第十四話 要求
「派手にやられたな、一宇」
治療を受け一命を取り留め、ベッドに横になった近江のもとにやって来てそう声を掛けたのは日本朝鮮軍第21師団師団長の小早川憲政中将だった。
京城府内の国道で襲撃を受けた近江は重傷を負い、京城陸軍病院に搬送された。なんとか一命を取り留めた近江だったが、直ぐに動ける状態ではなかった。
「このような座間になってしまい情けない」
「あまり自分を卑下にするな。そうやって女々しく落ち込んでいる方がもっと情けない。貴様も生粋の帝国軍人なら、行動で示せ」
男よりも男らしい師団長を前にして近江は何も言えなかった。
「まぁ、一宇はよく頑張った方だよ。今回は仕方がない」
「……それはッ!」
聞き捨てならない台詞に近江は思わず声を上げた。自分の目の前に居るのが自分達の最高司令官である事を思い出したかのように、近江は気まずそうな表情で口を閉じる。
近江達を襲撃した犯人は朝鮮光復軍である事は既に周知の事となっていた。近江達の車を襲撃し、京を拉致した者達から声明が届いたのだ。彼らの目的は朝鮮のとある文化財であり、京を人質に斎間家が所有する朝鮮王朝の文化財を要求している。
斎間家を監視していた憲兵隊を通じて、その情報は日本政府にまで達せられた。当然、日本政府は断固として「テロに屈しない」と言う従来の立場を堅持し、朝鮮総督府に対し事態の収拾を要請している。
朝鮮半島に駐屯する第21師団の師団長が直々に近江の下に訪れたのはそう言った経緯が含まれているのだが、単純にそれだけではなかった。
二人の間には軍以前の、個人的な関係もあった。
「とりあえず生きていて良かったよ。 一宇まで死なれたら、私は本当に一人ぼっちになってしまうからな」
「………………」
憲政は心からそう思うように、安心した表情を浮かべた。
そこにいるのは小早川師団長ではなく、近江が少年時代から知る小早川憲政であった。
「(俺は一体、何をしているのだろう……)」
近江は自分の無力さを呪った。たった一人の少女を守れず、無様に醜態を晒し、こうして何もせず病院のベッドの上に居るだけ。包帯が巻かれた身体は近江自身を束縛し、怪我の痛みが心にまで沁み渡る。
「一宇」
「!」
無意識に強く握り締めていた近江の拳を、憲政の掌がそっと包みこんでいた。
懐かしい暖かさに、近江は思わず視線を向ける。
「後は私に任せておけ。お前はゆっくりここで休んでいろ」
「……中将閣下!」
「こういう時ぐらいは、普段通りに呼べ」
近江の頭にそっと手を触れ、その胸元に近江の顔を引き寄せる。柔らかな感触が近江の鼻先を包んだ。
「……姉さん」
まるで子供の時のように、近江は呟いていた。
陸軍病院を後にした小早川憲政中将は待たせていた車に乗り込むと、直ちに第21師団の本拠地がある龍山へ向かうように指示した。憲政を乗せた車は一直線に龍山方面へと向かった。
「中将、斎間京斗が龍山駐屯地に到着したようです。 中将の指示通り、『国璽』を持参して」
「わかった。 では、急いでくれ」
「了解しました」
携帯電話から基地の連絡を聞いた士官が憲政に伝えた。それを聞いた憲政の指示に従い、車は速度を上げて龍山に通ずる高速道路へ入った。
斎間家の娘である斎間京を拉致した朝鮮光復軍は、斎間京斗が所有する国璽を要求している。併合記念祭の政務総監襲撃の犯人である桂洋一の供述から情報を得ていた憲兵隊が斎間家を監視の対象としていたにも関わらず、朝鮮光復軍は強引な手段で斎間京を拉致した。
「忠考が満州に遠征している今、この事態に対処する権限を持っているのは私と会津の禿だけ。 だが、会津には悪いが弟の借りをたっぷりと返す機会を貰うとするか」
憲政は自分一人でこの事態に当たる気満々だった。既に第20師団の会津誠中将にもその旨を通達しており、憲政の第21師団が斎間京拉致事件の対処に乗り出していた。
龍山の基地には国璽を持参した斎間京斗を憲兵隊により護送させ、第21師団がフル稼働で動き出していた。
京城 帝国陸軍朝鮮軍龍山駐屯地
