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黄金魂  作者: 天野東湖
第02話 対峙する過去
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08

 がさり、という物音が聞こえたのは、お弁当を半分ほど食べた頃だった。背後の茂み、フェンスのすぐ外側に細い舗道が伸びている丈の高い雑草の陰から、今にも小さい何かが表に出てこようとしている。


 あたしは口元の箸を止めたまま、生い茂った草叢(くさむら)の震えるような動きを見つめた。胡坐(あぐら)をかいてすぐには動けないのもあるけれど、それ以上に少しも危険な感じがしないので、首を傾げながら待つ気になったのだ。


 まさか、あの高慢ちきな女史が腹這いになって隠れているはずもない。しばらくして、鳴き声が聞こえた。それがあまりにか細くて耳を澄ますと、今度はよりはっきりと、猫の鳴き声を聞くことができた。にゃあ、と甘えるようでいて勇気を振り絞ったような、やや心許ない小さな主張。

 どこからか迷い込んできたのだろうか。しかしもうお昼時なら、きっとお腹を空かせているに違いない。でも人見知りをして、雑草の陰から出られない、とか?


 ……ふっふっふ、愛い奴よのう。


 お弁当の食べかけウインナーを箸でつまみ、揺れている草叢の方角へ、ねこじゃらしの如くにふりふりしてみる。するとどうだろう。小さくて短い前脚がにょきっと生え出てきて、焦れったそうにウインナーを追い始めるではないか。あの形状はどう見ても、子猫のそれで間違いない。


 正体がわかると、一にも二にも草叢から引っ張り出してあげたくてうずうずする。取れそうで取れない小癪な距離を餌にして、ウインナーを持つ手を少しずつ引いていく。

 一瞬、葉と葉の隙間から光が走った。太陽の光じゃない、もっと小さくて仄かな光。

 それが縦に細いスリットが入った瞳だとわかると、途端に子猫が顔を出してきた。これがもう、人間の赤ちゃんみたいに無邪気な表情で、ぜひともユキちゃんに抱かせて一緒に写真を撮ってあげたいような感動に駆られる。白くて細い髭、申し訳なさそうに折れた両耳に、野良とは思えないほど毛並みのいい茶色の体。そしてぴんと立った尻尾が現れて、そこでようやく子猫の品種を思い出す。


 確かマンチカンという猫種だ。可愛いもの好きだから、名前だけは憶えている。犬ならダックスフンドに相当する短足猫として有名で、その人気種ともなると、一匹で二十万円以上もの高値がするらしい。


 でも、そのマンチカンがまた、どうして学校の敷地内に――?


 そう(いぶか)しんで草叢の裏側を覗いてやると、舗道に面した金網の一部が錆びて、簡単に出入りできるような隙間を作っているのが見て取れた。あいにく小学生でも通るのは難しいだろうけど、このマンチカンなら充分な広さだ。


 なるほどね。こいつったら、こんな辺鄙(へんぴ)な抜け穴から入ってきちゃったのか。


「おー、よしよし。おみゃーさんは好奇心が旺盛なんだなあ」


 地面に置いたハンカチの上に、ウインナーを添えてみる。マンチカンはおそるおそるといった様子で舌でたっぷり舐めた後、一転して夢中になって頬張っていく。時折あたしを見て、ウインナーを食べて、今度は周りを見回して、またウインナーを食べて。誰も餌を取りはしないのに、そういった仕草の一つ一つが愛らしいから、ついつい頬を緩めて眺めてしまうこの楽しさ。


 なんとなく、撫でてやりたくなるのも致し方なし。


 ところが首元を見てみると、やっぱりというか赤い首輪があるんだな。名前らしき刻印もあり、どうも『ME』と書いているようだが。


「子猫のミーちゃんか。あたしは神崎茜って名前なの。よろしくね」


 ふわっふわの被毛を撫でながら、自分の昼食もそっちのけで御挨拶。ほら、もしかしたら学校の先輩かもしれないしね。その先輩に『ちゃん』付けはあれだけど。


 そのミーちゃんは、ウインナーを平らげてもまだ物足りなさそうだった。つぶらな瞳で見つめられると葛藤してしまうけど、だからって人間の食べ物ばかりを与えるのもあまり良くないはずなので、ここは心を鬼にして我慢する。我慢するんだけど、今度は罪のない眼で哀しそうに鳴かれたら、あたしのほうが泣きたい気分になってしまうのだ。


 うう……。あと一回、あと一回だけなら、分けてあげても仕方ないよね。


「でも、これが最後だからね」


 あたしの好物の厚焼き玉子、その欠片を箸でつまんで、ハンカチに置こうとした瞬間。


「ちょっと、何やってんのよ!」


 その吠え方からして稲妻の如く体に走る、猛烈な拒否反応。


 振り返ると、あの女史――黒木凛さんとかいったか――が、まるで夜叉のような剣幕であたしを見下ろしていた。もう箸を動かした後なので、当然こちらが言い逃れすることはできない。


