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東亜の途 -2010-  作者: 伊東椋
第一章 日韓併合100年
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第二話 水面下の記憶

 肌を焦がすような熱い空気が記憶の片鱗。

 まるで世界がひっくり返ったかのようだった。いや、事実的に自分たちは船という箱の中に入っているのだから、その箱がひっくり返ったとならば目の前の惨状が生まれるのも納得ができる。

 大きな衝撃が全てを襲い、気が付いてみれば辺りは炎と煙に包まれていた。

 周りにいた正装を着た大人たちは、先程まで全員が似たような笑顔を浮かべ、紫や透明の液体を入れたグラスを手に、個人の色素が薄い会話を交わしていたのに、殆どが床に倒れ、呻き声を上げる者と何も語らない者に分かれている。

 その中を、ふらふらと歩くのが、小さな自分である。

 足は運動会のリレーの猛特訓をした夜の頃よりずっと重かった。必死に歩いたが、半分は引き摺っていたと思う。

 地獄に変わる前は、パーティが開かれていた。

 自分は父親と妹と共に、そのパーティに参加した。

 しかし自分は、パーティと言う催し物が嫌いだった。

 大人たちがよくわからない話をしながら、お酒を飲むパーティは子供の自分にとっては騒がしくて下らなものの他になかった。会社などに関係した大きなパーティがあると、何故か自分は長女として父に連れられた。

 父親の隣で、もしくは背中に隠れるように、会場に出された豪華な食事やジュースを口にするだけだった。

 今回が普段より違う点を言えば、妹が初参加ということだった。

 妹は自分とは逆で、会場に入るやその空気に喜んだ。妹にとっては楽しい場所だったようだが、自分には到底理解できず、やはり普段通りに父の陰でムスッと過ごすのだ。

 そんな陰を与えてくれた父が、自分から離れていったことにすぐに気付いた。

 父親はトイレをせがんだ妹を連れ、自分の下から離れていった。

 最初は自分も一緒に連れていこうとした父だったが、大嫌いなパーティに連れてこられて不機嫌だった自分はどういうわけか同行を拒んだ。

 仕方なく父は不機嫌だった自分を置いて、ぐずり出した妹をトイレまで連れて行った。

 それからである。周囲に、自分の身に異変が生じたのは。

 目を開いた先に見えた世界は―――船内は、燃えていた。

 周りの変貌に自我が遠のく自分の足が再び動き出した先は、父と妹が向かった方角だった。

 焼け焦げるような熱さの中辿り着いたトイレには、父も妹もいなかった。

 火が踊る中を、父と妹を求め、さ迷い歩いた。

 そして、意識がなくなるまでさ迷い続け、とうとう父も妹も見つけることはできなかった。


 

 ふと、水面の下に沈みかけた意識を引き揚げた。

 肘を机に突いて眠りかけていた少女―――斎間さいまみやこは、今が授業中であることを思い出す。

 冷静な表情の下で静かに動じた焦りが、視線を教室の時計に向かわせた。しかし驚いたことに眠っていた時間は一分しかなかった。

 53秒ほどという短時間の間に見た夢とは思えない程に長かった夢想の時を過ごした京は、眠気を毟り取るように、密かに一瞬だけ眉間を摘んだ。

 教室にいる者の中に、京が眠っていた事実に気付いた者は誰一人いなかった。

 京は微かな安堵を覚えると共に、怠惰な自分を心中で叱咤した。

 授業中に居眠りをしてしまう己のだらしなさ―――そして、未だ過去の記憶から克服できていない自分の弱さを。

 道場でどれだけ稽古を積み重ねても、全国に斎間の名を何度も轟かせても、自分自身の心の弱さは叩き斬る事には至らなかった。

 失った父と妹、幼き自分が経験したあの時の記憶が、トラウマとして何時までも京を縛り続けていた。 京は目の前の授業に意識を復帰させることに努めた。一分弱の離脱を経て復帰した日本史の授業は、丁度時代の移り変わりを解説している所だった―――


