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東亜の途 -2010-  作者: 伊東椋
第四章 京城動乱
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第二十三話 遭遇

 薄暗い庁舎内は静かであった。会合の警備に携わっていた憲兵隊は庁舎を死守しようと迎え撃ったが、圧倒的な火力を誇る武装集団を前に敗北する他無かった。多くの憲兵が殺害され、近江は只一人武装集団が占拠した庁舎の中で身を隠していた。

 軍服には乾いた血が付着し、手元には残弾の少ない小銃が一丁と軍刀。

 軍刀は憲兵少佐の形見だった。隊長にのみ携帯が許される軍刀を託された近江は、その刀を腰にさげていた。

 近江を含む憲兵には警備のために実弾の入った小銃が携行されていたが、数の多い敵と交戦した際、弾薬の数は不十分である事が発覚した。機関銃からRPG-7まで使用する敵に対し、憲兵隊は歯が立たなかった。

 隊長が死に、後退した結果、散り散りになってしまった。他の隊員の安否はわからなかった。

 結果的に総督府は敵の手に落ちてしまった。

 しかし近江は違和感を感じていた。余りに早過ぎる。もしかして敵は、既に内部に潜んでいたのではないか。武装集団が雪崩れこんだ時間とテロリストの宣言から考えると、そういう結論に達した方が自然だった。

 窓の外を覗くと、総督府の敷地をぐるりと囲むようにして包囲している軍車両が見える。上空からはヘリのローター音が聞こえた。だが、総督府には近付こうとしない。即時武力による制圧は考えていないようだが、果たしてこの状況がいつまで続くかはわからない。

 何とかして外との連絡を取る方法は無いかと、先程から何度も頭の中で模索する近江だったが、手元に通信機器の類は無かった。私物の携帯電話まで戦闘の際に壊れてしまった。

 外部との通信手段が断たれた以上、無闇に動き回るのも危険だった。欧米の娯楽映画のように、単身で敵集団を殲滅できる程、自分を買い被っていない。それ以前に現実的ではない。あれは映画の内容であり、ファンタジーなのだ。憲兵が一人いくら足掻こうと、せめて援軍が無ければ、状況を変える事はできない。

 どうしたものかと思案している内に、近江は扉越しに人が近付く気配を感じ取り身構えた。

 「(……敵か?)」

 耳を澄ませ、微かに聞こえる足音から、人数は一人である事がわかる。しかしその者が敵なのか、味方なのかはわからない。

 近江が隠れている部屋は、総督府内の多々ある執務室の内の一つで、閉じられた扉の向こう側は同じような部屋の扉が並んだ廊下が続いている。似たような扉が並ぶ廊下を歩く人物が、この部屋に来る事は無いと思いたいが、用心に越した事は無い。

