第十五話 突入
第21師団の小早川憲政師団長率いる部隊は京城府から春川府にやって来た。
昭陽荘。春川府にある昭陽湖の観光スポット向けのペンションとして開かれたが、現在は無人となっている。昭陽湖を見渡せ、岩礁が周囲を取り囲む立地だが、経営が幕を下ろしてから寂れる一方となった。心霊スポットとしても注目されない、無価値な廃墟と化そうとしている。
「あの建物には、9人の人間がいるらしい」
部隊が突撃する時は、その現場指揮を執り行う事になっている岩本少佐は、京城からわざわざ付いてきた憲兵大尉に情報を伝えた。その憲兵大尉は包帯を左腕に巻いている状態だった。
「根拠は?」
「偵察隊が建物内部の熱源を探索した結果だ。あの荘は営業を終了してから、電気もガスも水道もストップしている。にも関わらず9人もの熱源。おそらく簡易的な発電機もあると思われる」
その内の一人が人質だろう……と、岩本は付け足した。大尉の眉がぴくりと動く。
「いつ突入する?」
「先程、包囲は完了し報告を終えている。奴らは袋の鼠だ。師団長閣下の命令が下り次第、突入する予定だ」
口端をにやりと吊り上げながら、岩本はつらつらと状況を告げる。
「本当にやる気か?」
岩本が大尉に訊ねると、大尉の鋭く尖った目が光る。
「そう怖い顔すんな。 だが、戦友のよしみで無理を聞いてここまで連れてきたんだ。心配ぐらいはさせろよ」
「……悪いな。俺の我儘を聞いてくれた事は感謝している」
京城陸軍病院から抜け出した憲兵大尉――近江は、かつての同僚だった岩本に協力を仰ぎ、春川まで付いてきた。絶対安静と軍医から忠告された己の身体を叩き起こし、苦痛を堪えながら春川までやって来た近江の意志は一人の少女に向けられていた。
「このまま貴様を行かせたら、状況的に俺達が陽動になるかもしれないな」
部隊を突入させ、テロリストと交戦になる隙を見計らって近江が一人侵入する構図になるのは直々に指揮を下す師団長すら知らない事だ。もしバレれば岩本の責任追及も免れない。
「俺がここまでやるんだ。必ず人質を救い出せ。俺達は敵を殲滅する、だから貴様はあの少女を連れ戻す事だけを考えろ」
「ああ」
林昊乗が定期的に京の監禁部屋に訪れるのは、彼が京の監視役であるからだった。必要な食料や水を持参してくるのだが、それが彼の気遣いなのかはわからない。
「漢城で育ったと言っていたが、どれくらいだ?」
林昊乗は部屋に来るなり、よく京に話しかけた。
「……生まれてからずっと」
朝鮮の最大都市である京城を、彼らは漢城と呼んでいる事を、京は林昊乗の話を聞いて初めて知った。
「そうか」
「貴方はどこの生まれですか?」
「俺か?」
いつの間にか、京も自分から言葉を交わすようになっていた。京の事を自分の妹と似ていると言った目の前の若い男は、拉致された初日に出会った朴と言う男とは違う人間のように見えた。
「俺も漢城で生まれたが、郊外に近い端っこの方だ。小学生になるまで住んでいたが、それからは北に渡った」
「北、ですか」
「親父が北部の工場で働いていた。子供の頃は北の工業地帯で過ごした」
朝鮮半島北部は、豊富な地下資源と水力発電に適する山岳地帯が多い特徴から、重化学工業が発展した地域だった。比較的平野が多い南部に農業や軽工業が盛んだった一方、半島の重化学工業の8割以上が北部に集中し発展した。
林昊乗が少年時代に過ごした地域も、周りに製鉄所や工場などがあった。
北部の工業地帯が、朝鮮半島の経済発展に大きく貢献したのだが、林昊乗は工場から流れる汚い空気が好きではなかった。
水や空気を汚染する地域で何年も過ごしていく内に、身体が弱かった母親や労働に従事していた父親は相次いで早くに亡くしていた。
半島での思い出とは、林昊乗にとっては工場に囲まれた生活でしか覚えていない。
「つまらない記憶しかない。語る価値もない事だ」
「………………」
今や朝鮮半島は日本に統治されてから、本土に劣らない程の経済成長を遂げている。むしろ併合からの昭和時代は、本土の都市よりも発展していた。
しかし同時に、経済発展の裏には本土と同様に公害の問題があった。
朝鮮も例外ではない。
「私が妹に似ていると言っていましたが、妹さんは今何をしているのですか?」
「妹は……」
京のじっと見据えるような瞳が視界に映った。バレているか、と林昊乗は思った。
「留守番を頼んでいる。 俺が出かける度に、付いていきたいと駄々をこねるので困るが、今回も何とか宥めて帰りを待ってもらっている」
「……帰ってあげないの? 妹の所に」
「これが俺の仕事だからな」
仕方ないと言わんばかりに肩をすくめる林昊乗。
「……私にも」
京が、戸惑いがちに口を開いた。