龍山区の駐屯地に帰ってきた憲政は、駐屯地内の会議室に設置された対策特別室に入った。朝鮮総督府からの指示により発足された対策特別室はテロリストに対する軍事行動を準備するため各個からの情報収集に務めていた。
「これが朝鮮王朝の唯一現存する国璽?」
憲政の質問に答えたのは、情報主任の五十部大佐だった。
「そうです。 斎間氏が持参してきた物です。 専門家による鑑識の結果、正真正銘の本物である事も確認済みです」
「ふぅん」
差ほど興味が無さそうに呟きながら、憲政は対策特別室のプラスチック製のテーブルに置かれた国璽を眺めていた。
「これを敵が狙っているというわけか」
「はい。 テロリスト共は斎間氏の孫娘を人質に国璽の引き渡しを要求してきました」
「で、斎間の爺様は何と?」
「孫娘が救われるのなら国璽は引き渡しても良いと言っています。 しかし敵は国璽だけでなく先のテロで逮捕された桂洋一の釈放も要求しています」
敵の手に渡った人質は何とも複雑な事情を絡んだ人物であっただけに、日本側は頭を悩ませていた。民間人とは言えそれも世界に名を馳せる斎間グループを運営する一族の娘を人質にとり、文化財とテロリストの釈放という条件を提示してきたのだ。政治暴力主義に屈しないのがこの国の基本方式だが、帝國の政財界、特に朝鮮区域に大きな影響力を持つ斎間グループの令嬢に何かあれば、その影響は計り知れない。
「総督府は何か言ってきているか?」
それに答えたのは、参謀の小山内中佐だった。
「総督府からはテロリストの要求には断固として応じられないと言う、従来の帝國政府の方針を伝えてきています」
「つまり、軍が行動に出る事はほぼ確実か」
「おそらく。 すぐに総督からテロ掃討作戦の命令が届くでしょう」
「よし」
憲政は笑みを浮かべていた。
最初から敵を殲滅したいと思っていた憲政にとっては、帝國の政財界だとか斎間グループだとかに興味は無かった。陸軍病院で近江の状況を見た時から、憲政の腹の中は決まっていた。
「大佐。 情報は集まっているか?」
五十部大佐がはっきりと頷いた。
「はい。街頭の監視カメラや交通網での監視装置が撮影した映像から、既に画像解析によって敵の素性は明かされています。使用された車両も特定済みで、逃走先のルートもほぼ立証されています」
京城の都市部には、精度の高い街頭監視カメラや交通網での監視装置が至る所にあり、それが高度な画像解析に使用できるように全てネットワークで統合されている。
これは対テロ戦争が常態化した国際社会の時代の変化を見据え、監視社会である米国を参考に整備されたものである。画像解析には顔認識技術が組み込まれ、大量の映像や画像から探したい人物を見つけ出してくれる機能を備えていて、集団とは異なる行動をした人物まで特定する事が可能であった。
大した時間も要さない内に、敵の居所は暴かれた。
京が連れ去られて24時間が経過していた。殺風景な監獄のような部屋に身を置いていた京は危機的状況に陥っていた。
「………ッ」
京は体調の変化を察し、焦っていた。わかっている事だったが、思わず辺りを見渡してしまう。購入したレジ袋が何処かに落ちていないか、探し求めるように。
拉致される当日の朝から生理の期間に入った京にとって、この状況は正に今すぐ逃げ出したい程だった。
よりによって生理中に連れ去られるなんて、厄払いを検討するレベルに達している。朝起きて異常がない事に安堵を覚えたのは束の間、ドラッグストアで買った生理用品はここには無い事を再度確認済みだが、だからこそ焦りが増していく一方だ。
「おい、入るぞ」
「――!」
頭の中をぐるぐると回していた所で、施錠された扉の向こうから聞こえた声に京は身体を硬直させる。
京が強い眼光で見詰める中、テロリストの一人が部屋に入ってきた。
その男は見覚えがあった。昨日、朴と言う男に最後に話しかけた男だ。
その時、京は自分でもどうしてかは判らないが、彼が他のテロリストとはまた少し異なる風貌を感じ取った。
「!」
突然、歩み寄ってきた男に警戒心を露にしていた京だったが、そんな京の目の前に白いレジ袋が差し出された。
京の目の前に広げられたレジ袋の中には、京が所望していた品の数々があった。