 「……さて、前回は300年続いた江戸幕府の終焉となった戊辰戦争と庶民が担い手となった江戸文化の解説を行ったが、今回は明治年間(1868年~1912年)。 つまり、今回の授業から明治時代と呼ばれる時代に移行する」


 李忠邦り・ただくに教諭。朝鮮系の名字が含まれている通り、彼は朝鮮系日本人である。京たち第二学年の日本史担当教諭だ。素朴な顔つきで細い体躯の持ち主だが、紳士的で温和な性格から女子を中心に生徒からの人望も厚い。


 「前回の授業で語った戊辰戦争に勝利した維新政府は旧幕府勢力を退け、明治新政府を樹立した。 この新政府は天皇大権の下で欧米諸国から学んだ諸制度を導入し、廃藩置県、身分解放、法制整備、国家インフラの整備等の一連の改革を遂行した。 その過程で列島近辺にあった琉球、蝦夷、小笠原諸島等を完全に日本の領域内に置き、国境を画定。 旧幕府時代に結んだ不平等条約の改正を目指し、帝国議会の設置や憲法の制定などを行った」


 朝鮮系日本人。それはこの半島なら何ら不思議はない。本州内地にだって大阪を中心に各所に滞在する者も大勢いる。何故なら朝鮮系は100年前の併合時から日本人の一員となった者たちなのだ。その子孫たちが今の朝鮮系日本人である。


 「そういった国政整備に努める一方で、産業育成、富国強兵といった軍事力強化をも国政として推進し、日本の近代国家としての建設は急速に進展した。 その後、日清戦争と日露戦争に勝利を収めた後、日本は晴れて列強の一角を占めるようになり、国際的地位を確保していく中で台湾統治や朝鮮併合を行った」


 明治時代の始まり。近代国家として急速に発展する日本。そして初めての対外戦争。勝利。それらの解説が簡潔かつスムーズに進み、いよいよと言わんばかりに李の口調がある基点から鋭利なものに変わる。


 「清と露西亜との二つの対外戦争に勝利した日本は更なる国際的地位を求め、台湾統治や朝鮮併合を行っていく。さて、ここからが今回の授業の本題と言うべきだろう。日清・日露戦争は簡単に解説したが、私達にとって、半島に住まう人間にとって重要な歴史部分が、この統治・併合部分だ」


 半島を始め、北東東亜の一部を領地又は影響下に置く日本は、その地域・地方から各所によって学ぶ歴史の重点も異なる。その例として、半島に住まう人々が学ぶ日本史は、特に明治時代からの朝鮮併合に纏わる部分だ。


 「当時の朝鮮は大韓帝国であったが、この国は独立国と呼ぶには難があった。何故なら国民に悪政を強いる上に、当時の宗主国であった清や日本、露西亜の板挟みにあっており、どの国につくかという状態だったからな。1904年の日本と大韓帝国の間で結ばれた条約、そして日露戦争の勝利で朝鮮半島南部への露西亜の南下を喰い止めることを達成できたことで、維新以来の最大の懸案事項だった朝鮮の自立と近代化が進展することとなった」


 併合―――朝鮮が、日本の一部となる。その契機である。


 「しかし……とんでもない事件が起こる。協約によって初代統監となった伊藤博文が朝鮮人テロリストに暗殺された。伊藤博文を暗殺したテロリストは大韓帝国が日本の保護国となることを認めない。つまり独立を主張していたわけだが、彼の暗殺が日韓の併合を加速させることとなった。何とも、皮肉な話だ」