 息を殺し、近江はじっと身を潜める。

 足音はそのまま扉の前を通り過ぎようとしたが――

 不意に、近江の傍でぴたりと止まった。

 そして次の一瞬、近江に襲いかかった。

 扉が突然蹴破られたように開くと、近江は飛び込んできたものに身を一瞬で構えた。それはまるで熊のように大柄な迫力を以て、近江の目の前に覆い被さるように襲ってきた。

 小銃は蹴り飛ばされ、刀を抜く暇もなかった。

 近江は受け流すようにして身を逸らした。憲兵学校で学び培ってきた合気術が功を成した。

 だが、相手も負けていなかった。かわされるや否や、次の一手を繰り出してきたのだ。

 その技もまた、近江は受け止める事で防ぐ事ができた。だが、受け止めた両腕の部位がダメージを負った。

 衝撃で吹き飛ばされる近江だったが、そこでようやく、相手の正体を捉える。

 闘争の間、近江は既視感を覚えていた。そして、次の一撃を加えようとしてくる相手の姿を見て、再び身を構える。

 両者の目が合った途端、互いの動きが止まったのはほぼ同時だった。

 お互いの致命傷を眼前に捉えたまま、自らの攻撃を止めた両者は、束の間の静寂を共有する。

 先に離れたのは、近江の方だった。

 「……貴方も私と同じか?」

 「………………」

 目の前にいる相手の服装を上から下まで眺めてみる。近江にとって見覚えのある格好だった。

 その黒い制服に身を包んだ姿は、会議参加国のSPだ。その姿は、台湾の警護チームの服装だ。

 よくよく見ると、所々に戦闘の跡が見受けられた。黒い生地に、うっすらと赤黒い血痕も付いている。

 「私は帝国陸軍憲兵隊の近江一宇大尉だ。貴方は?」

 「……台湾の、李菊倫リ・ジュールンだ」

 近江は李菊倫と名乗る台湾人に、これまでの経緯を話した。

 攻撃ヘリの襲来と、その後に起こった武装集団の襲撃。庁舎に迫る敵を迎え撃つために、庁舎内にいた憲兵隊が応戦したが、圧倒的な火力を前に瓦解してしまった。

 李菊倫もまた近江と似たような話だった。敵の一部が、会合に参加した加盟国の警護チームの中に紛れていたと言う。彼以外の正規の警護チームの隊員はほとんど殺されたらしい。

 「(やはり敵の一部が内部に潜んでいたか……)」

 外から突入してきた武装集団が実行した割には、巨大な庁舎の占拠が早過ぎると思っていた。

 敵の一部が、参加国の要人達を警護するSP等に紛れていたのなら納得がいった。

 だが、敵の浸透を見抜けなかった事が悔やまれる。

 「……とりあえず状況を外に報告したい。何か、良い方法は無いか?」

 近江の問いかけに対し、李菊倫は「名案がある」と指を立てた。

 李菊倫の表情を見た近江は、その言葉に本当の意味が含まれていない事を瞬時に悟った。

 「……それは?」

 だが、訊ねる。

 「ある所から、調達しよう」

 廊下の先へぐっと立てた親指を向けながら言い放った李菊倫に、近江は応じざるを得なかった。



 華やかなシャンデリラが天井に彩る、総督府庁舎の室内。大韓帝国を併合し、日本領となった朝鮮を統治するために設置された朝鮮総督府は今年で築百年になるにも関わらず、その雄大で、日本建築特有の耐震強度のあるがっしりとした景観は尚も健在だ。

 併合から百年、史上初めて敵の手に下った朝鮮総督府。

 大理石のメインホールも、銃撃戦によって倒れた人々の血で汚れてしまっている。

 新築同様に美しかった総督府の室内は、どこもこんな有様だった。

 廊下に転がる遺体を尻目に、近江は李菊倫と共に何処とも言えぬ場所に向かって進んでいた。

 「どこか怪我をしているのか?」

 李菊倫の服に着いた血痕を見て、近江は言った。

 「この血は俺のじゃない」

 李菊倫は手元に握っていた拳銃を強調した。改造された米国製の拳銃だ。銃身の先端には消音器サプレッサーが備え付けられていた。

 「あんたの所に行く途中で、一人、遭遇した。そいつの血だよ」

 平然とした表情で答えた李菊倫の様子を近江はある一点に解釈する。

 「……戦闘には慣れているようだな」

 実際に彼の戦いを見たわけではないのに、近江は李菊倫の様子を見ただけでそう捉えていた。

 だが、近江の感覚を李菊倫は否定する事はせず、何故か鼻で笑っただけだった。

 これまでに何度か言葉を交わしていた近江だったが、彼がどういった性格を持った人間なのか、近江はわかりかねていた。

 会合のために来日した台湾代表団のSPと聞いたが、彼と言葉を交わす度に、近江の中に生まれた違和感は膨らむ一方だった。

 そして更に妙な感覚が、近江の中で疼いていた。

 「(……気のせいか? この男を、どこかで見た事があるような――)」

 そんな思考を遮るように、近江の目の前に李菊倫の腕が伸び、軸足を止めた。

 「……本当に慣れているのかどうか、その答えを見せてやるよ。日本人」

 李菊倫の視線の先に、近江は敵の姿を見つけた。




 総督府の占拠に成功した彼らだったが、築百年の庁舎は実に広大だ。裏から調達した設計図にも描かれていない秘密の空間があっても何ら不思議ではない。故に生き残りがどこかに隠れていようなら、見つけて一掃するつもりであった。