 ま、まずいぞ。また尾けてきてたのか、とか、今度はなんの用だい、とかそれ以前に、あたしがこの子猫を学校の敷地に連れ込んだ張本人だという、妙な言いがかりをつけられそうな今の状況が、一番まずい。


「ええっと、あの、その、これは……」


 あたしの目が泳いでいるうちに、女史はひったくるようにミーちゃんを抱き寄せた。


「この子に人間の食べ物を与えないでよ! 味をしめてキャットフードを食べなくなったら、どうしてくれるのよ!」

「……へ?」


 女史さん――黒木さんは自分の足元にミーちゃんを降ろすと、二つ折りにした新聞紙を広げて、その中央の窪みに、ポケットから取り出した小袋に入っているキャットフードを流し込んだ。しかもミーちゃんはミーちゃんで、ごく自然な足取りでそれに近づき、迷うことなくキャットフードを食べていく。


 どう見ても数日程度の浅い付き合いじゃない、ごく当たり前の日常的な雰囲気が二人の間に漂っていた。ミーちゃんを前にして、さすがの黒木さんも先ほどの剣幕を静めている。どこか安心した顔で、それこそ母親みたいに優しく相好を崩して、マンチカンの首の後ろあたりを撫でているのだ。


 ――さあて、一体全体どういうことですかい、これは。


「……あのう」

「猫のように学習能力の高い動物はね、人間の食べ物みたいに、すごく濃い味の食べ物を与えてしまうと、それが癖になって他の食べ物を選り好みするようになるの。だから普段から、栄養バランスも考えて作られた、専用のキャットフードを与えて食べさせるほうが、長期的に見てミーのためになるのよ。――それをわからずに、なんでもかんでも甘い餌で釣ろうとして、あんたのふしだらな嗜好をこの子に教えないで頂戴」


 黒木さんは睨むようにあたしを見た。完膚なきまでの正論に、ぐうの音も出せない。

 ……だけれども、ふしだら、とは一言多い気がするぞ、先輩さん。


「至らない点は謝ります。ところで先輩は、この子猫とはどういう御関係で?」

「あんたなんかに話す義務はないわ」

「もしかして、飼い主さん、ですか?」

「違うわよッ! 一体どこをどう見たら、そんな風に頓珍漢な台詞が言えるのよッ!」

「わざわざキャットフードを御用意されているので、そう思っただけですが」

「あんたバカじゃないの? そんなオツムでよく新入生代表なんて大役を果たせたわね。呆れて物も言えないわ」


 徹底的に嫌悪感を剥き出しにして、突き放すように鼻で笑われる。

 なるほどね。入試の成績は、入学式の新入生代表で知ったのか。

 よしよし落ち着け、落ち着くんだあたし。まだ全く話し合えていないわけじゃない。


「……じゃあ先輩は、どうしてこんな場所に?」

「それこそ見てわかりなさいよ。この子猫のお昼のために決まってるでしょ」

「ということは、このミーちゃん、以前からよく学校に出入りしてるんですか」

「ちょっと、気安く名前を呼ばないでよ。あんたの声を万が一にも覚えちゃったら、この子の耳が汚れるじゃない」


 ……ううむ、そろそろ堪忍袋の緒が切れちゃいそうだぞ。ついさっき彰から禍根を残すような真似はしないようにと釘を刺されたばかりなのに、この(はらわた)が煮えくり返る気持ちをどう収拾つけてくれようか。


「……では、とりあえず話題を変えて」

「変えなくていいから、さっさとどこかに消えなさいよ。気が利かないうえに空気も読めないのね、全く」


 ぷるぷる震えるお箸の先の、厚焼き玉子の欠片をぱくっと食べる。よく噛みしめて味を確かめ、なんとか怒りの矛先をごまかした。

 だが、新聞部の先輩はこれをあざとく見つける。


「あら、あなたもしかして、ここで昼食をとってたの? たった一人で?」

「……そうですが、それが何か」

「ずいぶんと寂しい昼食をとっているのねえ。まあ、その歳で男の家に転がり込んでいるような不埒者じゃあ、誰だって話もしたくないわよねえ」


 勝ち誇ったように嘲笑う女史の顔が、さらに苛立ちを募らせる。

 あたしだって礼儀知らずの先輩なんかと話したくないけど、こっちにも事情ってものがあるんだっつうの!