「――私にも、妹がいた。 でも……妹と一緒に過ごせる時間は後になって、どれだけ貴重だったかがわかります。貴方にもそれがわかる日が来ると良いですね」
「………………」
京の視線が正面から林昊乗の瞳に貫いた。
林昊乗は、ふっと笑みを零す。
「妹を大事だと思う気持ちは、あるよ。 だが……そうだな、妹と過ごす時間をもう一度よく考えてみるよ」
林昊乗が京から視線を逸らすようにして言った直後だった。
ポケットに入っていたトランシーバーから、ノイズが走った。
「どうした?」
『スホン、大変だ! 日本軍が来ている!』
慌てたような男の声が聞こえると、林昊乗の顔色が変わった。
「……あいつめ。やはりあいつの言う事は信用できなかったな」
憎々しげに呟く林昊乗だったが、トランシーバーから聞こえてくる男の声は更に慌てた様子で続ける。
『スホン、早くそこから逃げろ! 日本人が押し寄せてくるぞ!』
その言葉を聞いた途端、林昊乗の視線が京に向けられた。
「……そういう事か。 あの狐野郎」
『スホン、急げ!』
「後で会おう、ジョンリュル。切るぞ」
トランシーバーの電源を切ると、林昊乗は京の方に向き直った。
「お別れだ、京」
包囲は既に完了していた。寂れたペンションの周囲を、突入部隊がそれぞれの班に分かれて、配置に就いていた。師団長自ら指揮を執っている事もあるのか、訓練の成果か、おそらく様々な理由からここまで完璧に整える事ができたのだろう。
ペンションの周囲にあった監視カメラ等の類は全て把握していたので、敵に気付かれる心配はなかった。
突入部隊の背後には、指揮所を構え、わざわざ現場まで同行した小早川憲政師団長が座していた。
その憲政の下に、最後の班からの準備完了の報告が届いたのは、夜闇に浸かり始めた頃であった。
「中将閣下、全班の準備が整いました。いつでも突入できます」
小山内中佐が告げる。憲政は無線のスイッチを入れると、マイクに声を吹きこむ。
「総員、状況開始。全班突入せよ」
憲政の言葉を、現場の部隊長を務める岩本がそのまま復唱する。直後、夜闇に溶け込んだ森の中から、全班の兵士達が音もなく動き出した。
決行は夜とあらかじめ決めていた。単純に暗い方が隠れやすいからだ。敵は一日中建物の中に引きこもっているので都合が良い。春川までわざわざやって来た自分達も、この手の突入作戦は何度も訓練を積み重ねてきたので、場所は関係なかった。
この作戦は、単にテロリストを掃討し、人質となった善良なる臣民を救い出す事だけが目的ではない事を岩本は知っていた。先の連続テロ事件は、日本の面子に泥を塗る形となった。百年もの間、統治をし続けた朝鮮半島でテロが起こってしまったという事は、平和的に併合を成し遂げた朝鮮に反日、独立運動の芽が存在する事と同時に帝国の統治政策が未熟である事を世界に知らしめる事となる。更に言えば、大戦より培われてきた共栄圏自体にも影響を及ぼす危険性があり、日本一国だけの問題ではなかった。
だから中華民國も皇軍の進駐を認可し、大陸東北部にて掃討作戦を展開している。
東亜各国が協力し、反動分子を一掃する事は、今後の東亜連合の未来に関わる事態だ。欧州連合のような真の共存共栄を成し遂げるためにも、朝鮮での問題は早期に解決すべしものだった。
事実上の東亜連合の盟主である日本が、東亜地域の平和と安定に貢献できる力を有し、東亜の盟主である国にふさわしい事を世界にアピールするために、朝鮮光復軍の殲滅は一つの課題であった。
故に失敗は許されない。帝国を、東亜連合に仇名す反動分子を倒し、臣民を救う事は、東亜全体の未来に関わる事なのだ。
ペンションの裏側から、まるで忍者のように弊を昇り終えた近江は、遠くから聞こえた銃声に耳を傾けた。タタタ、タタタと三連続のフルバースト射撃の音が立て続けに聞こえる。おそらく突入した部隊の陸軍兵士が敵に対し射撃を始めたか、応戦したと言う事だろう。
怪我をした身体で無茶な事をしているのは承知しているが、近江は単身で敵地に乗り込みを果たした。
周囲の状況を確認し、敵が居ない事を確かめると、直ぐにペンションの中に突入した。
鍵が掛かっていない、むしろ鍵の機能が既に破綻してしまっている扉をこじ開け、瞬時に室内に身を滑らせる。慎重に辺りを見渡すと、あらかじめ同僚から提供された建物内部の地図を元に、9mm機関拳銃を手に奥へと侵入する。
「~~~!!」
「~~~!!」
人の声が遠くから聞こえて、近江は壁際に背中を寄せて、静止した。薄暗い廊下の先、闇の向こうに銃口を向けたまま、じっと耳を済ませる。
聞こえてきた言語は日本語ではなかった。日本語が公用語になっている朝鮮においてもたまにしか聞かない朝鮮語だった。
