようだった。

 ミハイルがその表情に薄ら寒さを覚え始めた時、職員が話しだす。

 「同志少佐……、東ドイツの中で最も長く国家を統治した指導者がいた話をご存じですか?」

 「?」

 ミハイルは最初、彼の意図が掴めなかった。彼が何を言いたいのか。その先を知るには、情報が不足していた。

 「東ドイツのトップに座り込んだその男は、就任当初からその政治手腕を評価される程優秀でした。米国の傀儡であった西ドイツと条約を結び、国連加盟まで実現するという数々の武勲を収めた」

 かつての同盟国だった東ドイツの話を、ミハイルはただ訝しげに聞いていた。

 「監視社会を維持すると同時に国内の安定化を目指し、彼が在任中の十年の間にベルリンの壁を越えようとした市民の射殺も厭われなかったとも言われています」

 かつてはソ連の衛星国の一つであった東ドイツのその指導者の話は、ミハイルも知らない話ではなかった。だが、そのような話をして何の意味があるのか、ミハイルにはわからなかった。

 何故ならその国は既に亡いのだから。

 「しかし彼は最後まで成功できなかった。政治改革を始めたソビエトに対し、彼は方針を曲げなかった。遂にはソビエトに見切られてしまい、彼は失職してしまいます。理想を目指していた彼は、物事を楽観視してしまったために、舞台から下ろされる羽目になってしまったのです」

 「……何が言いたい?」

 ミハイルはそろそろ彼に対する違和感に確信を覚えていた。

 彼の微笑は、最早不敵なもの以外の何物でもなかった。

 「理想に走るのは素敵な事ですが、過去の栄光に溺れると重大な過ちを犯してしまう。我がソビエトはその指導者と共に東ドイツを切り捨てる事で延命を果たしましたが、時にそれを繰り返す事で、我がソビエトはここまで生き延びれたのです」

 「――!」

 見開かれたミハイルの瞳には、黒々とした銃口が映っていた。

 職員の手には、PMを元に設計された自動拳銃、マカロフがあった。

 「同志ミハイル少佐、貴方は重大な過ちを犯した。 その命を以て、償って頂きます」

 「待て……。 君は今、何をしようとしているのかわかっているのか?」

 ミハイルは後ずさろうとするが、狭い室内で身動きを取る事は不可能に近かった。職員の背中に閉められた扉があり、この場を逃げ延びる方法は皆無に等しかった。

 「これがソビエトの意志です、同志少佐」

 「嘘だ。私は信じないぞ……」

 ミハイルは拳を震わせながら、冷徹な表情を浮かべる彼に怒号を飛ばした。

 「ふ、ふざけるな! 私は……、祖国のために……」

 「いいえ、同志少佐」

 銃口を震えるミハイルに向けたまま、職員は首を横に振った。

 「貴方の行動は、すべて自分自身のためだったのです。 我々は祖国のために、祖国の命に従い、貴方を処分します」

 「………………」

 言葉を発しなくなったミハイルを、職員は気の毒そうに眺めた。

 職員の指が、引き金に触れる。

 船内に、一発の銃声が木霊した。



 室内には頭から血を流した軍人が倒れていた。その光景を目の前にして、船長は吐き捨てる。

 「勘弁してほしいぜ、まったく……」

 狭い室内、その壁際と窓には赤い血が飛び散り、汚れていた。ずんぐりとした身体がその下に横たわり、目をカッと見開いたまま身動きしない。額には一つの穴が開き、一体の遺体として転がっていた。

 「後片付けは我々がします。乗組員の方々には迷惑はかけません」

 「当たり前だ! これ以上、俺の船でふざけた事をすれば海に放り投げるからな!」

 粛清もまるで怖れていないと言わんばかりに、船長は職員に向かって怒鳴り散らした。顔を真っ赤にしたまま、船長は彼の前から立ち去ってしまった。

 船長と入れ替わるように、数人の男達が遺体が転がる部屋に入っていく。彼は後の事を任せると、船外に出た。

 夜闇に溶け込んだ港は静かだった。遠くから微かにサイレンの音が聞こえるが、それ以外は平穏だ。彼は一仕事終えたように、煙草を口に咥えた。

 中華民國の安東を拠点に、時には日本国内などで活動するKGBの工作員である彼は、ミハイルの処分を実行しそれを達成した。朝鮮光復軍を支援・援助していたミハイルの行動は、既に行き過ぎていた。ミハイルの行動は祖国の意志に背く結果になると判断したKGBは、ミハイルの処分を決定した。

 祖国の関与が日本側に知られる事は、東亜連合と交渉するソ連政府の思惑を崩してしまう恐れがあった。

 欧米諸国との関係が悪化し、東亜連合まで敵に回る事になれば遂に国家は崩壊する。経済破綻を起こせば抑圧されていた民主化の息がたちまち吹き返し、革命から90年を迎える前に連邦は分裂してしまう。

 21世紀に入る前に崩壊してもおかしくなかった祖国が、尚も存続していられているのは奇跡に近かった。ソビエトの崩壊は、米国に世界の覇権を譲ってしまう事も同義だった。

 それを防ぐために、彼らは居る。今日もまた、祖国の崩壊を防ぐために、一仕事終えた所なのだ。

 後は――日本側が事を上手く治めてくれれば。政治の域に戻ってくれれば、自分達の仕事も少しは落ち着く。

 彼は夜闇に煙草の煙を吹かしながら、京城の方を見やった。

 既に京城の方も、事態が収拾しつつあった。

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