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東亜の途 -2010-  作者: 伊東椋
第四章 京城動乱
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第十九話 アイデンティティ


 台湾

 高雄市


 台湾島南部に位置する高雄市は、台湾第二の都市である。台湾もかつては朝鮮と同様に日本の統治下にあったので、高雄もまた日本統治時代の名残が濃く残っている。

 港には台湾に駐留する日本帝国海軍の軍港として、旭日旗を垂らした日本の軍艦が係留し、市街地には未だ30パーセントの日本系住民が住んでいる。日本の統治を離れ、台湾人の自治政府が樹立してからも、日本人との共存はしかとこの都市にも見られた。

 そう、朝鮮と同様に日本の統治を受けた場所。


 朝鮮と唯一異なるのは――自治権が得られた事である。


 自治とは言え、台湾が長年統治された日本から自立した証拠である。

 過激なテロ行為を行っても独立できない朝鮮とは裏腹に、台湾は暴力を振るう事なく、独立への第一歩を踏み出したのだ。

 活気に満ち溢れた台湾の人々を見て、林昊乗は確かに羨んでいた。

 「どうかね、ここでの生活は?」

 高雄の市街地をバルコニーから見下ろしていた林昊乗は、声を掛けた男の方に振り返った。

 「……快適です」

 「そうだろう。 台湾の自然は、大きなリフレッシュになる」

 うっすらと皺を刻んだ五十代の男が、柔らかい笑みを携えながら林昊乗の隣に寄ってきた。その両手には温かいコーヒーがあった。

 男の名は馬瑞漢バ・ズイカン。高雄に住む台湾人であった。

 「自然だけでなく、人も、街も、何もかも――」

 馬瑞漢は片方のコーヒーを、林昊乗に手渡す。

 「ここから見下ろす高雄は特に癒される。 これまでに培われてきた努力の結晶が、思う存分見渡せるのだから。これが台湾の歴史なのだと――」

 高雄は、標高200メートルの麓にある港湾都市だ。海からの目当てになる山と、旗津という名の砂州に保護された潟は、古くから良港として知られている。テーブル状になっている台地の高い位置から見下ろす市街地は、正に絶景である。

 「君にはこれを見て、感じ取ってもらいたい。 君がここにいる理由も、きっと答えが見つかるだろうしね」

 「………………」

 馬瑞漢はコーヒーを口に含み、前方に見える市街地を見詰めていた。

 林昊乗は、無言で高雄の街を見下ろす。

 春川を一人脱出した林昊乗は、朝鮮を出て――海を越え、台湾に辿り着いた。

 何故、林昊乗は台湾に居るのか。

 日本軍の包囲網から命辛々突破した林昊乗は、その途上である男と出会う事となった。

 それが目の前にいる台湾人の男。馬瑞漢だった。彼は日本軍に追われていた林昊乗を助けると、台湾まで連れてきたのだ。

 朝鮮を脱出した林昊乗が台湾の高雄市にある馬瑞漢の家に転がり込んで――丸三日が経っていた。

 何故、彼は自分を助けたのか。明白な理由はわからなかった。だが、あそこで死ぬよりは、賭けるつもりで彼の手を掴む事を選んだ。

 馬瑞漢が林昊乗を匿って三日が経過しても、馬瑞漢の様子に変化は見受けられなかった。

 「――釜山プサンを、思い出しました」

 林昊乗は、ぽつりと言った。

 「釜山」

 「はい、朝鮮の南部にある港町」

 「その釜山という街と、ここは同じかね?」

 林昊乗は首を横に振った。

 「……いえ、同じようで全然違います。 確かに釜山も朝鮮の中でも発展した都市ですが、どこかが明らかに違います」

 「ほう」

 馬瑞漢は興味深そうに、林昊乗の横顔を見た。

 「どう、違うと?」

 馬瑞漢は問いかける。

 林昊乗は、ゆっくりと口を開いた。

 「この二つの街は共通点が多いけども、明らかな差異があります。それは、日本の色です。台湾も朝鮮と同様、かつては日本領だった。しかし、台湾は途中で日本から自立した。ここが朝鮮との大きな違いだ。高雄ここは台湾の色が濃い。日本の色と上手く混ざり合っているけれど、台湾の人々が自ら作り出した色が突出している。しかし釜山は――完全に日本色だ」

 林昊乗は続ける。

 「当然だ、朝鮮は今も尚日本の支配下なのだから。 だが、台湾には日本の色だけでなく、台湾独特のオリジナルティがある。それが羨ましい。我等の朝鮮が如何に自らの誇りを失くしたのか、台湾の人々を知る程に痛感してしまう」