 一瞬、李の目が憐みに染まる。しかし字を読み取る瞳はすぐに戻った。


 「この暗殺を受け、日本による大韓帝国の併合が加速化することになった。会員100万人といわれる当時朝鮮最大政党だった一進会も併合推進派であり、日本政府も既に閣議で併合する方針を固めた上で、日韓併合は慎重に議論された。欧米先進国との仲を気にしていた日本政府は世界各国に日韓併合の是非を打診し、結果的に世界各国の了承を経て併合を成し遂げた。つまり、日韓併合……朝鮮の併合は伊藤博文暗殺が決定打となったわけだな」


 独立を願い出た行動が、全く逆の結果を齎す。何とも―――愚かな結末である。

 本当に独立を願っての行動かは知らないが。

 どちらにせよ京にして見れば、同情の欠片もない。

 むしろ感謝する。

 何故ならこの併合のおかげで、朝鮮はこうして日本の一部となって繁栄を遂げ、長い平和を享受することができているのだから。


 「この併合が齎したものが何なのかは皆が一番よく理解していると思う。朝鮮が日本の一部となったことで、朝鮮は奇跡の繁栄を遂げた。授業ではもう少し先の話になるが第二次世界大戦を経ても朝鮮は日清日露戦争のような直接的な戦火に晒されることはなく、この京城に限っては大阪や名古屋と肩を並べる程の大都市にまで成長した。朝鮮併合は正しい選択だった、と視る意見が大半だろう」


 しかし、と李は続ける。その視線は既に教科書から外れている。


 「一部の史観ではこの併合を『侵略』と呼ぶ所もある。日本によるインフラ、科学整備の恩恵を受け、飛躍的に発展した朝鮮の現状を見ても尚、朝鮮独立を叫ぶ一部の者は皆、この日本の統治を侵略としている。これをどう思うかは個人の自由だが、こういう史観もあるということで皆も知っておいてほしい」


 そのような輩は確かに存在した。国内左翼の一種としても、朝鮮独立や在朝鮮の日本軍に対する批難の声を叫ぶ者もいるが、その勢力も現代となっては極少数に過ぎない。

 多くの人が日本からの脱却を望んでいないだろう。日本が朝鮮に齎した恩恵の数々を一番よく理解しているのは、誰よりも朝鮮人であるはずなのだから。

 「先週に知らせた通りだが、今週末は併合歴史記念館の記念行事がある。この行事には我が校からこのクラスが参加することになっている。君たちは行事の中でも大切な役割を任されることになるので、ぜひ頑張ってほしい。では、今日の授業はここまで。今週末、楽しみにしているぞ」

 生徒の返事を聞き届けると、李は満足そうに頷いた。同時に授業終了のチャイムが鳴り、李は教科書を手に持って退室した。

 





 京城憲兵隊本部。


 任意同行によって京城憲兵隊本部に連行された金の取り調べが始まった。

 外部への機密漏洩の嫌疑を問われた金は取り調べに対し、一貫して否認の意を主張していた。

 金本人への取り調べと並行して、連行当日に入店していた漫画喫茶からの捜査内容が近江の下に届いた。

 「金少佐の使用していたパソコンから過去のログを回収したものです」

 金が店内で使用していたパソコンから洗い出したログを紙面に印刷したものを、近江は目の前に座る京城憲兵隊司令官の新発田しばた繁和しげかず大佐に手渡した。

 「金少佐は対象の店からコンピュータネットワークを通じたデータ通信回線を利用し、他者との雑談を一時間強続けていた模様です。少佐と相手の会話の内容が、こちらになります」

 「……朝鮮語、だな」

 「はい。ご覧頂いてお判りになる通り、会話は全て朝鮮語で行われていました」

 パソコンにおける文字の入力モードは平仮名・片仮名と英数、変換モードは漢字が基本だが、統治初期から普及したハングル語教育が継続している事情から、朝鮮内のものにはハングル文字が入力モードに含まれている。