「無いと困るだろうと思って、わざわざ持ってきた。 他の連中には俺が何とか誤魔化しておくから安心しろ」
「………………」
京は不思議そうな顔で男の方を見上げた。
「何故こんな事をするのかって顔だな」
京の疑問を呈した表情を見て、男は思わず少し笑ったように言った。京の前で、男は答えを口にした。
「俺にはあんたと歳が近い妹がいる。 だからなのか、放っておけなかったんだ」
妹。只の男性―――ましてや、目的の物を手に入れるために誘拐したテロリスト―――では気が届かない部分を察してくれた理由がよく判った気がした。
「あんたは俺の妹によく似ている。 冗談じゃない、本当にそっくりだ」
その時、男は目の前にいる京の事を、自分の妹と重ねて見ているような目をしていた。
しかし京にとっては関係のない話であった。
「何かあれば言ってくれ。 俺が出来る限りの事をしよう」
そう言って、男は京の前から立ち去り、部屋を出た。その後、京が置いていったレジ袋の中身を見てみると、生理用品と一緒におにぎりやペットボトル飲料が一緒に入っていた。
「スホン。 そんな事をして、どういうつもりだ?」
京が監禁されている部屋から出た林昊乗に鋭い声を掛けたのは成鐘律だった。
「何のことだ?」
「とぼけるな。 あの日本人の少女の事だ」
成の指摘は林が京に対する態度を見抜いている事を伝えていた。
「俺は特に疾しい事はしていないが? 人質とは言え子供だ。 これぐらいの計らいは許されるべきだろう」
「日本人だぞ。 子供なんて関係ない」
「日本人だ朝鮮人だ言うが、その前に俺達は人間だと言う当たり前の事をわざわざ言わなくてはいけないのか? 相手が特定の民族だからと無差別に攻撃する事は程度の低い、それこそ我々を差別する日本人と何ら変わらないだろ」
「スホン、俺はお前の事を思って言っているんだ。 お前が周りから裏で何と言われているのか知っているか」
己を貫き通す林昊乗の姿は昔から変わっていないが、だからこそ成は古き戦友として、親友として、彼に忠告を告げたかった。
「日本野郎、だ。 お前が実は親日家なんじゃないかと噂する連中まで居る」
「俺が親日家だと?」
それが本当に可笑しいのか、林は普段の彼からは想像もできない程に大笑いした。しかし成はぴくりとも笑えなかった。
「笑い事じゃないぞ」
「ああ、すまない。だが、ジョンリュル。親日家がこんな組織に居られると思うか?」
林は目元に涙を浮かべてまでまだ笑いを零していた。
「勿論俺はそんな馬の糞のような噂は信じていない。噂をする連中は日本政府のスパイだとか何とか言っているが、あいつらはただお前に嫉妬を抱いている餓鬼に過ぎない。気にするな。だが、少なくともそう思っている奴もいると言う事だ」
「安心しろ、ジョンリュル。 俺はそんな噂など微塵も気にしないし、ましてや親日家でもない」
「……お前の行動は間違っていると、俺は断言できない。 ……7年前、横浜でお前を引き止めていたら違っていたかもしれない」
横浜港のエンペラー号を爆破させ日本の要人達を襲撃した歴史に残る一大作戦。その際に拾った幼い命――日本人の子供である純姫を手元に置いた林の選択。成は炎上する船から救い出した日本人の子供を引き取ると言った林の行動が理解できなかった。純姫と名付けられた少女は、自分が日本人だとも知らずに林の妹として成長した。この事実を知る者も組織内では数少ない秘密事項だ。
「純姫は俺の妹だ。 過去や血は関係なく、そして今の話においては無関係だ」
「無関係って、お前……」
「そもそもジョンリュル、お前だって家族に日本人を持つ人間じゃないか。 俺の気持ちを唯一理解できる人物だと、俺は勝手に思っていたのだが」
「……その話はよせ、スホン。 その勝手な思い込みは、お前の想像する以上に俺にとっては不愉快だ」
成鐘律は母親が純粋な日本人だった。しかし母に対する記憶は短く、自身が鐘律と呼ばれていた時代も黒く塗り潰していた。
「すまないな。 もう言わないよ」
「……俺の方こそ、悪かったな。 これまでの事は忘れてくれ」
二人は互いに自分の失言を謝罪すると、言った通りに今までの応酬が無かったように二人並んで歩き出した。