 武装した彼らは、薄暗い庁舎の中を頻りに歩き回っていた。敷地の外には、日本軍や警察が取り囲んでいる様子が伺える。だが、いくら人の血が通っていない日帝だろうと、強硬手段を取るとは思えなかった。何せ、東亜連合に連なる各国の大臣や高官が人質にされているのだから。

 人命を無視し武力で制圧しようものなら、日帝の地位は地の底に落ちる事になる。日帝は結果的にアジアだけでなく世界から孤立するだろう。

 それもまた望むべきだが急ぐ必要はない。

 このまま事が順調に進めば、いずれ日帝は傀儡を一挙に失う事になるのだから。

 「……日本政府は要求を呑むと思うか?」

 総督府を占拠した武装集団のリーダーであり、朝鮮光復軍を束ねる朴は、面白そうに含み笑いながら、同じ格好をした成鐘律ソン・ジョンリュルに訊ねた。

 人質の前に立っていた成鐘律は、チラリと視線を向けるだけだった。

 成鐘律の目の前には、捕えられた人質が並べられていた。

 皆、両手首を同じ縄に並ぶようにして縛られ、両手足には手錠のようなものが掛けられている。

 自由が許されているのは目と口だけで、完全に身動きが取れない状態だった。

 人質は各国の大臣や高官であり、朴に一番近い端には日本の商工大臣が居た。

 「貴様ら、こんな事をしてどうなるか……」

 「まだ減らず口を叩く元気はあるようだな」

 朴は自分を睨む日本の商工大臣を見下ろすようにしながら、にやりと笑った。商工大臣の顔はひどく腫れており、口端からは出血までしている。喋る度に、彼らに殴られた結果だった。

 朴が近付き、商工大臣はまた殴られると思い、歯を食いしばるが、朴の拳は全く別の方向に飛んでいった。

 「ぎゃっ!」

 「――!」

 悲痛の声を上げたのは、彼ではなく、隣にいた中華民國の高官だった。

 自分に来るものとばかり思っていた商工大臣は、目を見開いた。

 「いい加減、分を弁えろ、日本人野郎め」

 「……ッ」

 また何か言おうとした商工大臣だったが、自分が口を開く事で誰かが殴られると悟り口を噤む。

 それを嘲笑うように見下ろした朴は、彼らの下から離れていった。

 「朴」

 人質の傍から戻ってきた朴に、覆面を被った男の一人がやって来た。その手元には他のテロリストと同様、AKの部類と思われるサブマシンガンがある。

 「一部に連絡が取れない者がいる」

 「……鼠でもいるのか?」

 朴は見回りの中で、定時連絡に出ない者がいる情報を耳にする。残党の仕業だろうか。朴は覆面を被った男達を集めると、指示を出した。

 「お前達で向かえ。 鼠がいたら即刻始末しろ」

 朴の指示を聞くと、男達は武器を手に、部屋から出て行った。

 「……ジョンリュル。人質を……日本人を何人か、適当に選んで一箇所に集めろ」

 「何をする気だ?」

 呼ばれた成鐘律は、不敵に笑う朴の表情を見た。

 「――ちょっとしたショーだ」




 朝鮮総督府を取り囲む日本軍の部隊を統率する移動指揮車には、満州から帰国した第19師団長の北条忠考中将に加え、総督府を包囲する戦車大隊を所有する第21師団長の小早川憲政中将、そして第20師団長の会津誠中将の御三家が揃っていた。