 林昊乗は自らの手元を見下ろし、コーヒーの水面を揺らす。

 「……朝鮮も、台湾のように自立できる日が一日でも早く訪れたら良いと、心から思う」

 「………………」

 林昊乗の顔をじっと見詰めていた馬瑞漢が、次の一言を鋭く放った。

 「――君は、何か勘違いをしているな」

 「何?」

 馬瑞漢の言葉に、林昊乗は視線を向けた。

 「確かに台湾は、日本から自立の道を歩み出した。 しかしそれは、日本の支配が嫌になったからではない」

 馬瑞漢は言葉を紡ぐ。

 「日本を見習うために、台湾は自立したのだ」

 「―――」

 林昊乗の瞳を見詰めながら、馬瑞漢ははっきりと言った。

 朝鮮と同様に日本の統治区域だった台湾は現在、自治権の強化に伴い日本の統治から離れ、現在は台湾自治共和国として在る。

 日清戦争後の下関条約により日本に割譲された台湾。統治を開始した当初から台湾にも独立運動の動きは芽吹いていた事があった。

 だが、それは真に台湾を独立させる事を意図したというよりは、戦争に敗れた清朝側の工作によるものであった。

 その結果、当初の独立運動と言う名の日本への抵抗は短期間で終息する事となる。

 1920年代には日本共産党の指導下にあった台湾共産党が、コミンテルンの指示を受け、『日本帝国主義』からの独立を目指した事もあった。

 割譲後から数十年に渡って日本の統治下にあっても、日本政府に対する自治権強化を求める運動や、内地並の参政権を欲し台湾への帝国憲法施行を求めた運動などが主流であった以外に、明確な独立を求める運動はまるで無かった。

 むしろ台湾において、日本からの独立や大陸への帰化と言った声は少数であった。

 当時の台湾住民の間では、内戦とその後の国民政府の独裁政治による大陸の実情を知り、中華民國への失望や反華感情が高まっていた。そんな経緯から、台湾住民からは中華民國に接近する日本政府の態度や方針に異議を唱える声が大きかった。台湾はやがて日本から自治権を獲得する事に成功し、台湾自治共和国として自立した。

 「私達の台湾は、君の故郷より早く、最初に日本の統治下に入った所だった。 当時、清朝にも見捨てられ荒れ果てていた台湾の地を何年もかけて近代化させたのが日本だ。これと似たような話を、君も聞いた事があるんじゃないかな?」

 「………………」

 清から日本に割譲された当時の台湾は荒んだ土地に他ならなかった。

 部族間の抗争、病気や阿片が蔓延、盗賊が跋扈し、殺戮や略奪に塗れ――

 アジアに植民地を形成していた欧米諸国すら欲しがらない程に荒れ果てていた。

 戦争に敗れた清が日本に台湾を割譲したのは、荒廃した土地である台湾が素直にいらなかったからである。

 そして無法地帯と化していた台湾を近代化させ、整備したのが日本だった。日本の台湾近代化は、世界中を驚愕させた。

 「君達は、これらの事実を別の解釈で受け止めているようだがね。しかし君達と同じ解釈を抱いている台湾人は一人もいない」

 馬瑞漢は自分の話を黙って聞いている林昊乗の方に視線を向けたまま、ふっと口元を和らげながら言葉を続けた。

 「君は言ったね。今の朝鮮は完全に日本の色に染まっていると。 だけどね……それは思い違いだよ。本当はどちらとも変わらないはずだ」

 馬瑞漢の言葉に、林昊乗が驚いた表情を浮かべる。

 「何故なら日本の統治を受けた地域は、何処も等しい扱いを受けてきたからだ。 台湾、朝鮮、南洋の島々……日本の統治下にあった全ての地域が、平等に日本の恩恵を授かった。思い出してみなさい、本当に君が見た朝鮮の町並みは、日本の色しかなかったか? 街だけでなく、人は? 君達は日本が文化を奪い、日本人化を強制してきたと言っているが、果たして本当にそうだと思っているのか?」