距離が遠い事もあって、何を言っているのかはよくわからなかったが、相当慌てている様子だった。
次の瞬間、銃撃が聞こえたかと思うと、悲鳴が上がった。
どたどたと、何人もの人間が走る音が響き渡る。
この建物の内部は、既に戦場と化している。闇の向こうで、今正に銃撃戦が展開されているのだ。
近江は慎重に周囲を警戒しながら、前へ進んだ。自分の存在は突入部隊にすら知らされていない。敵味方にしても、出来るだけ他の人間に見つからない事が成功の鍵だった。
「憲兵としては、専門外の事をしているが……」
しかしこれは自分の責任であり、自ら望んだ事だった。己の不手際で連れ去られてしまった彼女を救うために。
なんとか誰にも会わず、奥の方に進む事ができた近江は、不審な場所を見つける。
それは倉庫であったが、人が出入りしたような形跡があった。中を覗いてみると、様々な物が山積みにされている。おそらく営業中に使われていたと思われる食器や道具等。木材等もあった。
そして倉庫の奥に、淡く光るものがあった。小さな蛍光灯の光だ。近江は岩本の言葉を思い出す。
「どこから電気が……」
そして蛍光灯の下には、小さな階段があった。
蛍光灯からケーブルのようなものが伸びていたが、その先には想像通り、箱のような小さい発電機があった。
発電機があった部屋の脇には、更に別の部屋に通ずる空間があった。
そこへ足の軸先を向けた途端、異様な気配を感じ取った。刺すような、鋭い視線だった。誰かに見られている。薄暗い空間の中で立ち止まった近江は、銃を構え、辺りを見渡した。
奴らに刻まれた傷が疼いた。ザッ、と音が鳴った方に振り返ると、銃声が鳴った。
「く……ッ!」
暗い環境に救われたのか、直前に気配に気付いた近江が身を引いたからか、どちらにせよ銃弾は近江の左肩を掠っただけで、命中には至らなかった。
近くにいるのに当てられなかった――と、悔しがるような舌打ちの音が聞こえた。
銃を撃つ事を諦めたのか、床を蹴った音が響く。
「(来る……!)」
格闘戦を仕掛けようとしている事を、瞬時で理解する。引き金を引く前に、銃身で身を守る事を選んだ。
ガキィンッ――!
闇の先から襲いかかってきたナイフの刃が、胸の前に差し出した銃の銃身に当たった。
銃身に跳ね返されるように身を引いたナイフの白い刃が視界に入った。そして闇の中から動く敵の姿を見つける。
男だった。それなりに若かったが、身のこなしはプロの格闘家にも負けないものだった。
テロリストの一人か。近江は引き金を引くが、男は驚異的な身体能力で身を引いた。血しぶきが咲き誇る。男は致命傷を避けたが、腕の部位のどこかに弾が当たったのかがわかった。
それでも男の動きに一瞬の狂いもなく、俊敏な行動を見せ付ける。
ヒュッ――と、空を切るような音が鳴る。蹴り上げた男の足が、右腕に当たった。
「うぐ……ッ!」
蹴り上げられた右腕の骨がまるで中で振動するように震えた。堪え切れず、銃が手元から離れる。まだ塞ぎ切れていない傷口から激痛が走った。
やはり傷ついたままの近江の身体には無理があった。格闘戦になれば、勝てるような体調では決してなかった。
男の無表情な顔が、近江を見据える。手元に光ったナイフの白い刃が、近江の視界に見えた。
逃げられないと悟った瞬間に、闇の向こうから銃声が鳴る。
二発、三発。男は銃撃から身を守るために、避けようと身体を動かしたが、銃撃の標的は男ではなかった。
発電機の方から火花が散り、唯一の灯りであった蛍光灯から光が失われた。周囲が真っ暗闇に包まれる。
闇が下りた途端、走るような男の足音が遠ざかっていった。
敵は去った。
入れ替わるように、闇の向こうから誰かが駆け寄ってくる。だが、方角は近江が来た方向とは逆であった。
「大丈夫ですか?」
その声は聞き覚えがあった。視界が徐々に闇に慣れていく。
「……近江さん」
捜し求めていた彼女の小さな顔が、闇の中から近江を覗き込んでいた。
■解説
●春川府
山紫水明の春川盆地に位置し、朝鮮北部の金剛山から流れ出る北漢江と雪岳山から流れ出る昭陽川が市内で合流している。1946年に春川郡春川邑が春川府に昇格。東アジアにおいて最大級の砂礫ダムである昭陽湖がある。
●昭陽湖
春川府東部の昭陽江にダムが建設された事で生まれた湖。1960年代に京城周辺への生活・工業用水供給を目的とし、大規模なダム建設が行われ、昭陽湖が誕生した。湖の周囲は観光名所や釣りスポットが多くある。
●9mm機関拳銃
1999年に帝国陸軍が採用した9mm口径の短機関銃。従来の拳銃や他の小火器と比べると、威力不足や命中精度の低さが指摘されている。現に帝国陸軍での配備は限定的に定められ、現在は陸軍向けの生産を停止している。