「……あの、その件に関してなんですが、一つ誤解をされているのではないでしょうか」

「は?」

「今朝、見せていただいた写真の男子は、どちらもあたしの良き友人たちです。おまけに二人とも、顔見知りの友達同士でもあります。そんなあたしたちの何が原因で、ふしだらな関係を想像されたのかはわかりませんが、この誤解を変に脚色されてしまうのも相手に迷惑がかかってしまいますので、そのあたりはぜひ訂正のほどを、どうかご理解いただけないでしょうか」

「……何よ、その言葉づかい。良い子ちゃんぶって、気持ち悪いったらありゃしない」


 怒りのあまり、お箸をへし折ってしまいそうだ。しかし、今はとにかく穏便に事を運ばねばならない。ああ、ストレスで胃に穴が開きそうだ。


 あたしはお弁当箱を脇に置き、箸も置いて姿勢を正してから、深々と頭を下げた。


「癇に障ったら謝ります。でも、あたし自身の問題であたしを嫌うならともかく、あたしが嫌いだからって理由だけで、無関係の友達まで不愉快な思いをさせるのは間違っています。あたしの問題であたしの友達まで巻き込むというのなら、黒木先輩は、あたしたちの信頼関係を無神経に侮辱したにすぎません」

「あんた、あたしの名前を知って――」

「残念ですが、今朝の一件なら明日まで待てません。直接、先輩の担任に相談したうえで、然るべき対処をさせていただきたいと思います。掲示板が学校の備品なら、事情を聞いた時点で、学校側はこれを無視することができなくなりますから」


 先輩の顔がさっと赤くなった。みるみるうちに表情が歪み、不快感を露わにする。


「……あんた、いい度胸してるじゃない。あたしにケンカを売ってるわけ?」

「……お前こそ、あたしの友達に手を出そうとするなよ」


 たぶん、誰よりも先に、マンチカンがこの場の異変を察知した。おいしそうにキャットフードを食べていたはずが、途端に悲鳴のような鳴き声を上げて、抜け穴から逃げるように敷地を出ていく。


 先輩は、尻餅をついていた。


「いいか先輩。アンタが何に興味を持とうが、あたしには関係ないことだ。けどね、その無礼な好奇心だけであたしの友達をも巻き込むというのなら、それ相応の竹箆返(しっぺがえ)しを覚悟してからかかってきな。まさか、自分だけが無傷のままでいられるって勘違いしてるわけでもないでしょう?」


 直後に鳴り響いた校内放送が、おそらく担任教諭であろう女性の声で、黒木先輩を呼び出した。行き先はもちろん、彰たちが待っているであろう職員室だ。


「……どんな理由であたしに嫌悪感を持ったのかは知りません。ですが、誰だって自分のプライベートを土足で踏み荒らされたら、不愉快になります。正しいことと悪いこと、次からは間違えないでください」


 ほんの少しばかりの、沈黙。

 黒木先輩は、悔しそうに顔を背けると、すっと立ち上がった。


「……あたしはただ、人間が嫌いなだけ」


 それは、びっくりするほど思いがけない、吹けば飛ぶように小さな告白で。


「人間なんて、みんな『嘘つき』よ。嘘つきは泥棒の始まりって言うみたいにさ、昔から嘘つきは『悪』で、正直者は『正義』なの。だからあたしは、他人の嘘をこの手で暴いてやるのよ。そして正しく裁いてやるの。だって、正直者がバカを見る世界って、おかしいでしょ? どうして正しい人が怒られなきゃいけないの? どうして嘘つきが保護されていられるの? そんなのあまりに不公平。そんな『真実』は、このあたしが許さない――」


 ふと思い出したように、ミーちゃんが逃げていった抜け穴のほうを見やる。


「あたしの友達はあの子だけよ。あの子だけは、絶対に嘘をつかないから」


 呼び止める間もなく、黒木先輩は建物の角の向こう側へと走り去っていく。


 残されたあたしは、盛大な吐息がもれて脱力した。他人を恫喝するなんて初めての経験なもので、とにかく緊張しまくっていたのだ。こちらの意思も無事に伝えることができたようで、(くすぶ)っていた怒りも今はすっかり静まっている。

 しかし、あの負けん気の強い女史である。職員室での応酬が終息すれば、今回の記事については封印されるだろうけど、忘れた頃に再び関わり合いになることだけは是が非でも避けたい気分だ。本音で回答させる能力、じつにおそるべし。


「……あんな調子じゃ、本当に友達がいないんだろうなあ」


 またしても吐息がもれる。そういえば写真うんぬんの件をすっかり忘れていたりして。

 翌日。

 掲示板には何も貼り出されてはいなかった。それでやっと安心して、クラスメイトの仲良し三人娘と昼食を楽しんでいた時、その一報があたしのもとに届けられた。


 二年生の黒木凛が自宅に帰ってきていないらしいのだが、神崎は知らないか。


 自分の担任教諭から聞かされた質問に、へ、と間の抜けた返事しかできなかった。


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