 「事実。卑しい日本人は、韓民族から言葉や名前を奪い、日本人になるよう強制した」

 「我々も『お前達は日本人だ』と言われたよ」

 ほら、そうだろう。と言わんばかりに林昊乗は頷く。

 「しかし清の領土だった頃は、同じ清の国民だと言われた事はないよ」

 林昊乗は怪訝な表情を浮かべた。

 「日本人は、我々を“同じ”日本人だと言ってくれた」

 清朝からは蛮族だ劣等人だと言われた台湾の住民が、代わってやって来た日本人に自分達は同じ人間、国民だと言われたのである。台湾人は日本人である。つまり清朝のように見下す事なく、平等に見てくれたのだ。

 「読み書きも出来なかった台湾人は、日本語を学ぶ事で、様々なものを学習する事ができた。朝鮮も同様だ。朝鮮にハングル文字や朝鮮語の教育があった事実。もし君達の言う事が本当だったら、今の朝鮮の街で見る事ができる看板には、日本語しかなかった……いや、君達が故国の言葉を話す事はできなかっただろうね」

 馬瑞漢は終始、穏やかな笑みを携えたまま言った。

 「英国は世界の半分を支配した。だが、英国の統治を受けたインドや東南アジア諸国はどうだった? インド人はイギリス人だったかな? 台湾や朝鮮のように発展したか? 世界中の歴史を紐解き、日本のような国がこれ程までの統治を行った例があっただろうか。つまりはそういう事だ。故に私達はこうして他国に侵略される事なく、希望や理想を抱いて生きていられる。台湾がどうして自力で立ち上がろうとできたのか。それは日本の助けがあったからこそなのだ」

 「……もう良い」

 朝鮮より先に日本の統治を受けた台湾が、世界有数の親日国である事は林昊乗も知っていた。抗日朝鮮人の中には台湾人を日本に支配された同胞と見る者もいるが、日本に好意的な国民が大半であるのが実情だった。台湾が何故親日なのか。それは日本に独立を認められ、日本の庇護に甘んじているのが理由であると、林昊乗は今まで考えていた。

 「貴方の思想はよくわかった。 だが、一緒にしないでほしい」

 林昊乗ははっきりと告げた。

 「日本の統治が朝鮮の発展にある程度の影響があった事は認めよう。日本の侵略を受ける前後、朝鮮に独自の力が無かったのも確かだ。しかし、韓民族に対して日本が行った蛮行もまた事実だ」

 「近代化されたのは事実であり、現在の多くの朝鮮の人々はそれを認めているのだろう? そして、抗日のためなら何でもしても良いと言う考えも、捨てなければならない事ではないのかな」

 その言葉に林昊乗が過剰に反応したように見えた。

 何かを思い出したような、そんな表情だった。

 林昊乗の表情を見詰め、馬瑞漢は言った。

 「……君と話していて、わかったかもしれない」

 「何をわかったと言うのです?」

 「日本に最も影響を受けながら、これ程までに君達と私達が違う理由だよ。そうか、つまり君達は――日本への反抗心、抗日を通じて、自分達のアイデンティティを求めているのだね?」

 「……何を言って」

 「朝鮮人は――いや、君達は日本の統治をほとんど否定するが、私達台湾人は日本の統治や影響を認めた上で暮らしている。単純な話、この両者の違う所とはそこだけなのだ」

 「逆に聞くが、台湾人にアイデンティティというものが無いのか?」

 「勿論あるさ」

 馬瑞漢は笑った。

 「もし大陸の者と同席した場で、貴方は何人かと問われたら――迷いなく『私は台湾人だ』と答えるだろう」

■解説




●台湾自治共和国

首都は台北で、台湾島全土と周囲の島々を占める自治共和国。人口は約400万人。日清戦争後の下関条約以降、大日本帝国の統治下にあったがやがて自治領となる。最高機関は台湾議会。日本統治時代の名残もあり、各地に多くの日本人が住んでいる。高雄市の軍港は日本統治時代に整備され、自治共和国の樹立後も日本帝国海軍と台湾海軍の共同運営となり、日本艦隊が停泊している。



●高雄市

台湾島南部にある港湾都市。台湾第二の都市と言われる。高雄港は日本が南方方面の補給港として整備した港で、台湾海軍との共同運営の下で現在も在台日本海軍の基地があるが、東亜最大の貿易港としての機能も有する。



●台湾人と大陸(中華民國)の関係

かつては大陸に形成された国家の一部だった台湾だが、台湾人は大陸の人々や大陸から台湾に渡ってきた人々を『外省人』と呼び、区別化を図っている。内戦時の国民党軍の行動や終戦後の国民政府の独裁政治を聞き及んでいた経緯から反華感情が高まった事もあり、現在の台湾住民の間では台湾人としてのアイデンティティの志向が強い。



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