 過去のログが印刷された紙面には、ハングルと漢字が入れ混じった朝鮮語が続いていた。

 「相手も朝鮮系ということか?」

 「まだ確証はありません。この会話内容を精査した結果、気になる部分が幾つか見受けられました」

 一方の渡された紙面を覗く。ある文字が、他の文字より多く使われていることに気が付く。

 「……“太極旗”。“ハン”……」

 会話にはこれらの文字が多用されていた。それらは朝鮮系には特別な意味がある言葉だった。

 

 ―――長い受難の歴史に終止符を打ちたい想いは、民衆の胸の底に、百年間の恨として存在し続けていることを信じている―――

 ―――日本から甘い蜜を吸わされ感覚が麻痺してしまった哀れな民衆だが、我々が救ってやらなければならない―――

 ―――恨は民族の根源である。何時の日か訪れる大韓独立のために、我々は日本に対し恨を以て対抗しなければならない―――

 ―――忌まわしき百年の場所に、太極旗が翻る時を、一瞬でも願望して止まない―――


 全ては金の発言を抜粋したものである。他にも演説染みた言葉の羅列を相手に説くように続けている。

 これは所謂チャットという可愛らしいものではなかった。

 これらのチャット上の発言だけでは嫌疑を確実のものとする要素には遠く及ばないが、日本軍人としての発言としては、許容される個人の思想の範囲内を越えている。

 「金少佐は大分国家に対する反発心を抱いているようです。一介の軍人が、明確にこのような思想を外部の者に暴露してしまっているこれもまた問題。完全なクロとは言えませんが、完全なシロとも言えない状態でしょう」

 「ううむ……」

 新発田が唸る。顎鬚を擦りながら、難しい表情で見詰める金の会話。

 近江は更に加える。

 「そして、もう一つ。ここをよくご覧ください」

 近江が指した部分を、新発田が覗き込む。


 ―――忌まわしき百年の場所に、太極旗が翻る時を、一瞬でも願望して止まない―――


 新発田が見開いた目で近江の方に視線を向ける。

 「……近江大尉。これが冗談である見込みはどれくらいあると考える?」

 溜息を吐きそうな表情を浮かべた新発田の顔を真っ直ぐに見据えながら、近江は淡々と答える。

 「憲兵隊としては、警戒を促した方が得策かと考えます」」

 不必要に警戒を高め、府民に不安を募らせるような行為は望むべきものではない。

 しかし、それに見合うだけの信頼があればまた別である。

 「直ちに」

 近江のはっきりと放たれた言葉に、新発田は遂に吐息のない溜息を吐いた。

 「……府内全域に警戒態勢を敷く。それで、最も可能性のある場所は大尉も考えが付いているようだな?」

 「はい」

 近江はやはりどこまでも無であり、冷静だった。近江の様子を見ていた新発田は自分の心情に対し、阿保らしく思えそうになった。

 「では、その区域の警戒担当を大尉に委任しよう。任せたぞ」

 「受け賜わりました、大佐殿」

 近江は敬礼を掲げると、毅然とした足取りで部屋を出て行った。


■解説



●日韓併合

1910年、当時の日本と大韓帝国の間で締結された韓国併合ニ関スル条約の下、日本が大韓帝国を併合した。以後、作中の2010年に至るまで朝鮮半島は日本の領土となる。



●朝鮮系日本人

日韓併合によって、朝鮮半島にあった大韓帝国が消滅し日本の領土となったことで日本国民になった朝鮮人は朝鮮系日本人となった。



●伊藤博文

日本の初代内閣総理大臣。日本が大韓帝国を併合する閣議決定を成す前は日韓併合に反対する立場に立っていたが、協約によって保護国となった大韓帝国の初代統監として就任し、日本の朝鮮に対する政策に反発した朝鮮人の恨みを買うこととなった。結果的に朝鮮人の安重根にハルビンで暗殺された。



●安重根

初代統監だった伊藤博文を暗殺した。日本側からはテロリスト、民族主義者として認識されているが、一部の朝鮮独立派や朝鮮光復軍からは独立運動家として英雄視されている。


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