 「おお、忠考! よく帰ってきたな」

 指揮車内に上がり込んできた北条に、会津と並んでいた憲政が手を広げて迎える。

 だが、北条はそんな憲政を睨むだけだ。

 「……小早川、会津」

 北条が二人を順に見据える。中でも大きな体格を有する会津でさえ、北条の鋭い視線をただ受け入れるしかない。

 「俺が満州に行っている間に、このザマは一体なんだ。俺は貴様達に留守を頼んだはずだ」

 北条の怒りは確かに本物だった。光復軍討伐のため、隣国にまで遠征に行ったのだが、不在の間に自分の庭先でこんな事になってしまっているのだ。

 「……あんたの言う事は最もよ」

 熊のような体格を持ち、質実剛健とも言われた第20師団長の会津が、その頭をゆっくりと下げる。

 「この事態を防げなかったのは、完全にこちらの不手際だわ。責任は全て……ワタシにある」

 「会津……」

 憲政は会津の心情を悟った。

 総督府に先制攻撃を仕掛けた攻撃ヘリは、会津の第20師団が駐屯する大邱駐屯地のヘリコプター部隊のヘリだった。自分が統率する部隊のヘリが関わっている事に対して、会津はこの中でも強く責任を感じているのだった。

 「この責任は全てが終わった後に、この命と引き換えにしてでも払うつもりよ。だからそれまでは――共に事態の解決に協力してほしい」

 「………………」

 北条はじっと会津を見詰める。

 「……テロリストを掃討し切れなかった我が方のミスでもある。必ず奴らを始末してやる」

 それだけを言うと、北条は指揮車から降りてどこかへ行ってしまった。

 会津の大柄な肩を、憲政がぽんと叩いた。

 まるで大人と子供のような体格差の二人が並ぶ。憲政は伸ばした腕を戻し、会津に向かって笑みを見せた。

 



 気配を感じて、近江と李菊倫は身を隠す。そっと覗き込むと、その先に二人の人影があった。

 「在吗ザイマ?」

 「フォー不在ブーザイ

 微かに聞こえた敵の会話に、近江は違和感を覚えた。

 彼らが話している言語は、日本語でも朝鮮語でもなかった。

 しかしその言葉を、近江は上海時代に聞いた事があった。

 「(中国語か……?)」

 そう。彼らの口にしている言語は、明らかに中国語だった。

 敵の身なりを見ると、黒々とした武装に身を覆い、手にはサブマシンガン。顔は覆面で隠されているので、民族ははっきりと見た目で判別はできないが、会話を聞くと、彼らは日本人でも朝鮮人でもない。

 近江は李菊倫の方を一瞥する。李菊倫も気付いているようだった。

 彼らが何者なのか。だが、敵である事は間違いなかった。

 「奴ら、通信機を持っている。あれを奪おう」

 李菊倫は懐にぶら下がった通信機の類を見つけ、指を指して言った。近江もその存在を認めた。

 「見つかる前にこちらから仕掛けよう。準備は良いか、日本人?」

 「ああ」

 あっさりと答えた近江の反応が意外だったのか、李菊倫は意外そうな顔をする。

 「何だ?」

 「いや、即答だったもので驚いた。いや、舐めてるんじゃない。そういうの、得意そうには見えなかったもので」

 言いながら、李菊倫は近江の腕に視線を向ける。腕には腕章があった。

 「確かに、得意ではない」

 近江は首肯する。

 「だが、不得意でもないぞ」

 口端をわずかに吊り上げながら、近江は軍刀を手に取る。

 「お前はここから援護してくれ。俺が行く」

 「大丈夫なのか?」

 李菊倫は先程の近江が放った言葉を念頭に、問い質す。だが、近江は再び即答。

 「ああ。だから、任せた」

 近江の言葉に、李菊倫は笑みを浮かべる。

 ここから前に踏み出せば、戦闘が始まる。近江は足元に力を込めた。

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